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斎藤実内閣──美濃部達吉遠望(65) [美濃部達吉遠望]

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 五・一五事件で凶弾に倒れた犬養毅に替わる首相をだれにするのか。その選定は難航した。犬養の後継者として、政友会は鈴木喜三郎を新総裁とし、憲政の常道として自党に大命が降下するのに備えていた。
 これにたいし、軍部は政党内閣では陸軍大臣に就任する者はあるまいという態度を示し、政党内閣の存続にあくまでも反対していた。
 貴族院議員の近衛文麿は、陸軍の意向を踏まえて、木戸幸一内大臣秘書官長に次期首相として平沼騏一郎(きいちろう)の名を挙げ、興津の西園寺公望にもそう伝えている。平沼は当時枢密院副議長で、国粋主義者として知られていた。
 木戸自身が推していたのは斎藤実(まこと)である。斎藤は穏健派の海軍長老で、ロンドン海軍軍縮条約にも賛成しており、前年まで朝鮮総督を務めていた。牧野伸顕(のぶあき)内大臣もおおむね斎藤首相案に傾いている。
 5月19日に西園寺は別邸のある静岡県興津から上京し、いよいよ次期首相選定の運びとなる。当初、西園寺は政友会の鈴木喜三郎を首相にと考えていたが、軍部の反対が強いのを知って断念した。
 西園寺が駿河台の邸宅にはいると、侍従長の鈴木貫太郎がやってきて、昭和天皇の意向として、首相は人格の立派な者、ファッショに近い者は「絶対に不可」、憲法を擁護すること、外交は国際平和を基礎とすること、事務官と政務官の区別を明らかにし、綱紀の振粛を実行することなどを伝えた。これにより、平沼騏一郎の目はなくなった。
 5月20日から22日にかけ、西園寺は政官界や軍の要人と会い、22日午後、天皇に拝謁、次期首相に斎藤実を推薦した。こうして斎藤に組閣の大命が下り、5月26日に斎藤内閣が発足する。
 斎藤内閣では、政友会から高橋是清(蔵相、留任)、鳩山一郎(文相、留任)、三土忠造(鉄道相)、民政党から山本達雄(内相)、永井柳太郎(拓務相)、実業界から貴族院議員の中島久万吉(商工相)、軍から荒木貞夫(陸相、留任)と岡田啓介(海相)、そのほか官僚出身者が入閣し、挙国一致内閣が形成された。外相は当初、斎藤首相が兼任したが、まもなく満鉄総裁の内田康哉(こうさい)が任命される。
 穏健な事なかれ主義の内閣だったといえる。だが、時代はずるずると、なるがままに動いていく。
 美濃部達吉は斎藤内閣の成立をどうみていたのだろう。
「帝国大学新聞」に「斎藤内閣の成立によって、我が国の政党政治は、少なくとも一時はその通常の軌道を脱することになった」と書いている。
 政党政治が一時的に断絶されたことを達吉も認識していた。それでも、立憲政治を存続すべきだという思いは強かった。
 立憲政治はそもそも政党政治と密接に結びついており、政党政治の否定は立憲政治の否定に帰するほかないという。政党政治がすぐにでも復活することを願っていた。
 戦争のときや国家非常の危機においては、政党の争いを一時中止して、独裁専制の政治がおこなわれるのもやむをえないかもしれない。しかし、それが認められるのは、よく民心を導く大政治家が現出する場合においてのみである。
 だが、いつもそうした政治家が現れるとはかぎらない。独裁政治はたいてい武力による国民の抑圧に帰着する場合が多い、と達吉は書く。
 ただし、政党政治によって、その都度、国の基本方針が揺らぐことも懸念している。政党政治の欠陥を補うには、国防、外交、財政、経済などの根本問題については超党派的な委員会のようなものをつくって国家方針を定め、内閣はそれにしたがって政治をおこなうようにするべきではないかと提案している。
 達吉は政治の主導権争いに終始する現在の政党政治に替わって、「いずれの党派にも属さない円満温厚の政治家をもってしられている斎藤子爵」に内閣組織の大命が下ったのは、現時点においては、おそらくもっとも穏健な方策だったとみていた。単一政党内閣も軍事政権も適当ではないとすれば、斎藤内閣の成立は妥当なところであり、歓迎すべきものだとも述べている。
「しかしながら、内閣がはたしてよくそれだけの[現在の諸問題を解決するだけの]実力を具備しているや否やといえば、われわれは安んじてこれを期待するだけの信頼を有しえないことを遺憾とする」といわざるをえないところに、達吉の不安と迷いが宿っていた。

〈しかし、もしこの内閣が失敗に終わるようなことがあるとすれば、国民はいっそう重大な政治上の危機に当面せねばならぬ。……内閣がにわか作りの挙国一致内閣であり、その基礎の強固さを欠いているのは、はなはだ遺憾であるが、しかしわれわれは出来るだけ内閣の長く継続することを希望し、内閣の全力を挙げて国利民福のために尽瘁(じんすい)せらるることに依頼するほかはない。〉

 達吉は祈るような気持ちで、この挙国一致内閣による政治運営がうまくいくことを願っていた。さらに、できるだけ早く政党内閣による立憲政治が回復することを期待していたといえるだろう。だが、犬養内閣の崩壊後、日本では戦後にいたるまで、15年にわたって政党政治が復活することはなかったのである。
 8月23日から9月5日にかけ、第63臨時議会が開かれた。
 農村の救済や不況の打開が大きな議題となっていた。そのために、さまざまな措置が講じられたが、多数党である政友会がしばしば政府を窮地に陥れ、農村負債整理組合法案が不成立に終わったことは残念だった。「非常時であることの自覚を有する以上、政権争奪の念をなげうち、協力一致ひたすら国難の匡救(きょうきゅう)に焦慮するのほかはない」と、政友会の姿勢を批判している。
 しかし、この議会では経済対策もさることながら、政友会の森恪(つとむ)が満州国の承認について政府に質問したのにたいし、外相の内田康哉が「この問題のためにはいわゆる挙国一致、国を焦土にしても、この主張を通すことにおいては、一歩も譲らない」と答弁したことが周囲を驚かせていた。あとから考えると、この焦土演説は不気味な予言となった。
 9月15日、日本政府は日満議定書にもとづき、満州国を正式に承認した。
 国際連盟はすでに現地にイギリスのリットン伯爵を団長とする調査団を送り、満州事変に関する調査をおこなっていた。その調査報告書は10月に出ることになっていた。日本はその報告書が出る前に満州国を正式承認したのである。
 リットン報告は満州における日本の権益を認めつつも、満州を国際管理下に置くことを提言していた。
 ジュネーブの国際連盟理事会では、リットン報告を受けて、12月2日から満州問題の審議が再開された。日本は全権代表として、元外交官で満鉄理事を務めた政友会代議士、松岡洋右(ようすけ)を送りこんだ。
 日本は満州国について、いっさいの妥協に応じない姿勢を示した。松岡は英語で1時間20分にわたり、「十字架上の日本」と称される大演説をおこない、日本の立場を擁護した。
 1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟総会で満州問題に関する勧告案が日本を除く圧倒的多数で可決されると、ただちに松岡は退場した。そして、3月28日、日本政府は国際連盟からの脱退を正式に通告することになる。
 そのころ美濃部達吉は、あくまでも立憲政治の存続にこだわりつづけていた。

〈立憲政治と独裁政治とは絶対に相両立しえない思想である。あるいは国家の存亡危急に際して憲法の中止もやむをえないというような極端な説があるかもしれぬが、独裁政治によって果たして国家の危急を救うことができるかどうかは、極めて不確実な問題で、独裁政治が成功しうるためには、第一にはその主脳者たるべき威望ある大政治家を得ることが必要であり、第二には時の国情が独裁政治に適していることが必要である。こういう特別な事情のある場合でなくして、しいて独裁政治を行おうとすれば、そこにはただ混乱あるのみで、それは国家を救う所以ではなく、かえって国家を破壊に導く所以である。〉

 達吉は憲法停止などという過激思想にもとづいて、ファッショ的な独裁政権が樹立されることを懸念していた。とはいえ、立憲政治にも政党内閣と現在のような非政党内閣があることを認める境地になっていた。非政党内閣では、議会での多数派政党とは関係なく、政党以外から事務に練達し、国勢を担任するだけの能力ある者によって内閣がつくられることになるだろう。

〈もし今日の時局が真に国難に面しているとすれば、政党はすべからく政権争奪の念を断ち、内閣を助け励まし、協力して国難を救うの途を講じなければならぬ。かくして始めて政治の安定があり、政治の安定があって始めて国策を確立しうるであろう。〉

 達吉自身は立憲政治を維持しながら現在のような挙国一致内閣がつづくことを望むようになっていた。満州国の独立を擁護する日本の立場を国際連盟も認めるのではないかと思っていた。
 だが、それは甘かった。
 斎藤内閣は穏健とはいえ、達吉も危惧するように「統一性を欠いた寄り合い内閣」にほかならなかった。そして、軍部はそうした「寄り合い内閣」を尻目に拡張路線を突っ走るのである。

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