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戒厳令のなかで──美濃部達吉遠望(22) [美濃部達吉遠望]

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 ほんとうは国会図書館に行って、当時の資料にあたらなければならないのだが、なんだかぐずぐずと自宅に籠もったまま、東京に出るのがおっくうになってしまった。そこで立花隆の『天皇と東大』を借りて、今回の話を進めることにする。国会図書館に行く機会があれば、この部分の記述も多少膨らみがでてくるかもしれない。そのことをはじめにことわっておく。
 ポーツマス会談がはじまろうというのに、東大教授、戸水寛人は相変わらずロシアとの戦争を継続すべしとの主張をぶちあげていた。それに堪忍袋の切れた文部大臣、久保田譲は、1905年(明治38年)8月25日、東大総長の山川健次郎を通さず、直接、戸水を休職処分とした。東大の教授陣は、この処分に猛反発する。その先頭に立ったのが美濃部達吉だった。
 主戦論を唱えていた「東京朝日新聞」などは、むしろ戸水の言論を擁護していた。
 8月10日からアメリカのポーツマスで開かれていた講和会議は、難航の末、ようやく9月4日に決着し、日本とロシアのあいだで条約が結ばれた。いわゆるポーツマス条約である。
 ほとんどの日本人は、あれだけ多くの犠牲者(戦死者8万1000人、戦傷病者31万8000人)を出し、多額の費用をかけながらもロシアに大勝したのだから、広い土地と多くの賠償金を獲得できるものと思っていた。ところが、その結果が賠償金はゼロで、土地は樺太の南半分にすぎなかったのを知って、国民は怒りを爆発させた。
 政府は日本の戦力が限界に達しており、これ以上戦うとかえって大国ロシアに手痛い敗北を喫すると冷静に判断していた。だからこそ、戸水のような威勢のよい戦争継続論を抑え、ようやくロシアとの講和に持ちこんだのだが、その成果が戸水らが唱えていたような講和条件をかなえるものにならないことは、最初からわかりきっていた。
 だが、賠償金はゼロで、土地は南樺太だけだったとしても、ポーツマス条約で日本政府が確保した権利は、じつは大きかったのである。
 ロシアは大韓帝国(朝鮮)における日本の権益を認め、満洲から全面的に撤退するとともに、清国から租借した旅順、大連などの権益、ならびに東清鉄道の支線であるハルビン・旅順間の鉄道(南満洲鉄道)とそれに付属する炭坑などを日本に引き渡すことになった。それはのちの韓国併合や満洲進出につながる内容を含んでいたのだ。
 にもかかわらず、東京朝日新聞、大阪毎日新聞、万朝報、報知新聞など当時の主力紙は政府がろくに賠償金も土地も取れなかったことをこぞって非難し、国民の悲憤をあおった。
 その結果、日比谷焼き討ち事件が発生する。9月5日、日本時間でポーツマス条約が締結される当日、講和に反対する国民大会が日比谷公園で開催されることになり、約3万人の群衆が集まった。その群衆が公園を封鎖しようとした警官隊と衝突し、暴動が広がった。公園近くの内務大臣官邸が焼き討ちされ、東京市内の警察署や交番が次々と襲われ、唯一講和に賛成した徳富蘇峰の国民新聞は社屋を破壊された。
 政府は9月6日に緊急勅令を出し、東京市とその周辺を戒厳令下に置いた。同時に言論統制が敷かれ、政府が不都合とみなした新聞雑誌は発行を差し止められた。戒厳令と言論統制が解除されるのは、約3カ月後の11月29日である。
 こうして講和に反対する動きは押さえこまれていく。しかし、このかんも戸水教授の憤激は収まらず、政府打倒まで叫ぶようになっていたという。立花隆によると、戸水は「政府を倒して批准交換を拒みさえすれば今日の危急を救うことができる」とまで主張したが、さすがにこれについていく者はいなかった。
 8月25日に休職処分を受けてからも、戸水はそれをさほど気にすることなく報知新聞の客員論説委員になって論説を書いたり、各地を講演してまわっていたという。さらに9月半ばになると、ほかにローマ法を教える者がいないというので、講師として東大での講義もつづけるようになった。
 しかし、戸村よりもショックを受けていたのは大学の教授会だった。文部大臣が直接、教授の処分をおこなうのはおかしいし、それを黙って受け入れた山川健次郎総長もまちがっているという議論が巻き起こった。
 立花隆はこう書いている。

〈教授たちは、ただちに行動した。この事件を学問の自由の挑戦と重く受けとめた憲法学教授、美濃部達吉の呼びかけで、教授会有志(小野塚喜平次、高野岩三郎、上杉慎吉、中田薫、山崎覚次郎ら)が公法研究室に集まり、政府当局へ抗議文を提出することと、『国家学会雑誌』で、この問題を取りあげ、学問の自由を擁護する論文を各人が寄稿することを申し合わせた。有志は山川総長にも処分不当を訴え抗議した。〉

 このとき、達吉は国家学会の機関誌『国家学会雑誌』の編集主任をしており、次に発行される10月号をすべて戸水問題の特集にあてることを決意した。法科大学(法学部)の教授15人全員が寄稿した。
『国家学会雑誌』10月号の冒頭「小引」(まえがき)に達吉はこう記している。
 口語に直して示してみよう。

〈戸水教授が休職の命を受けたのは、官庁事務の都合によるとされるが、実はその言論をとがめるためである。しかし、罪あることを官庁の事務にことよせてその職を奪うのは法の濫用である。〉

 文官分限令は第11条に、政府は官庁事務の都合によって、必要な場合は文官に休職を命じることができると定めていた。戸水の休職は、この文官分限令にもとづくものだったが、それは大学の教官人事は教授会の決定によってなされるという大学自治の原則に反したものであり、あきらかに法の濫用だ、というのが達吉の主張である。
 さらに、こう書いている。

〈彼の言論ははたして罪があるといえるか。はたして教授の任に背いているといえるか。教授の言論はもちろん自由であるべきだ。権力をもってこれを拘束するのはまちがっている。彼の言論にはあるいは誤っているものがあるかもしれない。それが誤っているとするなら、また言論によってその誤りを証明するだけのことである。それがたまたま政策に反しているからといって、その口をふさごうとするのは、まさに権力の濫用である。〉

 達吉は今回の政府による休職処分を糾弾した。
 この巻頭言につづき、各教授が一斉に論陣を張った。
 金井延(のぶる)は、皇室の尊厳をけがし、政体を破壊し、朝憲を紊乱(びんらん)するものは別として、それ以外の言論はいかなるものであっても、学者の言論に圧迫を加えるのは立憲政治の基本に反すると論じた。
 寺尾亨(とおる)は学者に政治を論じるなというのは、学者は不要だというのと同じであり、大学教授は文部大臣の配下ではないと主張した。岡田朝太郎も新聞紙条例または出版法に違反しないかぎり、どんな過激な政論であっても、大学教授の言論の自由は認められるべきだと主張した。ほかに小野塚喜平次、高野岩三郎、姉崎正治、中川孝太郎、河津暹、上杉慎吉、志田鉀太郞、山田三良、筧克彦、高橋作衞 が、それぞれの立場から、今回の政府の措置を批判した。
 興味深いのは、のちに大正デモクラシーの先駆者と呼ばれた小野塚喜平次の考え方である。当初、小野塚は日露開戦前に戸水と行動を共にしていたが、その過激な言論についていけず、戸水とは逆の立場をとるようになった。それでも、文部大臣による今回の措置は不当だと主張した。大学を政府の手足のように考えるのは根本的にまちがっているという。

〈旧式の政治家は、いまなお専制の迷夢のなかをさまよい、国家と政府のちがいもわきまえない。学術と国家の関係も知らない。一時の政治的便宜のために、みだりに政権によって文教を左右したがっているようだ。〉

 こうした風潮がつづけば先はいったいどうなるか。

〈仮に反動思想が奔騰(ほんとう)するのに任せ、大学教授の言論の自由が政府当局者によって規制され、学者がこれを甘受して争わず、学生がこれをおかしいと思わず、世人もまたたこれを当たり前とみるようになれば、その結果、どんな事態になるだろう。学術研究の制限、学者の性格の堕落、学生の教授に対する尊敬減退、世人の大学に対する軽侮冷笑、これらは早晩発生するにちがいない悲惨な運命である。〉

 学者の独立が保たれることは、学術進歩の必要条件であり、かつ国家発展に欠かせないことなのである。それが認められないなら、国家は必ず衰微する。そうならないよう学者は奮闘しなければならない。今回の戸水教授休職問題は、単に個人の問題ではなく、大学教授全体にかかわる問題なのであり、われわれはみずからの良心に沿って闘わなければならない。そんなふうに訴えた。
 達吉も小野塚と同じ意見だった。戸水とは見解がちがうが、言論の自由は守らなければならないという。雑誌に掲載した「権力の濫用とこれに対する反抗」という論考で、およそ次のように論じている。

〈私はあえて戸水氏の言動を弁護しようとするものではない。まして、その主張の内容に同意するものでもない。講和条件などに関しては、交戦国どうしの軍事力、経済力、列国の関係など、きわめて微妙かつ複雑なさまざまな状態を観察したのちに決定さるべきものである。私は戸水氏の主張がはたして正確で遺漏なき材料にもとづいているかどうか疑問である。〉

 達吉は戸水の見解に批判的であることを前もって表明しながらも、そうした民意がある以上、立憲政治は民意を尊重し、自由に意見を発表させる機会を与えるのが、政治の根本だと論じた。それを抑圧するのは権力の濫用である。
 さらに先般の日比谷焼き討ち事件に触れて、こう書いた。

〈日露戦争の終結にあたり、不幸にしてこのような権力の濫用例を目の当たりにしたのは、はなはだ遺憾である。政府はみずからの外交が招いた民意の反抗を抑圧するために、集会を禁止し、言論を制限し、新聞の発行停止を再開し、遂に天子の膝元において戒厳令を発令するにいたった。〉

 これまでの歴史をふり返ってみても、権力の濫用がかならず民衆側の反抗を招いたことを忘れてはならない。イギリスのマグナカルタしかり、アメリカの独立戦争しかり、フランス革命しかり。
「最近、東京市において先月5日以後の騒擾が起こったのもまた権力の濫用に対する反抗によるものである」
 そのうえで、一時の騒擾(そうじょう)なら押さえられるかもしれないが、民衆の側が、違法とはいえない穏和で力強い手段をとるようになれば、国政を円満に進行するのがむずかしい事態になるかもしれない、と政府に警告した。
 これを読んだ当局者は美濃部を嫌悪し、何らかの手段でこの反抗的な人物を懲戒すべきだという議論も起こったという。だが、達吉は昂然としていた。学問は政治から独立していると信じていたからである。

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