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天皇機関説事件(6)──美濃部達吉遠望(77) [美濃部達吉遠望]

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 天皇機関説排撃の活動をつづけていたのは右翼言論界や政友会だけではない。もっとも熱心だったのは陸軍である。
『昭和天皇実録』には、こんな記録がある。

〈(7月)9日火曜日 朝の天機奉伺(てんきほうし)の際、侍従武官長本庄繁より、天皇機関説の論議につき、陸軍としては建軍の本義に悖(もと)るため放任しがたい旨、及び枢密院議長一木(いつき)喜徳郎ほか個人に累の及ぶことではないと考える旨の言上を受けられる。午後、侍従武官長をお召しになり、天皇機関説を明確な理由なく悪いとする時には必ず一木等にまで波及する嫌いがある故、陸軍等において声明をなす場合には、余程研究した上で注意した用語によるべきとのお考えを述べられる。〉

 陸軍は何としても天皇機関説を排除するつもりだった。天皇にはそれを止める権限はない。ただ、陸軍による排撃が一木喜徳郎をはじめとして宮中側近におよぶことを恐れていた。
 この日、衆議院議員の江藤源九郎は内大臣府に国体明徴及び皇威の振張に関する請願書を提出した。ちなみに江藤源九郎は江藤新平の甥(おい)にあたる。
 7月16日、陸軍では教育総監の真崎甚三郎が更迭され、渡辺錠太郎(じょうたろう)が後任となった。
陸軍内では林銑十郎(せんじゅうろう)陸相、永田鉄山陸軍省軍務局長を代表とする「統制派」と荒木貞夫前陸相、真崎甚三郎教育総監を代表とする「皇道派」の対立が激しくなっていた。
 真崎更迭の背景には、陸軍首脳部が真崎の過激な機関説排撃活動を抑えようとした向きもある。前年11月の青年将校によるクーデター未遂計画「十一月事件(士官学校)」の責任をとらせたという面もあったかもしれない。
 いずれにせよ、真崎の更迭により、陸軍内の皇道派と統制派の対立はより深まっていた。
 それでも陸軍全体として、天皇機関説排撃の総意は変わらない。
 7月30日、林陸相は岡田首相と会見し、政府は機関説を一掃する曖昧模糊(あいまいもこ)ならざる声明を出すべきだと、全陸軍の総意を伝えた。
 政友会は7月31日に議員総会を開き、次の決議を採択した。
「現内閣は天皇機関説排撃の誠意なし。国家のため深憂に堪えず。わが党は国民と共にこれが解決に邁進す」
 こうして、政府はついに何らかの声明を出さざるを得ないところまで追いつめられていく。
 8月3日、政府は次のような声明を発表した。いわゆる国体明徴声明である。

〈恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、我が国体は天孫降臨の際下し賜える御神勅に依(よ)り昭示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給い、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)は天地と共に窮(きわまり)なし。されば憲法発布の御上諭に「国家統治の大権は朕(ちん)が之を祖宗に承けて之を子孫に伝うる所なり」と宣い、憲法第一条には「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と明示し給う。即ち大日本帝国統治の大権は厳として天皇に存すること明(あきらか)なり。若(も)し夫(そ)れ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為(ため)の機関なりと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり。
近時憲法学説を繞(めぐ)り国体の本義に関聯(かんれん)して兎角(とかく)の論議を見るに至れるは寔(まこと)に遺憾に堪えず。政府は愈々(いよいよ)国体の明徴に力を効(つく)し其の精華を発揚せんことを期す。乃(すなわ)ち茲(ここ)に意のある所を述べて広く各方面の協力を希望す。〉

