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ウェーバーの社会経済史(2)──商品世界ファイル(27) [商品世界ファイル]

 資本主義以前の農耕中心社会であっても、農耕以外の経済活動がなかったわけではありません。産業(工鉱業)、交易(商業)、それを支える貨幣(金融)は、農耕社会と並行して、古代国家、古代帝国の時代から存在しました。ウェーバーはそうした経済活動が大きな川の流れになって、いかに近代資本主義の導き手になっていたかを論じています。
 産業とは原材料を加工して有益な財をつくる作業をいいます。その作業によってつくられたものが産業製品です。
 農奴が荘園領主のためにはたらいたり、インドの農民が村のためにはたらいたりすると、かれらは領主や村落から実物ないし貨幣での給付を受けます。
 女性はもともと耕作奴婢だった、とウェーバーはいいます。料理や機織りも女性の仕事でした。これにたいし、戦争や狩猟、家畜の飼育に従事する男たちは、金属品や革なめし、肉の調理を担当していました。家の普請や舟の建造なども、村じゅうの男たちの仕事でした。最古の職業は呪医で、鍛冶屋も呪術のようにみられていました。
 熟練の手仕事は当初、首長や荘園領主の家計のもとでおこなわれます。最終的にそれは市場をめざすようになるとしても、その中間段階として他人の注文に応じて仕事をする手工業者が生まれます。手工業者はみずから原料と労働手段を持っている場合もあるし、原料と労働手段のどちらか、とりわけ原料を注文者から支給される場合もあります。
 労働場所は自分の家である場合も、家の外である場合(たとえば仕事場や工場など)もあります。労働手段は道具から設備まで、さまざまです。設備を所有するのは村であったり、修道院であったり、領主であったりします。
 産業の発展については、まず部族産業というカテゴリーが想定できます。この場合は部族が特定の原料、あるいは技能を独占しており、ここから何らかの製品(商品)が生まれ、部族外にも売られることになります。
 市場のための専業化は職業分化を生じさせます。村落または領主が他部族出身の手工業者を呼び入れて働かせるときには、その生活の面倒を村落や領主がみなければならなりません。ウェーバーはこれをデミウルギーと呼んでいますが、この場合は自己需要のための生産がおこなわれるにすぎません。
 これがさらに進むと、市場のための生産がおこなわれるようになります。もともと村落や領主の需要をまかなうための生産が、次第に市場に向けられるようになるわけです。
 古代において、貴族は大所有地で働く奴隷のなかに手工業者をかかえていました。かれらは鍛冶や製鉄、建築、車両整備、衣服づくり、製粉、パン焼き、料理のために働いていました。エジプトやメソポタミアでは、王に隷属し、みごとな芸術品をつくる労働者もいました。
 こうした状態から、顧客生産や市場生産に移るためには、何よりも交換経済がある程度発達し、一定の顧客が存在しなければなりません。
 最初の現象は、貴族(領主)の奴隷がつくった織物や陶磁器が市場に流出するケースです。次に、領主や大地主が積極的に企業経営に乗りだす場合があります。古代ローマ時代のある大地主は、副業として、製瓦業や砂石採掘業を営んでいました。奴隷女を仕事場に集めて、紡績の仕事をさせていた者もいます。中世の修道院は醸造所や晒布場、蒸留所などを営んでいました。
 いっぽう都市では、商人が出資して企業をつくり、労働者を集め、仕事をさせるようになりました。古代ローマでは、貴族がエルガステリオン(作業所)に奴隷を集め、武器や高級品を製造させていたケースもあります。奴隷を確保するのは難事で、奴隷による大規模経営はめずらしい例外でした。
 奴隷制にもとづく古代企業は、不特定な市場ではなく、かぎられた狭い市場を対象としていました。
古代ギリシア人は美術品を除き、ごくささやかなものしか所有していません。古代ローマでもベッドは贅沢品で、人びとはマントにくるまって地べたで寝ていました。これにたいし、中世の都市貴族は多くの実用的な家具をもつようになります。北ヨーロッパでは、10世紀から12世紀にかけ、古代の帝国にくらべ、はるかに広範囲な購買力あるいは買い手が存在したのです。
