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ウェーバーの社会経済史(3)──商品世界ファイル(28) [商品世界ファイル]

 前市場的な経済制度も資本主義に含めるなら、歴史のすべての段階に資本主義は存在するといえます。しかし、ウェーバーは「日常需要が資本主義的な仕方で充足されるという事実は、ただ西洋にのみ特有であり、しかも西洋においても19世紀の後半の出来事である」と強調します。
「日常需要が資本主義的な仕方で充足される」というのは、必要な商品が常に市場に供給され、日常の需要が商品の購入によって充たされることを意味します。ウェーバーはこうした商品世界の広がりを近代資本主義の特徴とするのですが、だとするなら、なぜ16世紀以降、西洋(ヨーロッパ)においてのみ、こうした近代資本主義が定着し、発展していったかが問われなければならないというわけです。
 ウェーバーはまず近代資本主義成立の前提は何かと問うています。
 かれによると、ひとつは(1)企業家が物的生産手段(土地、装置、機械、道具など)を私有財産として専有しうること。次に(2)市場の自由が存在すること(身分制の束縛がないこと)。さらに(3)合理的な技術、とりわけ機械を手に入れられること。(4)法のもとで経済の自由が認められていること。(5)自己の労働力を市場で自由に売ることができること。(6)ビジネスの商業化、すなわち株式や投資が認められること、などです。
 資本主義の発達は企業、とりわけ株式会社の発達をともなってこそ可能でした。
 ウェーバーは株式会社にはふたつの出発点があるといいます。
 ひとつは、政治権力が収益を先取りしようとして資本を集める場合で、ジェノヴァのサンジョルジョ銀行がそのひとつでした。高利のつく戦時公債が、戦争に勝利したときの戦利品や賠償金(戦利品)を当てにして発行されました。ただし、失敗に終わったときはみじめで、そうした公債は紙くずになります。
 もうひとつは商事会社に出資する場合です。15、16世紀には、都市の呼びかけにたいし、市民が出資に応じ、鉄や布の会社がつくられ、それを官庁が監督しました。株式の譲渡は認められませんでした。収益のすべては配当金として分配され、積立金などは配慮されなかったといいます。
 17世紀になるとオランダとイギリスの東インド会社が動きはじめます。東インド会社は国際的な植民地企業であり、国家が監督して、国内に株を割り当てていました。現在のような株式会社とはかなりちがいますが、国家から特権を与えられた東インド会社の成功は、人びとに株式会社の意義を知らしめました。
株式会社だけではありません。近代においては、国家自体が合理的な経済主体になろうとしていました。
 中世の都市は年金証書を発行することで多くの収入を調達していました。当時は秩序ある予算制がなく、各都市は1週間ごとに経済計画を立てるありさま。市の収入の増減ははなはだしく、支出は常に不足がちでした。そのため政治権力は租税請負制度によって税収の見通しを立てるようになります。こうして租税の合理的管理がはじまり、秩序ある財政がつくられるようになっていきます。
 16、17世紀になると王侯の独占特許政策が登場します。ハプスブルク家はイドリア(現スロベニア)の水銀坑採掘の特許権を握っていましたし、スチュアート家も国王による独占特許政策を活用しようとしました。だが、イギリスの場合は、国王の専断は早くから議会によって阻止されています。
 投資は時に投機につながりました。近代資本主義の歴史が恐慌の歴史でもあったことを、ウェーバーも指摘しています。
 1630年代、オランダではチューリップ・バブルが発生しました。しかし、チューリップ恐慌は歴史のちょっとしたエピソードにすぎません。より深刻だったのは、1720年代に発生したフランスの投機恐慌とイギリスの南海泡沫事件です。このふたつとも幻の植民事業計画が関係していました。
