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マイヤーとイェリネック──美濃部達吉遠望(19) [美濃部達吉遠望]

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 1902年(明治35年)10月、ヨーロッパから帰国して早々、美濃部達吉は東京帝国大学法科大学で、比較法制史の講義をはじめた。
 ちなみに、このころはまだ帝国大学や高等学校の入学時期は9月で、それが4月に代わるのは1921年(大正10年)になってからである。
 達吉は明治35年の新学期がはじまって少ししてから授業を開始したことになる。準備不足の感はいなめなかったというような感想をもらしているが、これは謙遜というものだろう。29歳で教授になったばかりの達吉は、大いにはりきっていたと思われる。
 しかし、達吉が大学在学中からほんとうに興味をもっていたのは、法制史ではなく、むしろ公法の分野、すなわち憲法や行政法だった、と自身が述懐している。それは恩師、一木喜徳郎の影響によるが、「自分の天性が論理的な思索を好む傾向をもっている」ことに気づいたためだともいう。
 だが、おそらくそれだけではない。達吉は日本の政治を内部から改善していきたいという客気(かっき)をどこかに秘めていたのである。
 達吉が比較法制史の講義に真剣に取り組んでいたことはまちがいない。「欧州古代の国民総会」や「欧州における成文憲法の発達」、「第十九世紀における英国国会の発達」、「欧州封建制度の起源」といった論文も、次々と発表している。
 それでも、自身の関心は、どうしても行政法や憲法のほうに向かうのだった。
 1903年(明治36年)2月、達吉はヨーロッパ留学中から数年がかりで取り組んできた翻訳をついに完成させる。出版はすでに約束されていた。それがオットー・マイヤーの『独逸[ドイツ]行政法』である。
 発行所は東京法学院[1905年に中央大学と改称]、発売所は有斐閣書房。1903年3月から10月にかけ、4巻に分けて発売された。あわせて1700ページ以上にのぼる大著だった。
 オットー・マイヤー(1846〜1926)はストラスブルク(現ストラルブール)大学[達吉自身はストラスブルヒ大学と表記している]の法学教授で、ドイツ行政法学の基礎を築いた。
 1895年に出版された『ドイツ行政法』はマイヤーの代表作で、この大著を訳出することで、達吉自身も行政法の専門家であることを鮮明にしたともいえる。
「引」と称されるその「はしがき」に、達吉はこんなふうに記している。口語に直してみよう。

〈オットー・マイヤーの『行政法』が他の多くの行政法教科書とその選択を異にしている理由は、主として従来の教科書がおおむね行政法規の実質的分類によって行政法の研究を尽くしたとしているのにたいして、マイヤー氏は行政作用の形式によって行政法理の系統を立てることを試みていることにある。
 従来の教科書は行政の全体を分けて、内政、財政、軍政、外政、法政の諸部とし、その各部において、さらにこれを細かく分けて、これによって行政法の全体を示したものとしている。マイヤー氏だけはこの通常の研究方法をとらず、行政の行動を分けて、まず純然たる一方的、権力的な作用と国家が大企業者としてなすところの作用とに区別し、前者については警察および財政を論じ、そして後者については物権的関係と債権的関係とを区別している。
 ことにその債権的関係を論ずる章などは前人の多くが論じなかったところに新たな研究の道を開いたものが多い。その学説は、いまだ完璧に成功したとは言えないにしても、少なくとも行政法の研究では明らかに一歩を進めたものである。〉

 法学にうといぼくなどには、これが何を意味しているのかよくわからない。まして1700ページ以上にわたるその内容にふれるのはやめておいたほうがよさそうだ。
 それでもオットー・マイヤーの『行政学』が主に内政を論じたものであり、国家の経済行為にも触れたものであることはおぼろげに伝わってくる。
 興味深いのは、そのあとに達吉がこう書いていることである。

〈私が本書の翻訳に着手したのは数年前にさかのぼる。それを始めようとした理由は、私がまだ多くドイツ語を理解していなかったために、自ら原書について研究することの困難さを経験し、すぐれた翻訳書の必要性を強く感じ、こうしてまた世間には私と感を同じくする者が多いだろうと信じたためである。以来数年、学窓忙余の閑をぬすんで、いまついに脱稿することができた。もって学界欠乏の一端を補うに足ることを願うばかりである。〉

 苦労して翻訳したことがわかる。達吉は留学中、ドイツ語に習熟しながら、この本を訳していたのだ。もちろん、その目的は日本にも行政法を確立することだった。
 オットー・マイヤーは「国家とは最高の権力すなわち国権のもとに国民を結合する行為能力をもつひとつの団体」と規定していた。行政は立法、司法、行政の国家三権のうちの一つであり、「行政とは国家がその目的を達するためにその法規的秩序のもとに行う作用」だとされていた。それはもちろん恣意的であってはならず、法律に従うものでなくてはならない。
 内務行政と外務行政は区別される。国家は行政行為をおこなわせるため、官庁を組織し、官吏を職務につかせる。そして、官吏は臣民にたいしては国家の名において活動することになる。
そこで、行政法とは行政に関する公法を指すことになる。憲法は変わっても行政法は変わらないというのが、マイヤーの信念だったという。
 達吉は日本における行政法の体系化をめざすことになる。

 達吉がドイツ留学中にもっともひかれた法学者はゲオルク・イェリネックだった。かれの代表作『一般国家学』は1900年に発行され、ちょうど留学中の達吉はそれをむさぼるように読んだと述懐している。
 そのイェリネックの紹介にも達吉は着手している。
 美濃部達吉閲、木村鋭一・立花俊吉訳のイエリネック[イェリネック]著『公権論』が発刊されたのは、1906年(明治39年)5月のことである。発行所は中央大学、発売所は有斐閣となっている。
 訳者の木村鋭一と立花俊吉は美濃部のもとで学んでいた学生である。
公権とは、国家が国民にたいしてもつ公的権利(国家的権利)であると同時に、国民が国家にたいしてもつ公的権利(個人的公権)でもある。公権は国家と国民との関係を定めた公法によって規定されており、国家が国民にたいして恣意的に権力を発動することは認められない。
 その国家は歴史上、普遍的な現象であって、それ自体、単一体であり、法人としての人格をもっている。そして国家は法人としての意思と思考、能力をもち、その目的を達するための機関を備えているとされる。
 公権と私権は区別されなければならない。個人の利益が公権によって保護されるのは、それが公共の利益に適合している場合である。
 そこにはこんな一節もある。口語に直してみよう。

〈国家のすべての行為はみな被治者の利益のためにおこなわれる。国家がその目的を遂行するにおいて、個人に与えるに自己の利益のために国家の設備を利用し、国家の作為を要求するの能力をもってする。それによって、国家は公民状態、すなわち積極の身分を得る。この状態は個人の利益のためにするすべての国家の作為の基礎たるものである。
 国家の行為はただ個人によってのみ行われることができる。国家が個人をして国家のために動作をなすの能力を得せしむるによりて個人は主働的公民の状態に置かれる。これを称して主働の身分ということができ、この身分を有する者は狭義のいわゆる参政権をおこなう権利を有するものである。〉

 この訳はじつにわかりにくい。何を言おうとしているのだろうか。
 国家と個人の関係を言わんとしていることはたしかである。
 国家は個人を包摂する団体である。しかし、個人が国家に服従しているだけでは、個人は人格を有しないといってもよい。そこから次第に独立して、個人がみずからの意志をもって国家統治に参与するにいたって、個人ははじめて「主働的公民」となり、公民の身分として参政権(さらには選挙権)を有するようになるのである。
 後年のケネディの演説を引けば、「国が諸君に何をしてくれるかを問うよりも、諸君が国にたいし何をできるかを問いたまえ」ということになるだろうか。
 国家が公権を発揮するにあたっては、恣意的にではなく、公法にしたがわねばならない。これにたいし、個人はただ国家の命令に従うのではなく、みずから主働的な立場で、みずからが国家のために何をなしうるかを問わなければならない。ここには国家と個人との緊張に満ちた関係が生まれているといってもよい。
 達吉はみずからの行政法学に、イェリネックのこうした考え方をどのように取り入れていくことになるのだろうか。

 さらに、この年の秋(1906年10月)、達吉は訳書としてゲオルグ・エリネック[ゲオルク・イェリネック]『人権宣言論』をやはり有斐閣から刊行している。
 ここには「人権宣言論」のほか、「少数者の権利を論ず」、さらには「歴史上における国家の種々相」といった論考が収録されていた。
 この本は評判となり、版を重ねたらしく、のちに1929年(昭和4年)10月に「憲法の改正と憲法の変遷」という論考を追加して、『人権宣言論外三篇』とタイトルを変え日本評論社から再刊され、さらに敗戦後も1946年7月にも日本評論社から再度出版されている。
 タイトルは刺激的だが、専門書だといってよい。「人権宣言論」にしても「歴史上における国家の種々相」にしても、どちらかというと比較法制史の研究という色合いが濃い。
 その初版の「小引」(はしがき)で、達吉はエリネック(イェリネック)のことをこう紹介する。口語にして示してみよう。

〈エリネック先生は人も知るとおりドイツ・バーデン国ハイデルベルヒ[ハイデルベルク]大学の現任国法学教授であり、国法学に関する著者が多数ある。いずれも創見に富んでおり、その研究の該博なることは、ドイツの著者中最良のものである。その主な著書としては『条約論』『国家結合論』『法律命令論』『公権論』『国家学汎論』[『一般国家学』]があり、なかでも『国家学汎論』はこの種の著書の従来公にされたもののなかで疑いもなく完備したものであろう。〉

「人権宣言論」については、あっさり紹介したにとどまる。

〈これはわずか五三ページの小冊子ではあるが、その所論は独創的なもので、近世憲法史上の重要な一文書の起源についてこれまでにない新たな所見を示したものである。〉

 じつは、イェリネックの「人権宣言論」は発表当時、大きな論争を呼び起こしていた。イェリネックは、フランスの人権宣言の淵源が、アメリカの諸州の憲法にあることを明らかにした。しかし、フランスの学界では、これまで人権宣言の淵源はルソーにあると信じられていたので、イェリネックの説にたいし反論が巻き起こったのである。達吉自身はルソーの重要性を認めないわけにしても、人権宣言のもとがアメリカ諸州の憲法にあったことを明らかにしたイェリネックの功績は大きいと考えていた。
 いずれにせよ、人権宣言にせよ、少数者の権利についてにせよ、国家の変遷にせよ、イェリネックの論考が、達吉の政治学的思考を大いに刺激していたことはまちがいない。
 それらの論考が達吉の著書や講義にどういう影響をおよぼしていったかを徐々に見ていくことにしよう。

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