 市場が拡大したのは中世の10世紀ごろからで、農民の購買力が増えたのが大きな要因でした。農民の隷属関係は次第にやわらぎ、いっぽうで農業の集約度は進歩していました。こうした背景のもとで、手工業が興隆します。
 12世紀、13世紀になると、王侯によって多くの都市がつくられ、都市の時代がはじまります。皇帝が都市に特権を与えたため、貴族や商人、隷農、熟練手工業者などが都市に集まってきました。その後、帝国の力が衰えるとともに、都市の独立傾向、自治的傾向が強まっていきます。
 都市に定住した手工業者は、土地を所有する完全市民ではなく、都市の内外に住む領主や後見人(ムントマン)に賃租を支払わなくてはなりませんでした。また、都市の外には、独特の手工業者秩序をもつフローンホーフ(荘園)も存在しました。
 自由手工業者は道具をもっていますが、固定資本(設備)をもっていません。一般に顧客の注文に応じてはたらく生産者でした。かれらが賃仕事にとどまるか、つくった製品を売って生活する仕事人になるかどうかは、市場の状況によってことなっていました。賃仕事は富裕な階級のために働くところに成立します。これにたいし、つくった製品を売る仕事(価格仕事)が成立するのは、多くの民衆を相手とする場合でした。
 多数の民衆の購買力は、価格仕事が成立する前提であり、これがのちに資本主義成立の前提となっていきます。しかし、だいたいにおいて古代でも中世でも、手工業者は賃仕事が多かった、とウェーバーは指摘しています。
 手工業者が職業別に結合するとツンフト(職人ギルド)が結成されます。ツンフトが本格的に誕生するのは、ヨーロッパ中世においてです。
 ツンフトは仲間の経済機会を均等にするよう努め、そのためにさまざまな規制が設けられました。一人の親方が突出した資本をもつことは禁止され、労働も伝統に沿っておこなわれねばならず、労働者(徒弟)の数も統制されました。
 ツンフトは製品ごとにこまかく設けられ、価格は公定され、ひとつのツンフトが別のツンフトの領分を侵すことは禁止されていました。
 ツンフトは対外的には純粋な独占政策を発揮しました。仲間どうしの違反には厳しく目を光らせ、ツンフトが絶対的権力を有する地域内においては、ほかの手工業を認めませんでした。ツンフトにおいては、同一労働者がはじめからおわりまで完成品を生産することになっており、それによってツンフト内部で大経営が発生しないよう配慮されていました。
 だが、ツンフトは次第に壁にぶつかるようになります。
 ツンフトは都市という地盤のうえに成り立っていました。中世都市の住民は、さまざまな身分をもつ人の寄せ集めで、その大多数は自由な経歴をもっていませんでした。手工業者のうちで市民と認められている人はごくわずかだったのです。
 都市領主はツンフトの代表を任命し、ツンフトの経営にまで干渉しようとしました。しかし、かれらはそうした都市領主と闘い、みずからツンフトの代表者を選ぶとともに、都市領主の干渉をはねのけました。不当な賦役や租税、賃借料とも闘いました。ツンフトはこうした闘いに勝利を収めます。だが、その結果、多くの敵をもつことになりました。
 ツンフトの反対者は、まず消費者でした。ツンフトの市場独占と独占価格に対抗するため、都市当局は自由親方を任命したり、市営の肉の販売所やパン焼き窯を設置したりして、ツンフトに対抗しました。
ツンフトには別の競争者もいました。荘園や修道院の手工業者です。とりわけ修道院はツンフトに競争をいどみました。さらに、商人と結びついた田舎の手工業者の存在も無視できなくなってきます。
 ツンフトと労働者との関係もあやしくなってきます。ツンフトが職人の数を制限したり、親方による統制が厳しくなるいっぽうだったからです。ツンフトは小売商人とも対立しました。小売商人にとっては、公定価格を崩さないツンフトは商売の妨げにほかなりませんでした。
 ツンフトは次第に市場の力に圧倒されていきます。
 ツンフトの親方が商人または問屋となって、原料を買い入れ、これを他のツンフトに配分し、全生産過程を統合して製品を売るようになることも考えられました。この場合、ツンフトはカンパニーに転化し、いわば商人ツンフトが生まれたことになります。
