SSブログ

ウェーバーの社会経済史(1)──商品世界ファイル(26) [商品世界ファイル]

 マックス・ウェーバーは当時スペイン風邪と呼ばれたインフルエンザのため、1920年6月に56歳で亡くなりました。3年前の1917年にはロシア革命が発生しています。ヒトラーがミュンヘン一揆をおこすのは、ウェーバーの死から3年後の1923年です。
 本書『一般社会経済史要論』は1919年から20年にかけての冬学期にミュンヘン大学でおこなったウェーバーの講義を、本人のメモや聴講した学生の筆記にもとづいて再現したかれの最後の講義録です。
 ドイツで原著が発行されたのが1924年、日本では1927年に黒正巌(こくしょういわお)(大阪経済大学教授)の訳で岩波書店から刊行されました。それを敗戦後に青山秀夫(京都大学経済学部教授)が改訳して、1954年に岩波書店から再刊されたのが本書です。1946年夏に最初の訳稿をザラ紙の原稿用紙に浄書したのが、学生の森嶋通夫(のちロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授)らだったというあたりが、学の系譜を感じさせます。
 ウェーバーは本書で、近代資本主義がなぜ西洋において発生したのかを追及しています。近代資本主義という言い方からしても、それがけっして否定的に語られているわけではないことが想像できるでしょう。
 出発点となるのは、農村共同体モデル、とりわけゲルマン的共同体です。
古代ゲルマン人は村落を形成して暮らしていました。その村がどんなものかというと、何層もの円をイメージしてみればよいでしょう。円の中心には数々の屋敷が存在します。円の二層目は垣をめぐらせた庭です。そして三層目が農耕地。四層目が牧地で、最後の五層目に森林が広がっています。土地は共有されているわけではなく、居住者にそれぞれ一定の持ち分が与えられていました。
 耕地は三圃式(さんほしき)によって営まれています。第一区画には冬穀物、第二区画には夏穀物がつくられており、第三区画は休閑地です。その区画は年ごとに入れ替わって輪作されます。
村長は村の収穫を管理し、村の秩序を維持する役目を果たしていました。家屋や土地は村人の持ち分として専有され、相続されました。
 村々は集まってマルク共同体を形成しました。森林や荒蕪地(こうぶち)を共同マルクとして所有していたのです。そうした森林や荒蕪地は個々の村落共同体に帰属せず、あくまでもマルク共同体に属していました。
 8世紀末のカロリング朝以前に、こうしたマルク共同体はすでに誕生していたようです。マルクの長は世襲され、国王や領主によって任命されるのが通例でした。
 共同体の構成員は原則的に平等です。しかし、家族が増減したりすると、耕地の所有に差が出てきます。手工業者など新たな労働力の到来も耕地の所有に影響を与えました。さらに国王や諸侯、領主などによる開墾もあって、マルク共同体のかたちは次第に崩れていきます。
 ゲルマン的な共同体は、エルベ川とウェーザー川のあいだだけではなく、南ドイツ、スカンディナビア、ベルギー、北フランス、エルベ川の東方、イギリスの一部にまで広がっていました。
ドイツの南東部にはスラブ的な家族共同体がはいりこみ、それがバルカン半島へと広がっていました。そして、南西部にはローマ的な大土地所有形態が残存していました。
 スコットランドやアイルランドにはケルトの共同体が存在しました。その最古のかたちは家畜経済です。いっぽう、ロシアにはミールと呼ばれる農村共同体が存在し、実際にはクラークと呼ばれる土豪が村を仕切っていました。そのミールは古代から存在したわけではなく、租税制度と農奴制の産物だったとウェーバーはいいます。ロシアの租税と農奴制はあまりにも苛酷でした。
 ここで問題は、共同体のなかから、どのようにして領主の権力と財産が生じたかです。
最初に首長の権威がありました。首長は仲間に土地を分配する権限をもっていました。ここから権威の世襲化が発生し、それが権力となっていったことが考えられます。首長による給付にたいしては、貢納義務(労役や軍務を含む)が生じました。
