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戦時下を生きのびる──美濃部達吉遠望(88) [美濃部達吉遠望]

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 1943年(昭和18年)2月に美濃部達吉は例年通り『公法判例評釈』を刊行する。公法判例はあくまでも行政にかかわる事例が対象で、直接、民事にかかわるものではない。いつものように行政裁判所と大審院が扱った判例が取り上げられているが、今回は昭和16年が対象である。
 通例なら、前年即ち昭和17年の判例を扱うはずなのに、半年遅れの発行になってしまった。1941年は2月に『日本鉱業法原理』を出版し、8月に昭和15年版の『公法判例評釈』を発行した。しかし、憲法史研究会での仕事や息子亮吉の裁判なども重なって、1942年(昭和17年)は新刊を1冊も出せなかった。
 1942年の前半、日本軍は連戦連勝で、帝国全土はわきたっていた。日本の勢力圏はインドシナ、ビルマ、マレー半島、シンガポール、オランダ領東インド(インドネシア)、フィリピン、ニューギニア、さらにガダルカナル島を含むソロモン群島までおよんだ。だが、6月のミッドウェー海戦で敗れたあと、アメリカの反攻がはじまる。国民にその事実は知らされなかった。
 東条英機内閣のもと、4月30日に衆議院は5年ぶりに解散され、翼賛政治体制協議会推薦の候補381人と非推薦候補86人が当選した。完全に一国一党体制が成立したわけではない。だが、軍の絶対優位は揺るがなかった。
 国内では経済統制が進んでいる。着るものについても切符制が採用され、配られた切符をもたなければ繊維製品が買えなくなった。日本銀行は完全に政府の統制下にある。産業や流通業の整理統合が強行され、企業も労働者も軍需産業にシフトする体制が組まれようとしている。
 行政裁判所も大審院も全体として判例が減少している。ただ大審院の刑事部判決だけが増えているのが、時局の影響だといえた。これは経済統制違反の取り締まりが進んだためである。
 行政裁判所の扱う問題は、いつものように税金に絡む問題が多い。漁業税や府県税の納入や滞納、租税賦課の取り消しに関する訴訟が後をたたなかった。
 大審院の民事部では、たとえば村長が村の名で銀行から借り入れをし、自らそれを消費してしまった場合、銀行は村に対し借金の返済を求めることができるかなどが裁判で争われていた。
 同じく刑事部では天理本道と称する宗教団体を治安維持法の結社と認定するかどうかの裁判も行われていた。軍事に関する妄説蜚語を記した文書を頒布したとして、出版者に不穏文書頒布罪を適用する事件もあった。
 経済事犯が増えていた。金融業の取り締まりも厳しくなっている。価格統制令の違反に対する摘発も進んでいた。
 そうした事例のすべてを達吉は取り上げ、事細かに論評を加えている。
 1943年(昭和18年)2月、大本営はガダルカナル島からの撤退を発表する。

〈ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降、激戦敢闘克(よ)く敵戦力を撃摧(げきさい)しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり。〉

 これ以降、当初の連戦連勝はうそのように消え去り、日本軍は相次ぐ「転進」を重ねるようになった。「玉砕」という文字も登場する。5月にはアリューシャン列島のアッツ島で、11月には中部太平洋のタラワ島で日本軍が玉砕した。
 太平洋戦争は巨大な消耗戦になりつつあった。多くの民間工場が軍需工場に転用され、橋の欄干や電車のレール、紡績の機械、お寺の鐘までが徴用されて、溶鉱炉に放りこまれた。企画院と商工省は廃止され、軍需省と名前を変えた。
 街や職場には「欲しがりません勝つまでは」というポスターが張り出されていた。隣組や愛国婦人会、国防婦人会が出征兵士を見送り、毎週のように防空訓練がくり返されるようになる。学徒動員もはじまった。
 米や麦、味噌、砂糖、酒、衣料品などはすでに配給制となり、切符がなければ手に入れられなかった。あまりにも量が少ないため、もっと欲しければ闇で買うほかなかった。
 1944年(昭和19年)にはいると、陸軍はビルマ方面軍を結成し、3月に北部インドのインパールを攻略する作戦を立てる。作戦は大失敗し、戦死傷者7万2000人にのぼる犠牲を出した。6月にはマリアナ沖海戦で敗れ、7月にはサイパン島、8月にはテニアン島、グアム島を失う。これにより日本本土全体がB29の爆撃圏内にはいった。
 7月17日に東条内閣は更迭され、代わって陸軍大将の小磯国昭が新首相に就任する。国内の統制を強め、フィリピンの決戦で勝利し、講和に持ちこむという甘い期待をいだいていた。
 だが、このころ国民は食べるものにも事欠く状況になっていた。配給の米だけではとても間に合わなかった。柳田国男もこのころの日記に「本は毎日読むが、身にならぬような気がする」、「食べ物が足りないので元気が悪くなった」などと書いている。
 街は荒廃し、モラルが崩壊し、泥棒が横行していた。勤労動員と学童疎開もはじまっている。
 1944年(昭和19年)9月に、美濃部達吉は有斐閣から『経済刑法の基礎理論』を出版する。経済刑法とは国家の統制経済に違反した者を罰する行政刑法のひとつである。
冒頭にはこうある。