 フランスの場合は、当時フランスの財務総監を務めていたジョン・ロー(イングランド銀行の創設者のひとりでもある)が、ミシシッピ会社をつくり、北米にあるフランス領ルイジアナ(現在のルイジアナ州とはちがい、五大湖からメキシコ湾にいたる広大な地域)を開発する計画を立てたのが発端でした。だが、それは夢想でしかありませんでした。ミシシッピ会社の証券は暴落し、会社の破産後には、膨大な数の出資者の嘆きが残されました。
 イギリスの南海会社も同じ経過をたどります。南海会社は国にたいして巨額の前払いをおこない、南洋における商業の独占権を確保しました。だが、その結果もミシシッピ会社と同じでした。投機によって莫大な財産が費やされ、山師がほくそ笑むだけの結果となりました。
 その後も恐慌はなくなりませんでした。1815年、25年、35年、47年にも恐慌はくり返されます(ウェーバー死後の1929年には世界大恐慌が発生します)。「恐慌爆発の原因は、投機過剰の結果、生産そのものではなくむしろ生産手段が、消費財の需要の増加より一そう急速に増加したという事情から生じた」とウェーバーは説明しています。
 生産手段が急速に増加したのは、19世紀とともに鉄の時代がはじまったからでもあります。恐慌がなければ社会主義の構想も生まれなかっただろう、とウェーバーは述べています。
 マルクスのいうように、社会主義は恐慌を防ぐ手段として有効かもしれない、とウェーバーも認めています。しかし、現実には、不安定な競争の上に成り立つ近代資本主義のダイナミズムのほうが、社会主義の鉄カセのような安定志向を振りきって進むことになります。
資本主義には商品の爆発的浸透が必要でした。そうした資本主義が発達するためには卸売商人の存在が欠かせません。その卸売商人が小売商人から分離したのは18世紀のことだ、とウェーバーはいいます。
 貿易商はできるだけ早く外国への支払いをすませるため、商品をオークションにかけました。また逆に外国に輸出するために商品を業者に委託することも求められました。
 商品の販売を委託される販売代理商があらわれると、いっぽうでそれを買い入れる買入代理商があらわれます。当初は現物を見ないで見本で買入がおこなわれていました。
 取引所の前身は定期的に開かれるメッセ(大市)であり、ここでは商人どうしの取引がおこなわれていました。
 近代的な意味での取引所がつくられるのは19世紀になってからです。それ以前にも有価証券や雑種貨幣を扱う取引所はありました。しかし、19世紀になると典型的な商品が取引対象となり、先物取引もはじまります。取引されたのは穀物や植民地の大量商品(砂糖など)で、その後、工業証券にたいする取引が活発になりました。とりわけ鉄道の建設にかかわる鉄道債券が工業証券の人気を引っぱっていきました。
 卸売商業が活発になるには通信と交通の発達が欠かせません。
 新聞が商業と結びつくようになるのは18世紀末からです。このころから商品の販路を拡張するため、新聞に広告が打たれるようになります。
 株式相場が新聞に発表されるようになるのも19世紀になってからで、それまで取引所は閉鎖的なクラブでした。とはいえ、情報がなければ取引は成立しません。それをかつては郵便制度と信書が支えていました。そこに新聞が加わるわけです。
 交通についていうと、18世紀には船の数も大きさも増えましたが、大きな変化とはいえませんでした。河川通航は閘門(こうもん)施設によって改良されましたが、根本的な革新にいたりませんでした。陸上交通も同様ですが、道路事情は砂利舗装により大きく改善されました。それでも陸上の荷物運搬には海上や河川にくらべ、より多くの費用がかかりました。
 そこに鉄道がでてきます。「鉄道は単に交通といわず、経済一般に対して、歴史の示したもっとも革命的な手段となった」とウェーバーは語っています。いまから100年以上前の1920年のことです。
 ここで植民政策が近代資本主義の成立といかにかかわっているかが論じられます。
