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七博士の建白書──美濃部達吉遠望(20) [美濃部達吉遠望]

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 ヨーロッパ留学から帰国直後、1902年(明治35年)10月に美濃部達吉は東京帝国大学の教授となり、法科大学(法学部)で比較法制史、すなわち西洋法制史を教えるようになった。
 その翌年、30歳で結婚し、さらに次の年(1904年[明治37年])2月5日に長男の亮吉が生まれた。
 2月8日、日本海軍は旅順港外のロシア艦隊に奇襲をかけ、翌日、仁川沖でロシア艦2隻を撃沈した。こうして日露戦争がはじまる。
 達吉はけっして日露戦争に反対していない。かといって、声をからして戦争を後押ししていたとも思えず、はらはらしながら、その行方を見守っていたというのが実情だろう。
 しかし、東大教授のなかには、早くから声高にロシア討つべしと主張していた者がいた。
 そのあたりの事情を立花隆の『天皇と東大』によって紹介してみる。
 日露戦争がはじまる約8カ月前の1903年(明治36年)6月10日、東大教授の戸水寛人(とみず・ひろんど、1861〜1935)が7人の教授を代表して、桂太郎首相に対露政策についての建白書を提出した。
 7人の教授とは戸水をはじめとして、寺尾亨(とおる)、金井延(のぶる)、富井政章(まさあきら)、小野塚喜平次(おのづか・きへいじ)、高橋作衛(さくえ)、中村進午(しんご)。学習院高等科教授、中村進午を除いて、ほか6人は東京帝国大学法科大学の教授だった。
 七博士の建白書(意見書)といわれる。
 建白書は写しをつくり、手分けして元老の山県有朋、松方正義のほか、小村寿太郎(外相)、山本権兵衛(海相)、寺内正毅(陸相)のもとにも届けられた。
 誰がリークしたのが、その内容を批判する論説が、翌日の東京日日新聞に掲載された。これに反発した七博士の側は、逆に建白書を別の新聞社に持ちこみ、6月24日の東京朝日新聞にその全文が掲載された。政府は三国干渉以来の軟弱外交をやめ、武力をもってロシアに対抗せよというのが主旨である。
 その一節を、口語に直してみよう。

〈[ロシアの進出により]極東の形勢にいまや危急が迫っており、これまでのように何度も機会を逃す余裕はない。今日の機会を逸すれば、日清韓がふたたび台頭する時はなくなるであろう。いまは実に千載一遇の好機であり、しかも最後の好機であることを自覚しなければならない。幸い、現在、わが軍力はかの国[ロシア]と比較して、いくらか勝算がある。しかし、こうした見通しが継続するのはせいぜい1年内外というところだろう。〉

 ロシアに支配されるかもしれないという不安をあおり、勝ち目のあるいまこそロシアを討つ最後のチャンスだと訴えている。
 さらに、その建白書は次のようにつづく。

〈ロシアが満洲に地歩を占めれば、次に朝鮮に向かうことは予想でき、朝鮮がロシアの勢力に服すれば、次がどうなるかは火を見るよりも明らかである。それゆえ今日満洲問題を解決しなければ朝鮮を失い、朝鮮を失えば、日本を守ることもできなくなってしまうだろう。いまや上下人士が状況を自覚し、[ロシアとの]姑息な話し合いをやめ、我が国が根底的に満洲問題を解決しなければならないのは、そのためである。〉

 戦争に向けてのアジテーションである。
 立花隆はこう指摘する。

〈このような[きわめて高い]地位にある法科大学の教授たちが、このような建白書を書いたということは、政府に大きな衝撃を与えたが、広く国民各層に与えた影響は、さらに大なるものがあった。日露開戦に向けて世論が作られていく上で、七博士建白は、最も大きな影響を与えたものの一つであったといってよい。〉

 この建白書が広く国民に知られるようになったのは、新聞の影響が大きい。世論が動きはじめた。
 領土拡張論は戸水の持論だった。
 1901年(明治34年)4月の早稲田大学における「北清事件について」という講演では、すでに次のように語っていた(表記を読みやすくした)。