 原料が高価で、その輸入に巨額の資本を必要とする場合、ツンフトは輸入業者(たとえばフッガー家)に依存しないわけにはいきませんでした。そうした高級原料としては琥珀(こはく)や絹などがあり、初期の木綿もそのひとつでした。輸入原料だけではありません。ツンフトは国外に製品を売る場合は輸出業者に頼らざるをえませんでした。
 ツンフトに代わって市場の支配力を発揮するのが問屋です。
 問屋制度を促したのは繊維工業だ、とウェーバーはいいます。ヨーロッパでは11世紀以来、羊毛と麻の戦いがあり、17、18世紀には羊毛と木綿の戦いがあって、けっきょく木綿が勝利を収めます。
 中世都市の繁栄を支えたのは羊毛産業でした。フィレンツェでは羊毛職人のツンフトが大きな政治勢力となっており、その背後にはすでに問屋の存在がみられました。パリの羊毛問屋はシャンパーニュの大市のための仕事をしていました。
 フランドルでもイギリスでも問屋制度が発達します。イギリスはもともと粗製の羊毛を輸出していましたが、13、14世紀には未染色の半製品、そしてついに完成品の輸出をおこなうようになります。
問屋制度の発達によって、ツンフトは次第に影響力を失っていきます。職人は問屋のために直接労働する家内工業的小親方に転じていきました。
 ウェーバーによると、問屋制度は次のような段階をへて発展していきました。すなわち(1)手工業者からの買い入れ独占、(2)原料の配給、(3)生産過程の管理、(4)道具の配給、(5)生産過程の結合。
 問屋制度が長く持続した理由を、ウェーバーは産業革命以前の時代は、固定資本の割合が少なかったことに求めています。このことは、問屋制度が広範な家内工業に依存していたことを意味していました。
だが、まもなく工場が誕生します。
 家庭から分離された仕事場生産は昔から存在しました。荘園や組合が仕事場をつくることもあり、それが大規模な仕事場になることもありました。マニュファクチュアは多くの労働者を一カ所に集めて、規律をもって労働させる制度です。工場では企業家が固定資本(設備)と労働力を投入し、異質結合的に協働がおこなわれます。
 工場成立の前提条件は、大量かつ継続的な販路が存在することで、そのためには市場の安定と貨幣の購買力が求められます。工場は家内工業や問屋制度でつくられるものよりも、より安価に商品を供給しなければなりません。
 工場での生産には豊富な原料と固定資本(設備)、それに多くの自由な労働力が欠かせませんでした。イギリスで自由な労働力が得られたのは、農民からの土地収奪がなされ、農村人口がプロレタリア化したためでした。
 近代以前においても、設備を必要とする仕事場がありました。たとえば製粉所や製材所、搾油所、晒布所、パン焼竈、醸造所、鋳造所、鍛鉄場などで、これらは王侯、荘園領主、都市貴族、あるいは市民によって営まれていました。
 16世紀のイギリスのある繊維工場は工場の走りですが、そこには200の織機が据え付けられていて、職工たちは賃金をもらうため機械の前で働いていました。少年が補助的に働く姿もみられました。だが、手工業者の訴えにより、1555年に国王はこの工場を禁止しています。当時はまだ問屋制手工業者の影響が強かったのです。
 工場に新しい進展がみられるようになるのは、17、18世紀になってからです。近代的分業と同時に、人間以外の動力源が用いられるようになりました。最初は馬力起重機、ついで水や風が利用されます。風を利用した代表はオランダの風車で、水は採鉱業でも欠かせませんでした。
 工場の先駆者は中世の王侯の貨幣鋳造所だった、とウェーバーはいいます。武器、さらに軍隊の被服や火薬を製造するためにも秘密を保持する工場が必要とされました。
 需要という点で確実なものとしては奢侈的需要がありました。ゴブラン織や敷物、金の器や陶器、窓硝子、ビロード、絹、石鹸、砂糖など、上層階級の需要を満たすため、特別の設備をもつ工場がつくられます。しかし、こうした市場はほぼ貴族階級にかぎられていたのです。
 フランスではフランソワ1世(在位1515〜47)が武器や壁紙などの王立工場をつくっていました。イギリスではツンフトが都市を制していたため、工場は地方に建設する以外にありませんでした。
 ドイツで最初に工場がつくられたのは16世紀のチューリヒ(現スイス)で、ユグノーの亡命者が絹と緞子(どんす)を製造し、それがたちまちドイツの諸都市に普及しました。16世紀から17世紀にかけ、アウグスブルクでは砂糖や緞子、ニュルンベルクでは石鹸、アンナベルクでは染色、ザクセンでは織物、ハレとマクデブルクでは針金の工場が誕生し、18世紀には王侯直営の陶器工場がつくられています。
 ウェーバーは工場は手工業から発生したわけではないといいます。工場でつくられたのは、木綿、陶器、緞子など、新しい生産方式を必要とする新しい生産物でした。
 同様に工場は問屋制度から生まれたものでもありませんでした。工場において重要なのは固定資本という要素です。その意味では、工場はむしろ荘園領主の設備を継承したものといえます。機械は工場に先行したわけではなく、工場が蒸気と機械の発展を促したという見方をウェーバーはとっています。
 近代的工場の成立は企業家と労働者に重大な影響をもたらしました。企業家はいまや市場のための生産に責任を負うことになりました。労働者もまた自由な労働者として、企業と労働契約を結んで、仕事をするようになります。
 だが、こうした工場制度が成立したのは、ヨーロッパの一部に限られていました。工場が誕生することができたのは、機械化という刺激があったからだ、とウェーバーはいいます。そして、その機械化の推進力となったのは、鉱山業の発展にほかならなりませんでした。石炭と鉄の時代がはじまるのです。

 商業もはるか古代から存在しました。商業(交易)はことなる共同体間の取引として発生する、とウェーバーは述べています。共同体間で生産が分化する結果、商業が発生します。
 古代オリエントでは、権力者どうしがたがいに贈り物をしてよしみを通じていました。ふつうは黄金や戦車ですが、馬や奴隷が贈られることもありました。
 エジプトのファラオは自身が船主として、交易事業を営んでいました。インドでは、商人(バニヤン)階級はカーストに位置づけられていました。いかなる生き物も殺すことを禁じられているジャイナ教徒は、宝石や貴金属を扱う商人となりました。土地所有を禁じられているユダヤ人が商業、とりわけ金融業に向かったのも、宗教的な理由からです。
 中世には領主商業があらわれます。領主は荘園の余剰生産物を市場で売るため、職業的商人を手代として雇いました。王侯が他人種の商人に保護を与え、その代償として手数料を徴収する習慣も存在しました。
 ヴェネツィアの首長(ドージェ)たちも船主でした。ハプスブルク家も18世紀までみずから交易事業を直営しています。しかし、次第に、王たちが商人に商業を特許したり、請け負わせたりして、その成果の一部を受けとることが多くなります。
 独立した商人層が生まれる前提としては、交通手段が確立されていなければなりません。陸上では13世紀ころまで、商人は自分の背に商品を担いだり、ロバやラバなどに二輪車をひかせたりして荷物を運んでいました。馬は最初、戦争にしか用いられず、運送手段として用いられるようになったのは、わりあい新しい時代にはいってからです。
 いっぽう船の発達には長い時間を要しました。最初は昼間の沿岸航海しかできませんでした。やがてアラブ人がモンスーンを利用して、インドへの遠洋航海をころろみます。しかし、すでに中国人は3、4世紀に羅針盤を利用しており、ヨーロッパ人がそれを採用するのははるかあとのことです。羅針盤の導入は航海に決定的な影響をもたらしました。
 帆は船のスピードアップに貢献しました。それでも古代においては、ジブラルタル─オスティア(ローマの外港)間、メッシナ─アレクサンドリア間はそれぞれ8〜10日の日数を要しました。帆船航海術の完成は16、17世紀のイギリスを待たなければなりません。
 古代、船の動力には奴隷が漕ぎ手として用いられていました。船主は商人で、ギリシアのポリスにはエンポロスと呼ばれる船乗り商人がいました。ローマでは国が船舶の徴用と穀物の配給を仕切っていました。しかし、ローマでは船による運送は発達せず、軍船も衰退して、海賊が横行することになります。
 古代や中世でも船荷に関する決まりが設けられていました。遭難によって船荷を捨てざるをえないときには、関係者が共同でその損害を負担することになっていました。海上貸付には高い利子が発生しました。
 中世の海上商業は、古代とちがい組合によって営まれるようになります。商人たちは仲間組合を結成し、船長を雇って共同で船荷を運搬し、共同で危険を分担しました。資本家による海上貸付もあって、行商人たちはこの方式をよく利用したといいます。
