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東大教授となり結婚──美濃部達吉遠望(18) [美濃部達吉遠望]

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 1902年(明治35年)10月、美濃部達吉は3年間のヨーロッパ留学を終えて日本に帰ってきた。ベルリンに滞在していた2年前、すでに東京帝国大学法科大学の助教授に任命されていたが、帰朝とともに教授となった。このとき29歳である。
 自身、こう書いている。

〈留学の期限が満ちて帰朝したのは、明治三十五年の十月であったが、帰朝とともに、ただちに教授に任ぜられて、比較法制史の講座担任を命ぜられ、もはや学年[が]始まった後であったので、東京に着くと同時に、数日余裕も置かず、ただちに講義を始めねばならぬのであった。今から思うといかに不完全な講義であったかと、慚愧(ざんき)に堪えない。〉

 あわただしく比較法制史の講座を開かなければいけなかったことがわかる。
 達吉が宮崎道三郎(1855〜1928)を引き継いで、比較法制史の講座を担当することは留学前から決まっていた。そのためにイギリス、フランス、ドイツへの留学を命じられたのでもあった。
 そもそも比較法制史とはどのようなジャンルを指すのだろうか。実際には、西洋法制史だったといってもよい。宮崎道三郎は、ローマ法からはじまってゲルマン法、そしてドイツ法にいたる西洋の法制の歴史を教えていた。
 達吉はさらにドイツでの最新の研究を踏まえて、その講座を引き継ぐことになった。ドイツだけではなく、イギリス、フランスへの留学も含まれていたのは、イギリスやフランスにおける法制の歴史も研究することを期待されていたのだろうか。
 明治維新によって、日本は新たな国家づくりに乗り出した。それは天皇を中心とする王政復古を基本としながらも、急速な西洋化を推し進める革命でもあった。世界的にみれば帝国主義の時代におけるこの一見矛盾した緊張のなかで、明治の国家建設は進められた。
 中国の律令を規範とする江戸時代までの法度(はっと)は、西洋を規範とする法律に急速に置きかえられた。1889年(明治22年)には大日本帝国憲法が公布され、ついで民法(1898年)、商法(1899年)、刑法(1907年)などが定められ、日本は法治国家となった。それにいたるまでは日本の実情に合わせるための紆余曲折と激しい論争がある。
 西洋の法を規範とする以上、その歴史を知ることは必須だった。官界の人材を養成する東京帝国大学法科大学に比較法制史と称される西洋法制史の講座を設けることは、早くから求められていたといってよい。
 1894年(明治27年)にその講座を開いたのが宮崎道三郎である。その後、宮崎は日本法制史の研究に焦点を移そうとしていたため、1902年(明治35年)から、比較法制史、もっと具体的にいえば西洋法制史の講座は達吉が受け持つことになった。
 さらに、その後、1911年(明治44年)からは達吉に代わって、留学から帰国した中田薫(1877〜1967)が比較法制史の講座を担当することとなる。日本法制史に大きな業績を残した人物として知られる。
 比較法制史の本来の意図は、宮崎自身が述べているように、中国、インド、イスラム諸国から、ギリシア、ローマをへて中世・近世のゲルマン、そして現在のドイツにいたる法の発展を論じることだった。だが、講座の力点が、中国、インド、イスラム諸国より、ローマ法からゲルマン法、ドイツ法への流れに置かれていたことはまちがいない。
 達吉が宮崎の講座を踏襲しながら、どのような講義をしたのかは、残念ながらよくわからない。
 達吉自身はこう述懐する。

〈比較法制史の講義は、その後七八年継続していたが、明治四十一年に一木先生が行政法講座の兼任を辞されたので、その後を承(う)けて、四十一年からは行政法第一講座を兼任することになり、続いて四十四年に専門に法制史を研究せられた天稟(てんぴん)の歴史家である中田薫君が、欧州留学から帰朝せられたので、私は行政法講座の専任となり、比較法制史の講座は同君の担任に譲ることとなった。最初は法制史の研究に端緒を開いた私の学究生活は、ここに一転して、公法を専門とすることとなり、歴史の研究から自然に遠ざかるにいたった。〉

 これによると、達吉が比較法制史の講座を担当したのは、1902年(明治35年)から1911年(明治44年)までの9年間であり、1908年(明治41年)からは、すでに行政法の第一講座を兼任するようになっていたことがわかる。
 こうして、達吉は次第に自身にとってもともと関心の強かった公法の分野、すなわち憲法と行政法に研究の中心を移していくのである。
 ここで、ひとつだいじなことをつけ加えておかねばならない。
 達吉の私生活に重要な変化が訪れたのである。それは、帰国の翌年、1903年(明治36年)5月に菊池大麓(だいろく、1855〜1917)の3女、多美(民子)と結婚したことだった。このとき、母は亡くなっていたものの父の美濃部秀芳は健在だったから、結婚式には兄の俊吉らとともに出席したかもしれない。
 このとき菊池大麓は桂太郎内閣の文部大臣を務めていた。
 大麓は箕作阮甫(みつくり・げんぽ)の養子、秋坪(しゅうへい)の次男であり、父の実家、菊池家を継いだ。英語を学び、2度にわたりイギリスに留学、数学と物理学を学んだ。帰国後、帝国大学理学部教授として数学を教え、東京帝国大学総長、京都帝国大学総長などを歴任した。1890年(明治23年)に貴族院議員に勅任され、1901年(明治34年)6月から1903年7月まで桂内閣の文部大臣を務めた。のちに枢密顧問官にもなっている。
 ちなみに多美の妹、千代子は東大教授で民法学者の鳩山秀夫(鳩山一郎の弟)と、冬子は東大教授で民法学者の末広厳太郎と結婚している。そして、多美自身は評判の美人として知られていた。
 達吉はこうして華麗なる一族に加わることになる。
 翌1904年(明治37年)2月5日には、達吉と多美(民子)のあいだに長男、亮吉が誕生した。日露戦争がはじまる3日前である。
 その亮吉が、両親の結婚について、こう書いている。

〈明治三十五年に帰朝して東京帝国大学法科大学教授に任命された。翌三十六年、当時の文部大臣菊池大麓の長女[三女]民子と結婚した。現在の私の母である。仲人は一木教授であった。一木教授は、一切仲人をしない主義なのだが、美濃部君のためなら一肌脱ごうと言って媒酌人になられたそうである。父も一木教授を大いに尊敬していたし、一木さんも父をかわいがっておられたにちがいない。そういうところから考えても、父の学説に最も大きい影響を及ぼしたのは一木教授ではないかと思われる。〉

 ここにも一木喜徳郎の名前が登場する。
 達吉にとって、一木は恩師であるにとどまらない。内務省にはいって悶々とする達吉をふたたび学業の道にいざない、大学でのポストを斡旋し、ヨーロッパ留学を後押しし、さらに結婚の仲人まで務めてくれたのである。足を向けては寝られない存在だった。
 美濃部研究会の宮先一勝さんは「この頃が達吉の生涯のうちで最も幸せで、充実した時期であったと思われる」と評している。
 まさにそのとおりだろう。

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