 首長は軍事指導者でもありました。戦いによって得られた土地は家臣に分配されました。武装の強化と軍事技術の進歩が職業的戦士身分をつくりだします。かれらは首長の命にしたがって、敵を征服し、隷属させ、その支配下にあった農民を隷農としました。
 中間の非戦闘民がひとりの領主をパトロンとし、かれに仕えることで、土地の経営をゆだねられることもあります。
 首長が領主として定住し、人や牛馬を多数所有して、大規模な開墾にあたるケースも生じました。開拓された土地はたいてい貸与され、貸与された者は貢納と奉仕の義務を負うことになります。貨幣や穀物が貸与されることもあります。古代ローマには多くの債務奴隷がいました。
 しかし、首長の前身は軍事指導者ではなく、むしろ雨乞い祈禱者のような呪術的カリスマであることが少なくなかった、とウェーバーはいいます。かれらはタブーをつくることもでき、それによって共同体を支配しました。
 もうひとつ、首長の力を大きくした要因が対外交易の掌握です。首長は交易を管理し、商人を保護し、市場特権を与える代わりに関税を要求しました。王が交易を独占する場合はエジプトのファラオのような権力が成立し、多くの貴族が商人に金融をおこなう場合は中世のヴェネツィアやジェノヴァのような貴族による都市支配が生じました。
 領主経済はふたつの方向に発展します。ひとつは王侯が官僚機構をもち、経済を中央に集中する方式、もうひとつは王侯が従臣や官吏に身分を与え、かれらに土地の管理をゆだねるやりかたです。
アジアでは財政面においても国家による専制がおこなわれていましたが、ヨーロッパでは封土(レーエン)にもとづく封建制が成立しました。封土を与えられた領主は契約にもとづいて君主に仕え、貢納と軍役の義務を負いました。
 一般に領主の封土は世襲されました。
 もっとも純粋に封建制度を発達させたのは中世ヨーロッパです。その素地は、ローマ帝国末期の荘園制度にありました。荘園は開墾によっても征服によっても発展しました。そこに田畑を失った農民が、経済的強者の庇護を求めてなだれこんだ結果、荘園はさらに拡大することになりました。
 教会にたいしても、さかんに土地の寄進がおこなわれました。こうした荘園をベースにして、ヨーロッパでは封建制が成立していきます。
 荘園領主は国家権力から相対的に独立して、荘園の土地、人民、裁判権を保有することに努めました。
13世紀になると、荘園領主と荘民との義務と権利を定めた荘園法が広く適用されるようになります。その荘園法によって、領主と荘民の融和が進むようになります。農民への需要が増えたため、かつての不自由民は次第に有利な条件を得るようになり、農奴の観念は薄れていきます。
 領主は次第に農民を労働力ではなく貢納者とみなすようになりました。貢納の内訳は、作物の貢納や土地の変更にともなう手数料、相続のさいの税、結婚許可料、森林や牧地の使用料などです。ただし、農民には運送賦役や道路橋梁の建設作業などが課せられていました。
 領主は全土に散在する所有地をもっていました。そうした領地には荘司が派遣され、荘園の管理がおこなわれました。
 そのいっぽう、中世においても自由農民の土地がなかったわけではない、とウェーバーはいいます。もちろん、こうした自由農民も領主にたいする貢納義務を負っていました。
貨幣経済が発展するようになると、荘園制度にも資本主義的要素がはいりこんできます。その結果、プランテーション(プランターゲ)と、大規模農地経営(グーツヴィルトシャフト)が誕生します。
 プランテーションは強制労働にもとづき農産物を販売することを目的とする経営で、それ自体は古くから存在します。古代においてはプランテーションでワインやオリーブオイルがつくられ、近世ではサトウキビ、タバコ、コーヒー、綿花などがつくられました。
 合衆国南部のプランテーションは、綿花産業の大発明により綿花の需要が急増したことからはじまります。アフリカ大陸から大勢の黒人奴隷がつれてこられました。19世紀にはいり奴隷の輸入が禁止されたあとも、南部では奴隷を養成するかたちで、プランテーションが維持されます。
もうひとつの方向は、荘園を商品生産に適合する大規模経営に改編することでした。大規模経営には、牧畜と農耕、さらには両者混合のパターンがありました。
