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枢密顧問官──美濃部達吉遠望(93) [美濃部達吉遠望]

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 明治憲法によれば、枢密顧問の役割は、枢密院において天皇の諮詢(しじゅん)に応え、重要な国務を審議することとされていた。
 諮詢とは天皇が問い尋ねること。1946年(昭和21年)1月に美濃部達吉はその枢密顧問官に任じられていた。
 枢密院はもともと大日本帝国憲法の草案を審議するために設けられた機関で、憲法をつくった伊藤博文がみずから初代議長をつとめた。その後、さまざまな条約や緊急勅令を審議する役割をはたしてきた。
 その枢密院に憲法改正草案を審議する役割が回ってきたのである。枢密院の審議をへなくては、草案は草案のままで、正式の案として確定されない。
 新憲法はあくまでも明治憲法の廃止ではなく改正という形をとっていた。そこには、もちろん新憲法が押しつけではなく、日本人が自主的につくったことを示す意味合いが含まれている。
 4月17日、幣原(しではら)内閣は大日本帝国憲法の改正案として日本国憲法の政府案を発表し、その承認を得るため、同日、ただちにそれを枢密院に送った。審査とは名ばかりで、何はともあれ承認を早急に済ませることが求められていた。
 4月22日、皇居内にある枢密院で、第1回の審査委員会が開かれた。だが、その席上、13人の委員のひとりとして出席した達吉は、枢密院で新憲法政府案を審議、承認すること自体に異を唱えるのである。
 会議には、元首相で枢密院議長の鈴木貫太郎や現首相の幣原喜十郎、国務大臣の松本烝治も出席していた。
 審議を開始するにあたって、最初に鈴木議長が終戦当時の思い出に触れながら、感動的な挨拶をおこない、「この案を見て自分は心から安心し、政府が大いに努力されてこの案をつくられたことに対して深く感謝する」と述べた。
 そのあと、多くの委員からさまざまな質問がなされ、政府側は一つひとつこれに答えていったが、委員会の最後に達吉が発言し、今回の改正を憲法73条でおこなうことに疑問を呈するのである。
「将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」(原文カタカナ)というのが、明治憲法第73条である。
 この会議に立ち会った法制局長官の入江俊郎は、その時の達吉の発言をこう記録している。

〈今回の改正を憲法の73条で提出することにつき疑問がある。73条は果たして有効なのであるか。もし有効なりとすれば、議案は勅命により作成せられたものでなければならない。改正案を審議する議会が改正案において不適法として廃止するような議会であってもよいのか。〉

 ねちねちした発言はまだつづくが、その場にいる人たちは達吉がいきなり何を言いだしたのか、さっぱり理解できなかっただろう。
 明治憲法によれば、憲法を改正するにあたっては、政府が改正案を作成し、天皇の勅裁を得て、枢密院で審議を済ませ、そのあと勅命によって正式の改正案として帝国議会に提出され、議会両院での議決をへて、天皇が裁可するという段取りになっている。
 議会は枢密院で諮詢された政府の憲法改正案に賛成か反対かを表明できるだけで、修正権をもたない。
 じっさいには、欽定の明治憲法は一度も改正されたことはなかった。
 達吉は、新憲法の制定にあたっては、この方式が通用しないのではないかといいたいのだ。そもそも、新憲法では枢密院も貴族院も消滅することになっている。それなのに、枢密院や貴族院で憲法改正案(すなわち新憲法案)を審議しようというのはおかしいというわけである。
 達吉の弁論はつづく。

〈73条で行けば天皇の御裁可で憲法がきまる。しかるに日本国民がこの憲法をつくると前文にも書いてある。これは矛盾であり、虚偽ではないか。現行憲法はポツダム宣言に矛盾する限度で失効していると思う。73条は失効しているのだ。現在は憲法改正の方法につき何らの規定のない、未定の状態である。まず73条にかわるべき憲法改正手続きを次の議会で議決すべきである。それから憲法改正の手続きに入るべきである。政府の原案をつくって議会へ提出する。そして議会で議決すれば国民の自由な意思によったものと見るのか。〉

 達吉は明治憲法はポツダム宣言で失効しており、現在は無憲法状態にあるという。しかも、憲法改正案の条文によれば、この憲法は欽定、すなわち天皇がつくったのではなく、民定、すなわち国民がつくったものだと書いてある。その民定憲法をすでに失効したと考えられる明治憲法の規定に従って制定しようとするのは矛盾ではないのかというのである。
 達吉はさらに言いつのる。

〈原案というものは一般に有力なものであるので、そのような点から考えると、今回のような提出の仕方では国民の自由な意思の表明による憲法の改正とは見られない。政府が原案をつくるのをやめて、真に国民の側で自主的に立案すれば司令部もこれを認めるほかなかろう。しかしこれ以上は議論であるからやめる。〉