〈日本はいかなる状態であるかというと、面積はごく少ない。しこうして人口はだんだん増えていく。外へ植民しようとすれば叱られて帰ってくる。自分の面積はだんだん足りなくなってくる。このままでいったならば、日本は他日かならず亡びるのほかはない。
 わが日本がこれから盛んになろうということであるならば、どうしても外を取らなければならぬと思う。外の領土を取るのに戦争なしに取ることができましょうか。島ひとつ取るのでも戦争をしなければ取れないと思う。
 隣の朝鮮はまことに小さな国で、いまや亡びかかっているのである。……亡びることは好まぬけれども遺憾ながら朝鮮は亡びると思う。そうするとその朝鮮はロシアに取られてしまうか、日本の手に取るかというが問題である。ロシア人はかならず朝鮮をほしいというでありましょう。しかしながら日本人はわが同人種たる朝鮮人がロシアのために圧倒されるということを非常に遺憾と思うです。かならず諸君も遺憾に思っておいでなさろう。そういうことであるならば、やはり朝鮮は日本人の手に収めるより仕方がない。あえて朝鮮をもって日本の属国にしようと主張するわけではありませぬけれども、日本の一部分にしてやりたいと思うのであります。(大喝采)
 ところがあの朝鮮というところは、なかなかやっかいな国で、大陸つづき、ちょうどひとまたぎに川をまたぐと向こうに満洲というものがある。この満洲から朝鮮を攻めるほうが容易である。そうすると朝鮮だけ取っておったところで守るに困難であるから、ついでに満洲を取ったほうがよかろうと思う。(大喝采)〉

 ここにみられるのも一種のゲーム感覚である。人口が増えると困るから朝鮮や満洲に殖民しようというのは勝手な理屈である。まして、朝鮮や満洲で、どんな人がどのように暮らしているかという思いはまったくなく、ただ日本人の利益だけを貪欲に追求しようとしている。
 1903年(明治36年)にはいると、戸水の舌鋒はさらにとどまるところをしらなくなっていた。「満洲問題」と題する講演では、こう語っている。

〈帝国主義の実行はこれまで諸国の大政治家のすでに企てたことである。すなわちロシア人も久しくそれを企てつつおった。イギリス人もそれを実行しておった。米国人すらもそれを実行しており、ドイツ人も近ごろにいたって、ますますそれを実行することになった。これらの国の政治家は世界の大勢を洞察しているから、いずれも帝国主義の実行に従事しておるのである。それゆえに私は日本のためにも帝国主義の実行を計ってよかろうと思う。また日本の国内の事情から打算してみても、帝国主義の実行は必要になる。……
 日本の人口が現在の人口の倍になるには、たくさんの歳月はいらぬ。なお、さらに進んでいって、一億にも達するということも、さほど長き歳月はいらないと思う。ところで、この増加するところの人民はどういうところに居住してよいか。日本の領土によっていくということは、とうていできぬから、やはり他国の領土に行かなければならぬと思う。……
 それゆえに私は日本人がアジア大陸に向かって進んでいくことを希望するのである。もしも大陸中、もっとも移住に適当な場所といえば、それはむろん朝鮮であるけれども、朝鮮が日本の領土ならざる以上は、そうたくさんの日本人がはいっていくわけにはいかぬ。まず一千万か一千五百万もはいると、それ以上は困難であろうと思う。あれが日本の領土となって、日本人の手で万事のことを経営することができるとしても、あまりたくさんの人口ははいることはできない。
 しからば日本の国力の発達を計る場合には、朝鮮内地に注目するのでは足らぬ。やはり満洲に注目しておくということが、もっとも必要である。……
 要するに日本人の注目する場所は、朝鮮と満洲とで、この一方に日本人をたくさん移住せしむるのは必要であるが、そうするとロシアとの衝突が免れない。それゆえに私はどこまでも戦争論を主張するのであります。〉

 日本もまた帝国主義を実行すべしという。ここには日露戦争、韓国併合、満洲国建国、支那事変、大東亜戦争にいたる、その後の日本の歩みが先取りされている。戦争を賛美する東大教授のこうした発言に多くの人が喝采を浴びせていたことを忘れてはならないだろう。
 1904年[明治37年]2月に日露戦争がはじまると、戸水のあおり発言はますます止まらなくなった。

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