 行きの船には海外で売られる商品が積まれ、それに商人が同道する場合もあれば、別の商人に販売をゆだねる場合もありました。そこで生じた利益はその都度分配されました。
近世を尺度とすれば、中世の海上商業の取引高はきわめてわずかなものでした。航海の期間も長かったため、資本の回転もきわめて緩慢でした。海賊に襲われる危険もありました。それでも、地中海やバルト海では、それなりの規模の取引がおこなわれていました。
 海上にくらべると陸上の危険は少なかったといえます。その代わり運賃は比較にならぬくらい高くなりました。陸上商業でも13世紀までは商人が商品についていくのがふつうでした。その後は、運搬人が荷物に責任をもつようになります。
 問題は道路事情でした。古代ローマの道路は、あくまでも首都への食糧供給と政治的・軍事的目的のためでした。中世の荘園領主は農民たちに道路や橋梁(きょうりょう)の建設・維持を課し、めいめい勝手に道路をつくるようになります。
 中世では海上にくらべ陸上の取引はずっと少なく、加えて、運送に時間がかかりました。アジアや中東では、隊商が荷物の運搬を引き受けていました。
人びとが個人的に旅行ができるようになったのは、14、15世紀になってからです。当初は荘園領主が農家に馬や馬車を貸しつけて運送をやらせていました。そこから次第に独立した運送業者が生まれ、運送業者のツンフトが結成されることになります。
 中世は河川の舟航が盛んでした。領地内の運輸独占権をもっていた領主や大司教は、この権利を船乗りたちにゆだねました。しかし、しだいに船乗りたちは団体を結成し、河川通行権をにぎるようになります。ツンフトや都市の自治団体が船を所有して、この権利を行使する場合もありました。
 商人は身分の保証を求めました。最初に求めたのは首長の保護です。つぎに法的な保護が求められました。商人の数が増えるにつれてハンザ(団体)が結成されます。都市には外来商人のための居留地がつくられました。
 最後に商品を取引できる市場が必要になってきます。エジプトやインド、ヨーロッパでも、もともと市場は外来商人のために、王の特許により創設されました。市場ではさまざまな決まりが設けられ、手数料や市場税がかけられ、王はこれによって利益を得ていました。
 定住商人は都市発展の産物だ、とウェーバーはいいます。定住商人の起源は行商人です。かれらは周期的に旅行し、地方で生産物を売ったり買ったりしていました。つぎに、かれらは使用人に地方を回らせて産物を集めるようになり、さらに地方に支店を設けて、使用人を常駐させるようになります。そして、自身は都市の定住商人となるわけです。こうした状況が可能になったのは中世末期です。
 定住商人が闘ったのは、まずユダヤ人や他国の商人、田舎の商人などのような外部的存在で、かれらを市場から排除しようとしました。そして、内部においては、仲間のひとりが突出しないよう機会の均等を求め、さまざまな規制を設けました。営業活動の範囲や消費者の囲い込みをめぐっては争いが生じました。
 ウェーバーは各地の商人の集まりとしてメッセ(見本市)の存在を挙げている。その代表がシャンパーニュの大市でした。シャンパーニュでは4つの町で6つのメッセが、それぞれ年に50日間開かれていました。
 ここで取引された最大の商品はイギリスやフランドルの羊毛と羊毛製品です。イタリアなどからは香料、染料、臘、サフラン、樟脳、漆などがもたらされました。シャンパーニュには世界中の貨幣が集まり、為替や手形の決済がおこなわれています。
 合理的な商業には計算技術が欠かせません。位取り計算法はインドで発明され、アラブ人がこれを発展させ、ユダヤ人がヨーロッパに伝えました。ヨーロッパで計算法が普及したのは十字軍の時代になってからだといいます。そして、中世のイタリアで簿記がつくられました。
 ウェーバーによれば、簿記の必要性が高まったのは、家族的な経営体である商家が非家族的な経営体を形成することになってからだといいます。フッガー家でもメディチ家でも、当初は家計と経営は未分離でした。だが、しだいに家計の計算と営業上の計算が分離されるようになります。こうした現象は西洋においてしか生ぜず、それが初期資本主義の発展に決定的な影響をもたらした、とウェーバーは指摘しています。
 だが、その前に商人ギルド(商人組合)について論じなくてはなりません。ギルドには外来商人のギルドと定住商人のギルドがあります。
 外来商人のギルドとしては、ハンザ同盟が何といっても有名です。ハンザ同盟はバルト海沿岸の商業を掌握しました。
 定住商人ギルドとしてウェーバーが挙げるのが、上海の茶商組合や広東の公行ギルドです。かれらはすべての海外貿易を独占していました。インドでは、ジャイナ教徒が定住商業に従事し、ゾロアスター教徒は卸売商業や遠隔地交易を営んでいました。
 西洋のギルドの特徴は、政治権力から特権を与えられていることにあります。都市ギルドは経済問題に関して都市を管轄する商人組合となりました。イギリスには国王の租税を請け負うギルドがあったといいます。
 西洋のギルドの歴史は実に多様で、イギリス、イタリア、ドイツをみても、その発展はそれぞれ異なります。
 北ドイツでは、ギルドの支配するハンザ都市の同盟、すなわちハンザ同盟が結成されました。その中心都市はリューベック、ハンブルク、ブレーメンなどです。ハンザ同盟は14世紀に最盛を誇り、バルト海地域の交易を担いました。
 ウェーバーによると、ハンザ同盟の商業上の特権にあずかったのは、ハンザ都市の市民だけだったといいます。利用できるのは組合所有の船だけで、貨幣取引はせず、商品取引のみをおこないました。
 ハンザ同盟は各地に商館や倉庫をおいて、商品ネットワークを築き、その取引を厳格な統制下におきました。同盟内では度量衡が統一され、商品の規格化もなされました。蝋や塩、金属、布地をはじめとして多くの商品が取引されていました。
 同盟は軍隊をもたず、強い関税政策ももちませんでした。政治的には緩やかな統一体です。加盟各都市では、商人貴族政治の確保が目指されていました。
 15世紀になるとハンザ同盟は衰えはじめます。しかし、資本主義前段階の商業の発達を語るうえで、ハンザ同盟は避けて通れないテーマだ、とウェーバーは考えています。

 最後に、近代資本主義以前の貨幣と銀行に触れておきましょう。
 貨幣には支払手段と交換手段という機能があります。しかし、歴史的には貨幣はまず支払手段として登場した、とウェーバーは指摘します。
 交換がなくても支払いは発生します。たとえば貢ぎ物、首長からの贈与、結納、持参金、贖罪金、罰金など、支払いは常に必要になってきます。さらに領主が家臣に支払う給与、指揮官が傭兵に渡す支払いなども欠かせません。ペルシア帝国でもカルタゴでも、貨幣は軍事上の支払手段を確保するためだけに鋳造されていました。
 貨幣にはさまざまなものが用いられていました。貝殻もそのひとつです。しかし、貝殻ではなく家畜でなければ買えないものもありました。当初は、何でも買うことのできる共通貨幣はなかったのです。
 貨幣は財宝として蓄積されました。貨幣を所有する者には威光があるとみられていました。そのため、耐久性をもつ象牙や巨石、金や銀などの金属が身分的貨幣として扱われました。
 原始時代には、女性は貨幣財貨をもつことができませんでした。男の首長だけがりっぱな大きさの貝殻を所有していて、戦争や特別の贈り物のときなどにかぎって、それを放出しました。
 貨幣が一般的交換手段として利用されるのは、対外商業がはじまってからです。そして、対外的な貨幣が次第に共同体内部の経済に侵入してきます。
 ウェーバーは初期の貨幣として、(1)宝貝、硝子玉、琥珀、珊瑚、象牙などの装飾貨幣、(2)穀物、家畜、奴隷、煙草、火酒、塩、鉄器、武器のような対外的交易貨幣、(3)その土地では生産できない毛皮、皮革、織物のような衣服貨幣、(4)小片に何かの印をつけた記号貨幣などを挙げています。
 こうした貨幣を評価基準として、交換を実現するのはなかなかやっかいなことでした。そのため、貨幣としては次第に貴金属が利用されるようになります。貴金属が腐蝕しにくいこと、装飾物ともなりうること、加工しやすく細分しやすいこと、秤量できることなどがその理由でした。
 最初に金貨がつくられたのは、紀元前7世紀のリディア王国(現トルコ西部)です。バビロニアでは銀塊が秤量貨幣として用いられていました。