 南アメリカのパンパスでは、小規模資本による大規模牧畜がはじまります。スコットランドでは1746年のカロデンの戦い以降、スコットランドの独立が失われ、新たな動きが生じました。領主たちは氏族の小作人たちを追いだし、その土地を牧羊地に変えていきます。その背景には14世紀以来のイングランド羊毛工業の発達があります。イングランドでは早くから農民を土地から追いだす囲い込み運動がはじまっていました。
 囲い込み運動の目的は大規模な牧地経営により羊毛を確保することでしたが、穀物を大量生産することにも重点が置かれていたといってよいでしょう。1846年の穀物関税撤廃にいたるまでの150年間、イギリスでは穀物にたいする保護関税のもと、小農民が土地を奪われ、大規模農業化が進展していたのです。
 ドイツの西部・南部と東部では、荘園の形態がずいぶんことなります。西部・南部では荘園は分散し、農民は年貢を取り立てられるだけなのに、東部のフロンホーフ(荘園)では貴族の大領地が存在していました。大領地農場経営が進展したのは東部においてです。ここでは領地に付属する世襲的な農業労働者(インストマン)が農場を支えていました。
 しかし、荘園制度はついに崩壊するにいたります。荘園の崩壊は、農民や農業労働者の人格的解放と移動の自由、荘園の土地の解放をもたらしました。それだけではありません。荘園制の崩壊は、領主の特権や封建的束縛を奪うことになります。
 荘園制度崩壊のかたちは一様ではない、とウェーバーはいいます。
 イギリスのように農民から土地が収奪された場合、農民は自由になりましたが、土地を失いました。フランスのように荘園領主から土地が収奪された場合は、領主が土地を失ったのにたいし、農民は自由と土地を得ました。領主と農民の妥協により、農民が土地の一部を得た場合もあります。
 荘園制の崩壊をもたらした内的な要因は、貨幣経済の進展により農産物市場が拡大し、領主も農民もその生産物を売る機会に敏感になったことです。しかし、それだけなら、むしろ領主による農民収奪と大規模経営を強めただけで終わったかもしれません。
 重要なのは、むしろ外的な要因だった、とウェーバーはいいます。
 それは、都市のブルジョワ層が、荘園制度を市場の障害とみるようになったことです。農民が荘園に縛りつけられているかぎり、労働力の供給はおぼつかないし、また商品の購買力もかぎられてしまいます。そのため、都市のブルジョワ階級は農場領主の支配に敵対するようになった、とウェーバーは論じています。
 初期の資本主義産業は、ツンフト(職人ギルド)の支配を避けて、直接地方の労働力を利用したいと考えていました。自由な労働力を確保するためには荘園の存在が大きな障害となりました。
 土地自体にたいする営利的関心も、封建的束縛から土地を解放することを求めていました。さらに国家自体も、荘園の崩壊によって、かえって農村の租税収入が増えると期待するようになります。
ウェーバーは荘園崩壊をもたらしたさまざまな要因を挙げています。しかし、ここでは各国の状況をこと細かに紹介する必要はないでしょう。
 イギリスのように市場の力が荘園を崩壊させたケースもあれば、フランスのように革命が荘園を葬り去ったケースもあるというにとどめておきましょう。農奴解放宣言が荘園解体のきっかけになったケースもあります。
 いずれにせよ、各国それぞれの事情をともないつつ、荘園は解体され、今日の農業制度がつくられていきました。
 ウェーバーはこうまとめています。
 貨幣経済の進展とともに、囲い込みや分割、再編によって荘園制は崩壊し、共有地の遺物も消し去られて、土地の個人的私有制が実現した。
 家族共同体はひじょうに小さくなり、いまや妻子を有する家長が個人的私有財産の担い手となるにいたった。家族の機能は消費に局限されるようになり、家族は共産制から遠く離れて、所有財産の相続ばかりを配慮する存在となった。そうした家族の変形が、資本主義の発展と密接にかかわっていることはいうまでもない、と。
 それでは、資本主義はいったいどこからやってきたのでしょう。それが次の課題となります。

nice!(6)  コメント(0) 

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント