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帝国主義と民主主義──ホブズボーム『帝国の時代』を読む(2) [商品世界論ノート]

 1875年から1914年にかけ、先進的な資本主義的中枢が「後進地域」を支配する「帝国の世界」が生まれた、とホブズボームは書いている。
多くの統治者が皇帝の称号を名乗っていた。イギリスのヴィクトリア女王もインド皇帝を兼ねるようになったし、天皇もある意味、大日本帝国の皇帝にちがいなかった。
 ヨーロッパとアメリカ大陸の大部分を除いて、世界の大半がひと握りの強国によって分割された。
その強国とはイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、アメリカ(合衆国)、そして日本である。旧帝国のスペイン、ポルトガルはすでに没落していた。
 アフリカはエチオピア、リベリア、モロッコを除き、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、ポルトガル、スペインによって完全に分割された。
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 アジアでは、イギリスが植民地のインド帝国にビルマ(現ミャンマー)を併合し、チベット、ペルシャ、ペルシャ湾地域に勢力を広げた。フランスはナポレオン3世時代にインドシナを征服する。ロシアは中央アジアに進出したが、中国北部の領土獲得はうまくいかない。
 日本は台湾と朝鮮を植民地とした。オランダは東インド(現インドネシア)を保持しつづけている。アメリカはハワイを併合し、フィリピンを植民地とした。
 帝国は古代から存在するが、帝国主義は近代の政治概念だった、とホブズボームはいう。帝国主義といえば、レーニンの「帝国主義論」が知られており、これに関してはさまざまな論争がある。
 しかし、世界分割にはまぎれもなく経済的要因があった、とホブズボームは強調する。もちろん、列強による世界の分割という政治的な出来事は、経済的要因だけでは説明できない。だが、経済的動機が強かったことはまちがいないという。
 19世紀後半、先進諸国は世界の隅々まで経済の網の目──経済取引、通信、交通、商品・貨幣・資本・人間の移動──を広げた。あらゆる場所に鉄道が敷かれ、都市がつくられていった。
 先進文明には異国のものが必要だった。石油はこのころまだアメリカとロシアで産出されているが、中東で大きな油田が見つかる。ゴムは熱帯の産物であり、当初コンゴやアマゾンで抽出されたが、やがてマラヤで栽培されるようになった。銅を産出したのは、チリやペルー、ザイール、ザンビアだった。南アフリカはダイヤモンドと金の一大産地となった。穀物と肉は、南北アメリカやロシア(ウクライナやポーランド)、オーストラリア、ニュージーランド。砂糖、茶、コーヒー、ココアなども、栽培されたのは植民地である。
 こうして先進工業国を中心として、その他の世界は植民地や半植民地的領土となり、第1次産品に特化する生産地へと変わっていった。こうして「マラヤといえばゴムと錫を、ブラジルはコーヒーを、チリは硝酸塩を、ウルグアイは食肉を、キューバは砂糖と葉巻をおのおの意味するようになった」。
 資本の投資先として植民地が必要だったという理論はあまり説得力がない、とホブズボームはいう。実際、この時代、たとえばイギリスは植民地よりもアメリカやカナダ、アルゼンチンなどに多くを投資していた。それよりも植民地帝国を築くうえでは、市場の開拓という動機のほうが、はるかに強かったという。本国にとって、植民地は資源や食料の産出地、そして商品のはけ口ととらえられていた。
 先進国が新しい市場を開拓するために世界に占有地域を広げたのは、当時、先進各国が保護貿易政策をとっていたためでもある。植民地取得の政治行動は、保護主義という経済的動機と密接につながっていた。
 植民地化の動機はイギリスがもっとも強かった、とホブズボームはいう。イギリスには古くからの植民地があったが、対抗国がアフリカやオセアニアを分割しはじめると、古い植民地を守るためにも、イギリスは新たな植民地を確保しなくてはならなくなった。
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 イギリスの戦略的核心はインドだった。インドはイギリスの綿織物輸出の約半分を引き受けていたし、イギリスの国際収支はインドのもたらす黒字によって潤っていた。そのため、イギリスにとってはインド亜大陸に向かう短い海上ルート(地中海、エジプト、中東、紅海、ペルシャ湾、南アラビア)と遠洋ルート(喜望峰、シンガポール)、さらにインド洋を確保することが必須だった。
 セシル・ローズが帝国主義による熱狂的愛国主義をあおっていた。それはフランスも同じである。万国博覧会では植民地パビリオンが観客を魅了した。かくて、西欧では、階級を問わず、優越感が国民を一体化することになった、とホブズボームは指摘する。
 この時期、キリスト教の伝道活動が植民地に広がった。政治的左翼のなかには植民地戦争や植民地征服に反対する者もいたが、あくまでも少数派だった。多くの労働組合幹部は植民地の議論は自分たちとは無関係だと考えていた。
 帝国主義において重要なことは、本国と植民地の関係が著しく不均衡、不平等、差別的なことだ、とホブズボームは論ずる。政治面でも経済面でも、本国は植民地を一方的に利用した。
 とはいえ、そこにはある種の文化的現象も生まれる。植民地では西欧流の教育を受けた新たな社会的エリートが誕生した。恵まれた少数の人びとは読み書きができるようになり、新たな職業の道を歩みはじめた。
 そうした社会的エリートの典型がマハトマ・ガンジーである。ガンジーは非暴力主義による抵抗という独特の手法を生みだす。とはいえ、反帝国主義運動が本格化するのは、ロシア革命の時代からである。
 いっぽう従属的な世界が先進世界に与えたものとしては、一種のエキゾチシズムがある。コンラッドの小説をはじめ、さまざまな三文小説に異国の光景が登場するのは、このころからだ。エキゾチシズムだけではない。非ヨーロッパ文化を尊重する学問的研究もあらわれはじめた。
 植民地が宗主国の支配階級と中産階級に与えた影響も無視できないという。西欧の一握りの国が世界を支配したという事実は、ヨーロッパの絶対的優位を強く意識させた。帝国と直接かかわったヨーロッパ人の数は比較的少なかったが、かれらのもつ象徴的な意味は重かった。
 だが、帝国主義は問題と不安を引き起こさないわけにはいかない。植民地では独裁的な支配者にたいする反発が次第に強くなっていく。いっぽう、先進国の国内では民主政治が普及しようとしていた。白人による世界支配がいつまでつづくかという不安が頭をもたげる。植民地支配はむなしい努力だという気分も広がりはじめた。

