SSブログ

ヒッケル『資本主義の次に来る世界』を読む(3) [商品世界論ノート]

1c3cfdc7-e191-4bc8-8ff9-8fb3a4abe8f7.__CR0,0,1600,1600_PT0_SX300_V1___.jpg
 ある段階を過ぎると、人びとの生活を向上させるためにGDPを増やす必要はまったくなくなる、と著者はいう。実際、1人あたりGDPは低いのに、驚くほど高レベルの福祉を実現している国は数多い。たとえばコスタリカ。アメリカよりはるかに所得が低いにもかかわらず、平均寿命は高い。韓国、ポルトガルもそうだ。フィンランド、エストニア、ポーランドも所得は低いが、アメリカよりずっと教育レベルは高い。
 GDPが高くなくても、平均寿命、教育、識字率、所得を基準とする人間開発指数(HDI)が高レベルの国も数多く存在する。これらの国は質の高い公的医療制度や教育システムに多額の投資をしてきた。
それよりもむしろ、ある閾値を超えると、成長はマイナスの影響を与えると言ってもいいくらいだ、と著者はいう。富よりも貧困が生みだされ、不平等と政治不安が助長されるのだ。
 アメリカで幸福度がピークになったのは1950年代で、それ以降、平均年収は4倍になったにもかかわらず、幸福度は横ばいか、むしろ低下している。その原因は富の不平等が増大したからだ。

〈不平等は不公平感を生み、それは社会の信頼、結束、連帯感を損なう。また健康状態の悪化、犯罪率の上昇、社会的流動性の低下にもつながる。不平等な社会で暮らす人々は、欲求不満、不安感、生活への不満がより強い傾向にある。〉

 これに対し、幸福度の高い国は、しっかりした福祉制度を持つ国だ、と著者はいう。社会保障や休暇制度、住宅、託児所、賃金制度が充実していることに加えて、社会に思いやりや、協力、コミュニティのつながりがあれば、幸福度は高いと言える。高速道路や高層ビル、ショッピングモール、豪邸、自動車、きらびやかな施設は、経済発展の象徴かもしれないが、それは必ずしも幸福度とは結びつかない。
 要するに不平等を是正し、公共財に投資し、所得と機会をより公平に分配する。それだけでいいのだ。それだけで、成長を不要とする繁栄がもたらされる。人々は広告に刺激されて、消費主義に走ることもなく、経済がさらに生態系に大きな負荷をかけることもない。公園やスイミングプール、娯楽施設、図書館、学校、病院など公共財の充実は人びとを豊かにする。公共財の存在は、所得を増やさなければというプレッシャーから人びとを解放する。教育機関も人を選別することが目的ではなく、人に知の喜びを与えるために存在する。
 いっぽう、成長主義が目指すのは明らかに人に差をつけることだ。実際、1970年以来、アメリカの1人あたりGDPは倍以上になったが、この50年で貧困率は高くなり、実質賃金は低くなっている。利益のすべては事実上、富裕層に流れ、アメリカはむしろ退行している。
 富裕国はもはや成長を必要としない。しかし、貧しい国は、平均寿命、公衆衛生、栄養摂取、所得をとっても、まだじゅうぶんな水準に達していない。人びとの生活を向上させるという点において、人間中心の成長は必要だ、と著者はいう。社会インフラを整え、土地改革をおこない、国内産業を保護し、所得を再分配し、生態系を守る経済を構築するために、成長をめざさなければならない。
 グローバルノースの富裕国がグローバルサウスの貧困国の人びとと資源を組織的に搾取する構造はいまもつづいている。こうした構造を是正するための国際的ルールづくりも必要だ。
 ここで、著者はあらためて成長のイデオロギーについて触れる。成長とは結局のところ、資本蓄積のメカニズムを加速させることにほかならない。だが、生態系が危機に瀕しているとき、この戦略は通用しないという。何のための成長かをはっきりさせなければならない。経済が成長しても格差が広がるばかりか、生態系の破壊が広がるとすれば、それに何の意味があるだろう。
 気候変動を解決する技術を開発するためにも成長は必要だとする主張には何の根拠もない。イノベーションを促進するのは、むしろ公的な決定である。経済全体が成長しなければイノベーションはおこらないというのはへりくつにすぎない。
 いまもGDPは世界のあらゆる場所で、いまだに進歩の指標となっている。しかし、状況は変わりはじめている。GDPに代わる新たな指標づくりが模索されている。ただし、新たな指標をつくればそれでじゅうぶんというのではない。問題は成長主義にストップをかけることだ。成長しなくても繁栄は可能だ。

