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荻生徂徠『政談』をめぐって(3)──商品世界ファイル(25) [商品世界ファイル]

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 徂徠が徳川吉宗に重用されたのは、あくまでも儒学者の政道アドバイザーとしてでした。徂徠からすれば、経済問題は政治の一部でしかありません。経済をただすことが、政治の役割でもあります。そして、商品世界の膨張を抑え、人びとが地に着いて、よくはたらき、大地の恵みとその恵みを活かす工夫を重ね、心豊かにくらしていく世をつくることが、理想の政道と考えられていました。
 ここで徂徠の統治論に触れる必要はないでしょう。徂徠は、政治機構や人材登用のあり方を含め、統治上のさまざまな制度改革についても触れていますが、それを細かく紹介するのはやめておきましょう。
 ただ、気がつくのは、徂徠が政治上のルールづくりにこだわっていることです。アイデア倒れも多いのですが、『政談』ではこまごまとした規則を次から次に提案しています。
 これでは規則でがんじがらめになってしまいそうですが、日本人はもともと規則好きなのかもしれません。道徳好きというより、どちらかというと規則好き。規則が道徳だと思っているふしもあります。逆に規則さえ守っていれば、あとは自由、そんなところが徂徠の考え方にもあるようです。
『政談』の跋文に、徂徠はこれまで書いてきたことのまとめとして、こんなふうに欠いています。

〈肝腎なところは、世の中が旅宿の境遇であることと、万事につけて礼法の制度がないこととの、二つに帰着する。このために、戸籍をつくり、万民を居住地に結びつけることと、町人・百姓と武家との間に礼法上の差別を立てることと、大名の家の生活に礼法の制度を立てることと、お買い上げということがないようにすることと、だいたいこれらで世の中はまともになって豊かになるであろう。〉

 徂徠は道の人であり、制度論者でもありました。礼法上のこまかいルールをつくって、商品世界の広がりを抑制し、人を地につけさせ、武士が知行地を直接収めて、農民に貢納を命じ、統治を盤石なものにする。徂徠にとっては、昔に戻ることこそが、政道を立てなおす方策にほかなりませんでした。
 ここで、ぼくは山片蟠桃(1748〜1821)の名前を挙げてみたいという誘惑にかられます。徂徠(1666〜1728)と蟠桃は、活躍したのが、江戸の中期と後期と時代もちがえば、立場もちがいます。蟠桃は大坂の町人で、徂徠は江戸の儒者。そこで、蟠桃が経済をどのようにとらえていたかを紹介することで、徂徠の『政談』とのちがいが浮かびあがってくるかもしれません。
 なお、山片蟠桃について詳しく知りたい方は、拙著『蟠桃の夢』、『山片蟠桃の世界』などをご覧ください。
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 蟠桃の経済論は儒教の聖典への疑問から出発します。儒教の道が求めるのは、欲求をできるかぎり抑えて、消費を最低必要限の衣食住にしぼる世界です。しかし、人の自然な欲求にたがをはめるのがいかにむずかしいか、蟠桃は百も承知しています。それでは、人の欲求は際限なく広がり、この世界を食い尽くしてしまうのでしょうか。
 儒教の聖典を読み解きながら、蟠桃は思わず「道ははるかに遠い」という感慨をもらしています。「いにしえは質朴礼譲を教え、孝弟忠信さえ教えさえすれば、天子が何をしなくても世の中はおさまった」。しかし、もう昔に戻ることは無理です。徂徠のように、昔に戻るという発想を蟠桃はとりません。
 ここで、蟠桃がもちだすのは、師である中井履軒(りけん)の『有間星(あらまほし)』という著作です。履軒はここで、いわば「一国経済モデル」をえがき、社会の経済循環構造を示しました。
 抽象化していえば、それは武士と農民、商工業者の3部門からなる経済モデルです。

