SSブログ

政治的観念の「原型」──『丸山眞男講義録[第七冊]』を読む(3) [われらの時代]

 紀記は全般的に高度の政治的神話性を帯びている、と丸山はいう。その性格は、皇室統治の正当化というイデオロギー性が強い。だが、そこには儒教以前の発想がひそんでいることも見逃してはならないという。
 まず「まつりごと」ということば。まつりごととは、政事=祭事というのが、一般的なとらえ方である。
 だが、崇神天皇や垂仁天皇のとき、すでに祭儀と政事は区別されようとしていた。政事と祭事には、ともに奉るという概念がともなう。すなわち奉仕と服従である。しかし、政事=祭事と解するのは危険だ、と丸山は指摘する。
 政治とは、まつろはぬものをまつろはしめること、すなわち帰順せぬ者を帰順させることだった。
 古事記によれば、アマテラスは天孫のニニギノミコトに、三種の神器(玉・鏡・剣)を渡し、さらに三神(常世思金〈とこよのおもひかね〉、手力男〈たぢからのお〉、天岩戸別〈あまのいわとわけ〉)を配して、こうのたまう。この鏡をわが魂として祭れ。そして常世思金神にしたがって、天の下の政(まつりごと)をするように、と。
 よけいな口をはさむと、この三神はまるで、カネと力(戦い)、そして守り(防衛)を象徴しているかのようである。
 それはともかく、ここでも祭儀と政事は関連しつつも分離されている。まず祭祀がおこなわれ、その後に政治がなされるのだ、と丸山はいう。
 ヤマトタケルの場合は、景行天皇の命を受けて東征するが、まつりごとをなすのは、天皇から職務遂行を委託されたヤマトタケルなのだ。
「この意味で、まさに『政』は第一義的に、上なる政治的権威にたいする政事という職務の奉仕」にほかならない、と丸山は論じる。
 ほかに統治にかかわることばとしては、まず「しらす」(「しろしめす」)がある。
イザナギは子のアマテラス、月読(つくよみ、つきよみ)、スサノオに、それぞれ高天原、夜の食国(おすくに)、海原を「しろしめせ」と指示している。のちにアマテラスは孫のニニギノミコトに、この豊葦原の瑞穂の国は、汝のしらす国だと述べ、降臨を命じることになる。
 しらすには、単なる領有ではなく、正統な統治という意味が含まれている、と丸山はいう。
 統治がらみでは、もうひとつ「きこしめす」(聞く)ということばもある。すなわち臣下の奏上を聞くことが統治である。
 さらに「ことむける」、すなわち、こちらに向けるとは、帰順させる、平定するの意味。軍事的な平定、ことむけが終わったあとは、皇孫がしろしめすことになっている。
「まつりごと」は、「ことむける」と「きこしめす」の往来関係のうえに成り立っている。すなわち命令を実施することと、その結果を報告することによって「しろしめす」、すなわち統治が実現する。
 この関係について、丸山はこう述べている。

〈しらす、きこしめすはsovereign〔元首〕のreign〔君臨〕の問題であり、まつりごとはgovernment〔政府〕の問題であるといえる。まつりごとは行政幹部のなかで議(はか)られ、君主は「まつりごと」を「きこしめす」地位にあって「あめのした」を「しろしめす」ということになる。〉

 この図式が、日本の統治形態の伝統的パターンなのだ。このパターンは、天皇の統治(天皇、貴族)でも、幕府(将軍、老中)でも、各藩レベル(殿様、家老)でも、常に再生産されてきた、と丸山はいう。
 こうしたいわば「二重統治」は、卑弥呼と男弟との関係、推古天皇と聖徳太子との関係でも示されている。大化改新以来、日本は中国の制度を取り入れて、天皇親政のタテマエをとるようになるが、それでももともとの統治の「原型」は存続した、と丸山は考えている。
 日本では大王(おおきみ)が天皇と呼ばれるようになったのは7世紀初頭の推古朝以降である。さらに奈良朝になると、天皇は万葉歌人によって現人神(あらひとがみ)とうたわれるようになった。
 日本の律令制では、太政官という独特の制度が設けられた。これはかたちとしての天皇親政を実現するための最高合議体だった。
 しかし、日本では統治機構が整備され、その統制力が強化されるほど、天皇は神聖化され、逆に実質的な政治的決定権から隔離されていく。
 こうして、政治体制は次第に藤原氏の摂関時代へと移行していく。「天皇は臣の翼を得て君臨し、臣は……合議で事を決し統治することが天皇への奉仕になる」という関係が生まれる。
 天皇は群臣から奉仕される存在となる。それでは天皇自身が奉仕する(まつる)対象はないのか、と丸山は問う。天皇がまつるのは神々である。ここにおいて祭事と政事が関係づけられることになる。
 天皇が宮中で行う祭事でもっとも重要なのが祝詞(のりと)。天皇は祭主となって、神と人とを媒介する。
 まつられる神は天つ神、国つ神、それに皇室の祖霊である。だが、究極の神が何であるかはあいまいなままだ。
「こうしてまつる主体は特定しているが、まつられる客体は不特定であり、かつ無限に遡及してしまう」と、丸山はいう。
 とはいえ、天皇が個人として祭祀と礼拝の対象になったことはない。天皇はけっして宗教的絶対者ではなく、みずからはあくまでも祭祀の統率者にとどまる。
 丸山によれば、日本の祭祀の根幹は「共同体の首長が、共同体のために、穀物の豊饒と共同体成員の増殖と繁栄を祝福し、それに関係するさまざまな儀礼」だった。
 ヤマト国家を拡大する過程で、大君(おおきみ)が天皇となるのは、そこの中国の「天」の思想が摂取されたからだ、と丸山は解している。

〈元来日本の「原型」では、太陽神は農耕神でこそあれ宇宙の中心ではなく、太陽神優越の観念はなかった。むしろ穀霊信仰という形で、他の氏族との同一面が存在した。しかし皇祖神がアマテラスに特定化されるのに見あって、その農耕神たる太陽神の観念を媒介として、宇宙(天)の中心たる太陽という形而上学的思考が輸入され、それと同時に、前述の太陽神が天皇に連続するという図式を基盤に、天皇を地上の中心者(地無二皇)たらしめる観念的前提となった。〉

 こうして天皇は政事の次元を超えた共同体最高の祭祀者となって、政治体制のいかんにかかわらず、存続継承されていくことになる。
 これが丸山のえがいた日本の政治の原型、ないし古層といってよい。

nice!(9)  コメント(0) 

nice! 9

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント