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西鶴の話(4)──商品世界ファイル(22) [商品世界ファイル]

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 商売には浮き沈みがあるという話を書きました。とはいえ、資本の発展にもっとも重要なのは、商品の動きをつかむことであり、それには場所と時代が関係してきます。西鶴の『日本永代蔵』も、商売の盛んな場所とその特異性を追いかけています。
 ここではマルクスのえがく乱暴な原始的蓄積とはことなる、地道でこつこつとした資本蓄積の姿がとらえられています。
 泉州(いまの大阪府南部)の唐金屋(からかねや)は大船をつくり、北国の海を乗り回して、難波(なにわ)に米を運び大儲けした、と西鶴は記しています。
 大坂が日本一の港となったのは、北前船に加え、瀬戸内航路でも西国から大量の米が運ばれていたからです。米の相場は北浜(のち堂島)の米市で決まります。
 米は当時、最大の商品でした。各藩の財政は年貢によって支えられており、物納された米は大半が売却され、貨幣に代えられます。各藩の米を扱う鴻池や淀屋が実質上、金融業者となり、大名にカネを貸すようになるのは必然でした。
 運ばれた米は町で消費されました。なかでも、江戸、大坂、京都が3大消費地でした。もっとも、人の生活は米だけあれば足りるというものではありません。人がくらしていくには、衣食住それぞれの支えがなくてはなりません。
 町では、それに応じて、さまざまな商品が生みだされ、貨幣を仲立ちとして、商品を売り買いすることによって、生活が成り立つ仕組みができあがります。こうした商品をつくりだす職人や、それを売る商人が増えて、市場に出回る商品が多くなるにつれて、町は繁盛することになります。
 そして、かつてはほぼ自給自足していた村が、こんどは町のために商品をつくるようになり、また町の商品を買うようにもなって、貨幣経済が全国に行き渡り、商品世界が拡大していくことになります。
 大坂が画期的なのは、商売のネタがどこにでも転がっていることだ、と西鶴は書いています。たとえば、大坂では蔵がいっぱいになって、米俵を置ききれないと、外に置いておくことがあります。俵を運搬しなおすたびに、米がこぼれ落ちます。そのこぼれ米を集めている老女がいました。貧しそうな憐れな老女の姿をみて、それをとがめる者はいません。ところが、老女は集めた米をためて、こっそり売り払っていたのです。そのうちに、へそくりがたまりにたまって、20年あまりのうちに12貫500目(いまの金額にして2000万円以上)になったといいます。
 この資金を元手に、老女のせがれは今橋のたもとで銭店を開きました。銀貨などを小銭に両替する商売です。それが繁盛して、この息子はいっぱしの両替商になりました。(巻1の3)
 着物も重要な商品です。
 昔とちがって、服装はしだいにぜいたくになり、人は万事不相応に華麗を好むようになった、と西鶴は書いています。太平の世の到来が、服装にも大きな変化をもたらしていました。
 西鶴によれば、京都室町の仕立屋は、腕のいい多くの職人をそろえていました。人びとはここに絹や木綿の反物を持ちこんで、着物をつくってもらうようになります。元禄のころから、上等の着物の仕立ては家でやらず、だんだん専門の職人にまかせるようになっていたようです。
 江戸では本町(日本橋本町)に呉服屋が並んでいました。いずれも京都の出店です。こうした呉服屋の番頭や手代は、得意先の大名屋敷に出入りして、抜け目なく商売をしていました。
 ところが、次第に世の中がせちがらくなり、大名屋敷も入札で、業者に品物を請け負わせるようになります。そのため呉服屋はもうけの幅が少なくなります。しかも、当時は掛け売りが一般的だったので、こげつきの恐れもありました。このままでは、算盤が引きあわなくなり、店の経営が苦しくなる、とみんなが心配する矢先のこと。
 そこにさっそうと登場したのが、三井九郎右衛門(正しくは八郎右衛門高平[1653〜1738]、西鶴はわざと仮名にしています)という男です。伊勢松坂から進出し、豊富な資金力を背景に、天和3年(1683)、日本橋駿河町に越後屋という大きな新店を開きました。
 すべて現金掛け値なしと決め、それぞれ品ごとに専門の手代40人を担当させて、商売をはじめたのですが、これが大評判になりました。現金売りですが、ほかと比べて安いし、品揃えが豊富、端切れでも売ってくれるし、急ぎの羽織なども即座に仕立ててくれます。毎日平均150両(いまでいえば1700万円近く)の商いをしている、と西鶴は書いています。
 三井の越後屋が、現在の三越へつながることは、つけ加えるまでもないでしょう。(巻1の4)
 ここで場所は京都に移ります。狭い借屋暮らしをしている大金持ちがいました。藤屋市兵衛、通称、藤市です。
