SSブログ

荻生徂徠『政談』をめぐって(2)──商品世界ファイル(24) [商品世界ファイル]

71kWCdI9p6L._AC_UL400_.jpgUnknown.jpeg
荻生徂徠にとって経済政策とは、経済の野放図な動きを抑えて、経済に振り回されない安定した政道を実現することにほかなりませんでした。
 世が乱世となる原因は、生活が困窮するからだと書いています。天下を治めるには、まず経済を豊かにすることだともいいます。これには、だれも異論がないでしょう。
 そこで、たとえば幕府がカネをばらまくとしましょう。一時的には、たしかに世の困窮が救えるかもしれません。しかし、そんなことをすれば、幕府の金蔵がからっぽになって、そのうち幕府自体がたちゆかなくなります。その結果どうなるかというと、今度は大増税です。これでは、困窮を救ったことになりません。
 もっと根本を見なければなりません。どうしたらいいのでしょう。徂徠が唱えるのは、またも人を「土地に着ける」という原則です。
「古代の聖人が立てた法制の基本は、上下万民をみな土地に着けて生活させることと、そのうえで礼法の制度を立てることである」
 ところが、江戸中期はどうだったかというと、上下みな「旅宿の境遇」にあり、加えて万事に礼法の制度が欠けている。つまり、毎日ふらふらと、しかも、あわただしく、ケセラセラで暮らしている。だから、よぶんな出費がかさんで、いつもおカネが足らず、ピーピーしているというのが、徂徠の見たてでした。
 土地に着いて、しっかりとはたらき、おカネのかからない生活をする。それは武士も同じで、武家は知行地に居住して、地元に家族を置いたまま、4カ月にひと月というような割合で江戸勤務をするようにすればいいというのです。礼法と格式を守り、流行に流されないようにし、できるだけカネを使わないことが大事だと言います。
 しかし、いまの時代がどうかというと、「知行の米を売り払って金にして、商人の手を借りなければ日々の生活が立ちゆかないために、商人の勢いが盛んになり、自然に経済の実権を商人に取られて、このとおり町人にとって極楽の世の中になっている」と徂徠は嘆きます。
 何ごともカネの世の中で、幕府の財政もきびしくなっています。そこで、徂徠は貢納という奥の手を案出します。越前藩からは奉書紙、会津藩からは蝋燭と漆、南部藩、相馬藩からは馬、上州の諸藩や加賀藩からは絹、仙台藩や長州藩からは紙を収めさせるようにすればいいのです。また木曽や熊野の山林、金銀銅鉄鉛の出る山、魚のとれる銚子や小田原は直轄にして、その産品を幕府が管理します。工事に必要な人足のたぐいは日雇いで雇い入れるのではなく、旗本の下人ならびに江戸町人の負担でまかなうことにします。こうすれば、幕府の歳出もぐっと圧縮されるはずです。
 諸大名の財政が窮迫する原因も、年貢米をカネに変え、それを江戸で使い捨てているためだと徂徠はいいます。とりわけ奥向きのぜいたくが目にあまるものになっていました。どこの藩はどうしているという噂を聞いて、つい見栄を張り、いらぬものにカネを費やしてしまいます。
 大名の財政は膨張するいっぽうで、このままでは収拾がつかなくなるだろう、と徂徠は言います。まずだいじなのは、各大名が官位や石高に応じて、礼法と格式を定め、あまり見栄をはらないようにするということ。それから江戸で使用するものは、できるだけ国元の産品にして、しかもそれをカネで買わないようにせよといいます。もちろん、江戸勤めの家来は最小人数にしぼらなければなりません。
 徂徠の提案によれば、旗本、御家人も含め、武士は知行所に居住するのが原則です。武士が知行所にいれば、百姓に養蚕をさせたり、山に植林をさせたり、ウルシやコウゾを育てさせたりと、まさに地元の殖産を導くことができるはずです。もちろん、江戸にいるよりカネはかからないから、いまのように困窮することはありません。
 ここでもう一度確認しておくと、江戸時代はコメ経済を基本としていました。コメを年貢として徴収し、それを販売したおカネで、武士の生活がいとなまれていました。経済を担うのはもちろん農民ですが、貨幣経済という狭い領域でみれば、いわば武士中心の経済が成立していたわけです。
 しかし、経済の実権は武士ではなく、商人に移ろうとしていました。商品に頼る生活が、武士経済を圧迫していたともいえます。徂徠の改革案は、武士を村の領主に戻すことによって、できるだけ商品世界の渦をちいさくし、それによって社会を安定させようとするものでした。時計の針を逆に戻すような反時代的で、超保守的な構想といえますが、どこか牧歌的なユートピアの味わいもあります。
 徂徠は武士層が困窮化しているのは、よけいな費えが多いからであり、その背景には社会全体で商品化が進んでいるからだと考えました。そこで商品化の勢いを逆転させるためには、いわば贈与経済を復活するしかないと思ったわけです。つまり城下に集められている武士が、それぞれ領主として知行地に戻り、農業を指導するかたわら、百姓から地代として直接、米を含む諸産品を収めさせるようにすれば、生活はほとんどそれで間に合い、たいしておカネを使わなくてもすむだろうと判断したわけです。
Unknown-1.jpeg
 話変わって、ここで徂徠はライバルの新井白石に対抗して、物価を論じます。徳川幕府が金銀銭の三貨を鋳造したことは特筆すべきことでした。それによって、社会の安定性が保たれるようになっただけではなく、経済が発展するようになるからです。三貨のうち、とりわけ銭貨は大量に発行され、これまでの宋銭や永楽銭などに取って代わり、新たな小口貨幣が都市、農村で広く使われるようになりました。
 徂徠は物価について、こんなふうに書いています。

〈現在の金貨の数量は、元禄金や乾字金(けんじきん)のころに比べて品質が良くなった代わりに、流通量は半分になり、銀貨は四ツ宝銀(よつほうぎん)のときの3分の1になっている。だから物価は、元禄金や乾字金のころより半分以内に下がらなければ、まだ元の水準になったとはいえない。まして今から四、五十年以前と比較すれば、たいてい10倍か20倍になっている。したがって人々が困窮するのも当然で、これを下げるための方法を考えなければならないのである。〉

 少し解説が必要です。
 幕府は慶長年間(1600年ごろ)に幣制を統一し、そのとき純度84.29%の金貨と純度80%の銀貨を発行しました。これが、慶長小判、慶長丁銀と呼ばれるものです。さらに寛永13年(1636年)には銅銭の寛永通宝を発行し、これにより三貨による通貨体制を確立しました。
 ところが、幕府の財政難が進んだため、元禄8年(1695年)に、金の純度を57.36%、銀の純度を64%に下げた元禄小判(元禄金)、元禄丁銀がつくられます。さらに宝永8年(1711年)には純度20%の四ツ宝銀も出されました。その結果、巻き起こったのが猛烈なインフレで、このとき米価は80%以上上昇したといわれます(いわゆる元禄バブル)。
 この事態に立ち上がったのが、7代将軍家宣を補佐した新井白石で、白石はインフレを退治するために、ふたたび貨幣の純度を慶長古金銀と同率に戻します。これが正徳4年(1714年)の改鋳です。
 ただし、その前の宝永7年(1710年)にも改鋳があり、このときは元禄金より純度の高い乾字金がだされました。徂徠が触れているものです。
 ところが、正徳の改鋳以降、約20年にわたって、今度は米価が毎年下がりつづけます。ピークから65%下がったといいますから、相当の下落でした。長期にわたるデフレが発生し、ただでさえねたまれている白石に非難が集中します。
 家宣のあと将軍の座に着いた徳川吉宗は、元文元年(1736年)にリフレ政策に踏み切ります。ふたたび小判の純度を48%、丁銀の純度を57.5%に落とし、通貨流通量を増やしました。当初、物価は上昇しましたが、そのうち安定を取り戻します。吉宗は経済規模の拡大と財政再建をめざして、積極的な新田開発や産業政策、物価対策に乗りだしていきます。これがいわゆる「享保の改革」で、幕府の三大改革(残りは「寛政の改革」と「天保の改革」)のうちでは、唯一成功した改革だといわれます。
 徂徠は元禄のインフレと正徳のデフレを経験しています。そして、デフレがつづく当時の状況において、人びとの困窮がつづくのは、まだ物価が下がりきっていないためだと判断しているところが、やはり徂徠らしいところです。もっとデフレになってしかるべきだというわけです。
 享保の改革で、徳川吉宗は徂徠の策を用いず、通貨量を拡大するリフレ政策を採用します。新井白石の政策が招いたデフレにかわって、一時、急激なインフレが進行しますが、実質経済の拡大にともなって、物価も次第に落ちついてきます。これらのことは、徂徠死後のできごとです。
 物価にたいする徂徠のアプローチは独特です。『政談』では、デフレで物価が下がっているにもかかわらず、それでもまだ物価が高いといらだって、その理由を次のように列挙しています。

(1)商人が品物の値段をせりあげ、もうかった部分の一部を運上として、大名などに納めている。
(2)費用のかかる江戸居住費が価格に転嫁されている。
(3)江戸に集まった町人が贅沢をするようになり、需要が拡大した。
(4)これを見た田舎の者も町人に負けじと贅沢をするようになった。
(5)商人が情報を交わし、結束して、物価を下げないようにしている。
(6)物が遠方から運ばれ、その運送費がかさむようになっている。
(7)商人が価格を維持し利益を確保するために生産量を調整している。

 これらはたしかに物価高を招く原因でしょう。しかし、そのようなことは、すべて枝葉末節だというところが、いかにも徂徠です。

〈すべては武家が旅宿の境遇にあるというところから出た悪弊なのであるから、その根本に立ち返って、武家をことごとく土地に居住させておいて……米の貯蔵という一つの術を用いるならば、商人の勢いはたちまちに衰えて、物の値段も思いのままになるであろう。〉

