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紛糾する統帥権問題と浜口首相暗殺未遂事件──美濃部達吉遠望(59) [美濃部達吉遠望]

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 野党政友会が統帥権干犯という政治用語をもちだして政府を攻撃しつづける喧噪のなか、1930年(昭和5年)5月13日に第58特別議会は終了した。しかし、ロンドン海軍軍縮条約問題は、これで終結したわけではなかった。議会閉会後は国家主義団体による条約反対運動が活発になった。
 条約が発効するには批准という手続きが必要だった。明治憲法下においては、条約批准はあくまでも天皇の大権に属し、そのためには枢密院の決議を要した。反対運動が活発になったのは、枢密院にはたらきかけるためでもある。
 ロンドンから帰国した財部海相が5月19日に昭和天皇に会議の内容を報告すると、天皇は海相の労をねぎらい、早期の条約批准を督促した。天皇はあくまでもアメリカやイギリスと協調した軍縮を支持している。
 政府と海軍の関係は相変わらずぎくしゃくしていた。
 6月5日、海軍軍令部次長の末次信正は定例の進講をおこなったさい、条約批判を展開し、天皇を不愉快な思いにさせている。
 さらに6月10日、軍令部長の加藤寛治が、従来の慣例を破って、海相ではなく天皇に直接辞表を提出した。加藤には過日、海軍出身の侍従長、鈴木貫太郎に天皇への上奏をはばまれ、軍令部の反対を伝えられないままロンドン条約締結の回訓が出されたことにたいする遺憾の思いがつのっていた。
 加藤による異例の行動に宮中は色めき立つが、事態は穏便のうちに収拾され、翌日、新たな軍令部長に谷口尚真海軍大将、軍令部次長に永野修身が任命された。
 右翼団体はこうした経緯を横目にみながら、天皇側近の鈴木侍従長や牧野内大臣が軍令部の意向を握りつぶしたとして、かれらを攻撃する文書を新聞などに流しつづけた。
 そして、ロンドン条約は7月24日から枢密院での審議がはじまり、10月1日にようやく可決される。その間、政府は裏工作をおこたらず、政友会は右翼団体とともに、政府を攻撃しつづけていた。
 10月2日、ロンドン海軍軍縮条約は批准された。浜口内閣の粘り勝ちである。財部彪海相は混乱を招いた責任を取って、翌日辞任した。
 枢密院での審議がはかどらないなか、美濃部達吉は9月8日の「帝国大学新聞」に「ロンドン条約をめぐる論争」と題する評論を寄せている。
 ロンドン条約をめぐる争いは次の2点だ、と達吉はいう。
 第一、条約の調印について、あらかじめ海軍軍令部の同意を得ることが、法律上必要なのかどうか。
 第二、条約で定められた兵力量がはたして国防上において十分なものなのか。
 この2点について、達吉は軍令部の意見を斟酌(しんしゃく)し、尊重することはだいじだが、条約調印の判断はあくまでも海軍大臣を含む政府の責任にもとづくものと論じた。これは政府の編制大権と軍の統帥大権を区別する従来からの見解をくり返したものであり、兵力量の決定ももっぱら政府の責任に帰するとしたものである。
 軍部当局の意見を絶対とするのは、国家にとってはかえって危険であり、軍部の意見にしたがうなら、軍備の縮小はけっして望めない、と達吉は言いきる。まして、条約の締結にあたっては、軍が直接関与すべきではない。
 それなのに、枢密院の答弁で政府は、条約の締結にあたっては、軍令部の同意を得たなどと姑息(こそく)な答弁をし、みずからの責任を堂々と主張しなかった、と達吉は批判した。
 さらに、こう述べている。

〈思うに、ロンドン条約をめぐる種々の論争は、その根底においては、平和主義と軍国主義の争いにほかならぬ。
 明治時代のわが国策は、明白なる軍国主義であった。しかしてまた、それは国民の支援を得て、完全に成功して、日本をして世界的強国の一つたらしめたのである。
 しかしながら、世界の大勢は一変した。今日においてなお軍国主義を維持することは、国家を危殆におとしいれる恐れあるものである。この形勢の推移を察せず、今もなお軍国主義をもって国を守るゆえんであるとし、兵権をもって政権の上に立たしめんと努めるのは、国家のために危うきことこの上もない。〉