 植民地を獲得することでヨーロッパに大きな富がもたらされたことをウェーバーも認めています。(1)植民地の生産物の独占、(2)植民地への販売の独占、(3)植民地と母国との交通の独占が富の源泉となりました。
 植民地の富を確保するためには、例外なく武力を背景にした圧力が用いられました。植民地の管理は、スペインやポルトガルのように直接国家がおこなう場合もあれば、オランダやイギリスのように権限を委譲された会社がおこなう場合もありました。
 ウェーバーは前者を封建的類型、後者を資本主義的類型と呼んでいます。
 封建的類型の植民地では、土地が封土(スペイン植民地ではエンコミエンダ)として植民者に分配されました。資本主義的植民地では、たいていプランテーションがつくられ、現地住民の労働力が投入されました。アメリカでは当初先住民の活用が考えられましたが、それは失敗に終わり、黒人奴隷が輸入されることになります。
 19世紀の初頭、ヨーロッパ人の植民地には約700万人の黒人奴隷が住んでいました。しかし、その死亡率はきわめて高かったのです。そのため1807年から48年にかけ、アフリカからさらに500万人以上の奴隷が輸入されます。
 奴隷労働から得られる収益はけっして少なくありませんでした。奴隷たちはプランテーションの規律にもとづき酷使されました。それは、まさに略奪経済だった、とウェーバーはいいます。
 それでもウェーバーは論敵のゾンバルトを批判して、植民地商業が近代資本主義の成立にもたらした影響はごくわずかなものだったと断言します。
 植民地での搾取形態は、奴隷制度の撤廃とともに終末を迎えます。奴隷制度と戦ったのはクエーカー教徒だけでした。カルヴィン派もカトリックもこの点では何の寄与もしていません。奴隷制撤廃にもっとも大きな力となったのは、北米植民地の独立でした。
 1815年のウィーン会議は、奴隷商業の禁止を宣言しました。北米植民地が失われたことで、イギリスは奴隷商業への関心を失います。イギリスで奴隷制が廃止されるのは1833年のこと。それでも1807年から48年までに盛大な密輸入によって、膨大な多くの黒人がアメリカに運ばれていました。
 植民地がヨーロッパに大きな富をもたらしたことは否定できません。しかし、近代資本主義が成立したのは、奴隷制のプランテーションによってではなく、あくまでも工業の発達によってだ、とウェーバーは強調します。
 近代資本主義の本命が産業にあったことはまちがいありません。
 ウェーバーは産業経営の発展を追っています。
 工場の特徴は機械化された装置と労働過程の機械化にあるといってよいでしょう。重要なのは、仕事場、装置、動力源、原料が企業家によって専有されていることです。そうした工場の先駆者となったのがイギリスでした。
 水力によって運転された最初の工場は、1719年のダーウェント(ダービーシャー)の絹工場です。そのあと1738年に羊毛マニュファクチュアが生まれ、工場での半麻生産がつづき、スタッフォードシャーでの陶器製造、さらに製紙業がはじまります。
 機械化にとって画期的だったのは木綿マニュファクチュアの発展です。1769年以降、水力による機械化によって大量の紡績撚糸(ねんし)が生産できるようになりました。加えて1785年にカートライトが力織機を発明したことにより、木綿産業が急速な発展を遂げることになります。
 機械化の加速に大きなインパクトを与えたのが石炭と鉄でした。イギリスでも石炭は中世から使用されていました。しかし、それは燃料などの消費目的で、製鉄にはもっぱら木炭が用いられていました。そのため、イギリスでは木の切りすぎにより、山林が荒廃しました。
 鉄の利用はそもそも軍事目的のためでした。17世紀に圧延機が登場すると、鉄の用途も広がります。しかし、山林の荒廃が製鉄の拡大を阻んでいました。
 それを突破したのが石炭です。1735年にコークスの製造法が開発されます。そして1740年にはじめて溶鉱炉にコークスが使用され、1784年に攪錬法(かくれんほう)が導入されて、製鉄は格段に進歩しました。加えて、蒸気機関が鉱山の排水を容易にしたことから、石炭と鉄鉱の増産も可能になりました。
