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西鶴の話(3)──商品世界ファイル(21) [商品世界ファイル]

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 西鶴は『日本永代蔵』で商売の栄枯盛衰をえがいています。金持ちが転落するのは、一種の教訓となっていますが、そんな話ばかりではありません。なかには、挫折や失敗をへて、身代を立てなおしていく話もあります。そんな話をいくつか集めてみます。
 京都の大黒屋は京都でも指折りの金持ちで、米問屋を営んでいました。その主人がそろそろ隠居しようと思うころ、長男の新六がにわかにぐれだします。色遊びにうつつをぬかし、半年もしないうちに170貫目(約3億円)もの穴をあけてしまいました。手代がなんとか帳尻をあわせて、盆前の決算を乗り切ったものの、その後も新六の道楽はやみません。
 そこで、とうとう勘当ということになります。新六は伏見稲荷門前の借家に身を隠し、わが身を嘆く日がつづきました。年もおしつまった12月28日、風呂にはいっていると、血相を変えた親父さまが突然あらわれたので、ふんどしもつけず、綿入れを1枚引っ掛けて逃げだしました。たぶん、大黒屋に借金取りが押し寄せたので、親父さまの堪忍袋の緒が切れたのでしょう。
 江戸に行こうと思っていました。1文もないので、道中苦労したことはいうまでもありません。生まれもった才覚で、何とか銭をかせぎだし、餓えをしのぎました。
 江戸に着いたときは2貫300文(6万2000円ほど)残っていました。日も暮れかかっているのに、宿のあてもありません。そこで、新六は東海寺(北品川の禅寺)の門前で一夜を明かすことにしました。大勢の乞食がたむろしています。波の音が響いて、眠れないまま、みんなが身の上話をするのを聞くともなく聞いていました。
 だれもが親の代からの乞食ではありませんでした。ひとりは大和の竜田の里から江戸に出たのだといいます。江戸にくだって、一旗揚げようと、わずかな元手で酒の店を開きましたが、これが大失敗。もうひとりは泉州堺の出身で、芸事で身を立てようとしましたが、商売になりませんでした。さらに別のひとりは江戸の生え抜きで、日本橋に大きな屋敷をもっていましたが、何せおカネを使うことしか知らなかったため、そのうち自分の家まで売ってしまい、乞食になったといいます。
 話を聞いて、新六も身につまされるばかりでう。親に勘当された身を語りました。それにしても、これから江戸で生きていくにはどうすればよいか。カネがカネを生む世の中、元手がなくては商売もはじめられない。新六は話を聞いたお礼として、3人の乞食に300文(約8000円)ずつやって、たまたま知るべがあった伝馬町の木綿問屋を訪れ、それまでの事情を正直に話しました。
 すると問屋の主人は同情してくれて、江戸でひと稼ぎするよう励ましてくれました。そこで、新六はまず木綿を買いこみ、手ぬぐいの切り売りをすることにしました。縁日に目をつけ、下谷の天神(寛永寺黒門近くにあった牛天神)に行き、手水鉢(ちょうずばち)のそばで売ったら、参詣の人が縁起をかついで、よく買ってくれました。
 そんなふうに毎日工夫して、商売をつづけていたら、10年たたないうちに5000両(約5億円)たまって、金持ちなり、町の人からも尊敬を集めるようになったといいます。店ののれんには菅笠をかぶった大黒が染められていました。これが江戸の笠大黒屋のはじまりだ、と西鶴は話を結んでいます。(巻2の3)
 大金持ちの息子から、勘当されて乞食どうぜんの身に、そしてまた大金持ちに。人生どんなふうに転がるかわからないものです。世をうらんでも仕方ない。けっきょく、自分で自分の道を切り開くしかないのだ、と西鶴は主張しているようにもみえます。
