SSブログ

太平洋戦争はじまる──美濃部達吉遠望(87) [美濃部達吉遠望]

430px-Japanese_high-level_bombing_attack_on_HMS_Prince_of_Wales_and_HMS_Repulse_on_10_December_1941_(NH_60566).jpg
 1941年11月20日、美濃部達吉は約半年ぶりに憲法史研究会の第8回例会で講演会をおこなった。会場は霞が関の華族会館。今回のテーマは伯爵伊東巳代治遺稿「法律命令論」(法律篇・命令篇)についてである。
 憲法研究会は1899年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法の成立過程を明らかにする研究会だったといってよい。会を主催した伊東治正が、伊藤博文らとともに憲法起草に携わった祖父伊東巳代治の未発表文書を提供した。
「命令篇」はすでに1899年に公刊されていたが、「法律篇」は未公刊のままだった。達吉は両者で一体となる「法律命令論」を、今回の講演で論じたわけである。
 達吉は最初に「法律命令論」の意義を、こんなふうに論じている。

〈日本の憲法学説は不幸にして──私はあえてそう申しますが──穂積八束(やつか)博士によってはなはだしく歪曲された。しかもそれが相当にその後の学者に大いなる影響を与えたのでありますが、この「法律命令論」に関しましても、穂積博士は憲法上の大権事項という観念を新しく作って、いわゆる大権事項を規定するところの命令は、特に大権命令と称し、それらの大権事項については、勅令をもってのみ規定しうべきもので、法律をもっては規定することができない。すなわち大権命令と法律とは双方独立の関係にあるものであり、法律をもって大権命令を変更することができないという説を立てられております。……ところが伊東伯のこの「法律命令論」にはそういう観念は全然認められておらないのでありまして、いわゆる大権事項などというようなものは全然認めず、したがってまた大権事項は法律をもって規定することができぬというようなことは全然認めておらぬのであります。〉

 明治憲法によれば、天皇はその大権にもとづき、議会閉会時に緊急勅令(緊急命令)を発することができる。しかし、完全に独立した大権事項などというものはなく、その緊急勅令についても議会開会時にあらためて審議され、事後承諾されねばならず、場合によっては停止されたり否決されたりする。
 にもかかわらず、穂積学説は大権命令なるものがあるとして、それを法律に優先するものと考えている。それは伊東伯も述べているように、まちがいだと達吉は主張する。
 さらに、こう話している。

〈またこれはあまり外部に発表されては困る事柄ではありますが、岡田内閣の時分でありましたか、国家が統治権の主体である、天皇は国家の機関として統治権を総攬せられるのであるというような説をなすのは実に不都合であるというようなことを、二回まで公の声明として発表したことがありますが、この伊東伯の「法律命令論」によりますと、一番最初から法律は国家の意思であるということを幾たびも繰り返して申されておりました。しかも「法律篇」の一番初めのところに「君主は国家を代表して法律を裁可せらる」というようなことを明言されております。……人民の意思を含めて法律案というものが出来て、それを国家を代表する元首が裁可されて、それが国家の意思となるのであるというようなことを言われております。……[さらに]元首と議会とは共に立法の制定に与(あずか)る国家の機関であるということを言われているのであります。〉

 言いたいのは、天皇機関説を否定し、もっぱら天皇の主権を強調する二度の「国体明徴声明」は、明治の立憲精神を踏みにじるものだということである。だが、それは華族会館内の限られた参加者の前だけで言えることであって、軍事色が社会全体をおおういまの世の中で公言できることではなかった。
 こうした前置きを述べたあと、講演は「法律命令論」の中身を論じ、2時間近くにおよんだ。
 次に達吉が講演をおこなったのは、第9回例会のときである。はっきりとした日付はわからないが、おそらく1942年(昭和17年)の1月か2月のことだと思われる。そのときの議題は「枢密院における憲法草案の審議について」。
 その冒頭でこう話している。

〈憲法草案が枢密院において、いかに審議せられたかということは、枢密院が本来憲法及び皇室典範草案の審議のために特に新設せられたものであるという点からいっても、憲法の成立につき、すこぶる重要な地位を占めているわけで、その審議の模様については、私どもかねて何とかしてそれを知りたいものだと希望しておったのでありますが、ご承知のようにそれは秘密の中に閉ざされており、これまでは全くこれを知ることができなかったのでありますが、このたび伊東家の好意によりその議事筆記を拝見することができましたことは、私どもにとり、はなはだ仕合わせとするところであります。〉

 帝国憲法の成立経緯はこうだ。1887年(明治20年)春に伊藤博文を中心として、横須賀の夏島で、いわゆる「夏島草案」ができあがる。さらに草案が何度も推敲された末、憲法原案が翌年5月に発足した枢密院で6月18日から7月13日にかけ10回審議され、89年(明治22年)1月に最後の修正が施される。公布されたのは2月11日である。
 初代枢密院議長には初代首相を辞任した伊藤博文が就任し、枢密顧問官として、川村純義、福岡孝弟(たかちか)、寺島宗則、大木喬仁、副島種臣、土方久元、元田永孚など12名が任命された。これに内閣の各大臣も加わって、憲法をはじめ議院法や選挙法、皇室典範などの審議がおこなわれた。このとき伊東巳代治と金子堅太郎は枢密院書記官に任命され、同時に伊藤議長の秘書官を務めることになった。
 今回の講演で、達吉は伊東巳代治の遺したこのときの議事筆記により、枢密院における憲法草案の審議経過を詳しく説明したのである。これにより、枢密顧問官のあいだから原案にたいしてさまざまな意見が出され、多くの字句修正がなされて、7章76条の条項が確定することになった。
 議論がいちばん沸騰したのは議会の権限をめぐってだ、と達吉は説明する。原案では第5条が「天皇は帝国議会の承認を経て立法権を施行す」となっていたのを、審議では「承認」という言葉はけしからんという声が挙がって、あれこれもめた末、けっきょくのところ「承認」が「協賛」にあらためられ、「施行す」が「行ふ」に訂正された。
 ほかにも細々とした字句の訂正がなされた。予算に関する貴族院の権限、統帥大権と編制大権の関係、官制と任官の大権、緊急勅令、予算をめぐる問題、憲法と皇室典範との関係についても、いろいろと議論があったことを、達吉は事細かに紹介している。
 枢密院の審議をめぐる講演について、さらに詳しく述べる必要はないだろう。重要なのは、この講演から4年後、73歳になった達吉が思わぬことに枢密顧問官に任命されたことである。そのとき、明治憲法に枢密院がはたした役割に思いを馳せ、達吉は意外な行動をとることになるのだが、それは憲法史研究会での講演と奥の部分でつながっていたと思われて仕方ない。だが、そのことは戦後のその時点で、あらためて触れることにしよう。
 達吉がこの講演をおこなったときには、すでに太平洋戦争がはじまっている。
 1941年(昭和16年)12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を急襲し、アメリカの戦艦8隻中5隻を撃沈するなど、多くの戦果を挙げた。南方攻略も開始されていた。10日未明には、マレー沖でイギリス戦艦のプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの2隻が撃沈された。
 丸山眞男の証言によると、マレー沖海戦の勝利を知った達吉は大喜びしていたという。長いあいだ頭上をおおっていた厚い雲のかたまりが、あっというまに消えて、一挙に青空が広がったような気分だったのだろう。だが、それが束の間の喜びにすぎなかったことは、その後の暗くつらい日々が証明することになる。
 結果的にみれば、1940年(昭和15年)7月の第2次近衛政権発足以降、日本は太平洋戦争に向けて、悪いカードを切りつづけてきたといえる。日本では、イギリスはともかくアメリカとの戦争は絶対に避けるというのが、歴代政権の鉄則だった。それがなぜ、破れかぶれでアメリカとの戦争に突入することになってしまったのか。
 松岡洋右外相が日独伊三国同盟に加えて、1941年4月13日にソ連とのあいだに中立条約を結んだのは、4国の結束を強めて、アメリカとの戦争を避け、日中の和平をはかるためだったという。そのとき、近衛首相の主導で、日米間の下交渉もはじまっていた。
 ところが、思いもかけず6月22日にドイツのヒトラーがソ連への侵攻を開始すると、事態は大きく変化する。ヒトラーに心酔していた松岡は、突然、日ソ中立条約を無視しても、ソ連を撃つべきだと言うようになる。だが、あくまでも南進をもくろむ軍部は、松岡の主張をはねつける。
 あいだにはいって困りはてた近衛は、内閣総辞職の芝居を打った。これにより松岡は解任され、7月18日に第3次近衛内閣が発足した。
 ヒトラーのソ連侵攻を目の当たりにして、陸軍はじつは7月中旬から下旬にかけ、満州で74万人の大兵力を動員し、「関東軍特種演習」(関特演)を実施していた。演習だから戦争ではない。しかし、ソ連軍が極東から移動し、国境の戦備が半分になれば、ソ連に攻めこもうと計画していたのだ。実際にはそうならなかったため、関特演は大規模な演習だけで終わり、ソ連攻撃作戦は放棄された。
 それにより、軍は7月28日に南部仏印進駐(現在のベトナム南部)の道を選んだ。アメリカとの外交交渉はつづいていた。にもかかわらず、日本は既定方針どおり、将来の資源確保をめざして、強引な一歩を踏みだしたのである。
 仏印だけならアメリカも許容するだろうという甘い読みがあった。だが、アメリカは前年のくず鉄、銅などの輸出禁止に引きつづき、7月25日に警告として日本の在米資産を凍結し、8月1日に石油の輸出を全面的に禁止する措置に出た。
 9月6日の御前会議で、帝国国策遂行要領案が決定された。日米交渉で10月上旬までに日本側の要求が貫徹できるめどがつかないない場合は、対米(英蘭)開戦を決意するという方向が打ちだされた。
 近衛首相はルーズヴェルトとのトップ会談によって、事態を打開しようとする。だが、これはアメリカの受け入れるところとはならず、10月16日にまたも政権を投げだすことになった。そのあと、東条英機が首相の座につく。
 11月26日にアメリカのコーデル・ハル国務長官から日本側につきつけられたいわゆる「ハル・ノート」は、アメリカが日米交渉を打ち切るに等しい最後通牒となった。
 日本は追い詰められていく。そして、12月8日に日本軍はアメリカ、イギリス軍と戦闘状態にはいるのである。
 初期の戦果は赫奕(かくやく)たるものがあった。1942年(昭和17年)1月2日に日本軍はマニラを占領、2月15日にはシンガポールを陥落させ、3月1日にはジャワに上陸した。だが、6月5日のミッドウェー海戦で、日本軍は大敗し、状況は一気に反転する。大敗の事実は国民には知らされず、ほとんどだれもが、日本は勝ったものと思いこんでいた。

nice!(10)  コメント(0) 

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント