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占領のはじまり──美濃部達吉遠望(89) [美濃部達吉遠望]

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 ポツダム宣言受諾という大仕事を成し遂げ、昭和天皇による「終戦」の玉音放送を無事に終えたあと、鈴木貫太郎内閣は1945年(昭和20年)8月15日午後3時半に総辞職し、8月17日に皇族、東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)による宮内閣が成立した。
 東久邇内閣の課題は、何かと不穏な軍を無事解散させ、速やかにアメリカの進駐軍を迎え、人心の不安と混乱を抑えることだった。まさに終戦内閣である。
 その内閣の実力者は、朝日新聞出身の緒方竹虎(おがた・たけとら)と、華族政治家として何度も首相を務めた近衛文麿である。緒方は国務大臣兼内閣書記官長(いまでいう官房長官)となり、近衛は無任所国務大臣(実質の副総理)として、政治経験の浅い東久邇宮を支えた。このとき外務大臣には重光葵(まもる)、海軍大臣には米内光政(陸軍大臣は首相が兼任)、大蔵大臣には津島寿一が就任した。
 東久邇首相は就任早々、ラジオ放送で「陛下の思し召しを奉戴し」、難局を克服して、「積弊の打開と、新社会の建設」をめざすことを国民に呼びかけた。のちに「全国民総懺悔(ざんげ)」と記者会見で語った言葉が「一億総懺悔」という表現で伝えられることになる。
 経済は壊滅状態にある。東京や大阪をはじめ、大都市では焼け跡が広がっていた。米の不足が伝えられ、食べるものもろくにない。駅前には闇市が並んでいた。それでも、ようやく戦争が終わったので、人びとは呆然としつつも安堵を覚え、苦しいながらもどこか解放感を味わっていたのではないだろうか。
 8月30日、連合国軍最高司令官(SCAP)のダグラス・マッカーサー元帥が厚木に到着する。9月2日、東京湾のミズーリ号艦上で降伏文書の調印式がおこなわれた。
これにより6年7カ月におよぶ占領期がはじまった。
 日本占領にあたっては直接の軍政ではなく、間接統治が採用されることになる。日本円に代わる軍票の使用も見送られた。
 日本の政治を統制する機関として、連合国軍総司令部(GHQ)が設けられた。GHQはさっそく日本政府に陸海軍の解体と軍需生産の停止を命じ、さらに追いかけるように東条英機ら39人を戦犯容疑者として逮捕した。このとき近衛文麿はまだ逮捕されていない。
 9月13日に近衛国務大臣が、15日に東久邇首相が、まだ横浜に置かれていた総司令部でマッカーサーと会見した。近衛はマッカーサーから個人的に憲法改正を手がけるよう打診を受けた、と首相に語っている。
 9月17日、GHQは横浜から東京日比谷の皇居を見渡せる第一生命ビルに移った。ここで10月4日にふたたびマッカーサーと会った近衛は、憲法改正に向けてリーダーシップを取るよう求められたという。東久邇首相と近衛のあいだがぎくしゃくしはじめるのは、そのころからである。
 アメリカ本国のワシントン政府の立場は、マッカーサーの意向よりはるかに強硬だった。日本政府は国体の変更をおこなわないことを条件にポツダム宣言を受諾した。これにたいし、アメリカ政府は「日本政府の最終形態は、日本国民の自由に表明せる意思によって決定される」と返答したうえで、日本の降伏を受け入れた。
 たとえ占領下でも、天皇と日本政府は存続すると日本側は受けとった。ところが、実際に占領がはじまると、アメリカ政府は日本が無条件降伏したとの立場を露わに示すようになる。天皇制の廃止と米軍による直接統治の可能性も考えられなくはなかった。
 だが、マッカーサーはワシントンの強硬策をはねつけた。9月27日にアメリカ大使館でマッカーサーと昭和天皇の初会見がおこなわれた。昭和天皇はマッカーサーを呼ぶのではなく、みずからマッカーサーのもとにおもむいたのである。
 会見に先立って、ラフな格好のマッカーサーとモーニング姿の天皇の写真が撮られた。各新聞社に流されたこの写真を内務省は検閲により差し止めたが、翌日、GHQの命令により、あらためて掲載されることを余儀なくされた。
 マッカーサーによると、このときの会見で、天皇は全責任を負う者として、私自身をご裁定に委ねる、とみずから語り、マッカーサーを感激させた。
 マッカーサーと天皇が並んで立つ写真は、占領下においても天皇制が維持されることを示していた。しかし、総司令部はその写真を差し止めようとした内務省への反発を強め、その内務省を放置している東久邇内閣に不信をつのらせた。
 治安維持法も維持され、政治犯はいまだに釈放されていない。GHQは日本政府に内務大臣の罷免と政治犯の釈放指令をすぐさま実行するよう求め、これにより東久邇内閣は10月5日に総辞職した。
 翌日、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)に組閣の大命が下り、10月9日に幣原内閣が成立した。
幣原といえば、満州事変以前の民政党内閣の時代に、外務大臣として英米寄りの外交政策をとった「幣原外交」の名で知られていたものの、もはや過去の人の感があった。幣原自身も高齢のため首相就任を辞退しようとする。だが、外相となる吉田茂と、内大臣の木戸幸一の説得に負け、「最後の御奉公」として組閣を引き受けることになった。
 幣原内閣は政策課題として、民主主義政治の確立、食糧問題の解決、復興問題、失業問題、戦災者の救護、行政整理、財政・産業政策、教育・思想問題などを掲げた。いずれも喫緊の課題である。
 これにたいし、10月11日に幣原と会見したマッカーサーは、憲法の自由主義化と思想・言論・宗教の自由推進を求め、さらに日本政府が速やかに実施すべき5項目について指令した。
 それは(1)婦人参政権による日本女性の解放、(2)労働組合の結成奨励、(3)学校教育の自由主義化、(4)秘密審問の廃止と国民を守る司法制度の確立、(5)経済機構の民主主義化の5項目からなっていた。幣原はマッカーサーにその実行を約束した。
 GHQは日本政府のたぶらかしを容赦しない。そのころGHQの主力は、新たに組織された特別参謀部の民政局(GS)に移っていた。その実際を担ったのが、民政局行政課長のチャールズ・ケーディスである。12月にコートニー・ホイットニーが民生局長に就任すると、民政局の活動はますます活発になった。
 何かと実行をためらいがちな日本政府にたいし、GHQ民政局は苛烈なまでに民主化改革を迫ることになる。その武器となったのが公職追放(パージ)であり、さらには新憲法制定の要請だった。
 憲法改正の必要性は日本側も早くから認識していた。幣原政権が成立したあと、内大臣の木戸幸一はとりあえず近衛文麿に憲法問題の調査をまかせることにした。幣原首相自体は、憲法は解釈しだいで運用できるので、あえて改正する必要はないと考えていたが、厚生大臣の芦田均の勧めもあって、10月13日の閣議で、国務大臣の松本烝治を委員長として憲法問題調査委員会を発足させることにした。いわゆる松本委員会である。
 できれば、憲法改正を回避したいのが本音だった。松本自身、憲法問題調査委員会は「必ずしも憲法改正を目的とするものではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要があるとすればその諸点を明らかにする」ことにあると語っている。
 しばらく表舞台から姿を消していた美濃部達吉が再登場するのはこのときである。達吉は親友の松本に乞われて、憲法問題調査委員会の顧問に就任することになった。すでに72歳になっている。
 顧問としては、達吉のほかに清水澄と野村淳治も任命された。清水は法学界の長老で、宮中とも関係が深い。野村も同じく法学者で、東大で国法学を教えていた。さらに、実際のとりまとめにあたる委員には、宮沢俊義(東大法学部教授)、清宮四郎(東北大学法文学部教授)、河村又介(九州大学法学部教授)のほか、法制局からも担当者が選ばれた。
 いずれにせよ、達吉はふたたび脚光を浴びることになった。達吉が憲法問題調査委員会の顧問になったことを聞きつけて、朝日新聞や同盟通信が達吉へのインタビューをおこなっている。達吉はそのインタビューのなかで、民主政治が阻まれたのは、憲法解釈と運営がまちがっていたからで、あえていま憲法を改正するには及ばないと話している。
 達吉はまた10月20日から22日にかけ、「朝日新聞」に「憲法改正問題」と題する論考を発表した。
 最初に次のような問いかけがなされている。