 政治権力者が貨幣の鋳造権を握るのは、もっとあとの時代になってからです。紀元前5世紀ごろ、ペルシアのダレイオス1世はダレイオス金貨をつくり、それを傭兵に給付しています。鋳貨を財貨の取引に用いたのはギリシア人でした。フェニキア人は商業に貨幣を利用しませんでした。ローマでは紀元前269年にいたって、ようやく銀貨が鋳造されました。
 貨幣の鋳造は17世紀まで手作業でおこなわれていましたが、手間がかかったうえに、その仕上がりもまちまちでした。その純正さを判断するには、刻印が比較的安全なよりどころとなりました。
 ここでウェーバーは金属本位の話を持ちこんでいます。金属本位とは、特定の鋳貨を支払手段として法定することを意味します。今日では多くの金属(たとえば金、銀、銅)のあいだに特定の比率を設定する両本位制が基本になっていますが、かつてはこの比率が常に変動していました。
 地方取引では銅がよく用いられ、遠隔取引では銀がよく使われていましたが、しだいに金が頭角をあらわします。その場合は、とりわけ金と銀の比率が問題となりました。
 ローマ帝国では銅と銀の並行本位制がとられ、銅と銀の比率を112対1に維持することが目指されました。金貨も商業貨幣でしたが、当時、金貨は経済目的より軍事的な論功行賞として交付されていました。
カエサルが政権を掌握すると、金本位制がとられ、銀との比率が11.9対1と定められました。アウレウス金貨はコンスタンティヌス時代まで用いられました。コンスタンティヌスのとき新たにソリドゥス金貨がつくられ、ローマ帝国崩壊後も広く流通しました。
 これにたいし、中世は銀本位制でした。貨幣鋳造権は王や皇帝が専有していましたが、実際にはその鋳造は特権者に委譲され、手工業・ツンフトによってつくられていました。時がたつと悪鋳がおこなわれたこと(悪貨は良貨を駆逐する)、それにより金(とりわけフィレンツェのフローリン金貨)の権威が高まったことも頭に入れておくべきでしょう。
 16世紀以降は、メキシコやペルーからヨーロッパに大量の貴金属がもたらされます。ウェーバーによると、その量は1493年から1800年にかけ、金が2500トン、銀が9万ないし10万トンだったといいます。
これによりヨーロッパでは大量の通貨が流通するようになりました。だが、混乱がつづき、貨幣制度の合理化には時間がかかりました。
 近代的本位制度が過去とことなるのは、それが国庫収入の観点からではなく、純国民経済的観点から実施されたことだ、とウェーバーはいいます。それは、王室収入に都合のいい観点からではなく、商業上、合理的な観点から貨幣制度が定められたということです。
 その点で先鞭をつけたのはイギリスでした。1717年にイギリスはアイザック・ニュートンの助けを借りて、ギニー金貨1枚が銀貨21シリングにあたると定めました。その後、金は本位金属となり、銀は補助貨幣に格下げされていきます。
 いっぽうフランスは革命中、さまざまな実験をおこなった結果、銀を基本とした両本位制を採用し、銀と金の比価を15.5対1と定めました。
 ドイツでは銀本位制が存続しました。ドイツが金本位制に移行するのは、1870年の普仏戦争の勝利により、フランスから多額の戦争賠償金を得てからのことです。
さらに、カリフォルニアでの金の発見により、世界の金の量が増大し、ドイツではマルク金貨がつくられることになりました。
 貨幣といえば銀行の話にも触れないわけにはいかないでしょう。
 資本主義が成立する以前も、銀行がなかったわけではありません。多種多様な通貨が流通するなかで、銀行の主な役割は両替でした。さらに遠隔地での支払の必要が加わると、支払委託の引き受けが業務に加わります。
 小切手のような支払手段も必要になりました。貨幣保管業務、つまり預金業務もはじまります。これらはエジプトでもローマでもおこなわれていました。
 バビロニアでは各種の通貨がないため、両替業務はありませんでした。その代わり、銀行業者は銀塊に刻印を押して貨幣とする業務を請け負っていました。バビロニアの銀行は振替業務をおこなっており、銀行切符(ただし流通の対象ではない)のようなものも発行していました。
 古代ローマでは、銀行業者は公認の競売業者でもありました。注目されるのは、当座勘定取引が銀行でおこなわれていたことです。しかし古代の銀行は、民間経営は例外で、たいていが神殿や国家によって運営されていました。