 ロンドン条約をめぐる争いは、達吉にいわせれば平和主義と軍国主義の戦いにほかならなかった。
軍がすでに調印された条約の批准をあくまでも阻みつづけようとする姿勢に達吉は危険な兆候を感じていた。
 しかし、ロンドン海軍条約は、浜口内閣のやや姑息とはいえ揺るぎない姿勢によって、枢密院の審議をへて、ようやく批准されるにいたったのである。
 だが、その過程で、統帥権の問題、すなわち軍の兵権が大きく浮上したことはまちがいなかった。
 それから3年後の1933年(昭和8年)10月になって、達吉は「帝国大学新聞」に「いわゆる統帥権干犯問題」なる一文を寄せ、ロンドン海軍軍縮条約をめぐる論戦こそが、日本の大きな分かれ道だったと回顧することになる。
 1931年には満洲事変、1932年には五・一五事件が発生していた。
 犬養毅首相が暗殺されて以来、日本の政党政治は幕を閉じていたが、それでもまだ政党そのものは残っており、政友会の代議士のなかには相変わらず3年前のロンドン海軍軍縮条約は統帥権の干犯だったと言いつのっる者がいた。
 統帥権干犯という旗を振ったのは、1932年末に急死した政友会の森恪(もりつとむ)で、軍部と結びつき、中国侵出を推し進めていた。
 これにたいし、達吉は天皇の威光を背負った統帥権干犯という用語そのものを批判した。

〈統帥権とは申すまでもなく、天皇陛下が大元帥として陸海軍を統帥したまう大権である。もし他の何人(なんぴと)かが、陛下のご委任を受けて、ほしいままに陛下の陸海軍を指揮し統帥しようと企てたとすれば、それこそ統帥権の干犯であって、わが国体の尊厳を冒瀆するものであるが、その以外に統帥権の干犯というような不礼この上もない事柄のありうるはずはない。〉

 ロンドン海軍条約締結のさい、反対論者は政府が海軍軍令部長の同意を得ないまま条約を締結したことが「統帥権干犯」にあたると主張した。だが、条約の締結はあくまでも政府の権限に属する。海軍大臣と軍令部長の意見が完全に一致しなかったのは遺憾なことだったかもしれないが、それを統帥権の干犯だと主張するのはいかがなものか。
 達吉にいわせれば、それを統帥権干犯と大上段に批判するのは、軍令部長の権限と天皇の大権を混同するものである。それは、あたかも統帥権を軍令部長の権限と同一視するもので、それこそ統帥権の干犯にあたる。

〈統帥権の干犯などということは、国民の容易に口にすべき事柄ではない。もし真にそんなことが起こったとすれば、それこそ国体の破壊であって、陛下の陸海軍のほかに別個の陸海軍がこれと対立することになるのである。〉

 達吉の懸念はすでに現実のものとなりつつある。独立性を主張する軍にたいし、政府のコントロールがきかなくなろうとしていた。さらに軍内部の分裂はまもなく1936年(昭和11年)の二・二六事件を事件を引き起こすことになる。その後、政府は実質上の軍政府へと変貌していく。
 そんな事態を招かないよう、達吉は最後まで訴える。

〈政府が軍部の権限にまで立ちいってこれを侵犯することが避けなければならぬと同様に、軍部が政府の権限に立ちいってこれを侵犯することも、また極力これを避けねばならぬ。……もし国の外交も財政も教育も産業も軍部の意見によって指導せらるるようになったならば、それはただに聖旨にもとることの甚だしいのみならず国家の運命を危うくし国民の生活を不安に陥いるるものである。〉

 こうして統帥権干犯という用語が独り歩きするようになる前、ひとつのテロ事件が発生する。ロンドン海軍軍縮条約が批准されて、ひと月ほどたった1930年(昭和5年)11月14日のことである。
 浜口首相は東京駅の第4ホームから、午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗ろうとしていた。岡山県でおこなわれる陸軍大演習の参観に向かおうとしていたのだ。そのとき至近距離から銃撃された。犯人は右翼団体、愛国社に属する24歳の青年、佐郷屋留雄(さごうやとめお)だった。
 浜口は腹部を撃たれたが、駅長室に運びこまれ、駆けつけた東大医学部教授、塩田広重によって輸血をほどこされた。その後、東大病院に搬送され、手術の末、一命を取り留めたものの、臨時首相として一時、外相の幣原喜重郎を指名したあと、首相に復帰したものの翌年4月に辞任。その無理がたたって翌年8月26日に死亡した。

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