 ポツダム宣言は、憲法をはじめとする日本の政府の形態は、自由に表明された国民の意思によって決められるとしている。それなのに、いまこの枢密院の秘密会議で、憲法改正案を審議しようとするのは、そもそもまちがっているのではないか。
 今回の前文でも、この憲法は国会において正当に選挙で選ばれた代議員を通じて国民が制定確立するものと書かれている。それなのに、実際には政府が密かに原案をつくって、ただ国会で審議するというのはおかしいのではないか、と達吉はいう。
 これ以上議論しても仕方ないとして、達吉は議論を打ち切ってしまった。だが、まもなく開かれる戦後初の議会で、憲法制定議会のようなものを開くことを決め、そこで憲法をつくるようにすれば、それこそ国民の意思に沿った憲法がつくれるのではないかというのが、達吉の言いたかった、その先につづく議論である。
 静まりかえった会議室の雰囲気を打ち破るように、松本国務相が発言する。
「政府の提案でも、議会で自由に論じ、それで民主的に通ればそれでもよいのではないか」
 さっさと枢密院での審議を終えて、議会に回し、そこで自由に論じてもらえば、それでよいのではないかという姿勢がみえみえだった。
 達吉はこれにたいし何も発言しない。もう言っても仕方ないと思っていた。
 達吉が批判するのはふたつの虚偽にたいしてである。アメリカはマッカーサー草案にもとづいて日本政府に新憲法草案をつくらせたにもかかわらず、それをあたかも日本国民が制定したかのように称している。さらに、日本政府はマッカーサー草案にもとづく新憲法草案を、明治憲法の規定にもとづく憲法改正として取り扱おうとしている。
 達吉はそうした理由から、幣原内閣による新憲法草案を枢密院で審議すること自体を拒否するのである。
 4月2日に開かれた第2回会議でも、達吉はこう主張する。

〈すでに今日となっては改正案の提出権はない。本院は政府に対しよろしく本案の撤回を要求すべきである。前文は国民が憲法を制定するとある。欽定ではなく民定である。しかるにその原案は、国民の代表と言えない、民衆の根拠を持たぬ政府または法制局がどこかと交渉して秘密裡につくり、それを枢密院に諮詢し、天皇の発議で議会に提出し、議会に修正権ありとは申せ、その修正権は限定されている。御裁可を経て天皇の名で公布する。これで国民が制定したものであるか。〉

 この新憲法草案は国民がつくったものではなく、政府か法制局が「どこか」と交渉して、秘密裡につくったものだという皮肉が強烈である。
 達吉はさらにいいつのる。

〈前文は全く偽りの声明であり、国家の根本法の冒頭にかかる偽りを掲げることは恥ずべきことである。次に、議会は両院からできているが、その貴族院は国民の代表としては不適当であるとして改正草案ではこれを廃止しようとしているではないか。そのような議会にかけて憲法を改正することが妥当であろうか。ゆえに一院からなる憲法会議ともいうべき国民代表会議を開き、これにかけて憲法の改正をするべきであり、政府はそのような憲法会議をつくる手続きを取らねばならぬ。これが唯一の正しい方法であり、また憲法の改正は天皇の御裁可で成立するものではなく、国民投票によって成立すべきものである。〉

 明治憲法はポツダム宣言受諾により無効となった。にもかかわらず、明治憲法にもとづいて新憲法草案を枢密院で審議するのはおかしい、とくり返し主張したのである。もし新憲法をつくるなら「憲法会議ともいうべき国民代表会議」を開き、審議したうえで、さらに国民投票を実施すべきだという。
 これに対し、松本国務相は「内外の要求は改正を急ぐのであって、現下の情勢では手数をかけてみたところで、結果においてはまたこの草案と同じものができるであろう」と答えた。
 達吉の案では、いつになったら新憲法ができるかわからず、GHQからは早急に憲法の制定を求められている。理屈はわかるが、いまは何としても押し切らねばならないというのが松本のホンネだった。
 中身については審議しないといいながらも、この日、達吉は「象徴」としての天皇という表現にも触れ、「象徴のかわりに『国家及び国民を代表する』というように書けないか」と政府に迫っている。
 達吉にとって、天皇とは大権をもつ国家の最高機関にほかならなかった。その天皇の大権が奪われ、象徴ということばで、天皇がまるで神棚の空疎な存在に祭りあげられようとしていることに、達吉は怒りすら感じていた。
 皇室典範を法律の一種とすることにも疑問を呈している。皇室典範は国法には違いないが、同時に皇室内部の法であって、これにたいし天皇が発言権も裁可権もないのはおかしいと述べている。
 象徴の件に関して、松本は「本案成立の過程としては政府はこれを改めることができない」と達吉の要求を突っぱねた。GHQが第1条の表現変更はいっさい認めないとしていたためである。
 のちにGHQは日本側が、天皇の地位は「日本国民の至高の総意」にもとづくと最初に訳していた部分(deriving his position from the sovereign will of the people)を「主権の存する日本国民の総意」にあらためるよう、さらに要求することになる。主権が天皇にではなく国民にあることを、あらためて強調するためである。
 5月3日の第3回会議でも、達吉は改正手続きの件について、しつこく発言した。しかし、委員会はそれを無視し、憲法改正案の各章ごとの点検に入った。
 それで達吉が黙ったかといえば、そうではない。それ以降の会議では、次々と条文の問題点を指摘しつづけた。
 そのころ、新憲法の文体を口語体・ひらかなにしようという動きが強くなっていた。5月15日の第8回会議で、達吉は新憲法を口語文にすることに反対した。

〈口語文は感心しない。たとい口語文にしても俗語や会話体は避けたい。「しなければならない」は東京地方の方言で、文法的には「せねばならぬ」とすべきである。「甲と乙とは」が正しいのに「甲と乙は」となっている。かなづかいも乱雑で、送りがなに統一性がない。〉

 松本国務相は、しかし、そうした反対を押し切って、それまでの文語文カタカナ表記に代えて、口語文ひらがな表記を採用することに決める。達吉には釈然としない思いが残った。
 戦後初の総選挙をへて、5月22日には幣原内閣に代わって、吉田茂内閣が成立する。枢密院の審査委員会は休会となり、これまでの諮詢案は撤回されたうえで、あらためて吉田内閣の諮詢案が出された。その際、いくつかの表現が訂正され、誤訳が改められ、英文についても一部変更が加えられている。
 そのうえで、5月29日に再諮詢後の審査委員会(最初からすれば9回目)が開かれた。
 吉田新首相は委員会の冒頭、特別議会を6月10日ごろ開くことを予定しており、それから議会での審議が始まるので、できればそれまでに枢密院での審議を終えてほしいと発言した。
 そのとき、いつもよけいなことをしゃべりすぎる吉田は、憲法を早くつくって、日本としてはなるべく早く主権を回復し、進駐軍を引き揚げてもらいたいと話している。
 さらにGHQというのはゴー・ホーム・クイックリーの略称だと冗談をいう者もいる(それはおそらく自身だった)と話し、できるだけ速やかに憲法を成立させたいと述べた。
 委員の野村吉三郎(元駐米大使)は9条の2項を削除するよう求めた。これにたいし、吉田は「9条は日本の再軍備に対する連合国側の懸念から生まれた規定で、修正することは困難である。日本の治安は進駐軍を使うほかはない。外国より侵略されるとときも、軍備を持たぬ以上、たとえばソ連に対しても米英の力を借りるほかはない」と答えている。
 このとき、前首相で吉田内閣の副総理となった幣原喜重郎は「占領軍撤退後の国内治安が心配である。歴史に徹するも、中央政府の力が弱かったときに源平二氏が現れた。この辺の見込みは如何(いかん)」と聞いた。
 これに対し、吉田は「占領軍撤退後の状態は今日なお予想できない。日本が独立後、いかなる形を取るかについては不明であるが、やはり国家として兵力を持つようになるのではないか。それは今日では言えないことである。主権を回復すれば兵力を生ずるのではないかと想像する」と答えている。
 9条は当初から悩みの種だった。
 委員会での再諮詢の審議は1日で終了した。
 こうして、委員会は9回の審議を終え、6月8日に枢密院本会議が開かれることになった。
 この日の本会議には昭和天皇が臨席し、三笠宮崇仁(たかひと)親王も加わり、枢密院正副議長と各委員のほか、政府からも吉田首相はじめ各大臣、法制局長官などが出席した。
 委員長の説明のあと、何名かの委員が発言し、最後に起立による採決がおこなわれた。その時のことだ。
 法制局長の入江俊郎がこう書いている。

〈やがて鈴木[貫太郎]議長は起立して「これより採決いたします。本案賛成の各位の起立を乞います」と宣言した。各顧問官、各閣僚みな立った中に、ただ一人美濃部顧問官はうつむいたまま起立しない。これには議長も意外であったらしい。枢密院書記官長以下事務局の人たちも思い設けぬところであったという。〉

 鈴木議長は戸惑ったまま、しばらく立ち尽くし、「全員起立」と言いかけたところで言い直した。
「起立多数、よって本案は委員長の審査報告通り可決されました。これにて会議を終わります」
 その瞬間はまさに息詰まる数秒間だったという。全会一致を原則とする枢密院で、達吉だけが異例の行動をとったのだ。
 だが、ともかく枢密院での可決を経て、政府の憲法改正案が議会に提出されることになった。
 その後、議会では憲法改正案が審議された。
 表には出せないもののGHQによる監査はつづいていた。
 6月下旬以降3カ月以上にわたって、衆議院と貴族院で審議された憲法改正案は、GHQと日本側の修正を加えたうえで、衆議院本会議で10月7日に議決された。
 これにより政府は10月11日に議会修正案を閣議決定し、憲法改正案の修正箇所を枢密院に諮詢する手続きをとった。
 10月19日と21日の両日、枢密院の審査委員会で修正箇所の審議がおこなわれたが、達吉は委員会を欠席した。審査委員会は達吉欠席のまま、全員賛成によりすぐに終了した。
 さらに10月29日には枢密院本会議が開かれ、天皇臨席のもと、審査委員会委員長から報告がなされ、全員起立により、新憲法が確定する。この本会議にも達吉は欠席した。
 こうして11月3日に日本国憲法が公布され、翌年5月3日を施行日とすることが決まったのである。

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