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松本試案──美濃部達吉遠望(91) [美濃部達吉遠望]

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 1946年(昭和21年)元旦、昭和天皇はみずからが現人神(あらひとがみ)であることを否定するいわゆる「人間宣言」の詔書を発表した。その元になったものは英文で記されていた。
「人間宣言」自体はGHQの示唆を受けて、学習院大学院長の山梨勝之進が発案した。国家神道の解体を受けて、学習院の英語教師レジナルド・ブライスとGHQ幕僚部(特別参謀部)民間情報教育局(CIE)のハロルド・ヘンダーソン課長が執筆した原文を翻訳して、練り直し、最後に幣原首相が手を加えた。
それを見た天皇は「五箇条のご誓文」を加えるように求めたという。
 有名なのは次の部分だ。

〈朕(ちん)と爾等(なんじら)国民との間の紐帯(ちゅうたい)は、終始相互の信頼と敬愛とに依(よ)りて結ばれ、単なる神話と伝説に依りて生ぜるものに非(あら)ず。天皇を以(もっ)て現御神(あきつみかみ)とし、且(かつ)日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延(ひい)て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。〉(原文カタカナ)

 軍国主義時代の天皇像が、天皇みずからの詔書によって否定された。
 人間宣言発表直後の1月4日、GHQは戦時中、戦争指導の要職にあった者を公職から追放する指令をだした。何人かの閣僚も追放され、過労で病中にあった幣原はさらに手痛い打撃を受けた。
 そのころ美濃部達吉は、岩波書店から創刊されたばかりの雑誌「世界」1月号に「民主主義と我が議会制度」という論考を発表した。その内容は「松本委員会」に提出された憲法改正美濃部私案と重なっているが、雑誌のテーマはあくまでも戦後の民主主義と議会制度をどう考えるかである。
 この問いにたいし、達吉はおそらく「世界」の読者ががっかりするような答えを示した。
 達吉はいう。民主主義が新日本建設の基礎になることはいうまでもない。しかし、国民主権主義ないし議会を国権の最高機関とするのは、日本の国情にはなじまない。国家の統一性を保持するためには、君主制を確保することが「絶対の条件」であり、「これなくしては統一的国家としての日本の存在は失われてしまうの外はない」。

〈それであるから、日本憲法の民主主義化といっても、そのいわゆる民主主義は君主制のもとにおける民主主義を意味するものと解せねばならぬ。国民自身が国の最高権力者たるのではなく、国の最高権力即ち主権は専ら君主に属し、君主が統治権を総攬(そうらん)し憲法の条規に従ってこれを行使したまうことにおいては、現在の制度[大日本帝国憲法]におけると全く同様でなければならぬが、ただ君主がこれを行使したまうにあたり、自己の個人的恣意(しい)によるのでないことはもちろん、国民の総意とは関係のない一部の軍閥や官僚の進言によるのではなく、国民の意思が政治の上に反映し、君主はその意思に従ってこれを行わせらるるような組織をなすことが、制度上に担保せられていることが、そのいわゆる民主主義の要求するところでなければならぬ。〉

 君主主権主義を維持しながら、国民の意思が反映される(代議制民主主義にもとづく)議会と、議会から信任された政府によって、国家が運営されるようにするというのが、達吉の戦後構想だったといえる。
 その主張は、旺文社の雑誌「生活文化」2月号への寄稿「民主主義政治と憲法」でもくり返されている。
 民主主義は君主主権主義と相いれないようにみえるかもしれないが、そうではない。たしかに戦前は君主の主権を神聖不可侵のものとして、「国体」という語が用いられ、それにより国民の自由にたいする極端な圧制がおこなわれてきた。文明世界にほとんど例を見ない治安維持法がつくられ、国体を擁護すると称して、驚くべき数の多くの者が容赦なく牢獄につながれた。君主主義を根本的に変革しようとする思想をいだく者がでるのはとうぜんだろう。
 しかし、と達吉はいう。