「帝国の時代」は民主政治の時代でもある。これは一見不思議なように思えるが、そうではない。ともに資本主義の発展がもたらした現象だからだ。
 19世紀の自由主義は、議会に政治の権限を委ねようとしていた。その議会は憲法によって保証され、選挙によって代表を選ぶかたちになっていた。だが、実際は、女性はいうまでもなく、市民の大多数が選挙権をもたなかった。旧来の勢力が選挙権の拡大を危惧したのは、貧困な人民大衆が革命的改革を求めるのを恐れたからだ、とホブズボームはいう。
 しかし、1870年代にはいると、国政の民主化が避けられないことが明らかになる。イギリスでは1867年と1883年の選挙法改正によって、有権者はほぼ4倍となり、20歳以上の男子有権者の比率が8%から29%へと上昇した。
 そうした傾向はフランス、ドイツ、スイス、ベルギー、オランダ、スカンディナビア諸国、ハプスブルク帝国、イタリアなどでも同じだった。アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドはすでに民主化されていた。
 民主政治は各国政府から熱意をもって迎えられたわけではない。有権者の拡大はしぶしぶおこなわれたというのが実情だろう。それでも民主化の流れは避けられなかった。
 さまざまな制限をかけることが試みられた。ドイツでは帝国議会の権限が極力抑えられた。ほかの国では、直接選任議員によって構成される第二院が民主化された代表議会にブレーキをかけた。選挙権に複雑な制限をかけたり、記名投票を義務づけたり、有権者の年齢を高くしたりすることもおこなわれた。それでも民主主義の前進をはばむことはできなかった。
 選挙運動は大衆の政治動員に結びつく。政治評論も活発になった。大衆のなかでもいちばん手ごわい存在は労働者階級だった。職人の親方や小商店主からなる小ブルジョワジー、熟練労働者とはことなるホワイトカラー、かれらも社会に不平不満をいだき、左翼気分に傾いている。だが、中間層は概して民族主義的で反ユダヤ主義的だった。
 いっぽう小農層は依然として多数派で、最大の経済集団を形成していた。だが、ひとつの階級として選挙に動員されることはあまりなかった。
 ローマカトリック教会は超保守的な立場をとり、保守政党や反動政党を支援していた。キリスト教政党が誕生するのは1890年代になってからである。プロテスタントの宗教政党は少なかった。だが、宗教には絶大な政治的潜在力があった。
 もうひとつ政治の基盤にある潜在力は民族的一体感だった、とホブズボームは書いている。イギリスの選挙権が拡大されると、アイルランド人の多くはアイルランド国民党に投票した。ドイツやオーストリアでは、ポーランド人はポーランド人として、チェコ人はチェコ人として投票に加わった(いうまでもなく、このころ、アイルランドもポーランドもチェコも独立していない)。
 こうして、ハプスブルク帝国の半分であるオーストリアの政治は、1890年代以降、民族的不和によって完全に麻痺してしまうことになる。
 政党は組織や地方支部をつくり、大衆運動を引っぱっていく。だが、いっぽうでドイツの農業経営者同盟のように、みずからが保守派の政党を後押ししていく場合もあった。
 いずれにせよ、宗教、ナショナリズム、民主主義、社会主義、そして萌芽的なファシズムが大衆をそれぞれに包んでいた。
 新しい大衆政治は古い地方政治(名望家政治)とは異なっていた、とホブズボームは書いている。政党や組織が前面に出てくる時代がはじまったのだ。
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 民主主義は前進したが、政治を変えるまでにはいたらなかった。政治に緊張と混乱をもたしたことはまちがいない。