 神殿(たとえばデルフィ神殿)は金庫としての役割も果たしており、預けられたお金の略奪は禁止されていました。奴隷たちはみずからの貯金を神殿に預け、それによって自由が得られる日を待ちました。いっぽう、王にとって神殿は大きな貸主でもありました。
 国もまた国庫収入を目的として銀行業務を営んでいます。プトレマイオス朝のエジプトでは、王が国庫財政上の機関として、銀行を独占していましたが、それは近代的な国立銀行制度とはまるで無関係の機関でした。
 中世の銀行制度は当初はささやかなもので、11世紀には両替屋がある程度でした。それが12世紀になると遠隔地の支払取引のために手形証書が使われるようになります。金貸しをおこなっていたのは、定住の商人ではなく、ユダヤ人やロンバルディア人(北イタリア人)などの外来者でした。
 うちつづく貨幣悪鋳に対応するため、中世の商人たちは結束して銀行を設立し、その預金をもとに振替証券や支払小切手を発行しました。しかし、そうした銀行はなかなかつづきませんでした。
 中世の銀行は、法王庁のために租税を徴収する仕事なども請け負っていました。戦争をはじめようとする団体や国王にも融資をおこなっています。しかし、その回収は容易でなく、銀行はしばしば倒産の危機に見舞われました。
 政治権力者は安定した銀行を求めるようになります。そのためにさまざまな独占権(たとえば関税)をもつ独占銀行がつくられるようになります。ジェノヴァのサンジョルジョ銀行はそうした銀行のひとつでした。
 イギリスでは金を扱う貴金属商人が銀行を営み、預金を引き受けたり、融資や振替の業務をおこなったりしていました。しかし、1672年にチャールズ2世が巨額の負債を踏み倒すために支払停止を命じたことから、多くの銀行が破産に追いこまれました。そのため、もっとしっかりした独占的銀行が求められるようになります。
 もともとイングランド銀行は、オレンジ公ウィリアムがルイ14世と戦うための戦費を調達するために、1694年に設立されたものです。だが、国王の権力が強化されることを恐れた議会は、これを国立銀行と認めず、「議会の決議にもとづかないかぎり、国家にたいし貨幣を前貸しすることはできない」との縛りを設けました。
 イングランド銀行は120万ポンドの株式資本によって設立されましたが、これはたちまち国家のふところに消えてしまいました。しかし、重要なことは、イングランド銀行が、手形割引権(企業信用)と銀行券発行権をもつ近代的な中央銀行となったことです。
 ウェーバーは補足的に近代資本主義時代以前の利子についても触れています。
 村落共同体や氏族共同体のなかでは、利子も貸付も存在しませんでした。相互扶助が原則だったからです。困ったときに人を助けるのは、共同体の義務にほかなりませんでした。ユダヤ人もイスラム教徒も同胞からは利子をとりませんでした。利子が発生するのは内輪ではない別種族や別身分の者への貸付がなされるときでした。
 一般に利子は資本のこうむるリスクにたいする代償として発生します。古代においても家畜や穀物の貸付を受けたときには、その数倍のものを返すのが決まりでした。海上貸付は危険が大きいぶん、利子も高かったのです。
 中世の教会は高利を禁止する宣言をたびたび発しました。
 多くの人がユダヤ人の貸付に頼っていました。しかし、同時に人びとは国家がユダヤ人の資金を没収し、かれらを追放することを期待していました。こうして、ユダヤ人は町から町へ、村から村へと追いまくられることになります。
 教会自身が貸金所を創設することもありました。だが、これは長くつづかず、かれこれするうちに教会も利子を黙認する寛大な態度をとるようになります。
 とりわけ北ヨーロッパでは、新教が利子禁止のタテマエをなし崩しにしていきました。正当な利子を擁護する理論を展開したのは17世紀のカルヴィン派指導者、クラウディウス・サルマシウスだった、とウェーバーはいいます。
 ウェーバーのこうした研究からは、古代以来、周縁に存在した前市場的な経済諸制度が次第に整理統合されて、村落共同体を解体し、商品世界を形成するにいたるありさまをうかがい知ることができるでしょう。

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