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憲法史研究会に参加──美濃部達吉遠望(86) [美濃部達吉遠望]

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 1940年(昭和15年)5月、ヨーロッパ戦線に大転換が訪れる。
 前年9月、ドイツはポーランドに侵攻し、秘密協定によってソ連とともにポーランドを分割した。これにたいし、イギリスとフランス、さらにベルギーとオランダが連合軍を組み、ドイツに宣戦を布告した。
1940年4月になって、ドイツはデンマークとノルウェーへの侵攻を開始する。だが、不思議なことに、西部戦線ではひたすらにらみあいがつづき、戦闘はいっこうにはじまる気配がなかった。
 5月になって、その均衡が一挙に破れる。ドイツ軍は5月10日、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーに侵攻、ルクセンブルクは占領され、オランダとベルギーはあっという間に降伏した。ドイツ軍はフランスの築いた要塞マジノラインを迂回して、アルデンヌの森を突破、6月14日にパリを落とした。5月末、イギリスとフランスの連合軍はドーバー海峡まで追い詰められ、イギリス軍はかろうじてダンケルクから脱出した。6月22日、フランスはドイツに降伏した。傀儡のヴィシー政権がつくられる。
 日本では、米内光政政権がヨーロッパの戦争への不介入を宣言し、ドイツとの同盟条約を渋っていた。それにたいし軍からの批判が強まる。電撃作戦によるドイツの劇的な勝利をみて、陸軍は倒閣に踏み切った。7月16日、陸軍大臣の畑俊六は内閣に辞表を提出、後任の陸軍大臣を得られないまま、米内政権は倒壊した。
 そのあと、ふたたび首相の座に就くのが近衛文麿である。近衛は旧来の政党を排し、左右の革新勢力や内務官僚をまとめ、新たな政治組織をつくることを宣言していた。いわゆる近衛新体制運動である。それに軍部が共鳴した。
 早くも7月6日には社会大衆党が解党を宣言、それにつづいて政友会、国民同盟、民政党も次々と解党を宣言、日本では8月15日に政党がなくなる異様な事態となった。
 7月22日の第2次近衛内閣発足を前に、近衛は陸相になる東条英機、外相になる松岡洋右、海相に留任する吉田善吾と荻窪の荻外荘(てきがいそう)で会見し、きたる内閣の基本方針を定めた。それは日独伊枢軸の強化、対ソ不可侵条約の締結、東南アジア植民地の東亜新秩序への組み入れ、アメリカとの衝突回避というものだ。
 7月26日の閣議では、「基本国策要綱」として、「国内体制の刷新」と「強力な新政治体制の確立」が定められ、それが10月12日の大政翼賛会、11月23日の大日本産業報国会の結成へとつながっていく。
 いっぽう大本営政府連絡会議は7月27日に「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ドイツ、イタリアとの政治的結束を強め、日ソ国交を飛躍的に調整するとともに、支那事変の早期解決をはかり、仏印(フランス領インドシナ)、蘭印(オランダ領東インド[現インドネシア])など南方地域に進出するというものだ。
 9月2日、日本はヴィシー政権了解のもと、中国国境を越えて北部仏印(ベトナム北部)に軍を進めた。だが、在留フランス軍から意外な抵抗を受け、9月25日に武力進駐を強行する。
 9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟条約が調印される。この条約には国内から多くの疑問が出されていたが、松岡洋右外相は日本が毅然たる態度をとることが、むしろアメリカを冷静な態度に立ち戻らせるとの強気な認識を示し、条約締結に突っ走った。
 いっぽう、中国との和平交渉はうまく進展しない。南京では汪兆銘の国民政府が誕生し、日本は汪政権と日華基本条約を結んだものの、蒋介石の重慶政府とは戦争状態がつづいていた。
 11月10日には、宮城前広場で、紀元二千六百年式典が催され、帝国全土はにぎやかな奉祝気分と観光気分にわきたった。昭和15年は神武天皇が橿原で即位した年から2600年目にあたるとされていた。紀元二千六百年は帝国の前途を祝し、国民の一体感を盛り上げる一大行事となった。
 1941年(昭和16年)にはいると、社会全体への統制がますます厳しくなった。国家総動員法、治安維持法が改正強化され、世の中の雰囲気はますます息苦しくなっていく。言論が規制され、自由にものが言えなくなる。「贅沢は敵だ」という標語がまかり通るようになった。
 3月から4月にかけ、松岡外相はドイツ、イタリアを訪問する。ドイツでは大歓迎され、ヒトラーとも二度会見した。ヒトラーは松岡に日本が早くイギリスの牙城シンガポールを攻撃するよう勧めた。その帰路、松岡はモスクワに立ち寄り、スターリン首相やモロトフ外相と会って、電撃的に日ソ中立条約に調印した。このとき、松岡は日独伊ソが連合すれば、アメリカに強い姿勢を示すことができると同時に、重慶政府との和平を進めやすくなると思っていた。

 そのころ、美濃部達吉は憲法史研究会に出席するようになっている。自由な言論活動を封じられているため、執筆活動はほぼ『公法判例評釈』の仕事に限られている。大審院での公法判例を評釈するという地味な仕事だが、戦時行政の実態を記録する貴重な作業にはちがいなかった。
 これにたいし、達吉が顔を出すようになった憲法史研究会は、この年1月に発足したばかりで、その会長兼パトロンとなったのが、伊東巳代治(みよじ)の孫で37歳の伊東治正(はるまさ)伯爵である。
 伊東巳代治は、伊藤博文を中心として、井上毅、金子堅太郎とともに大日本帝国憲法をつくりあげた人物で、伊東家には伊東巳代治の文書が遺されていた。
 憲法史研究会の設立目的は「根本資料に基づき、帝国憲法の真髄を闡明(せんめい)に資する」ことで、事務局は伊東伯爵邸に置かれ、会場としては主に華族会館が用いられた。官憲が容易に踏み込めない場所である。
 研究会の会合はほぼ毎月、2年以上にわたって開かれ、ここで達吉は3回の講演をおこなっている。研究会のメンバーは尾佐竹猛、美濃部達吉、佐々木惣一、宮沢俊義、田畑忍、清宮四郎、岡義武、河村又介、田中二郎、柳瀬良幹、大久保利鎌、鈴木安蔵、稲田正次、川上多助、中野登美雄などといった法学者や歴史学者で、美濃部門下の法学者も多かった。
 この研究会で、達吉は4月19日に「伊東巳代治遺稿『憲法衍義(えんぎ)』について」と題して講演をおこなった。自由にものがいえる会場の雰囲気も手伝って、このときばかりは日ごろの鬱憤を晴らすかのように、思いの丈を述べている。
 憲法の評釈としては伊藤博文の『憲法義解』が知られていたが、伊東巳代治にも『憲法衍義』という著述があった。それは長く秘蔵され、私家版でしか出されていなかった。達吉は今回の講演で、その『憲法衍義』についての紹介と詳しい解説をこころみた。
 とりわけ重要なのは、達吉が憲法制定時に明治天皇の周囲で、神権的思想と立憲的思想という二つの対立した意見があり、それがその後もつづいていると指摘していることである。

〈……[前回の尾佐竹猛の講演記録によると]一つは元田永孚(もとだ・ながざね)によって代表せられる神権的思想と一は伊藤博文によって代表せられる立憲的思想とこの二つが相対立して、憲法の立案に際し伊藤さんが大変困られたというふうに拝見しましたが、それと同じような意見の対立は、憲法制定の後にもなお存続しておって、憲法の解釈に関しましても、一方には日本の憲法を全く西洋の憲法と違った独特のもののごとくに解釈しまして、天皇の大権を宗教的ともいうべきほどに神聖視しようとする考え方をとる潮流がありますとともに、一方には立憲的見解とでも言いますか、日本の立憲制度をやはり西洋諸国の立憲制度と類を同じうするものであると考える潮流がある。〉

 達吉は伊東巳代治の『憲法衍義』が立憲的な考え方に属するものだと評したうえで、「私はそれを正しい考え方であると信ずるものであります」と明言した。
 そのあと達吉はいささか脱線し、神権的な考え方を代表するものとして、昔の東大教授、穂積八束(ほづみ・やつか)の憲法解釈を取りあげ、これを鋭く批判することになる。
 現在がまさに「天皇の大権を宗教的ともいうべきほどに神聖視しようとする」同じ状況にあるとすれば、達吉の穂積批判はいまの風潮にたいする異議申し立てにつながっていることを、会場の参加者も痛切に感じたはずである。
 それはともかくとして、達吉は穂積学説の特徴を次のようにまとめている。
 第一に、ほんらい国がらを意味する「国体」という概念を特別視し、日本の君主政体を、何か「政体」以上の特別に神聖なものととらえていること。
 第二に、天皇が絶対無制限の権力としての主権を有していると考えていること。
 第三に、国民の政治参加を否定し、議会が国民を代表する機関であることも認めないこと。
 第四に、立法事項をきわめて限定し、天皇の大権事項に議会が関与できないとしていること。
 第五に、天皇の大権を神聖不可侵とし、詔勅についても全く批判を許さないとしていること。
 これらはすべて誤りだ。これにたいし伊東巳代治の『憲法衍義』は、ただしく立憲的な考え方に立っている、と達吉は評価する。

〈以上述べましたように、本書憲法衍義の大体の考え方はすこぶる立憲的でありまして、穂積さんによって代表せられ、またその以後の学者にも非常に大いなる影響を与えておりまする学説とは全く反対の立場にある学説であると思うのであります。その結果はこれまで行われておって誤った学説に対してこの書物は正しい憲法の解釈を伝えるために著しい効果を有するものであるというふうに考えられるのであります。〉

『憲法衍義』への批評は、さらにことこまかにつづけられる。いくつかの批判もなされた。伊東巳代治は、場合によっては天皇の養子縁組や女系天皇も認めているが、達吉はこれを認めていない。
 憲法史研究会は、言論を封じられた学者が自由に論議を交わすことのできるオアシスになろうとしていた。

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