 世渡りの基本は万事ぬかりないことだ、と西鶴は書いていますが、藤市の特徴は、つねに情報を集めていたことです。両替屋、米問屋、薬屋、呉服屋の手代から、いつも銭や米の相場、長崎の様子を聞いています。繰綿や塩、酒の相場にも注意を怠らず、それをメモしていました。
 藤市は京都の室町通御池之町(おいけのちょう)に店をだし、長崎商いで2000貫目(いまでいうと36億円)の財をなした大商人です。
 そのしまつぶりは徹底していました。
 身なりはこざっぱりしていましたが、質素でした。絹物もほとんどもたず、紋服もありきたりのもの。野道でセンブリなどをみつけると、これは腹薬になると持ち帰るほどです。正月用の賃餅もぬくもりの冷めた餅を目方で買います。冷めたほうが目方が減るというのがその理由でした。
 茄子(なす)の初物も買うのは少しだけ。家の空き地には、もっぱら実用的な草木を植えています。娘も寺子屋に通わせることなく、家で手習いを教え、とうとう京でいちばんの賢い子に育てあげました。親がしまつなのを知って、子も人の世話にならず身の回りのことは自分でする習慣を身につけ、華美な遊びにはまったく染まりませんでした。
 正月に客がたずねてきて、藤市に世渡りの秘訣を聞きました。藤市は丁寧に教えます。客はそろそろ夜食がでるころだと期待します。「そこを出さぬのが長者になる心がけだ」と、釘を刺すところに藤市の本領があります。
 むだな出費を抑え、地道に資本の蓄積に努めることが商売の秘訣でした。(巻2の1)
 次の場所は山形の酒田です。
 日本海に面し、最上川河口に位置する酒田は、江戸時代、北前船の寄港地としてにぎわっていました。
 鐙屋(あぶみや)は、その酒田を代表する廻船問屋で、現在もその屋敷が残っています。鐙屋という名前からは、もともと馬方が宿泊する宿だったことがうかがえます。
 西鶴も、鐙屋はもともとちいさな宿屋をしていたのが、万事行き届いているので、諸国から多くの商人が集まるようになったと書いています。そして、鐙屋は、そのうち米や紅花などの買問屋も営むようになりました。
 問屋が失敗するのは、商品が売れると見越して、無理な商いをするからです。その点、鐙屋は堅実で、客の売り物、買い物をだいじにし、客に迷惑をかけることもなく、たしかな商売をつづけました。
 カネ(貨幣)の流通と、もの(商品)流通は連動しています。日本海と瀬戸内海を往復して、北国・出羽(のちには北海道まで)と大坂を結ぶ北前船の西廻り航路は、寛文12年(1672)に、河村瑞賢によって開発されました。
 これによって、出羽、北陸の米が安全かつ容易に大坂に運ばれるようになります。その航路は、すでに開発されていた江戸に向かう東廻りと連結し、これにより江戸時代初期に、本州を一周する航路が完成しました。
 当初の目的は、大坂と江戸に年貢米を輸送することでした。しかし、輸送されたのは米だけではありません。商品の数や量がどんどん増えていきました。
 酒田からは内陸の特産品、紅花が大坂へ運ばれ、上方からは木綿や砂糖、着物、道具などが入荷し、東北各地に流れていきます。
 交易の発展は、商業の中心地と地域を結び、地域の発展を促していきます。江戸時代のはじめには、そんな好循環がはじまっていました。
 酒田はそんな流通を担う北前船の一大寄港地でした。その船数は天和年間(1681〜83)で、毎年、春から9月までで3000艘におよんでいたといいます。
 鐙屋は北前船の交易にたずさわる商人に宿を提供するところから出発し、買問屋として商人の欲しがる物品を集め、それを売ることによっておおいに繁盛しました。その亭主と女房は万事如才なく、客の機嫌をとり、並々ならぬ才覚と度胸によって商売を取り仕切っていた、と西鶴は記しています。(巻2の5)
 江戸で一旗揚げる話もあります。
 ある文無しの男が江戸にやってきました。まずは日本橋の南詰めに1日立って、人の群れを観察してみることにしました。祭でもないのに大勢の人が行き交い、大通りも往来の人であふれています。だれか財布でも落とさないかと目を皿にしてみていましたが、さすがにそんな人はいません。なるほど、カネを稼ぐのは容易ではないと、いまさらながら気づかされました。
 元手がなくてもかせげる仕事はないかと思案しているうち、ある日、男は大名屋敷の普請を終えた大工の見習い小僧たちが、かんなくずや檜の木っ端をぽろぽろ落としていくのに気づきました。それを拾っていくと、ひとかたまりの荷物ができました。ためしに売ってみたところ、手取りで250文(7000円たらず)になりました。
 足もとにこんな金もうけの種がころがっていたとは、と男はびっくりします。それから、木屑や木っ端を集めつづけました。雨の日には、木屑を削って、箸をつくり、須田町や瀬戸物町の八百屋に卸売りをするようになりました。それが箸屋のはじまりです。
 こうして、この男、箸屋甚兵衛は、しだいに金持ちになり、ついには材木屋をいとなみ、材木町に大きな屋敷を構えるようになったといいます。持ち前の度胸で、手堅く材木を売り買いして、40年のうちに10万両(108億円)の財産を築いたと伝えられます。