 おごそかな政治劇が演じられている。
 天皇の神聖さと天皇が帝国統治の大権を有することが強調される。さらに天皇の統治権を否定し、天皇をただの機関とみなす天皇機関説はまちがっていることが述べられる。そして、政府は日本が天皇の国であることを明らかにし、ますます国威の発揚に努めることを宣言して、声明としている。公式に天皇機関説を否定することが声明の主要目的だった。
 後世からみれば、この声明は、開明的な立憲君主制から軍事的な天皇親政ファシズム体制への移行を画するものだったということができる。しかし、当時はその移行はまだ荘重であいまいな文飾のなかに包まれていたのである。
 国体明徴声明が発表されたあと、記者団にたいし、岡田首相はこの声明を着々と実行していきたいと述べたうえで、金森法制局長官は更迭しないし、まして一木枢密院議長は長年宮中に奉仕された人だから、この問題が氏に影響を及ぼすことはないと語った。とりわけ一木に関しては、昭和天皇の意向を反映した発言だった。
 政府の国体明徴声明により、天皇機関説は公式に否定され、これにより半年以上にわたる騒ぎは完全に収まったかにみえた。陸海相も一応、満足の姿勢を示した。政友会の山本悌二郎(ていじろう)も声明は第一歩で、これから監視を強めなければならないと語りつつも、とりあえず政府の声明を評価した。
 しかし、右翼団体や軍の青年将校、在郷軍人会の一部、政友会のタカ派はこれだけでは収まらない。かれらは機関説の絶滅を叫び、かつて機関説を論じた一木枢密院議長と金森法制局長官の処断を求め、早急に美濃部自身の司法処分を実施せよと迫った。なかには美濃部を極刑、すなわち死刑にせよと主張する者もいたくらいである。
 国体明徴声明から4日後の8月7日、茅ヶ崎の別荘に滞在していた達吉は、「東京日日新聞」の記者に現在の心境を語っている。
 翌日、掲載された記事によると、こんなふうに語ったらしい。

〈私はこれまで三十何年かというもの学問生活をして来た。ただひたすらに学問に精進してきた。その結果として私の学問上の信念を書いたものが万一刑に触れるということであれば、いかにも恐懼(きょうく)の至りで甘んじて刑に服するのほかはありません。私はただ今でも自分の説は正しいと思っているので、それが罪を構成しようとは全然考えていません。〉

 あくまでも自分の説は正しいと述べている。達吉は4月6日に検事局の取り調べを受けたものの、それから4カ月たっても、司法処分はまだ決まっていなかった。その意味でも、憂鬱な日々がつづいていた。しかし、覚悟はしていた。
 記事によると、達吉はさらにこう語っている。

〈これまでの学問的生活の結果が一刑事被告人として終るのは感慨無量です。しかし、今後も学問を生命とすることは変りません。貴族院議員を辞するように各方面から勧められていますが、私は正しいと思っているから辞するつもりはありません。しかし体刑を受ければ当然免ぜられます。〉

 達吉は自分は正しいから、みずから貴族院議員を辞するつもりはないと語っている。

〈海も松がよみがえりました。海辺へ行こうにも護衛つきでは出かける気になりません。ただジッとしています。ジッとして何もしない。何もいわない。いいたくない。〉

 せっかく夏の茅ヶ崎の別荘にいるのに、海辺を散歩することもできない。家にじっとしていると、憂鬱な気分がつのってくる。
 それでも、菊池武夫の攻撃にたいして、議会で異例の発言をしたのは正しかったと思っている。

〈議会での一身上の弁明がこうした波瀾(はらん)を生んだとしても、やっぱり私はあの時言ってよかったと思っています。私は誰かに相談すればキッと留められると思いましたから、全く単独の意思でやりました。発言を通告した時、事務局の人は留めたのですが、学匪(がくひ)と罵られては起たないわけには行きませんでした。外国なら決闘するところです。〉

 議会で発言したあと、達吉の身辺は暴風に見舞われたが、それでも沈黙を選ばなかったのは、学者としての自負があったからだ。達吉はあくまでも自分の説が正しいと思っている。日本は絶対君主の国ではない。近代の立憲君主国だからこそ、政府もあり、議会もあり、国民の権利も守られているのだ。たとえ満州事変後の戦時だとしても、天皇の名のもとに国全体を軍が統制することをを容認するわけにはいかない。
 すでに政府が国体明徴声明を出したというのに、8月末になっても、天皇機関説撃滅運動の余震はつづいている。
 帝国在郷軍人会は8月27日に東京・九段の軍人会館で全国大会を開き、「天皇の尊厳を冒瀆(ぼうとく)し奉り、統帥の大権を紊(みだ)り、我が国体を破壊せんとする」天皇機関説の排撃する決意を宣明した。
 政友会の国体明徴委員会のメンバーも、一木枢密院議長や金森法制局長官の辞任を求めて、執拗な活動をつづけていた。
 機関説排撃の動きが収まらないなか、4月に美濃部を取り調べた検察当局は、依然として結論をだせないままでいたが、あらためて達吉の「最近の心境」を聴くことにした。
 達吉は9月14日にふたたび検事の取り調べを受けることになった。

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