〈経済刑法が国法上に顕著な地位を占め、広く学者の注意を惹(ひ)くに至ったのは、主としては支那事変以後、国民の経済生活がほとんど全面にわたって国家の統制に服するに至ったためである。平時にあっても国民の経済生活が全然国家の統制を受けないではないが、一般にいえば国民の私経済生活は原則としては契約の自由に任され、国家はこれに干渉しないのを普通としたのに対し、戦時に入り国民の総経済力を戦力増強のためになるべく有効に発揮せしむるためには、これを契約の自由に放任することを許さず、国家の権力をもってこれを指導し統制することが必要となるに至った。その結果は経済行政法が行政法中の顕著な一部を占むるものとなり、したがってまた経済刑法が行政刑法にも特に著しい一部門をなすに至ったのである。〉

 法学者流の堅苦しい言い方だが、要は戦時下で統制経済が実施され、それに違反した者を罰するために、罰則が強化されたというのである。
 経済刑法の特徴について達吉はこう述べている。
 第一はそれが国家総動員法と同じ「授権法」であること。これにより行政機関は法律にもとづかなくても国民に命令を発することができ、裁判所も法律にもとづくことなく違反者を裁量で裁くことができるようになった。
 第二に、その刑罰は普通の行政刑法に比べて、はるかに重い。それは経済刑法が厳罰主義をとっているためである。
 第三に、処罰は直接、罪を犯した従業者だけではなく、管理責任をもつ事業者にも及ぶこと。
 第四に、その取り締まりが民間の統制団体にも委託されていること。つまり、街総ぐるみの監視体制が生まれていたのである。
 経済刑法は、統制経済に違反した経済事犯に対する刑罰を定めたものだ。経済事犯は単なる刑事犯罪と行政犯罪とに区別される。刑事犯罪が社会的に見ても明らかな犯罪であるのにたいし、刑事犯罪は国家の命令に背く犯罪を指す、と達吉はいう。
 経済事犯の代表例としては闇取引が挙げられる。これは政府の価格等統制令に違反するもので、それが犯罪なのは「もっぱら戦時における国家の経済政策に違反し、国家の命ずる義務を守らなかった」ためである。その点からいえば、これは刑事犯罪ではなく、行政犯罪である。
 戦時中、経済事犯の数は実に数多くにのぼった。達吉はさまざまな事例を挙げて、経済刑法が不当に拡張解釈されていることが多いことを指摘している。
 表立っては言えないことながら、それは戦時中、国家、とりわけ軍がいかに横暴に経済を牛耳って、経済の形を歪めていたかを示していた。達吉による記録は、戦時中の経済統制の実態を研究するには、いまも必読の文献となっているといってもよいだろう。
 10月20日、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸を開始した。レイテ沖の海戦で、日本海軍は大敗を喫し、連合艦隊はほぼ全滅する。
 11月1日にはサイパンから発進したアメリカ軍のB29が東京上空に姿を見せる。11月24日の正午すぎから3時ごろまで、大きな空襲があった。このとき最大の標的となったのは、武蔵野町(現武蔵野市)の中島飛行機武蔵製作所である。130人以上が死傷している。だが、新聞やラジオでは詳しいことはまったく報道されない。士気の低下を恐れていたのだろう。
 中島飛行機への空襲は、その後も何度もつづけられた。工場は吉祥寺の美濃部邸から1キロほどの距離にあった。達吉は日記をつけていないので、そのころの様子はわからない。だが、もしずっと在宅していたとしたら、終戦まで、さぞかし不安な日々を過ごしていたにちがいない。
 達吉が最後の『公法判例評釈』となる昭和17年版を出版するのは、1945年(昭和20年)3月のことである。
 米軍は1月にルソン島に上陸し、北部山岳地帯に撤収した日本軍の掃討作戦を開始していた。硫黄島では2月から日米両軍による死闘がくり広げられた。
本土では米軍による空襲が激しさを加えていたが、そうしたなかで達吉は公法判例を評釈する仕事をつづけていたことになる。
 用紙不足により今回も出版が遅れた。度重なる空襲と高齢により、さすがに疲労の色が濃いことがうかがえる。
 この段階で3年前の判例を扱うのは、公法判例評釈の仕事を途切れさせたくないという律儀な性格によるものだろう。だが、3年前の判例にも、すでに切迫した戦時情勢がひしひしと感じられた。
 たとえば満蒙開拓義勇軍に入った男が、帰国した際、まわりにこんな話をばらまいた。営倉に入れられた奴はたいてい凍傷にやられて手足をダメにしてしまう。満州では防寒具なしに歩哨に立たされることがある。あまりにも悪い中隊長は部下に突き刺されたり鉄砲で撃ち殺されたりすることもある。
 男はそんなあることないことを喋ったところ、通報され、逮捕された。その結果、言論出版集会結社等臨時取締法により、有罪の判決を受けたことを達吉は記録する。太平洋戦争がはじまったころから、市井の与太話にも官憲と世間の監視の目が光るようになっていたのだ。
 金融犯罪や闇商売も数多く摘発されていた。経済統制に違反する事件が続出していた。達吉はそれらをことごとく記録し、戦時下の社会でどういう事件が起こっていたかを淡々と綴っている。
 だが、この昭和17年版で達吉が10年以上にわたった『公法判例評釈』の仕事を打ち切りにするのは、憲法にかかわる大きな仕事が回ってきたからである。
 8月15日、日本は敗戦の日を迎えた。

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