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反軍演説と近衛新体制運動──美濃部達吉遠望(85) [美濃部達吉遠望]

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 1940年(昭和15年)1月14日、阿部信行内閣が総辞職する。
 前年8月末の内閣発足直後に、ヨーロッパでは第2次世界大戦がはじまっていた。だが、阿部政権は「帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす」との方針をとっている。昭和天皇や宮中側近の強い意向がはたらき、英米との協調路線を維持することが期待されていた。
 とはいえ、アメリカとの関係改善は実現しない。アメリカは通告どおり、1911年以来の日米通商航海条約の廃棄に踏み切った。
 国内の物資不足と物価騰貴、干魃による米不足、凍結されたままの賃金が、身動きできない政権の不人気に追い打ちをかける。
 衆議院では内閣不信任案が通過する見通しが強くなった。陸軍大将予備役の阿部自身は解散に打って出るつもりでいたが、軍部は国民のあいだから反軍・反戦的な気分がわきだすのを恐れ、かれに総辞職を勧めた。
 次の首相として陸軍は近衛文麿を推した。だが、近衛は受けず、大命は海軍大将の米内光政に下った。首相指名権をもつ内大臣の湯浅倉平をはじめとする宮中の意思がはたらいた。米内がドイツとの軍事同盟に反対していたため、陸軍の反発は強かった。
 米内内閣のもとでも、対中国和平工作はなかなか進展しない。蒋介石の重慶政府は、抗日姿勢を崩さなかった。
 民政党の斎藤隆夫は、2月2日の衆議院本会議で、いわゆる「反軍演説」をぶち、支那事変(日中戦争)への政府の対応をただした。

〈支那事変の処理は申すまでもなく非常に重大なる問題であります。今日我国の政治問題としてこれ以上重大なるところの問題はない。のみならず今日の内外政治はいずれも支那事変を中心として、この周囲に動いているのである。それ故に我々は申すに及ばず、全国民の聴かんとするところももとよりここにあるのであります。一体支那事変はどうなるものであるか、いつ済むのであるか、いつまで続くものであるか、政府は支那事変を処理すると声明しているが如何(いか)にこれを処理せんとするのであるか。国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、この議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らく一人もないであろうと思う。〉

 斎藤は「東亜新秩序」の標語を空虚にかかげる近衛声明を批判しながら、「およそこの世の中において戦争ほど馬鹿らしきものはない」と述べる。だが、それでも国家間の力と力の競争が戦争を招いているのが、この世界の現実だ。そして、近衛声明の「蒋介石を相手にせず」で、はたして日中間の和平が実現できるのかと政府に問うた。

〈もし蒋介石を撃滅することが出来ないとするならば、これはもはや問題でない。よしこれを撃滅することが出来たとしても、その後はどうなる。新政府[まもなく南京で発足が予定されている汪兆銘国民政府]において支那を統一するところの力があるのでありますか。あると言わるるならばその理由を私は承っておきたい。もしその確信がないとせらるるならば、支那の将来はどうなるか。各所において政権が分立して、互いに軋轢(あつれき)して摩擦を起こす。新秩序の建設も何もあったものではないのであります。〉

 政府は今度の事変で国民精神総動員令をかけながら、いったい何をしようとしているのか、事変をどう処理しようとしているのか、「ただいたずらに聖戦の美名に隠れ国民的犠牲を閑却し」、国際正義、道義外交、共存共栄など雲をつかむような文字を並べたてて国家百年の大計を誤ろうとしているのではないか、と厳しく政府を追及した。
 斎藤隆夫は国民の聞きたいことを聞いたにすぎない。しかし、軍はこの演説に激怒し、議会を動かして、3月7日に斎藤を議員除名処分とした。
 斎藤の除名を機に、民政党、政友会、社会大衆党など諸政党のあいだでは、政党を解党し、軍と政党を一体化した議会団体をつくろうとする動きが活発化する。それがいわゆる「近衛新体制」に合流し、まもなく大政翼賛会が結成されることになるだろう。
 そのころ美濃部達吉は雑誌「日本評論」4月号に、めずらしく「議会雑感」なる一文を寄せている。時折、映画評論などを「中央公論」に書くこともあったが、一般雑誌に時事問題に関する論評を寄せるのは久しぶりのことだった。
 斎藤隆夫の反軍演説には触れていない。いつものような冴えはなく、時局柄、口ごもった言い方に終始している。それでも、そこでは議会政治を擁護する姿勢が貫かれていた。
 最近の議会の低調ぶりをみて、「中には議会制度は既に過去の遺物であり、議会政治の時代は永遠に終わったと公言する者すらも、必ずしも稀ではない」。しかし、議会制度を否定するのは、そもそも憲法を否定するものだ、と達吉は断言する。

〈もし議会の存立を否定し議会制度をもって過去の時代の遺物であるとなし、現代においてはもはやその存立を認むべきものでないと主張するならば、それは即ち憲法政治を否定し、憲法の変革を企つるものにほかならない。〉

 とはいえ、現在、議会がほとんど無力化していることは認めざるをえない。
 議会の役割は立法と予算の協賛にある。しかし、法律案にしても予算案にしても、それらはほとんど政府の手によってつくられ、衆議院でも貴族院でもほぼ無修正で通過するのが実情だ。さらに最近は「国家総動員法」のような法律もできて、事態に敏速に対応するため、広い範囲にわたって立法権を政府に委ねるような仕組みもできた。
 議会が立法府と称されるのは名目だけで、実際は名あって実なきものになっている。それはなぜか。

〈それはなぜであるかと言えば、現代の如(ごと)き複雑な社会事情の下においては、予算案の編成についても、法律案の作成についても、精密な技術的の知識が必要であり、議会のようないわば素人政治家の集まりで、調査機関もなく、専門的な資料にも乏しい、多数人の合議機関がこれにあたることは、事実上不可能になったことが、その主たる原因をなすものと思われる。〉

 それならば、議会は無用の長物なのか。断じてそうではない、と達吉はいう。議会には大きな役割がある。

〈現代における議会の主たる職能は、その法律上の権限にあるのではなくして、その政治的の作用にある。政治上から見た議会の職能としては、議会が内閣の施政に対して批判者たり問責者たるの地位にあり、内閣の存立が議会、ことに衆議院の信頼を基礎とすることにおいて現れる。〉

 達吉は、議会の役割は政府を批判し、問責すると同時に、その多数党をして内閣を形成せしめることにあるという。実際の政党の動きをみれば、党勢拡張のために手段を選ばない活動ばかりで、目をおおいたくなることもある。それでも議会政治こそが政治の原則なのだ、とあらためて達吉は主張する。
 五・一五事件、さらには二・二六事件以来、日本の政治は議会政治の原則を外れて、官僚的な武断政治が議会を形式化してしまっている。
その結果はどうであったか。「その以後における歴代の内閣が、はたしてよく優渥(ゆうあく)なる聖旨に応えうるだけの成績を挙ぐるを得たかと言えば、何人(なんぴと)もしかりと答うるに躊躇するであろう」
 二・二六事件以後、4年間のうちに内閣は広田、林、近衛、平沼、阿部、米内とめまぐるしく移り替わり、安定を欠き、常に揺れ動いていた。

〈はたしてしからば、いかにして強力内閣を期待することが出来るであろうか。これに答うることは、極めて困難ではあるが、私見としては、結局は衆議院をして真に国民の輿望を代表しうるがごとき構成をなさしめ、しかして衆議院の信頼を基礎として、内閣組織の大命を下したまわるよりほかには、方法はないのでなかろうかと思われる。〉

 強力内閣の誕生が期待されていた。だが、町田忠治の民政党にせよ、中島知久平と久原房之助に分裂した政友会にせよ、安部磯雄の社会大衆党にせよ、はたまた中野正剛の東方会にせよ、政権を担えそうな政党は存在しなかった。そこに新たな政治団体を中心に軍政官民を統合する組織をつくろうという、近衛文麿の新体制運動がはじまるのだ。
 近衛文麿にふたたび期待が集まりつつある。しかし、その新体制は達吉の望む議会政治にはほど遠いものになりそうだった。

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