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資本主義に代わるもの──シュンペーターをめぐって(5) [経済学]

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 シュンペーターが本書『資本主義・社会主義・民主主義』を書きすすめていたころには、まだ1929年の大恐慌の余韻がただよっていた。
 マルクス主義者は資本主義の終焉を唱え、ケインズ主義者は国家の積極的介入による資本主義改造を説いていた。
 シュンペーターはマルクスやケインズの側にくみしない。
 いまや投資機会が消滅しつつあるという議論も盛んになった。
 投資機会が消滅するのは、経済がいわば飽和状態に達するからだ。だが、長期的にはともかく、それをいまあっさり認めるわけにはいかない、とシュンペーターはいう。
 人間の欲望と技術の発展は、おそらく限度がない。それがつづくかぎり、消費は増え、需要も増えるだろう。
 いっぽう、出生率の減退が需要増加にブレーキをかける可能性もある。だが、逆に子どもの数が少なくなることによって、かえって消費が高まるとも考えられる。
 出生率の低下が生産を減退させるともかぎらない。死亡率が低下し、女性労働力が増え、労働節約的な工夫がなされるなら、生産はむしろ増えていく。
 土地や資源の開発が限度に達するという見方もある。だが、それはおそらく事実ではない、とシュンペーターはいう。むしろ、これからは技術力の発展が、豊富な食糧と原材料、鉱物資源をもたらすことになるだろう。
 地理上ではフロンティアは消滅するかもしれない。だが、経済においてはフロンティアの消滅はありえないのだ、とシュンペーターは断言する。
 新たな商品が生まれ、これまでの商品に取って代わることで、商品世界の様相は変化し、投資機会も次々と移り変わっていく。
 技術の進歩が究極に達し、もはや前進の余地がなくなるという議論にもシュンペーターは疑問を呈し、「技術的可能性は海図に載っていない海に等しい」と宣言する。
 技術的可能性は吸い尽くされることはないのだ。
 資本主義はすでに発展しつくし、これからは新たな資本財(生産財)の需要は見込まれず、あとは置換需要だけだという見方もある。だが、そうした悲観論もあたらない、とシュンペーターはいう。
 さらに、いまは資本節約的な時代で、かつての鉄道建設時代のような大型固定資本を必要としなくなったという意見もある。たしかに、そうした傾向はあるが、いまはむしろ一単位の資本が従来より高い生産効果を上げるようになっている事実をシュンペーターは指摘する。
 そのかぎりにおいては、投資機会はけっして減少せず、したがって資本主義がただちに崩壊する兆候は見られない。
 ケインズ主義者は、現在の投資機会分野は、私的企業よりも公共事業に求めるべきだという。都市美化や公衆衛生、通信、電力、社会保険も、たしかにそうだ。
 これからは、国家や地方自治体の経済部門が拡大されていくだろう。だが、それによって資本主義を担う民間企業が消滅することはありえない、とシュンペーターはいう。
 シュンペーターは、明らかに資本主義の可能性を信じているようにみえる。それなら、なぜ資本主義が社会主義に移行するのは必至だというのだろうか。

 シュンペーターは資本主義を単なる経済システムだとは考えていない。それをひとつの文明ととらえている。
 資本主義が合理的思考や合理的態度をさらに進めたことはまちがいない。貨幣は経済的合理性をはぐぐむ媒介物にちがいなかった。数学はけっして商業算術と無縁ではない。また資本主義が近代科学を促進したこともたしかだろう。
 近代の機械化された工場は、大量の生産物を生み出した。飛行機、冷蔵庫、テレビ、自動車などの製品、近代的医術に支えられた病院、これらも資本主義の産物である。さらに、衣服や建物、絵画や小説にも合理的思考の影響が認められる。
 その意味では、資本主義こそが近代の生活様式をもたらしたのだ、とシュンペーターはいう。
 さらに、自由主義や個人主義、民主主義、フェミニズムという思想も資本主義のもとで登場した。それは、神を恐れるより、人間を改良することをめざすべきだという功利的な精神のあらわれでもあった。
「近代資本主義社会におけるほど多くの心身の自由がすべての人に保証された時代はいまだかつてなかった」と、シュンペーターは書く。
 資本主義には貧民の苦痛を軽減し、大衆の利益を拡大しようとする手段、いや少なくとも意志が含まれていた。
 さらに資本主義は「反英雄的」であり、根本的に平和主義であり、そこには道徳的な戒律を国際関係にまでおよぼそうとする傾向がある。
「近代平和主義や近代国際道義はなお資本主義の産物たるを失わない」
 もちろん、こうした命題を虚偽だとする主張があること(とくにマルクス主義)、そして資本主義のもとで数々の悪行が重ねられてきたこと、実際に戦争が発生していることもシュンペーターは承知している。とはいえ、資本主義に以上の述べた傾向があることは認めなければならない。
 だからといって、資本主義がずっとつづくということにはならない、とシュンペーターは断言する。