 そして70歳をすぎてからは、それまでの木綿着物を飛騨紬に替え、江戸前の魚の味も覚え、築地本願寺にも日参し、木挽町の芝居を見物し、茶の湯をもよおしたりして、余生をすごしました。
 人は若いときに貯えて、年を寄ってから人生を楽しみ、人にほどこすことが肝心だ、と西鶴は教えます。カネはあの世にはもっていけません。しかし、この世でなくてはならないものはカネというわけです。
 ここには徒手空拳から富を築き、晩年はゆっくり思いのまますごすという、いわば町人の理想がえがかれています。箸屋の場合は、江戸で大きな需要のあった木材の商売に致富のきっかけをつかんだのです。(巻3の1)
 次の場所は大坂に接した堺の町です。
 堺の樋口屋は世渡りに油断なく、むだ使いをしたことがありません。算盤を忘れず、家計はつましく、見かけはきれいにし、物事に義理がたく、しかも優雅です。
 ある夜更け、樋口屋の戸をたたいて、酢を買いにきた人がいます。下男が「おいくらほど」と聞くと、客は「お手数ながら一文(30円)ほど」といいます。すると、下男はめんどうになり、「本日は閉めておりますので、あすにでもおこしください」といって、客を追い返してしまいました。
 たまたまこのやりとりを聞いていた主人は、翌朝この下男を呼んで、門口を3尺(1メートル)ほど掘れと命じました。
 下男は諸肌ぬぎになって、汗水を垂らしながら、鍬で地面を掘ります。
「どうだ、銭はでてきたか」と主人。
「いや、小石と貝殻だけです」と下男。
 これを聞いて主人はさとします。
「これだけ骨を折っても、銭一文も手にはいらないことがわかっただろう。これからは一文商いもだいじにしなさい」
 主人は家業をまじめに勤めることがいかにたいせつかを説きます。借金があれば、毎日のもうけのなかからその分を取り置いて、まとめて月の返済にあてること、小遣い帳をつけてむだな買い物をしないこと、それからよほど困ったときは外聞にかまわず思い切った処理をし、また一から出直す覚悟をすることなどを下男に教えました。
 西鶴は、堺では成金はまれで、親から二代、三代とつづけて、堅実な商売をしていると絶賛しています。
 しかし、こうした堺の繁栄がいつまでもつづかなかったことを、西鶴はまだ知りません。港としての機能が次第に失われたことが、商業都市、堺の経済基盤を押し流していくことになります。(巻4の5)
 長崎の繁栄もつけ加えておきましょう。
 まず金平糖と胡椒の話です。
 金平糖は高級輸入菓子で、南京から渡ってくる輸入品を高い値段で買っていました。これを何とか日本でもつくれないかと考え、その製法を見つけたのが長崎の人です。ケシ粒に少しずつ糖蜜をかけて粒をつくり、それをかきまぜながら、さらに糖蜜をかけて大きくしていきます。できあがるには2、3週間もかかるといいます。
 原料は安いのに、製法がむずかしいため珍重された金平糖は、高い値がついて、おおいに儲かりました。まもなく男は金平糖づくりを女性たちにまかせ、自分は小間物店を開き、一代で千貫目(18億円)の財産を築いたといいます。
 胡椒もまた中国から伝来した珍品でした。原産はインドです。だが、湯を通してあるため、それをまいても、木になりませんでした。しかし、あるとき高野山で3石もの胡椒をまいたところ、そこから2本だけ芽が出て木に成長し、それから日本でも栽培されるようになった、と西鶴は書いています。
 ちなみに、中国から日本に胡椒がはいったのは8世紀半ばのことです。平安時代には山椒とともに調味料として利用されていました。
 唐辛子より胡椒のほうが先に伝わっていたというのは意外に思うかもしれませんが、事実です。唐辛子は中南米が原産で、それが日本に伝来するのは、ようやく16世紀半ばになってからです。朝鮮には17世紀初めに日本から伝わったという説があります。
 西鶴は長崎の隆盛をたたえています。季節ごとに中国から貿易船がはいってきて、糸や巻物、薬品、鮫皮、香木、諸道具、その他思わぬ珍品を運んできますが、どれも落札し、売れ残ることがありません。それを買う京、大坂、江戸、堺の商人たちは、商品への目利きがたしかで、しくじることがありません。
 長崎の商売では、ひとつだけ注意しなければならないことがあります。それは海上の心配のほかに、いつ吹きだすとも知れない恋風がおこることだ、と西鶴は冗談めかして書いています。すなわち問題は、長崎に丸山という廓があることです。これはたしかに商売の妨げになったかもしれません。疑似恋愛の場所である遊郭とカネはたがいにひきつけあう要素をもっていたからです。
 とはいえ、資本主義が恋の風と贅沢に結びついていることは、ゾンバルトも認めているところです。これに新商品への熱狂も加えるべきでしょうか。資本主義はケチと節約だけで成り立っているわけではなく、かならず消費と結びついています。
 とうぜんながら、こうした資本主義の風潮と商人の台頭を苦々しく思っている人も数多くいました。そうした一人として、次に江戸時代の代表的儒者、荻生徂徠の考え方をみておくことにしましょう。

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