 つづいてのエピソードは、駿河府中(いまの静岡市)本町にあった呉服屋、菱屋の話です。かつては繁盛し、大店をいとなんでいました。安倍川紙衣(かみこ[防寒などに用いた紙の衣])に縮緬皺や小紋をつけて売りだしたのが評判を呼んで、30年あまりのあいだに千貫目(18億円)の身代を築きました。
 ところが、息子の忠助はまるで無能、収支も決算もせず、帳面もつけないというだらしなさで、店はたちまち倒産してしまいます。いったいにカネ儲けはむつかしく、減るのも早いものだ、と西鶴は書いています。
 努力なくして、カネはたまらぬものです。しかし、ただの努力だけでも、カネはたまらないでしょう。商品を買う人が減れば、カネは逃げていくからです。紙子がいつまでもよく売れたとは思えません。
 その後、忠助は浅間神社(現在の静岡市葵区)の前の町はずれで、借家住まいをする身となりました。親類縁者も寄りつかず、かつての手代も音信不通となり、悲しい日々を送っていました。
 かといって、はたらくわけではありません。小夜(さよ)の中山にある峰の観音にお参りに行き、「もう一度長者にしてくだされ」と願って鐘をつくのがせいいっぱい。そんな男を観音さまが助けてくれるわけもありません。
 しかし、さすがに何もしないのでは、日々のくらしが成り立ちません。そこで忠助は竹細工の名人に習って、鬢水(びんみず[髪油])入れや花籠をつくって、13歳になる娘に町で売らせ、生計を立てていました。
 ところが、あるとき、伊勢参りから帰る江戸の豪商が、たまたまこの娘を見初めたのです。そして、ぜひ息子の嫁にしたいと親元にやってきました。こうして忠助夫婦は娘ともども江戸に引き取られ、わが子の世話になる仕合わせな身の上となったといいます。まさに、ことわざにいうとおり、「みめは果報のひとつ」だ、と西鶴は結んでいます。
 ほんとうにこんなことがあったのでしょうか。しかし、貧乏な家の娘がスカウトされて有名なタレントになるという話は、いまでもありそうですから、あながちなかったともいえません。
 人生はまさに変転きわまりないのです。カネがカネを生む世の中で、人は翻弄されます。そのなかで、人生はしょせん一代かぎり、男も女も与えられた運をしっかり見定め、みずからの才覚で自分の道を切り開いていかなくてはならない、と西鶴は諭しているようにみえます。
 京の染物屋、桔梗屋(ききょうや)の話も紹介しておきましょう。
 正直一途に商売に励んできましたが、そのかいもなく貧乏暮らしがつづいています。
 あるとき、やけをおこして、わら人形で貧乏神をつくり、これを神棚に祭って、元旦から七草まで精一杯もてなすことにしました。貧乏神でも家の神さま。毎日、仕事があって、食べていけるのも、そのおかげというわけです。
 めったにないもてなしを受けた貧乏神は大喜び。七草の夜に、亭主の夢枕に立って、しきりに感謝を述べ、この家を繁盛させてやると約束しました。
 しかし、貧乏神がこの家を繁盛させてやると告げたわけは何だろう、何か工夫できることがあるのではないか、と桔梗屋は考えました。
 染めといえば紅(べに)です。紅染めは山形の紅花で染めた本染めがいちばんですが、値段が高い。もっと安くできないものだろうか。
 そこで桔梗屋はいろいろ工夫を重ね、蘇芳(すおう)で下染めし、それを酢で蒸し返すと、本染めと遜色のない中紅(なかもみ)ができあがりました。
 桔梗屋は染めあがった品物をみずから担いで江戸に下り、本町の呉服屋に売りさばきました。しかし、手ぶらでは帰りませんでした。京に戻るさいには、奥州の絹と綿を仕入れて、それを京で売ったのです。
 いまでは桔梗屋は一家75人を指図する大旦那となり、長者町(いまの上京区仲之町)に大屋敷を構えるまでになりました。
製造と流通の工夫で財をなした桔梗屋甚兵衛は延宝9年(1681年)に亡くなっています。西鶴の話は、どれも実際にあったことです。(巻4の1)
 筑前博多の商人の話も取りあげておきましょう。この人は不運なことに1年に3度まで嵐にあって貨物を失い、すっかり元手をなくしてしまい、家でぼんやり暮らしています。
