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天皇機関説事件(5)──美濃部達吉遠望(76) [美濃部達吉遠望]

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 4月9日の著書発禁通知を受けて、新聞各社は竹早町の美濃部宅に押しかけ、達吉の談話をとっている。そのころ主要新聞社の記者は、まだ達吉に同情的な姿勢を示していた。
 10日の「東京日日新聞」によると、発禁通知の感想を聞かれた達吉は、こう答えている。

〈別に感想はない。法律の適用によって行われる制裁は甘んじてうけるよりほかに途はないのだ。
発禁になった逐条憲法精義は12版、憲法撮要は5版を重ねている。いずれも十数年前から発刊しているのに、今日になって何故制裁をうけねばならぬのだろう。あの著書が法令にふれるものなら、今日までみのがして来た歴代の内務大臣には当然責任があるだろう。また自分の学説が悪いというのなら、昨年まで長い間大学教授として憲法講座をうけもった自分を処分しなかった歴代の大学総長や文部大臣にも必然的に責任が生ずるだろう。ここに不可解な点があるのだ。〉

 そんなふうに話しながら、達吉の口調は次第に昂奮を帯びてくる。伊藤博文の『憲法義解』も国家法人説にもとづいており、そこにも「機関」の文字が使われていると指摘したあと、無念の思いがあふれでた。

〈機関説が悪いから自分の著書を発禁処分に付するなら、伊藤公の憲法義解は一体どうなるのだろう。自分の思想なり学説を文字の上に表現するのに不穏当の字句があるのなら改訂するに吝(やぶさか)ではないが学説は断じて曲げるわけにはゆかぬ。この意味はこの間検事局でも縷々(るる)述べておいたが、いよいよ発禁処分になった以上は適当の機会に内務当局にその理由を尋ねてみたいと思っている。著書が発禁になろうとも貴族院議員やその他の栄職を進んで辞する考えはない。しかし商大や早稲田、中央大学などに有する講座は自然辞退するとおなじような結果になるかも知れぬ。それらの講座は自分もかねてから適当の機会に辞めたいと希望していたから、大して問題ではない。身辺の危険さえなければ、転地して静養したいとも思っているが、それも意にまかせぬでネ。憂鬱な日がつづきますネ。〉

 達吉はあらためて自分の学説を曲げないことを強調しながらも、東京商大(現一橋大)や早稲田大学、中央大学の講師は辞任せざるをえないだろうと話している。
 10日、岡田首相は美濃部の著書発禁処分を昭和天皇に報告した。岡田自身はこれによって天皇機関説問題が収束することを期待していた。
 美濃部の著書発禁処分を受けて、文部大臣は全国の教育機関に国体明徴の訓令を発した。いわく「我が尊厳なる国体の本義を明徴にし、之(これ)に基づき教育の刷新と振作とを図り、以(もっ)て民心の嚮(むか)う所を明(あきらか)にするは文教において喫緊の要務とする所なり」。
 空疎で持って回った漢文調の言い回しは、要するに、学校で天皇機関説を教えてはならないという指示である。
 この訓令にもとづき、多くの大学が今年度は憲法講座を休講とするか、講師を変更するかの措置をとった。高等文官試験の憲法学科委員も大幅に入れ替えられた。
 こうした一連の措置により、事態は収まるかにみえた。
 政府の対応への批判がなかったわけではない。
たとえば「東京朝日新聞」は4月12日の社説で、「政府は今回の事件によって、憲法学説の国定を試みた」といえるが、その根拠はいっこうに明らかではなく、その対策は成り行きの一時しのぎにとどまっていると論じた。
 東大教授の河合栄治郎は、4月15日付の「帝国大学新聞」で、「美濃部問題」を取りあげ、この問題は憲法学説にとどまらず、「一般学徒にとって看過すべからざる普遍性の課題を提起している」と論じた。
 河合は美濃部問題には、科学と信仰の衝突、法律学説の取り扱いといった課題に加え、そもそも美濃部学説が正当に理解されたかどうか、さらには美濃部学説の処置が適当かどうか、この事件の扱いがはたして賢明だったかという課題があるとして、一連の政治的な動きを批判した。天皇機関説をろくに理解しようともせず、それを頭から国体違反と決めつけ、威圧と強制によって学説を駆逐しようとする姿勢に強い懸念を示したのである。
 だが、美濃部を擁護しようとする声は広がらない。むしろ、政府の対応を軟弱とみる軍部や政党の強硬派、右翼団体が、さらに美濃部批判の勢いを強めていった。
 帝国在郷軍人会はすでに天皇機関説排撃声明を陸海軍大臣に提出していたが、4月15日に「大日本帝国憲法に関する見解」と題するパンフレットを発行し、各方面に広く配布した。そこには、天皇機関説が国体を傷つけるものであって、「吾人(ごじん)は、速(すみや)かに斯(か)かる迷妄の説を一掃するのみならず、其(その)説が由来する所の背後の思想を是正するの要を痛切に感ずる次第である」と記されていた。
 昭和天皇は在郷軍人会のパンフを読み、4月24日に侍従武官長の本庄繁を呼んで、このようなパンフを出すのは在郷軍人として、やりすぎではないかと述べている。
 本庄繁の日記は、このときの天皇の発言をこう記録する。
「軍部にては機関説を排撃しつつ、而(しか)も此(かく)の如き、自分の意思に悖(もと)る事を勝手に為すは即ち、朕(ちん)を機関説扱と為すものにあらざるなき乎(か)との仰せあり」
 軍部は機関説を排撃して、自分の意に沿わない勝手な活動をおこなっている。それこそ天皇である自分を機関扱いしているのではないか、と昭和天皇は皮肉な言い方で軍の動きを批評したのである。
 4月8日にも、天皇は天皇機関説を排撃する陸軍の真崎教育総監の訓示にふれ、機関説は国体に反するとは考えられないという意見をもらしていた。そのころ天皇は来日した満州国皇帝溥儀の接遇で多忙をきわめていたが、その後、本庄が真崎と会い、訓示について説明を受け、それを天皇に報告したときも「天皇主権説が紙上の主権説にあらざれば可ならん」と「半ば諧謔的に」述べたという(4月19日)。
 軍のいう天皇主権説が紙上の主権説でなければよいのだが、という感想は、軍が機関説の排撃を通じて、天皇を単なるお飾りに祭りあげようとしているのではないかという懸念を示したものといってよい。
 さらに天皇は陸軍の憲法解釈に関するパンフレットを読み、本庄にその感想をことことこまかに述べている。たとえば、国家主権説をデモクラシーと非難するのはおかしいし、今日何もかもが個人主義になっているという批判もあたらない。とりわけ天皇機関説を批判するにあたって一木喜徳郎(枢密院議長)の名前を挙げているのは問題がある。それによって、意外の事件を惹起(じゃっき)する恐れがある。本庄はこの「御説示」にたいし恐懼(きょうく)し、とりわけ一木の件は陸軍当局に注意したと記している。
 昭和天皇の意向としては、これ以上、軍が天皇機関説を排撃することをやめさせたかったにちがいない。しかし、そうした天皇の個人的意向は恐懼して受けとめられるだけで、受け入れられることはない。そのこと自体、天皇が国家の機関であることを示していた。天皇はのちに、天皇の意に従わないくせに天皇主権というのは矛盾ではないかという感想ももらしている。
 昭和天皇が懸念をいだいたにもかかわらず、天皇機関説排撃の声はやむことがなかった。
「維新」「国策」「明倫」といった右翼系雑誌は、天皇機関説排撃ののろしを高く上げ、扇動的な文言を流しつづけていた。いわく、天皇を機関とする言い方は日本国民の情緒に空寒い感じを与える、天皇機関説は天皇を会社の社長扱いするものだ、天皇機関説はあたかも天皇が国家の道具であり、国民に使役されるかのような印象を与える、天皇機関説は拝外主義者、亡国主義者の妄説だ、美濃部の思想は個人主義と自由主義の謬説にもとづいている、などなど。
 雑誌「維新」は天皇機関説批判特集を組んだ。そのなかで五百木(いおき)良三は、美濃部一派の学説は「浅劣無価値の愚論」だが、このような愚論がまかり通ってきたこと自体が重大な問題だと論じ、菊池武夫は、こうした「帝国の根本観念を破壊する学説」を注入してきたのは「赦(ゆる)すべからざる叛逆」だと決めつけた。三室戸敬光(みむろと・たかみつ)は美濃部の司法処分を求め、井田磐楠(いだ・いわくす)も美濃部の貴族院議員辞職を勧告した。江藤源九郎も天皇機関説は西洋の革命思想に根ざしており、共産主義と何ら変わりないと吠え立てた。
 若槻礼次郎に代わり町田忠治が総裁となった民政党が天皇機関説問題に消極的だったのにたいし、議会で多数議席をもつものの野党となった政友会は、鈴木喜三郎総裁のもと積極的に機関説排撃の音頭を取った。
 政友会は民政党の同意を得られないまま5月31日、単独で岡田首相に「国体明徴の声明書」を手渡した。
 それは第67議会で提出された「国体明徴に関する決議」を踏まえて、政府があいまいな態度をやめ、断乎として天皇機関説排撃の方針を表明し、国民を納得させるべきだ、とあらためて主張するものだった。
 岡田自身は本音としては、美濃部の著作を発禁に処し、文部大臣が全国の教育機関に訓令を発した段階で、あとは事態が次第に収束していくことを期待していたといえるだろう。しかし、いったんついた天皇機関説排撃の火の手はなかなか収まらない。
 山本禎二郎(ていじろう)をはじめとする政友会の国体明徴対策実行委員会のメンバーは、6月末に岡田首相のもとを訪れ、天皇機関説は国体の本義に反するという声明を出せと迫った。だが、岡田は煮え切らない態度を示し、一木枢密院議長にたいしても何か処置を求めるつもりはないと答えた。
 すると、7月にはいって、同委員会の竹内友治郎、猪野毛利栄(いのけ・としえ)、宮沢裕などの政友会委員は、小原法相や松田文相、後藤内相、大角海相、林陸相のもとを連日次々と訪ね、天皇機関説の排除と美濃部の処分を迫るのだった。
 いったん動きはじめた天皇機関説排撃の政治の勢いは、もはやとまらない。いきつくところまでいくほかなくなっている。

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