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マッカーサー草案──美濃部達吉遠望(92) [美濃部達吉遠望]

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 1946年(昭和21年)1月26日、美濃部達吉は枢密顧問官に任じられた。枢密院での憲法改正審議に専門家として加わるためである。憲法は枢密院での審議をへなければ最終的に確定されないのが決まりだった。
 しかし、その任命がもし2月13日以降だったとすれば、達吉が枢密顧問官を引き受けることはなかっただろう。かれが審議したいと意気込むのは、あくまでも日本政府の手になる憲法改正案であって、政府案とは名ばかりのマッカーサー草案ではなかったからである。
 マッカーサー草案の成立経緯を、五百旗頭真の『占領期』は、次のように描いている。
 憲法改正は戦後直後から求められており、日本側もその必要性を認識していた。アメリカ側は当初、日本側の動きに期待を寄せていたが、漏れ伝わる情報から次第に失望を覚えるようになっていた。
 1月24日にマッカーサーは病から癒えた幣原首相と会見し、憲法改正の進展具合を聞いた。そのとき幣原はまず天皇制存続についての支持を求め、マッカーサーは同意した。そのあと、幣原が戦争放棄を表明し、マッカーサーを驚かせ、感動させたのだとされる。
 このときに天皇制と平和主義のパッケージが生まれたのだ、と五百旗頭は論じる。
 ここで、われわれは達吉が戦後構想として、天皇制と民主主義のパッケージを打ち出していたことを思いだしてもいいだろう。幣原の構想と美濃部の構想を合わせると、天皇制、平和主義、民主主義の安定した三角形構造が生まれる。
 それは天皇制、軍国主義、権威主義からなる戦前の三角形構造とは異なる新たな統治構造が生まれる可能性を意味していた。
 もし、天皇制を侵略的で排外的な愛国主義から切り離すとすれば、天皇制が平和主義と民主主義によって支えられる以外にない。そのとき、マッカーサーにひらめきが訪れた。天皇制存続という難問を解く糸口が発見できたのである。
 2月1日に憲法問題調査委員会(松本委員会)の憲法改正案が毎日新聞にスクープされ、それがあまりに保守的なものであることが暴露されるのを待って、GHQは憲法草案づくりに着手した。
 マッカーサーは本国政府からは早く日本の改造を進めるよう迫られていた。そのいっぽう、連合国(米英中ソなど)の対日最高管理機関として極東委員会が2月26日に発足することが決まっていた。とりわけそのメンバーであるソ連からの干渉を避けるためにも、憲法草案づくりは急がなければならなかった。
 2月3日は日曜日だったにもかかわらず、マッカーサーはホイットニー民政局長と打ち合わせ、日本国憲法草案のための3原則をまとめた。
 要約すると、それは次のようなものだ。

(1)天皇を国の元首と認める
(2)戦争放棄と戦力の不保持
(3)貴族制度の廃止

 その日、マッカーサーはケーディス民政局次長を呼びだして、この3原則を示したうえで、1週間で日本の憲法草案をつくるよう命じた。
 必死の作業がはじまる。ケーディスは運営委員会を組織して、実務責任者となり、その下に7つの小委員会を設け、25人の民政局員を動員して、草案づくりに没頭することになる。
 こうして9日間で、いわゆるマッカーサー草案ができあがり、2月13
日に日本側に届けられた。1週間以内の返答が求められていた。
 GHQのホイットニー民政局長から憲法草案を受けとった松本国務相は、それを一瞥して、「まず前文として妙なことが書いてある。それから天皇は象徴であるという言葉が使ってあった。憲法のようなものに、文学書みたいな……」と感じ、「とてもだめだ」と思った。
 天皇の条項は、

〈articleⅰ. the emperor shall be the symbol of the state and the unity of the people, deriving his position from the sovereign will of the people, and from no other source.〉

 となっていた。
 のちに日本国憲法で

〈第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。〉

 となる部分である。原文の最後にあるand from no other source(その他の根拠によるものではない)は最終的にはカットされている。
 マッカーサー草案は全11章92条から成り立っていた。前文がつけられているのは、アメリカ合衆国憲法にならったのである。
 だが、その前文は本国のものよりずっと高尚な理念にあふれていた。松本のように「妙なことが書いてある」と思う人が多かったにちがいない。
 松本はGHQがこの草案を取り下げるよう必死に交渉をつづけた。18日には吉田茂外相の側近、白洲次郎がGHQ本部に長文の松本メモを届け、説得にあたったが、ホイットニーはあくまでも強硬な態度を崩さず、20日までに日本側がマッカーサー草案を憲法改正原案として受諾するか否かを返答するよう通告した。
 閣僚たちは19日の閣議ではじめてマッカーサー草案のことを知らされ、驚くと同時に怒りを抑えきれなかった。閣議は紛糾する。しかし、幣原首相が「事ここに至っては事態はきわめて重大であるから、自分も至急にマッカーサーに面会して話をしてみたい」と述べ、その場を収めた。
 2月21日に幣原はマッカーサーと3時間にわたり会見し、マッカーサーから「アメリカ案を容認しなければ、日本は絶好のチャンスを失うだろう」と、念を押された。
 マッカーサーは、極東委員会でソ連などから干渉を受けることを恐れていた。
翌日の閣議で、首相は閣僚にマッカーサー草案への理解を求め、これを原案として憲法改正案をつくるよう努力しようと述べ、会見の経緯をこう説明した。