 あるときのことです。ふとみると、クモが杉の梢に糸を張ろうとしています。外は強い嵐。クモの糸はたちまちちぎれてしまいます。だが、何度失敗しても、クモは糸をくりだし、ついに巣をつくりあげました。
 男はそれに心打たれます。「気短にものごとを投げだしてはいけない」と思い、家屋敷を売り払い、それを元手として、ひとり長崎にくだりました。
 ようやく伝手を見つけて、長崎博多町の入札市にはいりこみ、舶来の唐織や薬、鮫皮[刀の鞘に用いる]、諸道具に出合いました。買えばもうかるとわかっています。しかし、それを買うだけの資金がありません。みすみす京や堺の商人に品物をさらわれてしまいました。
 やけになった男は、丸山の遊郭にでかけました。昔はぶりのよかったころに出会った花鳥という太夫を揚げて、一夜かぎりの遊びおさめにしようと思ったのです。
 花鳥の部屋にあがります。だが、そこに立てられている枕屏風をみているうちに、そのみごとさに見とれてしまいました。よくみれば、ほんものの定家の小倉色紙が6枚も張ってありませんか。
 それから男は明け暮れ花鳥のもとに通いづめ、すっかりなじみになり、ついにその屏風をゆずってもらうことに成功します。男はそれを持って上方におもむき、さる大名にこの古屏風を献上して、かなりのカネを下げ渡されました。それを元手として、ついには長崎でも知られる金屋(かなや)という大貿易商になったといいます。
 これだけなら、遊女をうまくだましてカネもうけした悪い男の話で終わってしまいます。しかし、西鶴は男が花鳥を身請けして、思う男のところに縁づけてやったという逸話をつけ加えています。遊女も「このご恩は忘れませぬ」と、男に感謝したといいます。これなどは、回りまわって、カネが人を救う話になっています。もちろん、その逆もおおいにありうることですが。
 亭主が亡くなって、残された後家が店を再建する話も記録されています。
松屋は奈良の春日の里で、晒布(さらしぬの)の買問屋を営んでいた。ちなみに、晒布は麻や木綿でつくる反物で(木綿のものが更紗)、奈良の特産品でした。松屋はその晒布を買って、諸国の商人に売る商売をしていました。
 ところが、あいにく、その主人が平生の贅沢と不摂生がたたって、50歳で早死にしてしまいます。あとに残されたのは38歳の後家と幼い子どもでした。悪いことに、だいぶ借金も積もっていました。
 器量よしにもかかわらず、後家は再婚せず、髪を短くして、白粉(おしろい)もつけず、懸命に亡き夫の後始末に奔走しました。
 借金は銀5貫目(およそ900万円)ほどでした。最初は借金を返済するため、多くの債権者に自宅を引き渡すつもりでした。しかし、だれも受け取ろうとしません。その処理がめんどうだったのと、母子をいきなり追いだすような不人情をしたくなかったからでしょう。
 そこで、後家はこの家を頼母子(たのもし)の入札(いれふだ)で売ることにした。1人から銀4匁(約7200円)ずつ受け取って、札にあたった人にこの家を渡すことにしました。いまでいう宝くじのようなものです。
 すると3000枚の札がはいって、後家は銀12貫目(約2100万円)を受け取ることになりました。札にあたったのは、人につかわれていた下女で、彼女はめでたくこの家を受け取ることになります。後家はこれで5貫目の借金を払って、残った7貫目(約1260万円)を元手に商売をはじめ、ふたたび金持ちになったといいます。女性社長の誕生です。(巻1の5)
 これは才覚によって、降りかかってくる苦難を乗り越える話です。「永代蔵」には、困ったときの知恵袋のような話が、随所に盛りこまれています。
 どんなに困窮していても、地道に努力し、工夫を積み重ねていれば、いつか幸運が舞いこんでくるかもしれないという話です。

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