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江戸という岩盤──『丸山眞男講義録[第七冊]』を読む(4) [われらの時代]

 ここから講義は後半にはいり、江戸時代の儒教と国学が論じられることになる。ただし、国学についてはごく簡単にしかふれられない。
 まずは導入部として17世紀前後の状況が論じられる。
 室町から戦国にかけては混沌の時代だった。ところが1637年の島原の乱の平定、1639年の鎖国令ののち、突如として静謐が訪れる。
 すでに荘園制は解体され、郷村を掌握する分国大名領地制が完成していた。戦国大名が終わり、近世大名が生まれようとしていた。
 戦国の終わり16世紀半ばに、ポルトガル人とスペイン人が渡来し、南蛮貿易が開始されると、キリシタンが急激に増加した。
 日本にとって、幕末の開国が第二の開国だとすれば、16世紀半ばは第一の開国である。
第一の開国は、西欧と日本がはじめて直接に接触するという意味では世界史的な出来事だった。しかし、その時期はヨーロッパはまだ近代開幕期であって、まだアジア世界が優位を保っている。西洋世界が優位に躍り出るのは、それ以降の300年においてである。
 16世紀におけるヨーロッパ人のアジア進出には、アジアへの憧れがあふれていた。イエズス会の宣教師たちは、日本人と日本文化の優秀性に強い印象をもつことになる。
 いっぽう西欧文明とのはじめての接触は、日本人の世界像に大きな変革をもたらした。これまでは朝鮮、中国、天竺がせいぜいだったのに、南蛮という大きな世界が広がったのである。南蛮からは、鉄砲や火薬に加え、さまざまな道具、テクノロジー、学術、キリスト教がもたらされた。17世紀はじめ、日本人の活動も東南アジアにまで広がっていった。
 南蛮文化の流入は、軍事技術に大きな変化をもたらした。だが、戦国の世が終わると、日本は内に閉じこもる伝統的な方向に舵を切っていく。
 1549年のザビエル来日以来、イエズス会による布教により、キリスト教が広まる。1579年に全国のキリシタンは13万人を数えていた。1586年、豊臣秀吉は最初の布教禁止令を出し、96年には長崎で26人の殉教者を処刑した。
 秀吉の弾圧にもかかわらず、キリシタンの数は増加しつづけ、1600年ごろには30万人以上になっていた。その数は、最盛時は50万人から70万人に達した。
 短い布教期間であったにもかかわらず、キリスト教は日本思想史上に、いくつかの重要な観念をもたらした。丸山によれば、それは個人の尊厳の観念、そして人間にとって自由のもつ意味だった。この世の権力や富よりも、個人の魂の救済こそがだいじだという教えは鮮烈な印象を残した。
 だが、全国統一をめざす政治指導者は、こうした教えに猜疑と警戒をいだき、やがてキリシタン弾圧に踏み切ることになる。
 弾圧は一向一揆にも向けられたが、キリスト教とちがい、一向宗(浄土真宗)自体は禁止されなかった。禁止されたのは、かれらによる集団的武装抵抗である。仏教寺院は権力に屈し、その後、庶民を統制する機関として、権力によって利用されていくことになる。
 1637年には、島原・天草の乱が発生する。領主、松倉重政の暴政にたいして、キリシタンの農民が反乱に立ちあがる。そして、ついに松平信綱の率いる幕府軍が出動することになった。幕府軍は12万、これにたいし2万5000の農民が原の古城にたてこもって、2カ月にわたって城を守り抜いた。
 幕府はその後、全面的な鎖国令、さらには宗門人別改め寺請制などによるキリシタン統制に踏み切ることになる。幕府は、現世的な政治権力をおびやかす信仰集団の存在を恐れていた。
 いっぽう、一向一揆のほうはどうだったろう。
 信仰共同体にもとづく一向一揆には、郷村を巻き込んで横に広がっていくダイナミズムがあった。一向一揆は郷村を中心に、地侍や国人を吸収して、荘園領主や守護大名に対抗する勢力に広がっていった。
 本願寺は戦国期にはそれ自体巨大な領主権力となっていた。本寺・末寺のヒエラルキーを中核として、事実上の城郭構造をもつ大寺院も生まれていた。だが、こうした仏教勢力も、最終的には統一政権に屈し、行政機構にくみこまれ、檀家制と寺請制に安住することになる。
 こうして、宗教、芸術、学問などの普遍主義的価値に依存する文化集団の自立性が奪われ、ギルドや自治都市の独立性も奪われていく。閉じられた幕藩体制の誕生により、現世的な秩序価値が優位となる時代が到来した、と丸山は指摘する。

 幕藩体制の統治原理は、どのようなものだったのだろうか。
 丸山によれば、幕藩体制は徳川家康が将軍となる1603年に即座に成立したのではなく、17世紀いっぱいを要して、5代将軍綱吉のときにようやく完成されたのだという。
 徳川幕府の歴史的意義は、徳川氏が荘園体制を完全に破壊し、大名領国制を凍結することによって、全国統治をなしとげたことだという。全国における徳川氏の所領はほかの大名より圧倒的に多かった。だが、それだけではない。徳川氏には国内の分裂を防ぐにたる政治的リアリズムとイデオロギー的統制という政治技術があった。
 江戸時代に反乱らしい反乱はほとんどなかった。これは当時、ヨーロッパが宗教改革とフランス革命の時代だったことを考えてみても、世界史上めずらしいことだ、と丸山はいう。
 徳川幕府は成立早々から、幕府にたいする現実的・潜在的敵対勢力を排除することをめざした。
皇室・公家にたいしては、徹底的な非政治化をはかり、寺社を行政組織の末端に組み入れ、城下町に武士を集住させ、商人を町人として都市に閉じこめた。大名にはいつでも改易、所替、移封を命じることのできる権力を保持していた。
 とはいえ、現実におこなったことは、戦国大名領国の凍結である。大名は所領をあてがわれた代わりに将軍に忠誠を誓う。幕府の監視下であるにせよ、領国を支配する大名は、それぞれ徴税権、立法権、武装権をもっていた。大名は幕府への納税義務はなかった。だが、幕府からさまざまな公共事業や寺社の増築などを請け負わされていた。
幕府の支配地(天領)は、約700万石であり、全国石高の4分の1を占めていた。これに加えて、幕府は全国主要鉱山といくつかの都市(京都、大坂、長崎)を直轄し、貨幣鋳造権をもっていた。
全国の支配構造は、幕府を中心として、旗本、親藩・譜代大名、外様大名の区分けの上に成り立っている。各大名は参勤交代による出府をしいられていたものの、いちおうは徳川氏から自立した領国を認められている。天領でも領国内でも、在地領主はほとんどいない。城下町に集住する武士は、俸禄によって地位を定められ、帰属する家への奉仕を求められていた。
幕藩体制は戦国状態を凍結化し、非常時臨戦態勢を継続したもので、いわば日常化された総動員体制だったという丸山の解釈はおもしろい。社会全体に相互監視と密偵組織の目が行き届いていた。
 とはいえ、天下泰平が長引くにつれ、臨戦態勢の実感は薄れ、消極的保身の態度が蔓延していく。「自発的公共心と連帯性の欠如、いわば受動的なマイ・ホーム精神」が江戸後期の特徴となる、と丸山はいう。
 江戸時代で評価すべきは、「文治主義」と「教学振興」である。徳川家康は林羅山を迎え、新興の朱子学をよく講義させた。武家諸法度でも、儒教主義的な統治方針が打ちだされ、諸藩も文教振興に力を入れるようになった。
 とはいえ、日本では儒教はけっして正統的なイデオロギーとはならなかった。そのことは家康が僧の天海や崇伝を尊重したことでもあらわれている。仏教も支配の道具として欠かせなかったのだ。
 日本で宋学(朱子学)がはやるようになるのは16世紀からである。幕藩体制下では、この近世儒教が統治思想となり、文治政策として展開されていくことになる。
 武断体制と、儒教の文治政策のあいだにはしばしば矛盾が生じた。江戸時代には、無礼をはたらいた庶民にたいする切捨御免、さらには仇討ちや決闘も公認されていた。江戸初期には殉死も認められていた。だが、こうした武断体制のなかでも、儒教は次第に浸透していった。
 江戸時代の統治原理について、さらに丸山は次のように指摘する。
 ひとつは農民、町人、庶民からの武士の隔離である。根本には兵農分離の方針がある。武士と庶民との通婚は禁止され、住居、衣服、言語、作法、帯刀にいたるまで、武士と庶民の生活様式は区別されていた。
武士には存在理由としての名誉と義が与えられる。その存在理由の付与に儒教は大きな役割を果たした。
 農民は収奪の対象でしかなかったが、領主は農民を軍事的に支配するだけではなく、温情主義的に臨んだ。勧農が要請され、農民は慈恵の対象となった。
 武士階級は、ヒエラルキー的に編成され、すべての行動面で、ことこまかに格式や作法、礼が定型化されている。秩序と安定がこの時代の基本思想だった。
 被支配層でもまた階層と身分が適用されていた。
村でも名主・庄屋には苗字帯刀が許され、衣装も一般農民と区別されていた。百姓にも本百姓から水呑百姓にいたる階層と身分があり、商家でも主人、番頭、手代、丁稚の階層と身分があった。それは花柳界でも同じである。
義理、家、名などの倫理は、武士だけでなく、商家をはじめ庶民にも適用された。
 上をみれば無数の階層があるが、下にも無限の階層がある。そこで知足安分、すなわち身のほどを知るという精神が生まれる。
 丸山はこう記している。

〈いまや神にせよ仏にせよ、超越的な絶対者は否定され、一切の価値は「世間」に内在化している以上、天道とか天理とかいった普遍理念も、君臣・父子・夫婦といった特殊的な身分関係によって構成された具体的秩序を離れてはありえない。そうして、この具体的秩序は「凍結化」の根本要請にしたがって、無限に単純再生産されねばならない。知足安分と天下泰平とは、こうして内面的に連結したのである。これこそ日本史上「保守主義」とよぶにもっともふさわしい体制であった。〉

「集中排除」の精神についても言及している。
 集中排除とは喧嘩口論や徒党の禁止を意味する。それだけではない。
「権力・富・尊敬・名誉等が特定の人格・身分・職業に集中することが極力排除される」と丸山はいう。
例えば公家は身分は高いが、俸禄はきわめて低いというように。あるいは大目付は諸侯に命令する権利をもっているが、武家としての家格は低かったとか。大商人は大金持ちだが、その身分はいやしいとみなされていたとか。
こうした集中排除の考え方が江戸時代の安定化に寄与していた、と丸山はいう。
 さらに、江戸時代には、祖法墨守、新儀停止の伝統主義もある。しきたりにしたがって行動することが何よりも求められていた。
 要するに固定化による安定が、江戸の天下泰平をもたらしていた。
日本の民主主義はこうした保守の岩盤から出発しなければならなかったのである。

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