(1)生産階級である農民は、食料や衣服、その他の原料を生みだす。
(2)武士階級は農民を保護する代わりに農民から年貢を受けとる。
(3)そして、商工階級は年貢である米を流通させ、また武士や農民の要望に応じて必要な製品をつくる。

 これは政府と生産、流通の3部門から成り立つ社会で、貨幣(による消費)を媒介として、経済がとどこおりなく循環すれば、社会は定常的に安定すると、蟠桃は考えました。ここで蟠桃は政治支配一色ではない「経済社会」を発見したといえるでしょう。
 蟠桃によれば、経済社会にたいする幕府の役割は限定されます。

(1)戸籍(人別)の掌握
(2)貧民にたいする救済措置
(3)劇場芝居、売春、捨て子など風俗にたいする取り締まり
(4)殺人、盗賊、放火などの犯罪取り締まり

 アダム・スミスは、国家の活動を防衛のための備え、民衆の保護、公共事業に限定しましたが、蟠桃もまたスミス同様、経済社会の循環構造に幕府が過干渉することをいましめていました。まして、政治が腐敗(利権を私物化)することなど、あってはならないことです。
 蟠桃は実務家です。升屋の大番頭として、主家ばかりでなく伊達藩の財政立て直しにあたってきました。その経験を通じて、みずから発見したひとつの知があります。それを蟠桃は「大知」と名づけました。
 蟠桃の主著『夢の代』の「経済」篇には、中井履軒から受け継いだ「経済社会」のモデルとともに、この「大知」のことが記されています。
「大知」とはいったい何でしょう。
 蟠桃は最初に古代の聖人、舜が「大知」として知られているのは、「私知」を捨てて衆知を活用したからだと前置きして、現在では大坂の米市場こそ「天下の知恵を集め、血液を通わせ、集大成する場」となっていると述べます。
 つまり、現在の「大知」とは「市場」のことだといってよいでしょう。
 市場は人のからだにたとえれば、血液の流れをコントロールする心臓であって、この市場を力ずくで廃止したり、無理やり動かそうとしたりしても、かえって社会全体にひずみが出てしまいます。そして、大坂の米市場では、現物取引と先物取引がおこなわれ、市場の継続性と安全性、大量の取引が保証されているのだと強調します。
 蟠桃の考え方は「天下は天下の天下なり」という言葉に集約されます。天下は武士の天下でも商人や農民の天下でもありません。それは人びとの協働によって成り立っています。
渾然一体となった社会の構造が、天下の人とものの流れを維持しているのです。武士が武士としての役割を果たさず、商人や農民がその務めを放棄するなら、天下の流れはたちまちにして乱れてしまいます。それぞれが他者との関係において自己の役目を自覚し、天下に正しい流れをもたらすよう自分の持ち場において最善を尽くすべし、というのが蟠桃の考えでした。
 経済社会と市場の発見は、蟠桃に経済の方向性を指し示しました。それは武士秩序の再興という徂徠の方向性とは大きく異なるものでした。
とはいえ、蟠桃の考察もあくまでも幕藩体制の存在を前提としていたことはまちがいありません。当時、日本にはロシアやイギリスが接近し、幕藩体制が危機にさらされていることは蟠桃も認識していました。しかし、幕藩体制が崩壊するなどとは思ってもみなかったでしょう。
 幕藩体制が崩壊し、中央集権的な明治政府が誕生したあとも、経済社会と市場はなくてはならないものだという共有知は存続しました。蟠桃の存在はそれほど知られていたわけではありませんが、早くから経済社会の実際(良きにつけ悪しきにつけ)を認識していたことは、蟠桃の功績として残るのではないでしょうか。
 いっぽう、商品世界の膨張を抑え、人びとが地に着いて暮らすという徂徠の古代的理念もけっして消滅したわけではありませんでした。それはユートピア的ではありますが、どこか人をひきつけるものがあります。
 先人の知に思いを馳せながら、われわれはいまを見すえるほかないのかもしれませんね。

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