 いまとはちがう種類の経済を想像することは可能であり、それはコペルニクス革命に似ている、と著者はいう。それが、脱成長のビジョンだ。
 高所得国はまず資源・エネルギー消費を削減する必要がある。それによって、生態系とのバランスを取り戻すことを目指さなければならない。
 浪費的な大規模経済に終止符を打つことからはじめよう。まず家電製品やハイテク機器、家具などの計画的陳腐化をやめさせることだ。家電製品の寿命を最長25年まで延ばす技術はすでに存在している。メーカーにはずっと長い保証期間を義務づけてもよい。そうなればもっと耐久性があってアップグレード可能な製品が販売されるようになるだろう。製品が長持ちするようになれば、ムダな廃棄はなくなり、人びとは絶えず機器を取り替える苛立ちや出費から解放される。
 もうひとつは広告を減らすことだ。1920年ごろまで、人々はどちらかといえば消費に消極的で、必要な物を買うだけだった。ところが大量生産をおこなう企業にとって、需要を喚起する広告は次第に不可欠なものになった。いまは世の中、広告だらけだといってよい。それは消費意欲を刺激し、著者にいわせれば「公共の空間だけでなく、人々の心も植民地化している」。
 パリやサンパウロなどでは、中心部から広告を締めだす動きがはじまっている。経済学者のなかには、広告は消費者の合理的判断を助けるために必要だという人もいるが、広告はむしろ「人々に不合理な判断をさせるために設計されている」と、著者はいう。
 さらに、商品を購入して自分の所有物にしても、たまにしか使用しない物もじつに多い。たとえば芝刈り機や電動工具もそうだ。これはおそらく月に一度、1、2時間使うだけで、あとはほとんど眠っている。こうしたものは、コミュニティで共同購入し、保管して、必要なときに使用できるようにすればいいはずだ。
 自動車に求められるのは、電気自動車への切り替えもだいじだが、何よりもその総数を大幅に減らすことだ。そのためには公共交通機関への投資を増やすとともに、カーシェアリング、レンタカーを促進することが求められる。ヨーロッパではすでに都市や郊外でも、自転車を活用する動きがはじまっている。
 食品廃棄も大きな問題になっている。あまりにも多くの食品が廃棄されている。農家でもスーパーでも家庭でも。脱成長の観点から言えば、食品の廃棄を少なくするだけで、無駄な生産を抑え、農地を縮小することができる。
 牛肉産業は多くの牧草地と飼料用地を必要とするため、森林破壊の最大の要因となっている。著者は牛肉に代えて、鶏肉や植物性タンパクをとることで、牧草地を減らし、森林や野生動物の生息地に戻すべきだと主張している。
 ほかにも縮小すべき産業としては、軍事やプライベートジェット機、プラスチック製品などの産業がある。オリンピックやワールドカップのために、新しいスタジアムなどを作ることもばかげている。できれば民間航空も縮小し、鉄道で行ける場所は鉄道を利用するようにすればいい。
 生態系に負荷をかける消費はできるだけ減らすべきだ。もし消費する製品が半分になったら、工場や機械も半分ですみ、輸送用の飛行機やトラック、船も半分になる。ゴミも半分になり、すべてのインフラを整備、維持、操作するための資源やエネルギーも半分ですむ。
 すると仕事はどうなるだろう。製品の無駄が改善されると、関連産業の雇用は減り、労働者は解雇され、政府は失業対策に追われるようになるかもしれない。しかし、そうならない道もある。週の労働時間を減らし、必要な労働を公平に分配すれば、完全雇用を維持できる。斜陽産業から他の産業への転職を容易にし、誰も取り残されないようにする。
 公的な雇用保障制度を導入し、職を求める人はコミュニティの必要とする仕事につけるようにし、必要な生活賃金を払うようにするべきだ。加えて、労働時間の短縮は、職場と家庭の両方でジェンダー平等を促進することになる。余暇やボランティア活動、学習、友人や家族との交流も増えるだろう。環境に配慮する姿勢も強まるはずである。
