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ブローデルをめぐって(5)──商品世界ファイル(13) [商品世界ファイル]

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 近世の物質文明の締めくくりとして、ブローデルは貨幣と都市について語ります。
 貨幣は交換の道具であり、消費を支える道具でもあり、また消費・交換・生産をつなぐコードでもあるという言い方をしています。
 古代にも貨幣はありました。しかし、15〜18世紀にいたっても、貨幣はまだ完成の域に達していませんでした。貨幣はどちらかというと新奇な存在で、まだいくつかの地域、分野にしか浸透していませんでした。
 しかし、貨幣にはそれまでの生活スタイルを変える力をもっていました。その貨幣を供給していたのが国家です。そして、貨幣はいやおうなく日常生活のなかにはいりこんでいきます。
 それぞれの地域にそれなりの貨幣制度がありますが、ここではやはり近世ヨーロッパに焦点を当てることにしましょう。善かれ悪しかれ、それが世界を引っぱっていったことはまちがいないからです。
 近世のヨーロッパでは、貨幣が徐々に社会に浸透していました。金・銀・銅の金属貨幣があり、さらに前貸しや為替手形にいたる信用制度が発達していました。こうした金融制度はヨーロッパ域内にとどまらず、世界じゅうに網の目を広げようとしています。それを支えていたのは、アメリカ大陸から補給される大量の貴金属だったといえるでしょう。
 金銀銅の貨幣はそれぞれの役割を果たしていました。金貨は王族貴族や大商人、教会がもっぱら用い、銀貨はふつうの取引に利用され、銅貨は貧乏人が日常品を購入するために使っていました。金と銀の比率は、その流入量によって、大きく変化しています。
 ヨーロッパにおいて、当時、貨幣の問題はふたつでした。ひとつは貴金属が外に向かって流出していくこと、もうひとつは貴金属が貯めこまれて、社会から消えていくことでした。
 金や銀はインド諸国や中国に流れていました。それはローマ帝国以来の構造で、ヨーロッパは絹や胡椒、香辛料、麻薬、真珠などの代価を支払うのに、金や銀をあてるほかなかったのです。
 もう一つの小さな流れはバルト海経由のもので、西ヨーロッパは東ヨーロッパから小麦、木材、ライ麦、魚、皮革、毛皮を買い入れて、金属貨幣で支払いをすませていました。
 貨幣が不足しがちだったのは、貴金属が貨幣のまま蓄蔵されたり、金銀の家具や装身具に変えられたりしたためです。さらに、16世紀末期から17世紀初頭にかけて創設された銀行が、貨幣の蓄蔵に輪をかけました。
 金銀の交換比率が常に変動していたことも問題でした。国家はそれを固定しようとしましたが、どうしても無理がありました。
 アメリカ大陸から貴金属が大量に流入すると、貨幣量が増大し、貨幣の流通が加速して、それが経済を刺激し、インフレが生じるようになります。ところが、そのいっぽうで、奇妙なことに、貨幣が不足するという現象が生じていました。
 貨幣の不足を補うために、紙幣や手形が導入されるようになります。紙幣や手形は信用の道具です。信用は昔からある決済方法でした。ヨーロッパでは、為替手形は13世紀、銀行紙幣は17世紀半ばに登場します。
 しかし、何といっても安定した紙幣発行に先鞭をつけたのは、1694年に設立されたイングランド銀行だといってよいでしょう。フランスでフランス銀行が設立されるのは1801年と遅れるますが、それはジョン・ロー(1671〜1729)によるミシシッピ計画の失敗がトラウマとなったからでした。
 紙幣の発行は、その後の近代資本主義の発展に大きな影響をもたらします。
 貨幣とは消費財を手に入れるための証書にほかならない、と定義したのはシュンペーターですが、貨幣はいわば世界の共通言語でもありました。
 ブローデルはこう書いています。

〈外洋航海のように、あるいは印刷術のように、貨幣と信用とは技術である。それも、おのずから繁殖し、永続化する技術である。この両者は、単一かつ同一の言語なのであって、いかなる社会でも、それぞれの仕方でその言語を話しているから、あらゆる個人がその言語を習わざるを得ないのである。〉

 こうして、貨幣という世界共通の言語は、次第に世界を席巻していくことになります。
 貨幣は古代から存在しましたが、その点は都市も同じです。都市が生まれるとき、歴史がはじまる、とブローデルは書いています。それは分業と商業のはじまりであるだけではなく、文明と国家のはじまりをも意味しています。商品世界は貨幣と都市の成長を前提としているといってもよいでしょう。
 中世末期のドイツには、3000の自治都市があり、その平均人口は400だったといいます。フランスでも18世紀初頭に人口900の小都市はざらにありました。これらの小都市は、太陽都市ともいうべき大都市の周囲にちらばっていました。
 人口400以上を都市とするなら、イギリスの都市人口は1500年に全人口の10%、1700年に25%に達しています。イギリスにくらべれば、ロシアの都市化率は、きわめて低かったといわねばなりません。これにたいし、日本の都市人口の比率は1750年段階で22%でした。
 しかし、都市は単独では生きていけず、農村が都市を支えなければなりませんでした。都市と農村は完全に分離されていたわけではありません。都市のなかにも菜園やブドウ畑が広がり、馬や豚が飼育されていました。また農村でも、蹄鉄工や鍛冶屋、車大工などの職人がおり、織物などもおこなわれていました。
 都市は常に補充の新来者を求めます。たとえば、パリで筋肉労働に従事するのは地方出身者でした。かれらは自由と賃金を求めて、パリにやってきます。富裕な商人や有名な教授、建築家、画家なども集まってきます。
 15世紀から18世紀にかけて、ほとんどの都市は、安全を守るため、城壁を築くようになりました。城壁がなかったのはイギリスと日本、それにそれ自体が島であるヴェネツィアくらいのものです。北京の城壁は、ヨーロッパ諸都市の城壁を凌駕していました。
 都市にはそれぞれ存在理由がありましたが、どの都市にも例外なく市(いち)がありました。市は週ごと、あるいは日ごとに立ち、毎日の生活の糧を供給しました。大都市には多くの商品が流れこみ、その途中に宿駅や港が配置されています。
 都市についてもうひとついえるのは、都市はそれぞれが文明の所産だということです。イスラム圏にはイスラムの都市のかたちがあり、中国には中国のかたちがあります。
 西ヨーロッパの諸都市の特徴は「自由を導きの星としてきた」ことだ、とブローデルはいいます。領域国家にたいして、できるだけ自立を保とうとしてきたのです。貴族と有産市民、金持ちと貧乏人のあいだで争いはたえませんでしたが、それでも市民は自分たちの住む都市に愛着をもっていました。
 西ヨーロッパでは、16世紀以降、大都市が生まれました。国家は首都を定め、首都の整備に力を注いでいます。その代表がロンドンとパリ、ナポリで、やがてアムステルダム、ウィーン、ミュンヘン、コペンハーゲン、サンクトペテルブルクなどが後につづきます。アメリカの都市はイギリスの植民地で、ずっと立ち後れていました。
 以前から巨大な規模を誇っていたのが、中東とアジアの都市です。たとえば16世紀のイスタンブルの人口は70万、18世紀の北京の人口は300万でした。インドでは、王族の移動に伴い、都市は興隆したり没落したりしました。
 ヨーロッパの都市とかたちが似ていたのは日本で、1609年の段階で江戸の人口は50万人、京都は40万人、大坂は30万人でした。日本の17世紀はフィレンツェ風の様相を帯びた町人の世紀だった、とブローデルは評しています。
 1530年に3万だったアムステルダムの人口は、18世紀末に20万人に達しました。ここはユダヤ人移民やユグノー難民などの極貧者が住む町でもあります。
 パリでは18世紀に市壁が取り壊され、ほうぼうで広場が整備されました。パリを支えていたのは国王と貴族、役人、金持ち、商人、聖職者、その他大群の民衆です。都市の富は快楽を引き寄せます。
 汚らしくて豊かな、活気と陽気にあふれた町、ナポリの人口は18世紀末には50万で、ロンドン、パリ、マドリッドにつづくヨーロッパ第4の都市でした。貧民区が広がり、ここには10万人以上がつめこまれていました。この貧民大衆のうえに、貴族や聖職者、役人、裁判官などの特権階級からなる上流社会が鎮座していました。
 サンクトペテルブルクは18世紀以降、ピョートル大帝の意思によって建設されました。中央にネヴァ川が流れる水面すれすれの土地は、しばしば洪水に見舞われましたが、エカテリーナ2世は大工事をおこなって、サンクトペテルブルクを堅固で美しく、しかも活気のある都市に変えていきます。
 しかし、何といってもロンドンに触れなくてはなりません。
ロンドンは1666年の大火により荒廃しました。その後、行き当たりばったりで復興し、そのさい、多少の整備がなされています。商業の町にちがいありませんが、同時に王室に依存する町でもありました。その人口は1700年に70万、18世紀末に86万へと増加していきます。
 ロンドンを支えていたのはテムズ川です。そのいくつもの埠頭には石炭やワイン、鮮魚、その他、数え切れないくらいの物資が運ばれてきました。テムズ川にはロンドン橋しかかかっていませんでしたが、橋の両側には商店が立ち並んでおり、南側には酒場と劇場、それに監獄が並んでいました。いっぽう北側にはセントポール教会とロンドン塔が立っていました。
 17世紀から18世紀にかけて、ロンドンは同時に四方八方に伸びていきます。そのうち東部などの周辺街区はしだいにプロレタリア化し、アイルランドからの貧民や中部ヨーロッパ出身のユダヤ人も迫害を逃れてやってくるようになります。
 ロンドンでは基本的な清潔や治安が確保できなくなっていました。火災や洪水の危険性もありました。食料補給も大きな問題でした。「すべてが数に、多すぎる人口に由来していた」と、ブローデルはいいます。
 それでも、巨大都市には長所もありました。「巨大都市は近代国家によって作りだされたのだが、それと同程度に、巨大都市が近代国家を作りだした」とブローデルは書いています。
 巨大都市は全国的市場をつくりだす原動力となったのです。
 巨大都市が資本主義と近代文明の核心に位置していることはまちがいありません。都市に集まるのは虚妄の富にすぎない、とルソーは論じました。それが、ある程度真実であることをブローデルも認めています。しかし、資本、余剰が都市に蓄積されるとともに、都市化はますます進んでいくことになります。

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