〈マッカーサーは今日の国際情勢のもとでは、アメリカ側の交付案はぜひとも必要な改正案であって、これにより天皇の地位も確保できるし、またそれは日本側の案、すなわち松本試案と本質的に異なるものとは思われないといい、また主権在民と戦争放棄は交付案の眼目であり、特に戦争放棄は日本が将来世界における道徳的指導者となる規定であるといった。〉

 松本国務相はアメリカ案はとても受け入れられないと述べた。松本試案が葬り去られたことは明らかだった。
 閣議のあと、幣原首相は参内し、天皇に事の経緯を説明し、天皇から了承とともに励ましの言葉をもらった。
 こうして、日本側がマッカーサー草案を受諾することが決まった。
 2月26日には、初めて閣議にアメリカ案全文の外務省仮訳が配布された。
 こうして翌日から、マッカーサー草案にもとづく日本側改正案が極秘裏に作成されることになる。
 日本側の憲法改正案(3月2日案)は3月4日に司令部に提出された。
 憲法改正案を受けとった総司令部では、日米双方の担当者により、その場ですぐに逐条ごとの検討がはじまり、夜を徹する作業となった。
 アメリカ側は日本側の修正や脚色を見逃さず、できるだけ原案に近いものに引き戻そうとした。輔弼(ほひつ)という表現は認められなかった。前文を削ることも、いっさい許されなかった。
 それでもいくつかの修正は認められた。国会を一院制にする案は、けっきょく日本側の主張をいれて、二院制に戻すこととなった。マッカーサー草案にあった土地を国有化するという条項も削られた。
 3月5日も司令部とのやりとりや改正案の確定に費やされた。こうして、最終的に95条が確定する。
 さらに翌6日には、朝9時から夕方4時まで臨時閣議が開かれ、最後の検討がなされた。午後5時になって、楢橋渡(ならはし・わたる)書記官長は記者会見を開き、憲法改正草案要綱を発表した。
 憲法改正草案要綱は改正案そのものではなく、あくまでも要綱である。そのため「第一 天皇は日本国民至高の総意に基き日本国及其の国民統合の象徴たるべきこと」(原文カタカナ)などと、すべての項目が「こと」で締めくくられていた。
 要綱が政府によって正式に発表されたことにより、全国民は新憲法の全容を知ることになった。2月1日に毎日新聞がスクープした憲法改正案は一体何だったのか、多くの人びとは狐につままれたような思いをすると同時に、今回の政府発表の急進的な内容に驚きを隠せなかっただろう。
 要綱の文体は文語体で、しかも翻訳調だった。それもそのはず、ほぼマッカーサー草案の翻訳だったのである。
 政府の発表には憲法前文も含まれていた。前文の変更はいっさい認められず、当初の外務省翻訳に少し手を加えたものが発表された。とりわけ難解な前文を訳すには、さぞ苦労したことだろう。
 改正草案要綱はおおむね好意的に受けとめられた。
 要綱が発表されたあと、政府はいよいよ改正案の作成に取りかかった。その段階で作家の山本有三と法制局内部から、憲法の条文をわかりやすいひらがな・口語体にしたらどうかという提案がだされた。
 当初、憲法担当の松本国務相は、それに反対した。だが、最終的に賛成に回った。憲法の条文がいかにも翻訳調なので、それを隠すには口語体のほうがいいかもしれないと判断したためだという。
 こうして、GHQとの度重なる詰めをへて、4月17日に全文と100箇条からなる政府の憲法改正案がついに完成する。
 このとき、憲法前文は次のように書き換えられていた。

〈日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。〉

 もっとわかりやすく訳せそうなものだ(じっさい、それは可能だ)。
 ひらがな・口語体にしたところで、翻訳された憲法前文は難解そのものという性格を免れなかった。
 日本側と激しいやりとりがなされ、訂正された部分もあるが、日本国憲法の政府案は基本的にマッカーサー草案の引き写しとなった。だが、そのことが当時、日本国民に明かされることはなかった。
 政府の憲法改正草案は明治憲法で定められた諮詢を必要とするため、当日ただちに枢密院の審査委員会に回された。
 しかし、枢密顧問の美濃部達吉はこの改正草案を枢密院で審議すること自体に異を唱えるのである。

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