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議会制度の危機と三月事件──美濃部達吉遠望(60) [美濃部達吉遠望]

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 1931年(昭和6年)2月9日、美濃部達吉は「議会制度の危機」という一文をまとめた。3月号の「中央公論」に掲載された。
 首相の浜口雄幸は前年11月14日、右翼青年の銃撃を受けて重傷を負った。その入院中は、外相の幣原喜重郎が首相代理に就いた。
 幣原は貴族院議員ではあったが民政党に属していなかった。そのため、はたして首相代理に就く資格があるのかという議論も党内であった。だが、緊急事態にともなう一時的な措置としては、与野党ともやむなしという方向でとりあえず折り合いがつけられた。
 しかし、それでおとなしく野党が引き下がっていたわけではない。
2月3日、第59通常議会で、ロンドン条約に関して、幣原が「この条約はご批准になっております」と答弁した。これにたいし、政友会はその言葉尻をとらえ、これは天皇に責任を押しつけるものだ、と激しく批判する。議会は紛糾し、議場での大乱闘まで招いた末、審議が10日間停止された。
 達吉の「議会制度の危機」はそのかんに執筆されたと思われる。

〈日本の近年の議会政治の実際を観察する者は、何人(なんぴと)といえどもそれが満足すべき状態にあると断言しうるものはないであろう。いずれの方面を見ても、悲観すべき材料のみ多く、その前途に光明を望むべき材料は、不幸にしてはなはだ乏しい。〉

 そう書きだしたうえで、達吉はなぜ日本の議会政治がうまく機能しないのかを探ろうとしている。
 ひとつは選挙にカネがかかりすぎること。さらに政府による選挙干渉が常態化していること。そのため、さまざまなスキャンダルが生じる。
 議会の権威は失墜し、政府も議会を尊重しない。そのため政府は議会での審議ではなく、緊急勅令に頼りがちになる。枢密院がいまでも政治に大きな役割を果たしつづけている。
 議会での質疑は本格的な論戦とはならず、言葉尻をとらえての言いがかりに終始することが多い。国体を危うくするとか、不忠不信といった言い方が横行し、新聞がまたそれをはやしたてる。議会不要論まで登場する始末だ。
 議会制度に不信がつのっているのは日本だけではない。世界的な現象といえるだろう。とくに世界大戦後はロシアにソヴィエト政権が誕生し、イタリアでもファシスト政権が発足した。代議政治の衰運が声高く叫ばれている。
 その原因としては、(1)議員の能力不足、(2)政党優先主義にもとづく議員の独立性喪失、(3)資金集めの過程で生じる政党と資本家の癒着、(4)政党間の争いの極端化や暴力による議事妨害、さらに(5)内閣の不安定などが挙げられる。
 それでは議会制度は滅亡の運命を免れないのか、と達吉は問う。その恐れがないわけではない。すでにイタリアでは、ムッソリーニがあっという間にファシストの天下を確立してしまった。しかし、即断即決の独裁政治がいいのかといえば、「私は強くこれを否定したい」と達吉は断言する。

〈議会政治は、たとえいかなる弱点があるにせよ、なお他に見ることをえない大なる長所をもっているもので、われわれは極力これを擁護することに努めたいと思う。独裁政治は、国家非常の変に処する一時の権道としては、時に絶対に必要であることもあり、これによって議会政治におけるよりははるかに多く実際の効果を挙げうることがあるけれども、それは要するに、一時の過渡的の手段として認めうべきにとどまり、正常なる制度としては、われわれはこれを忍びえない。〉

 議会政治の長所をもう一度見直すべきだ、と達吉はいう。
 第一の長所は反対党にたいする寛容の態度だ。多数党も絶対不動の地位をもっているわけではなく、反対党もその存在の権利を主張することができる。これによって、暴力によらず、合法的な手段によって、政権の移動を実現することが可能になる。その点では、治安維持法は天下の悪法であり、立憲政治の根本精神を無視するものだと達吉は公言してはばからない。
 独裁政治には、あくまでも反対である。

〈独裁政治は、ファシストの政治にせよ、コムミュニストの政治にせよ、いずれも一国一党の政治である。ただ政府に追随し服従する者のみが認容せられて、これに反対する者の存在を許さない。人民は自己の自由なる信念によって行動することをえないで、一に政府者に盲従することを余儀なくせらるる。政府に反対する者は、すなわち国賊であり、ただに自由の行動を許されないのみならず、その生命をすらも脅かさるる。スパイの暗中飛躍と正義を無視した暴力の圧迫とは、その必然の結果である。〉

 たとえ、さまざまな欠点はあろうとも、議会政治をよしとするほかない。
 議会政治の第二の長所、それは「国の政治を公開して国民の批判の下に立たしむることにある」。議会の討論がいかに低劣なものであっても、その言論は新聞によって報道され、国民の政治思想が刺激されることはまちがいない。いかに政府の権力が強大でも、議会があれば国民環視のもとで政府の施政を批判することができるのであって、これが議会制度の価値ともいえる。批判を許さない独裁政治との大きなちがいである。
 議会政治の第三の長所。それは国民の期待にもとづいて、政治を担う者が選ばれることである。国民は直接にはただ議員を選出するだけだが、その選挙結果によって、多数を占めた政党が内閣を組織する大命を受けることになるのが立憲政治の原則である。
 こうした議会政治の長所を維持するためには、現行の選挙制度を刷新し、各政党の責任のもと、能力のある議員が選ばれるように工夫しなければならないし、それによって言論と寛容にもとづく政治を実現しなければならない、と達吉は訴えている。
 しかし、現実は達吉のそんな思いとは逆方向に進んでいた。

 まさに達吉の論考が発表されたころ、軍によるクーデター計画が持ちあがっていた。
 首謀者は陸軍参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎。中国大陸における政府の無策に業を煮やしていた。
 橋本は陸軍内に「桜会」と称する青年将校の集まりを組織した。軍事クーデターにより民政党の浜口政権を倒し、陸軍大臣の宇垣一成を首班とする内閣をつくるのが目的だった。
「三月事件」と呼ばれる。
 実際、計画は着々と進行していた。右翼思想家の大川周明も賛同し、右翼団体、大行社の清水行之助(こうのすけ)、国家社会主義者で社会民衆党の赤松克麿(かつまろ)も計画に加わることになっていた。
 計画では3月20日ごろに、社会民衆党などの組織するデモ隊が国会を包囲し、右翼団体や軍の一部が民政党や政友会などの本部、さらには首相官邸を襲う。そして、その混乱に乗じて、東京の第一師団が出動し、戒厳令を布き、浜口首相に辞任を迫る。こうして、宇垣陸相による軍事政権を樹立するというものだった。
 だが、肝心の宇垣が時期尚早として動かず、軍の内部でも反対意見があって、計画は頓挫する。
それこそ統帥権干犯というべき机上のクーデター計画だった。
 にもかかわらず、軍の内部から議会政治を否定し、軍事政権を樹立するという発想が生まれたという点で、三月事件はその後につづく日本的ファシズムへの道を開く契機となった。
 野党政友会の激しい要求にもとづいて、療養に努めていた浜口首相は無理を押して、3月10日に衆議院に出席し、翌日も貴族院で答弁に立った。その後も、野党の答弁要求はやまず、その無理がたたって、4月4日に再入院し、13日に首相を辞任する。
 後任には、元老西園寺公望の推挙により、ふたたび若槻礼次郎が首相の座についた。
 三月事件の実相は、宮中も夏まで知ることはなく、昭和天皇の耳に入れられることもなかった。

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