〈しかしながら、たとえ過去において国体の観念が国民の自由を圧迫するために悪用せられたとしても、それは専らそれを悪用した当時の軍国主義的な権力者やその権力に阿諛(あゆ)して神秘的な無稽(むけい)の国体説を流布した者の罪であって、決して国体それ自身にその禍源を帰すべきではなく、治安維持法その他の悪法令が撤廃せられ、完全な思想の自由、学問の自由が回復せられた上は、かかる悪用の虞(おそ)れはもはや全く消滅したもので、これをもって国体そのものを呪詛(じゅそ)する理由となすべきではない。〉

 達吉はあくまでも君主主権主義のもとで、国民の自由と民主主義の発展をはかろうという立場を主張したのである。
 国民主権の名のもとに独裁専制の政治がおこなわれたことは、ヒトラーやスターリンの例をみてもあきらかで、ともかく君主を廃して民主主義を実現すればいいというものではない、と達吉はいう。
 国家には国民の団結を促す中心がなくてはならず、その中心が失われたとすれば、ただ動乱があるばかりで、そこから「民主政治の名の下にその実は専制的な独裁政治を現出すること」は「必至の趨勢」だとも述べている。

〈すなわち君主主権制を廃することの結果は、名義上はともかくも実質的には民主主義とは正反対な独裁政治を現出する危険がすこぶる濃厚である。真に民主主義を確立するためには、わが三千年の歴史的伝統であり国民の信念に深い根底を据えている君主主権制は固くこれを支持し、君主が民意を尊重し民意に従って主権を行使したまうことが必要である。たとえ共産党その他一部少数の間に君主制打倒の声が叫ばれているとしても、大多数の国民の意思がその支持にあることは、さらに疑いをいれないところであるから、君主制を支持することこそ、よく民意に適するゆえんであり、それが真に民主主義を実現するものでなければならぬ。〉

 国家の中心に天皇が存在してこそ、国家の統一は保たれ、民主主義も実現できるのだ、と達吉は主張しつづけた。

 達吉が顧問を務める憲法問題調査委員会の審議は、前年12月末までにほぼ終わり、翌年1月9日に松本烝治委員長は調査委員会に「憲法改正私案」(松本私案)なるものを提出した。
 さらに、これとは別に委員会としての「憲法改正案」が作成された。こうして委員会の改正案を甲案とし、松本私案を乙案とする二つの案ができあがる。
 ややこしいのは、その後、宮沢俊義委員が松本私案にもとづいて、要綱案をつくったので、これが甲案となり、甲乙の名称が逆転することだ。このとき甲案は「松本試案」と呼ばれることになった。
 何はともあれ、こうして2案がほぼまとまり、次は内閣で憲法改正案を議論する段取りが整ったのである。
 甲乙2案は政府に内示され、1月29日から閣議での議論がはじまった。
 2月2日には委員会最後の総会が開かれた。
達吉はそこで次のように主張している。
 第3条は「天皇は神聖にして侵すべからず」の「神聖にして」をとって、「天皇の一身は侵すべからず」とするのがよい。天皇のいわゆる「人間宣言」を踏まえての発言だった。
諮詢(しじゅん)という表記は残して差し支えない。
 日本は独立国であるという建前で立案していくべきであり、その意識をもってするならば、軍の規定は当然憲法に置くべきである。
 憲法にある「兵役の義務」は削除するにしても、それに代わるものとして「公共に奉仕する義務」を入れればよい。
 審議は大詰めにはいった。
 閣議や委員会での最後の調整がなされ、ついに最終的な憲法改正案要綱(最終版の「松本試案」)ができあがる。
 松本試案とその説明書は、その英文翻訳とともに、2月8日にマッカーサー司令部に届けられた。
 ところが、じつはその前にすでに大事件が持ちあがっていたのである。
 2月1日に毎日新聞が憲法問題調査委員会の憲法改正案なるものをスクープし、発表していた。密室で進められている憲法改正のくわだてを白日のもとにさらそうという思いが強かったのだろう。
 だが、それは松本試案ではなかった。それ以前に宮沢俊義委員がつくった「宮沢甲案」に近いもので、松本試案よりずっと改革的でリベラルな内容だった。
 のちに、これをスクープした記者は、こう話す。首相官邸1階の憲法問題調査委員会の事務室に行くと、誰もいなかった。ふと見ると、机の上に草案冊子が置かれていた。それを社に持ち帰って、大急ぎで手分けして筆写し、約2時間後にそれを戻した。
 政治学者の五百旗頭真(いおきべ・まこと)は「もしそれが事実であるとすれば、そのような『事実』を可能にした協力者がなくてはならないだろう」と指摘する。
 背後にGHQの諜報活動があったのか、政府内の誰かがたくらんだのか、それとも事務官の協力があったのか、真相はわからない。
しかし、このスクープによって、憲法改正案のおおよその姿が国民の前に明らかになったことはまちがいない。
 そして、GHQも動きはじめた。
 毎日新聞の大スクープは当の政府をも震撼させていたにちがいない。それでも憲法問題調査委員会は、何ごともなかったかのように、翌日予定されていた総会を開き、閣議での検討や、当日の達吉の発言なども踏まえて、憲法改正要綱の完成に向かって進んでいったのである。
 2月8日、憲法改正要綱(松本試案)はマッカーサー司令部(GHQ)に届けられた。日本側としては、10日ほどで了承をもらい、それを閣議決定したうえで、枢密院で審議し、総選挙後の4月に予定される議会に上程し、憲法改正案の成立をはかるという段取りを立てていた。
 松本試案とは、どのようなものだったのだろうか。
 それは6章34項目からなる憲法改正要綱だった。あくまでも大日本帝国憲法の改正というかたちをとっている。
 たとえば、こんな調子だ。
 第1章の「天皇」(カタカナをひらかなにした)。