 資本主義が行きづまるとすれば、それはどのようにしてだろうか。
 ひとつは、生産方法がこれ以上改善しえない状況に達することである。その場合、利潤と利子率はゼロに近づき、企業家の役割は企業の管理だけになってしまう。
 資本主義においては企業家の役割は、さまざまな新技術や発想を取り入れることで、商品の可能性を広げることに置かれていた。新商品をつくりだすだけではない。原材料の新供給源を見つけることや、商品の新販路を開拓すること、さらには組織改編により生産体制を向上させることもそのなかに含まれている。
 旧来の慣行を乗り越えて、信念をもって行動する力こそが、企業家の素質だといえる。
 しかし、こうした英雄的素質は次第に失われていくだろう、とシュンペーターはいう。革新そのものが日常化するなかで、企業の経営はますます専門家の仕事となっていく。
 シュンペーターによれば、「経済進歩は、非人格化され自動化される傾きがある」。
 そうなると、かつてのブルジョア階級は消え去り、官庁化した企業においては、経営の専門家があたかも官僚を束ねるようにして、巨大な産業単位を管理するようになる。

 ブルジョアのスピリットが失われるだけではない。その社会的地位もあやうくなっている。
 資本主義の発展は封建制度の破壊を促進してきた。しかし、いっぽうで、資本主義は封建制度に守られて、育ってきたともいえる、とシュンペーターはいう。そのことはイギリスの貴族が政治にはたした役割をみてもわかる。ブルジョアは王や貴族の威信のもとで、みずからの自由な経済活動を保証されてきたのだ。
 フィレンツェにしてもヴェネツィアにしても、ブルジョアに支配された都市国家は例外にすぎなかった。商人の共和国は、国際政治の大きな勝負ではつねに失敗した、とシュンペーターはいう。ブルジョア階級は政治的には無力であり、国民を指導しえなかったばかりか、自己の階級利益を守ることさえおぼつかなかった。そのため、ブルジョア階級はみずからを守ってくれる主人を必要とした。
 資本主義の発展は封建制度の枠組みを破壊した。それだけではない。資本主義を支えてくれた土台をも破壊しようとしている、とシュンペーターはみる。
 資本主義は小生産者や小商人の経済基盤を攻撃するにいたる。小農民や企業農はかろうじて保護された。その結果、何が生じたかといえば、大企業体制の確立である。中小企業は大企業に従属するかたちで、ようやく生き残る。
 そして、この大企業体制のもとで、私有財産やビジネスの意識は希薄となり、企業統治と称する計画的な官僚的支配が広がっていく、とシュンペーターは書いている。いまはブルジョアの時代ではない。大企業の時代なのだ。

 しかも、資本主義過程はみずからへの敵対的雰囲気をつくりだすことになる。資本主義は「最後には資本主義自体に反抗のほこ先を向けるようになる」。
 反逆はおかまいなしだ。大衆は長期的な展望などにかまっていられない。敵対的衝動が盛り上がり、社会不安が爆発する。
 民衆の不安を集約し先導するのが、体制に敵対する社会集団である。そして、知識人こそがこうした社会集団をつくりだすのだ、とシュンペーターは独自の「知識人の社会学」を展開する。
 知識人は直接事態にかかわらない傍観者ではあるが、大衆の名のもとに社会を批判する階層をつくりあげている。こうした知識人の生み出す言論が尊重されるようになったのは、資本主義のもとにおいてである。資本主義のなかから生じたこの潮流をせきとめることは不可能だった。
 大衆の生活水準が上昇し、余暇が増えるにしたがって、書籍や雑誌、新聞、ラジオが広く求められるようになり、知識人はそれらの媒体を大きな拠り所にするようになった。高等教育の拡充も知識人の増大に寄与した。
 知識人の増大によって社会批判的な意識が高まり、資本主義への敵対感情が発展する。
 資本主義は労働運動を生み出したけれども、それは知識階級の産物ではなかった。しかし、知識階級が労働運動に方向性と意味をもたらしたことはまちがいない。いまや大衆こそが知識人のパトロンとなった。
 知識人は直接政治に加わっているわけではないが、なんらかのかたちで政治に影響をおよぼしている。さらに現代のように公共管理の領域が拡大される時代には、増大する官僚のなかに知識人が流れこんでいく、とシュンペーターはいう。

 自然環境の制約や政治的な規制によって、産業王国の発展にストップがかかることはまちがいない。そのことのほうが、投資機会の消滅可能性よりもよほど重要な問題だ、とシュンペーターは書いている。
 しかし、資本主義の解体をもたらすのは外的な要因ばかりではない。内的な原因もはたらく。
 現在の実業家は官僚機構ではたらく給与所得者のようなもので、財産の所有意識は低く、ブルジョア意識に乏しい、とシュンペーターはいう。
 かつてのブルジョア家庭も崩壊してしまった。結婚にたいする意識も変わった。結婚はもはや財産ではない。家族にたいする考え方も変わり、子どもの数も少なくなった。
 ブルジョアたちはいまや大邸宅を捨て、家事使用人もいなくなり、こぢんまりと暮らすようになった。
「一方では小さくて機械化された世帯を営み、他方では家庭外のサービスや家庭外の生活を極大に利用しようとする傾きがある」のがいまのブルジョア家庭の姿だ。
 かつてのブルジョア的な家庭生活は、ブルジョア的な利潤動機の主動力となっていた。こうした古いタイプのロマンと英雄主義はもはや失われた。そして資本主義的な倫理も失われる、とシュンペーターはいう。
 ブルジョアのあいだでは、かせぎ、貯蓄し、投資するという熱意が失せ、反貯蓄的な気分がみなぎってくる。会社はもはや自分の企業ではなくどこか遠い法人となってしまう。こうして19世紀的な資本主義は自己崩壊に向かう。
「すなわち、事物と精神とがますます社会主義的生活様式に従いやすいように変形されていくのである」
 ここで、とつぜん社会主義がでてくるのは、びっくりするほかない。
 おそらくシュンペーターのいう社会主義を、ソ連や中国のような政治体制と理解するのはまちがっている。
 社会主義は単純に産業の国有化を意味するわけではない。社会主義には無限に多様な経済的・文化的可能性があるともシュンペーターは述べているからである。
 しかも、現実に社会主義が出現するかどうかもわからないという。シュンペーターが社会主義は土牢になるか天国になるかもわからないし、その前に戦争が人類を焼き尽くしてしまうかもしれないと書いたのは、まだ第2次世界大戦がつづいていたからである。
 資本主義には依然として活気があり、ブルジョア集団の指導力も完全には衰えておらず、中産階級もまだ大きな勢力を保っている。短期的にみれば、資本主義がもう一度成功を収めるという可能性はじゅうぶんにある。
 しかし、一世紀だって「短期」といえるかもしれないのだ。長期的にみれば、資本主義は限界に達し、社会主義の時代がやってくるのだ、とシュンペーターは予言している。
 シュンペーターにとって、資本主義の終焉は19世紀的な資本主義の解体を意味した。だが、その解体にともなって出現するものを社会主義と名づけるのが、はたして適切だったのだろうか。
 つづいてシュンペーターの社会主義論をみていくことにしよう。

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