〈問題は主として二点にある。第一は憲法の改正は果たして必要であるや否や、たといその必要ありとしても、現在の情勢において直ちにその改正に着手することが果たして適当であるや否やの問題であり、第二は、もし現在において直ちに憲法を改正する必要ありとすれば、いかなる諸点につき、いかにこれを改正すべきかの問題である。〉

 憲法の改正は必要ない、たとえ必要だとしても現在の情勢においては改正に着手すべきではないというのが達吉の答えである。そうなると、第二の問いは自然消滅してしまうことになる。
 なぜ憲法改正が必要ではないのか。民主主義の実現は明治憲法でも十分可能だからだ、と達吉はいう。
ここで達吉のいう民主主義とはアメリカ流の民主主義ではなく、イギリス流の民主主義である。すなわち立憲君主制のもとでの民主主義だといってよい。

〈政治上の意義においての民主主義は、君主制の下においても十分実現せられうべきもので、法律上はたとい君主が一切の統治権を総攬し、国家統治の大権はすべて君主の名において行われるとしても、政治の実際においてもし君主が民の心をもって心となし、統治の大権がすべて民意に順(したが)って行われるとすれば、法律上には君主政であって、しかも政治上には民主主義に依(よ)るものに外ならぬ。〉

 ではなぜ、明治憲法のもとで、この十数年、日本が専制的軍国的状況に陥ってしまったのか。それは憲法が悪かったからではなく、憲法の真の精神が歪められ、不当な政治慣習や悪法が蔓延してしまったからだ、と達吉はいう。
 したがって、軍閥政治を解消し、議会の機能を復元し、悪法を取り除き、官憲による権力の濫用をやめさせ、学問と言論の自由を完全に確保するならば、かならずしも憲法を改正する必要はない、と達吉は論じる。
 また、たとえ憲法を改正するとしても、それには「慎重な調査と審議」を要し、さらに憲法に関連する多くの重要な問題を解決しなければならないのだから、現在のような「窮迫した非常事態の下においてそれを実行するのは、決して適当な時期ではない」と断言している。

〈これを要するに、憲法の改正は結局においては望ましいとしても、それはあえて急を要する問題ではなく、また短時日に成就し得られるべき事柄でもない。軽々にこれを実行することは、国家百年の大計を誤るもので、今日のごとき窮迫した情勢の下においてこれを着手することは、問題をあまりに軽視するものといわねばならぬ。〉

 これが憲法問題調査委員会顧問としての達吉の考え方だった。
 だが、それはGHQのとらえ方とは根本的に異なっていた。GHQは大日本帝国憲法こそが諸悪の根源であり、速やかに憲法を改正すること、もっとはっきりいえば新憲法をつくることこそが、日本の改革の第一歩だと認識していたのである。

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