 議会の無能と政治体制の腐敗は見過ごしにはできなかった。フランスでは1875年から1914年までの39年間に52の内閣が入れ替わり立ち替わり登場した。そのため行政と政策を効果的に持続させるには、官僚の存在が必須となった。いっぽう、汚職やスキャンダルの割合は次第に減っていった。
 上流階級の人びとは大衆が中心的存在になることを懸念していた。しかし、大衆に対抗するエリートの防御態勢はもろくも崩れていく。
 1880年以降、とりわけ支配階級を脅かしたのは社会主義運動だった、とホブズボームはいう。イギリスでもドイツでも、自由主義ブルジョワジーの政治的優位は崩れつつあった。保守派が再編成される。だが、反動への回帰は容易ではなく、社会主義の勢いを完全に押さえこむことはむずかしかった。
 支配階級はそのため新しい戦略を選択する。労働者の待遇改善を求める社会主義は、自治と分離・独立を主張する民族主義よりも取り扱いが容易だった。1900年ごろになると、労働者政党を国家体制のなかに組みこむ動きが出てくる。イギリスでは1903年に自由党が労働者代表委員会と選挙協定を結んだ。
 社会主義への懐柔政策として、政府は社会改革や社会福祉計画に乗りだすことになった。ビスマルクは1880年代に社会保険を導入した。次いで、オーストリアやイギリスの自由党政府が、老齢年金や健康保険、失業保険を実施し、フランス政府もこれにつづいた。スカンディナビア諸国は意外にもこの時点では立ち遅れ、アメリカはあくまでも自由主義にこだわっている。
 国家は経済に干渉しないという原則が崩れた。イギリスでは官僚機構が急速に膨張し、1891年から1911年のあいだに公務員の数が3倍になった。だが、フランスやドイツの公務員比率はまだ低かった。
 帝国主義と社会政策は結びついている。ホブズボームによれば、「帝国主義は社会改革に必要な費用を支弁することができるばかりではなく、俗受けするとも考えられていた」。
 そして、戦争は大衆からも期待されていた。
 問われていたのは、支配階級による国家体制が、民主主義時代の大衆に支持されるかということだった。政府は国王や栄誉といった従来の象徴に加え、帝国拡大や植民地征服といったプロパガンダによって、国民に働きかけ、みずからの正統性を維持するようになる。
 大衆市場、大仕掛けの催し、娯楽・演芸などと並行して、国家の伝統と誇りの捏造がおこなわれるようになった。フランスでは7月14日が革命記念日となった。ドイツの公立学校では、儀式の折に必ず国旗が掲げられ国歌が演奏される。政治的な式典や国家的スポーツ行事が、大競技場でしばしば開催されるようになった。
 こうして西ヨーロッパの支配階級は大衆の政治的欲求をうまく処理していった。社会主義も民族主義もその網にからめとられた。その結果、多くの社会主義政党が第1次世界大戦を容認していく。
 国内で体制側が直面した問題は、直接行動による即時的要求だけだった。暴動やゼネストがなかったわけではない。しかし、それは過大評価しないほうがいい、とホブズボームはいう。
 さらに、こう書いている。

〈1880年から1914年の間に、支配階級は、議会制民主主義が、彼らの懸念にもかかわらず、資本主義体制の政治的、経済的安定と十分に両立できることを自ら立証していることを初めて認識した。このような認識は、議会制民主主義の体制そのものと同様、少なくともヨーロッパにおいては、目新しいものであった。それは社会主義の革命家を失望させることになった。なぜなら、マルクス、エンゲルスは、民主共和制を、明らかに「ブルジョワ的」だとしながらも、常に社会主義に連なるものと考えていたからである。〉

 しかし、民主主義と資本主義の結びつきが安定しているというのは、つかのまの幻想だった。「1880年から1914年の間の民主政治の発展は、その永続性も、また世界的規模での勝利も予示してくれなかった」とホブズボームは書いている。
 まもなく、戦争と革命がはじまる。

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