 脱成長のシナリオのなかで、すべての人は生活するにじゅうぶんな所得を得られるか。もちろんだ、と著者はいう。カギは公平な所得分配にある。労働時間短縮と雇用保障が前提になる。役員と従業員の報酬比に上限(たとえば10対1)を設け、基準を超える所得に100%課税するという方策もひとつだ。富裕税を導入し、10億ドル以上の超富裕層に課税するという手もある。富裕層が得ている所得は、その多くが不労所得なのだから。
 生活の質の向上を目指さなければならない。著者はロンドンに住んでいるが、ロンドンの家賃はあまりに高いという。賃金の上昇はそれにとても追いつかない。家賃統制制度を設けるべきだろうという。
 ほかに、医療と教育、インターネット、公共交通機関、エネルギー、水、図書館、公園、スポーツ施設なども幸福には欠かせないものだ。こうした基本財を脱商品化し、コモンズを拡大していくならば、人々は所得を増やさなくても、豊かに暮らせる基盤をもつことになる。コモンズの充実は脱成長をうながすはずだ。
 失業への不安、所得格差と貧困、人を追い立てる消費欲求、長時間労働、働き過ぎによるストレス、公共部門の民営化、生態系の破壊……こうした資本主義のもたらすジャガノート(圧倒的破壊力)から決別する道を探らなければならない。
 資本主義はいまも次々と絶え間なく新たな商品を生みだし、人びとの消費意欲を刺激しつづけいるが、その目的は「人間のニーズを満たすことではなく、満たさないようにすることなのだ」と、著者はいう。人は満足することを否定され、つねに不安にさらされ、はたらきつづけ、また買いつづける。経済がさらに成長するために、資源はかぎりなく開発され、生態系は破壊されつづける。
 いま必要なのは脱成長だ。次々と新たな商品を生みださなければ生きていけないという幻想からの脱却だ。これ以上の豊かさのために、さらに資本主義を推し進め、成長を求める必要はない。むしろ、脱成長こそが豊かさを実現する、と著者はいう。
 ただし、いくつかの問題が残されている。じつはわれわれの経済は債務のうえになりたっている。学生の学資ローンやサラリーマンの住宅ローンもそうだ。企業自体も銀行から多くの融資を受けている。グローバルサウスの国々は、富裕国に莫大な債務を負っている。債務は利子をつけて返済しなければならないが、それ自体がたいへんなことだ。人も企業も借金にしばりつけられて活動している。こうしたシステムはどこかおかしいのではないか。資本主義のつくりだした金融システムはふくれあがり、ある時点で強烈に清算されるが、これとはことなるシステムが模索されなければならないことはいうまでもない。
 結局、ポスト資本主義、脱資本主義とは何か。
 それはソ連のような抑圧体制をめざすことではない。原始的な生活に戻ることでもない。基本的に今と変わらない豊かな社会を保つことだ。ただ、根本的に異なるのは資本主義のような狂気じみた経済行動から決別することだ。富はより公平に分配され、労働時間は短縮され、人びとはより幸福になる。資源の消費と廃棄は抑制され、生態系は維持される。それを支えるのは民主主義である。現在の民主主義は金権政治にまみれているが、本来、民主主義には反資本主義の傾向がある。「ポスト資本主義経済への旅は、この最も基本的な民主主義的行動から始まる」と著者はいう。
 最後に著者はこう書いている。

〈結局のところ、わたしたちが「経済」と呼ぶものは、人間どうしの、そして他の生物界との、物質的な関係である。その関係をどのようなものにしたいか、と自問しなければならない。支配と搾取の関係にしたいだろうか。それとも、互恵と思いやりに満ちたものにしたいだろうか?〉

「脱資本主義」に向けての社会運動がはじまっている。これもひとつの民主主義だ。

nice!(10)  コメント(0) 

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント