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鄭周永『この地に生まれて』(金容権訳)を読む(2) [本]

 経済の発展は政治環境抜きにはありえない。
 1961年の軍事クーデターで、朴正熙は韓国の政権を握り、63年から79年まで大統領を務めた。その時代に「現代(ヒョンデ、対外的にはヒュンダイ)」は財閥として急成長している。そして、韓国経済もそのかんに「漢江の奇跡」と呼ばれる近代化を成し遂げた。
「現代」は政府の経済計画にしたがって、インフラと基幹産業の建設に邁進した。すべての建設工事を韓国人自身でおこない、そのために海外から先進技術を取り入れ、絶えず技術向上に努力するという原則が立てられていた。
「現代」は肥料工場や火力発電所、ダムなど、政府の発注工事に取り組んだ。それだけではない。政府の受注には限界があると見越して、海外の入札にも加わり、タイの高速道路やベトナム・カムラン湾の浚渫などの工事も請け負っている。
 政府におとなしくしたがったわけではないという。鄭周永は最小の経費でできるだけ効率的な施設をつくるための代案を出しつづけた。もちろん、手抜き工事や無駄遣いなどはいっさいしなかった。企業人としてのプライドが許さなかったのだ。金のためだけではなく、いい仕事をしてこそ、国家や社会に役立つことができるという気持ちが強かったという。
 春川(チュンチョン)の昭陽江ダムでも釜山の港湾工事でも、鄭周永は経費と時間を節約できる無駄のない方式を提案し、日本人技術者の鼻を明かしている。1968年にはじまった韓国の大動脈、京釜高速道路の建設でも、最新大型機材を導入し、小白山脈のたいへんなトンネル工事を乗り越え、2年半足らずで工事を終えている。
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[京釜高速道路]
 鄭周永は建設業ほど重要な業種はないと述べている。「私自身は内心ではあくまでも建設業を営む『建設人』であり、その誇りと自負心を失ったことはない」。そこには多くの難関や危険がひそんでいるが、そのつらさを乗り越えたときの達成感は格別なものだ。
 現代財閥を語るうえでは「現代自動車」と「現代造船」(のちの「現代重工業」)が欠かせないだろう。
 鄭周永が自動車産業に飛びこんだのは1967年末のことである。以前から、韓国でもこれから自動車産業が急成長するだろうと思っていた。そこでたまたまアメリカにいた弟にフォードと交渉するよう命じたというのは、大胆不敵である。粘り強い交渉の結果、フォードは「現代」と提携することを決め、1967年末に「現代自動車」が発足する。
 だが、のっけから難航する。それもそのはずである。自動車を修理した経験はあるが、自動車をつくったことはない。ゼロからの出発である。
まず工場敷地の買収がなかなかうまくいかなかった。ようやく蔚山(ウルサン)に工場をつくり、68年末に最初の自動車を売りだしたが、さっぱり売れず、69年9月には工場が水害に見舞われた。
 そのころ、韓国では新進、現代、起亜、アセアなどの自動車会社がしのぎをけずっていた。
 69年末、政府は3年以内に自動車を完全国産化する政策を打ち出し、エンジン製造を一元化するよう求めた。だが、それはあまりにも性急な政策だった。
 鄭周永は朴大統領と会ったさいに、政府の計画が強引すぎると批判した。大統領はそれを認め、方針を転換する。こうして、1975年までに国産化比率を80%にし、韓国の実情に合う小型車開発に力を注ぎ、国際競争力を備えるため競争製品の輸入を禁止するという措置がとられた。
 1970年11月、現代自動車はフォードと対等の合弁比率で契約書を結び、エンジン製造工場を設立する認可を受けた。だが、そのころ現代自動車の財務状況はそれこそ火の車になっていた。
 その後2年間、現代とフォードは経営方針でことごとく対立する。けっきょく、フォードのねらいは、韓国市場をのみこみ、現代自動車をフォードの部品工場にすることだったのだ。こうして1973年1月にフォードとの合弁は解消されることになる。
 現代自動車は独自に小型車を開発する決意を固めた。こうして、日本の三菱自動車やイギリスのブリティッシュ・レイランド社などと技術協力契約を結び、イタリアのイタルデザイン社にデザイン設計を依頼し、小型車の開発に着手する。
 1974年7月には1億ドルを投入して、年間生産能力5万6000台規模の自動車工場を建設し、76年1月についに韓国国産車「ポニー」が誕生した。
 いまや自動車は韓国の輸出産業になっている。自動車は「走る国家」だ、と鄭周永はいう。20年のうちに、現代自動車は全車種で1070万台の自動車を生産し、そのうち450万台を輸出するまでに成長した。

 1960年代前半から、鄭周永は造船にも興味をもっていたという。
 そのエネルギーには驚くばかりだ。「企業家は常に、より新しい仕事、より大きい仕事を熱望する。より新しい仕事、より大きい仕事に対する情熱こそが、企業家がもっているエネルギーの源泉である」と書いている。
 アメリカや日本にあって韓国にないものを、韓国人の手でみずからつくりあげていくのだという情熱が、企業家である鄭周永を支えていたといってもよいだろう。それが国家の方針とも一致するときに計画は動きだす。産業の主体はあくまでも企業である。
 だが、言うは易く行うは難し。造船業が軌道に乗るまでにはさまざまな試練をくぐらねばならなかった。何十万トン級の船をつくるには、大きなドックが必要だ。そのためには巨額の資金を投入しなければならない。「お金を貸してください」と各国をめぐる日々がはじまった。
 造船所の建設計画がスタートしたのは1970年である。自動車開発とほぼ並行している。鄭周永は造船業を建設業と同じだと考えていた。産業のつながりを頭にいれておくのはもちろんだ。加えて重要なのは情報である。産業情報をしっかりつかんでおかなければ、計画はたちまち机上の空論になってしまう。
 鄭周永は、何としても韓国で造船所をつくるのだという熱情をもっていた。その熱情が、ついにヨーロッパの諸銀行からの借款を引き寄せただけではない。イギリスの技術会社と造船所からも協力が得られることになった。
 だが、ここで大きな問題が浮上する。いくら船ができても買ってくれる相手がいなければ、どうしようもないのだ。「その日から私は、まだ存在もしない造船所で造る船を買ってくれる船主を探し回った」
 そして、ついに並外れた船主が現れた。それがギリシアの海運王オナシスの義弟リバノスだった。リバノスの別荘で、タンカー2隻の注文を受けたときには、天にも舞い上がる気持ちになった。
 じつはそのとき、造船所の場所をまだ確保していなかったというのは、驚くほかない。すでにめぼしはつけてあった。蔚山の尾浦湾である。さっそく100万坪以上の土地を購入した。不毛の土地なので、値段は安い。その場所に、建設用機材を使って、急遽、ドックの建設をはじめることにした。
 1972年3月、「現代造船所」の起工式がおこなわれた。この起工式には朴大統領も参加した。それから2年3カ月のあいだに、「現代造船所」はドックを掘り、工場を建設し、同時にタンカー2隻を建造するという離れ業をやってのけた。
「蔚山造船所を建設したときが、おそらく私の一生のなかで、一番活気に溢れた時代だったのではなかっただろうか」と著者は書いている。しかし、毎日が失敗と試練の連続だった。
 それに追い打ちをかけるように、オイルショックが海運業界に打撃を与える。とりわけタンカーが過剰になってしまったのだ。リバノスにも裏切られる。ひとつ乗り越えれば、また新たな苦難がはじまる。しかし、それに負けず、鄭周永は必死に突破口をさがしつづけた。

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