 またお馴染みの議論が出てきましたね。「旅宿の境遇」にある武家を知行地に戻し、カネによる悪弊を取り除くことが根本だというわけです。「米の貯蔵の一つの術」というのは、できるだけ商人に米を売らないようにすることで、米の販売価格を高めに維持するという秘策でした。武士は知行地で、できるだけ自給自足の生活をし、米をたくわえるようにし、そのごく一部だけを高値で商人に売って、貨幣収入を得、生活の足しにすべしというのです。武士のことしか考えていない身勝手な政策といえるかもしれません。
 そのいっぽう、徂徠は新井白石の金融引き締め政策を猛烈に批判しています。
 金銀の数量が減少すると、なぜ世間が困窮するのでしょうか。徂徠によると、それは手元のお金が減るとコメが買えなくなり、それによって米価が下がり、コメを売って生活する武家や百姓の収入も減ってしまうからだというのです。豊作で供給が過剰になり、コメが値崩れするのとは、ちがう局面でした。
 加えて、慶長年間から百年たち、生活は知らず知らずのうちに贅沢になっています。定まった礼法がないために、暮らしの出費が増え、下男などの給金は上がったにもかかわらず、その給金だけで生活するのは苦しくなっていました。幕府も出費のほうが多くなり、収蔵してある金を取り崩して、赤字を埋めているのが実情でした。
 ここで徂徠はまた持論をもちだします。物価が高くなったのは、元禄の改鋳によって、金銀貨の品位が低下したためではないと言い張るのです。武家が旅宿の境遇にいることと、社会に礼法の制度がないこと、それに商人の勢いが盛んになったことがいけない。これをそのまま放置しておいて、白石のように金銀の流通量を半分に減らしたのでは、購買力が半分になり、世の中が困窮するのは、あたりまえだといいます。
 さしあたり世の中の景気をよくするには、銅銭を大量に鋳造するのがいちばんよい方法だと徂徠は提案します。ただし、銅銭の公定レートを1両=4貫(4000枚)ではなく、1両=7貫か8貫にすればいいといいます。そうすれば金銀貨の量をそのままにしておいても、貨幣発行量全体は増えるので、購買力が回復するはずだというわけです。できるだけ大口貨幣を用いず、小口貨幣ですませるようにすれば、贅沢も減ると考えていたのでしょうか。
 徂徠は銅銭の大量発行にこだわります。銭は便利な小口貨幣であるため、田舎にも浸透し、そのため不足がちになっている。長崎から海外に流出していることも、不足を招く原因だ。そこで、無用な末寺の鐘や、使われていない銅製の器具などを鋳つぶせば、少しは足しになる。また銅銭は運ぶのが重いので、諸大名にも鋳造を許すようにすればいいというのです。
 しかし、金銀貨の品位を元禄時代並みに下げ、幕府がみずからの利益を考えないで、金銀貨の発行量を増やしていけば、銅銭をそれほど大量発行する必要もなくなるという反論も成り立つでしょう。事実、徂徠の死後、元文の改鋳はこの方向でなされました。
 ここで興味深いのは、徂徠が信用制度の確立にふれていることです。金銀が世の中に流通しないのは、それが金持ちの手に固まっているからだ。金銀の数量が減少したうえに、貸借の道がふさがれば金銀が不足して、人々が難儀する。
 そこで、徂徠は貸借ルールを定めるべきだと主張します。一定の利息を決め、法外の高利は禁止し、「一元一利(元金1に対し利息1の割合)の法によって、利息の総額が元金と同じ額に達したならば、それ以上は利息を払わず、元金だけをなし崩しに返済してゆけばよい」ことにする。高利にたいする規制と徳政の勧めです。
 礼法についてもあらためて述べています。礼法を定めるのは、上下とも倹約を守り、贅沢をしないようにするためです。武家については、格式や俸禄におうじて衣食住のあり方を定めることはいうまでもありません。町人や百姓についても、徂徠はずいぶんこまかく規制をもうけています。
 なぜ、そんなことをする必要があるのでしょう。

〈このようにするのは、何も町人・百姓を憎むわけではない。彼らの生活が、右にのべたとおり贅沢になって、出費が多く、生活費がかさむのが今では普通になっているから、このような制限の法規が出されるのは、彼らにとってもよいことなのである。

 何度も書きますが、徂徠にとっては、金融政策や物価対策などは枝葉末節でした。人を地に着かせること、武士が知行所に居住すること、そして礼法を定め、商品の流通を制限し、贅沢をなくすことが、なんといっても改革の根幹でした。高利を求めて世渡りする商人は規制してしかるべき存在でした。
 しかし、商品世界の波は幕府の支配体制を次第に掘り崩していくことになります。徂徠の唱える「先王の道」をもってしても、おカネの力を阻止するのは容易なことではありませんでした。

nice!(9)  コメント(0) 

nice! 9

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント