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ブローデルをめぐって(6)──商品世界ファイル(14) [商品世界ファイル]

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 15世紀から18世紀にかけて、資本主義はまだ成熟しておらず、それが大きな力をもつのは、ようやく20世紀になってからだ、とブローデルは書いています。
 それでも、市場経済の拡大とともに、近世において資本が大きな権力をもつようになるのはたしかです。権力といっても、それは直接的な政治権力ではなく、経済権力といってもよいでしょう。政治権力と経済権力が分離され、国家のもとに統合されるのが、近代の特徴といえるかもしれません。
 ブローデルの『物質文明・経済・資本主義』は、第2巻の『交換のはたらき』にはいっています。ここでは交換の領域、すなわち市場(しじょう)が論じられます。
 市(いち)の発生はそれこそ古代にさかのぼります。エジプトでもメソポタミアでも中国でも、はるか昔から市は存在しました。しかし、ブローデルが取りあげるのは、15世紀から18世紀における市の発展です。
 都市では市からはじまって、市場(いちば)、商店が生まれます。イギリスやフランスで市が発展するのは16世紀後半からです。市は定期的に開かれ、次第に毎日開かれるようになって、それが市場となりました。パリでは、周辺の地域から魚介類や肉類、小麦、ワインが運ばれてきます。
 その市場から独立するかたちで、商店も誕生します。パン職人、肉屋、靴職人、鍛冶屋、仕立屋などが店をだすようになります。さらに、自分ではものをつくらず、ほかから商品を仕入れて、ものを売るだけの商人もでてきます。金物商、薬局、質屋、両替商、宿屋、居酒屋なども登場します。
 17世紀後半になると、商店は目をみはるほど増殖していきます。高級店は室内装飾をほどこし、ショーウインドウに商品を並べ立て、道行く人びとをひきつけます。
 商店は街路を浸食し、ひとつの地区から他の地区へと進出していきました。すでに一種の消費社会が生まれようとしていた、とブローデルは書いています。
 商店が躍進した最大の理由は、信用売買にありました。小売店は、顧客とりわけ裕福な顧客に掛け売りをしました。掛け売りをするというのは、一種、資本家の立場になるということであり、貸したカネを回収できない危険性もありました。とはいえ、信用貸しの連鎖こそが商業の基本だった、とブローデルは指摘しています。
 市場が浸透していったのは都市だけではありません。近世のヨーロッパでは、人口の8割か9割かが農民で、農村社会はまだ自給自足状態にありました。そこに、ごくわずかの商品を背負った行商人たちが、続々と入っていきます。かれらは市場拡大の担い手でした。
 18世紀になると、市場制度は完全に確立します。西洋がアジアにたいして優位を占めるようになったのは、直接、国家が市場を制御するのではなく、いわば合理的な市場制度が認められ、それが発展したからではないか、とブローデルはみています。
 市場が発展すると、それを束ねる機構も必要になってきます。当初、その役割をはたしたのが大市で、ここには地域の都市や農村から多くの産品がもちこまれるとともに、多量の為替手形が決済され、負債が相殺されました。なかでも有名なのは、ジェノヴァ人が主宰したピアチェンツァの大市です。
 ピアチェンツァの大市は16世紀末から17世紀初頭にかけて栄えましたが、その後、商業と金融の中心はアムステルダムへと移行していきます。アムステルダムの強みは、資本市場としての取引所を有していたことと、商品の流れ(アジアの胡椒、香辛料、バルト海沿岸の穀物その他)を把握していたことです。アムステルダムでは卸売業が発達し、倉庫が整備されていました。
 アジアや大西洋の交易を掌握する国が勃興します。18世紀はイギリスの時代です。ロンドンでは、多数の倉庫をもつ卸売商人が大きな力をもつようになりました。トマス・グレシャムがロンドンに取引所をつくるのは16世紀後半ですが、それはのちに王立取引所となります。
 1695年には王立取引所で、東インド会社やイングランド銀行の株も取引されていました。やがて、1700年ごろには王立取引所から分離されるかたちで、証券取引所が生まれました。
 金属貨幣はつねに不足がちでした。そのため、為替手形が必要となり、さらに公債証書や銀行券、さらに紙幣が加わるようになるのですが、それを支えたのが銀行や証券取引所の信用でした。活発な市場経済は、そうした信用制度がなければ、とても無理だったでしょう。

 ヨーロッパ以外でも、文明のあるところ市はありました。
 イスラム世界では、イスタンブルでもバグダッドでもカイロでも、バザールでありとあらゆる商品が売られていました。
 インドでも、あらゆる村に市があり、都市にも市と商店が密集していました。行商の人数も半端ではなく、鍛冶屋などの巡回職人が都市や村を回っています。
 中国では村に市はなく、市があったのは町で、町の市は週に2、3回開かれていました。農民は市にでかけ、こまごまとした商品を買って村に帰ります。行商人や仲買人は、ひとつの市から別の市へと、たえず渡り歩いていました。
 遠距離商業は大きな利益を生みだしました。アルメニア商人はペルシアとインドのあいだを行き来しており、時にチベットのラサや中国の国境まで足を延ばしていました。扱う商品は銀、金、宝石、ジャコウ、藍、毛織物、綿織物、ろうそく、茶などです。
 この時代、ペルシャやイスタンブル、アストラハン、モスクワでもインド人商人の姿を見かけたといいます。インドではすべての集落に両替商を兼ねる銀行家がいました。インド人銀行家のなかには信じられないほどの金持ちがいて、運送も引き受け、織物の手工業生産にも携わっていました。
 ブローデルは西洋と非西洋との隔たり(分岐)は、そう昔からではなく、遅い時期(18世紀末から19世紀はじめ)にはじまったのだと述べています。ヨーロッパとアジアでは商業が同じように発達していたのに、なぜヨーロッパがアジアを圧倒するようになったのかは、大きな研究テーマといえるでしょう。

 近世になると、商業のルートは複雑な網の目のようになって、世界じゅうに張りめぐらされるようになります。しかし商品はすぐに貨幣と交換されるとはかぎりませんから、為替手形が用いられ、それ自体が取引の対象となっていきます。
 初期の商業は、メディチ家にしてもフッガー家にしても一族経営が一般的で、多くの手代が使用されていました。商人の一族はそれぞれ対立したり協調したりしながら、商圏を築いていきます。アルメニア商人やユダヤ商人のネットワークも世界じゅうに広がっていきます。ポルトガル商人はスペイン領アメリカに勢力を伸ばしました。
 ところで、ブローデルは、ここで商業剰余価値という、マルクスが無視した独特の概念を導入しています。商業剰余価値は、商品は移動するたびに、その価格が上昇していくという、ほぼ例外のない原則から生じます。
 たとえば、1500年ごろ、ヴェネツィアの商人は銀貨や鏡、ガラス玉、毛織物などを船に積んで、アレクサンドリアに向かいました。これを売ったあと、商人はアレクサンドリアで、胡椒や香辛料、薬種を買って、ヴェネツィアに持ち帰ります。このプロセスではふたつの需要とふたつの供給があり、行きと帰りの環があり、その環が完結すると商人の活動は終了し、最終的にその商業剰余価値、すなわち利益が確定されることになります。
 商品には輸送に要するコストがかかるというだけではありません。遠くに運ぶことによって利益が生じなければ、商売をする意味もなかったのです。
 とはいえ、競争相手がいて、商品があまりに大量に入荷したり、持ち帰った商品の品質があまりよくなかったりしたときには、その商品が値崩れを起こし、商人のもくろみが失敗に終わることもありました。つまり、予見したとおりに商業剰余価値を実現するのは、容易ではなかったわけです。
 ブローデルは供給と需要の関係についてもふれています。
 商品交換の刺激となるのが、供給と需要の相関関係であることはいうまでもありません。このことも、往々にしてマルクスが軽視した点でした。
 セビーリャの船は、イドリア(スロヴェニア)の水銀、ハンガリーの銅、北欧の建築用材、毛織物、綿・麻織物、植物油、小麦粉、ブドウ酒などを満載して、新世界へと向かいました。持ち帰るのはアメリカの鉱山で産出する銀の延べ棒です。
 さまざまな商品のかたちで、スペインの輸出に投資した商人は、その見返りが銀で支払われることを期待していました。国王と国家の介在するその取引は、実際には略奪といってもいいほどの、著しい不平等交換で、ヨーロッパに圧倒的な利益をもたらしました。
 遠方交易は巨大な富をもたらす可能性がありました。ヨーロッパの優位性は、地中海交易の発展をバネとして、アメリカとアジアへの交易路を開いたことにあったといえるでしょう。それが資本主義の勃興につながっていきます。
 ここで、需要についていうと、人の欲求はかぎりなく、潜在的な需要は常に存在します。しかし、15世紀から18世紀にかけて、庶民の需要はその9割が食べることに向けられていました。わずかな賃金は、手から口へと、たちどころに食べ物に換えられていきます。
 小麦、米、塩、木材、織物などは、根源的な需要であって、それを満たすためなら、人はいかなる労働も苦とはしませんでした。
 奢侈品には流行がありましたが、それが激烈な欲求を呼びさましたのも事実です。ひと時代前の胡椒につづいて、近世は砂糖、リキュール、たばこ、茶、コーヒーなどがそうした商品でした。
 15世紀末に、ヨーロッパの富裕な人びとは豪奢な毛織物を捨てて、絹織物に乗り換えたといわれます。絹は100年以上にわたって、イタリアに繁栄をもたらしました。17世紀の最後の四半世紀は、イギリス産の毛織物が流行し、そして18世紀にはいると、こんどはインドの更紗がもてはやされます。
 需要に比べれば、供給は柔軟性を欠いています。この時代、経済の根幹は農業です。18世紀前半、イギリスでは農業生産性が飛躍的に増大しました。同じく1600年から1800年のあいだに、工業もまた少なくとも5倍の規模になった、とブローデルは推測しています。そして経済障壁の撤廃が流通をうながしたことも、生産を刺激する要因となりました。
 ここでブローデルは、供給が需要をつくりだすというセーの法則についてもふれています。たしかに、商品を生産するとなると、その過程において金銭の分配が生じます。資本家は原料を買い付け、運送費を払い、労働者に賃金を支払わなければならないからです。すると、支払われた金銭は、購買のかたちで、市場にふたたび姿をみせます。つまり、供給が需要をつくりだしているわけです。
 1930年代になって、ケインズはこのセーの法則を批判しました。供給の受益者が、即座に需要者としてマーケットに姿をあらわすわけではないと考えたのです。
 15世紀から18世紀にかけては、下層階級ほど通貨の流通速度は速かったといえるでしょう。金銭はたちまち手から離れ、食べ物へと変わっていきました。この時代、労働者の賃金を決定するのは食料品価格であって、労働者はみずからが生産した手工業製品の消費者ではありませんでした。
 この時代の企業家は、発注がなければ、事業を起こすことはありませんでした。無から新しい需要をつくりだそうという発想が生まれるのは、産業革命が起こり、商品の価格が安くなり、それが購買力を引きだすことができてからです。
 15世紀から18世紀は、まだ商品は必要にもとづいてつくられており、そのかぎりにおいて、供給が需要をつくりだすというセーの法則はあてはまらなかった、とブローデルは論じています。

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