一 第三条に「天皇は神聖にして侵すべからず」とあるを「天皇は至尊にして侵すべからず」と改むること
三 第八条所定の緊急勅令を発するには議員法の定むる所に依(よ)り帝国議会常置委員の諮詢(しじゅん)を経るものとすること
五 第十一条に「陸海軍」とあるを「軍」と改め且(かつ)第十二条の規定を改め軍の編制及(および)常備兵額は法律を以(もっ)て之(これ)を定むるものとす

 天皇は「神聖」ではなくなったとしても「至尊」に改められただけだ。軍の統帥権をはじめとする天皇の大権もそのまま残されている。緊急勅令も従来どおりだ。
「臣民の権利義務」という言い回しもそのまま残されている。ただし、兵役の義務はさすがに削除されている。

八 第二十条中に「兵役の義務」とあるを「公益の為(ため)必要なる役務に服するの義務」と改むること
九 第二十八条の規定を改め日本臣民は安寧秩序を妨げざる限りに於(おい)て信教の自由を有するものとすること

 言論出版集会結社の自由についても、あくまでも法律に背かない限り、それを認めるという立場である。
 議会については、貴族院を廃して参議院とするという項目がある。枢密院も残されている。
憲法改正については、勅令によるのではなく、両議院の総員半数以上の賛成があれば、改正案を発議できるとしている。
 国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ)するという考え方も引き継がれている。ただし、内閣が議会と軍に責任を持つことが強調される。
 陸海軍は解体されたが、独立回復後、軍は再建されると想定されている。

二十 第五十五条第一項の規定を改め国務大臣は天皇を輔弼し帝国議会に対して其(そ)の責に任ずるものとし且(かつ)軍の統帥に付(つき)亦同じき旨を明記すること

 いくつかの条項を並べてみただけだが、これを見ても、松本試案が美濃部私案ときわめて似かよった保守的性格を帯びていたことがわかるだろう。
 憲法改正要綱(松本試案)の提示から5日後の2月13日、GHQのホイットニー民政局長やケーディス次長ら4人が予告どおり麻布の外相公邸を訪れ、吉田茂外相や松本国務大臣と面会した。
 日本側は先日提出した憲法改正要綱について、アメリカ側から何か問い合わせがあるのかと思っていた。
 ところが、ホイットニーは司令部としては松本試案は受け入れられない、と言いきった。その代わりに司令部で立案したこの案をもとに日本側で立案してほしいと述べ、日本側に英文の草案を手渡した。しかも、この案を受諾するかどうかを1週間以内に返答せよという。
 いわゆるマッカーサー草案である。
 驚愕(きょうがく)の瞬間だった。

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