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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 ハーヴェイがめざしているのは、『資本論』を古典として扱うことではなく、現代資本主義の探求にまで拡張することだ。
 第6章では技術の問題が論じられている。
 マルクスが『資本論』で展開したのは、商品の生産と資本の増殖に技術がいかにかかわっているかにかぎられていた。
 資本主義が技術の発展をうながしたことはまちがいない。激しい競争のもとでは、よりすぐれた技術や組織をもつ企業が市場を占有し、超過利潤を得るからである。そのため競争が激しいほど、飛躍的なイノベーションがおこりやすい。
 新たに導入された技術は労働生産性を高めるとともに、個々の商品の価値を低くするいっぽう、大量の商品を生みだす。それによって、資本家の利潤は全体として多くなり、その一部が労働者に還元されるなら、労働者の生活水準は向上する。
 技術を代表するのが機械である。とはいえ、機械が価値を生んでいるのではない、とハーヴェイは釘を差す。機械は労働と結びつくことによって、資本家に特別剰余価値をもたらすのだ。
 新技術の導入は熟練労働者を排除し、単純労働力に置き換える方向にはたらきやすい。さらに機械は賃金労働者を「過剰」にする傾向をもっている。つまり、労働者の失業を招くだけではなく、賃金を抑える効果がある。
 そのいっぽう、商品のイノベーションと新技術が密接に結びついていることをハーヴェイも認めている。新技術は生産価格を低くして、製品市場を広げる。あるいは、まったく新たな商品や産業部門を創出する。それが新たな雇用を生みだすこともあるだろう。
 技術は機械というハードウェアにかぎられるわけではない。パソコンやスマホを例にとっても、それにはアプリなどのソフトウェアに加え、通信ネットワークなどの組織も必要である。
 技術が商品の形態を変え、新たな商品を生みだすことは事実である。しかし、マルクスはけっして技術決定論者ではなかった、とハーヴェイは断言する。
 マルクスが主張したのは「諸契機」からなる総体をとらえなければならないということである。その「諸契機」とは、技術、自然との関係、社会的諸関係、物質的生産様式、日常生活、精神的諸観念、制度的枠組みの7つであり、マルクスは、近代の特徴は、その変化が資本の不断の運動によってうながされていることだととらえていたという。
 ところが多くの人は決定論におちいりやすい。
 ハーヴェイはこう書いている。

〈社会科学における研究の大半は、社会変革についての何らかの「特効薬」型理論に引きつけられている。制度学派は制度的イノベーションに、経済決定論者は新しい生産技術に、社会主義者とアナーキストは階級闘争にそれぞれ引きつけられており、理想主義者は精神的諸観念の変革を強調し、文化理論家は日常生活の変化に焦点を当てる、といった具合だ。マルクスを特効型の理論家と解することはできないし、またそう理解してはならない。〉

 もはや単純な権力奪取は、社会変革の特効薬とはなりえないというわけだ。「ソヴィエト共産主義の失敗は、7つの契機すべての相互作用を無視してしまい、共産主義への適切な道筋は生産力革命を介してであるといった、特効薬型理論を支持したことに大きく起因している可能性がある」
 それはともかくとして、諸契機のひとつである技術が資本の運動を通して、社会的諸関係や精神的諸観念を含めてあらゆる局面に影響をおよぼすことをハーヴェイはあらためて確認している。
 そうしてみると、資本主義こそがやむことのない革命なのだった。技術それ自体も資本主義のもたらしたひとつの革命だった。「前資本主義社会には技法(テクネ)があったが、資本主義にあるのは、秘儀にとどまりえない技術(テクノロジー)なのである」とハーヴェイも論じている。
 技術は生産体制を変え、自然にたいする人間の精神構造をも変えていく。新たな技術のもとで、労働者は機械の下ではたらく「断片的人間」へと変容していく。だが、技術を使いこなして、人がはたらくには、教育や訓練が必要となってくる。
 重要なのは、技術自体がイノベーションを引き起こすことである。蒸気機関は、運輸(とりわけ鉄道)や鉱山、耕作、製粉、織機工場に大きな変革をもたらした。それは現在コンピューターがさまざまな業界に応用されているのと同じだ、とハーヴェイはいう。
 いまでは技術そのもの(正確にはビジネス化された技術の結晶)がたえず更新される一大産業部門をかたちづくっている。そして、「あらゆる問題への解決策として技術的回避や技術革新を信じる物神的信仰は、これこそ原動力にちがいないという誤った信念とともに深々と根をおろしていく」。
 だが、技術の物神崇拝はそれが自覚されなければ危険なものとなりうることを、ハーヴェイは指摘する。

〈技術的回避にたいする物神崇拝的信仰によって支えられる自然主義的見解によれば、技術進歩は不可避かつ善きものであり、それを制限することはおろか、集団的に制御し修正することさえもできないし、またすべきでもない。しかし、架空の信仰が社会的行為に影響を与えるようになることこそ、まさに物神的構築物の特色なのである。〉

 福島第一原発の事故は、まさしく技術の物神崇拝がいかに危険かを示す象徴的なできごととなった。
 それだけではない。ハーヴェイが指摘するのは、技術開発が労働者の力を奪う傾向を秘めていることである。AI(人工知能)はストもおこさないし、賃上げも求めないし、労働環境も気にしないし、欠勤することもない。
 だが、技術の導入には根本的な矛盾が生じる。極端な場合を想定すると、もし技術によって労働者が商品の生産過程や流通過程から完全に排除されてしまえば、賃金も発生せず、市場自体が枯渇してしまうのだ。
 そのこと自体、マルクスはすでにこう述べていた。

〈資本はそれ自身が、運動する矛盾である。それは[一方では]労働時間を最小限に縮減しようと努めながら、他方では労働時間を富の唯一の尺度かつ源泉として措定する、という矛盾である。〉

 そのいっぽうで、ハーヴェイは機械が導入されたからといって、労働が軽減されることはないとも述べている。労働者は生産過程の端役として、いままで以上に機械のようにはたらかされるのが通常だ。
 マルクスは『資本論』で、技術産業そのものについて言及することはほとんどなかった。当時、技術産業はさほど発展していなかった。せいぜいが工作機械と蒸気機関くらいのものだった。現在の技術は、マルクスの時代をはるかに凌駕している。
 にもかかわらず、マルクスは技術の発展が外生的で偶然のものでなく、資本にとって内生的で固有のものであることを認識していた、とハーヴェイはいう。
 マルクスはイノベーションがそれ以外の領域にも波及効果をもたらすこと、今後は技術自身が自立したビジネスとなり、かずかずの商品を生みだしていくこと、そして、それが自然や社会、精神、日常生活にどのような影響をもたらすかを見極めていかなければならないことをじゅうぶんに認識していた。
 最後にハーヴェイは資本主義のもとで進行する技術の反ユートピアに言及している。
技術の組み合わせとその可能性は、現在、人類史上かつてないまでに重要なものとなっている。だが、現在の国家と資本のもとにおける技術の発展は、きわめて歪められた社会的関係、精神的観念、自然との関係をもたらしてはいないか。そのことを点検せずに、ひたすら技術にたいする物神崇拝にふけるのは、きわめて不健全だ、とハーヴェイは論じている。

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