 石炭と鉄は、エネルギーと機械の可能性を切り開きました。蒸気機関による生産過程の機械化は、労働の有機的限界から生産を解放しました。
 機械化は常に労働を節約・解放する方向に進みます。しかし、省力化は労働力が不要になったことを意味しない、むしろ逆だ、とウェーバーは考えています。それは労働分野の拡大をともなうからです。
資本主義の進展とともに、人びとは過去の伝統の束縛から解放され、新たな商品が次々とつくられるようになります。ウェーバーによると、労働は「とらわれることなく自由に活動する知性と緊密に結合するにいたった」ということになります。
 イギリスではエンクロージャー運動によって、耕地が牧用地に転用され、農村に過剰人口が生じました。しかも、政府の法令は、自発的に就業しない者を禁じていました。こうした労働力を管理していたのが治安判事です。治安判事は有産者層と結びつき、過剰な労働力を「新しく成立した産業に押し込んだ」と、ウェーバーは述べています。
 そのいっぽう、工場ではたらく労働者が増えるにつれて、18世紀前半には新たな労働法制が導入されるようになります。労働者への支払いに生産物をあててはならないこと、また労働者には貨幣で労賃が支払わねばならないことが定められたのです。

 ゾンバルトがいうように戦争と奢侈が資本主義を推進したことは無視できません。しかし、ウェーバーは、そのことを過大評価してはならないといいます。
 軍隊の兵員数増加は、たしかに工業生産を刺激しました。軍服や銃砲、弾丸が繊維産業や製鉄工業の需要を喚起したことはまちがいありません。海軍でも軍艦の巨大化が造船業の発達を促しました。
 しかし、軍隊が大衆軍隊となり、それにともない商品の大量需要があらわれたとしても、戦争こそが近代的資本主義の決定的発達条件だったとはいえない、とウェーバーは断言します。もしそうなら国家の官営事業が膨らんで、資本主義はかえって衰退したはずです。そうなっていないのはどうしてか。
 このことは奢侈についてもいえます。典型的な奢侈はフランスの宮廷や貴族のあいだでみられました。レース、薄物の下着、長靴下、傘、インディゴ染料、ゴブラン織、磁器、更紗、毛氈、チョコレート、コーヒーなどが消費されて、業者をうるおしました。
 こうした奢侈が資本主義の発展に寄与したとすれば、むしろ奢侈品需要の大衆化、とりわけ代用品の製造がなされることによってだ、とウェーバーはいいます。奢侈品もどきが広く行き渡るには、品質を維持するよりも、価格を徐々に引き下げることが効果的なのです。したがって、贅沢品という刺激より、むしろ価格引き下げのなかにこそ資本主義の本質が隠されている、とウェーバーは断言します。
 生産費を抑え、価格を引き下げることによって利潤を増やそうというのは近代資本主義特有の考え方であって、こうした考え方が生まれた背景には16、17世紀の価格革命がありました。
 このころヨーロッパには中南米から大量の金銀がもたらされ、貨幣価値が下がったことで、物価が全般的に上昇しました。農業生産物の価格が上昇し、そのおかげで農業は市場生産に移行できるようになります。しかし、工業製品の価格上昇は抑えられ、農業生産物と比較すると、むしろ相対的に下落したのです。
 つまり、物価が上昇し、工業製品の価格が相対的に下落するなかで、技術と経営の革新がなされ、それが近代資本主義の成立につながっていく、とウェーバーはとらえるのです。
 技術と経営の合理化によって、生産費を下げ、価格を引き下げようという動きは、17世紀にはいると、かずかずの発明をもたらしました。
 1623年にはイギリスで特許法が制定されました。それにより発明は14年間にかぎって保護され、その後はすべての企業家がこの発明を利用できるようになります。とはいえ、もとの発明者には十分な配当がなされました。
 18世紀の繊維工業におけるさまざまな発明は、資本主義の発展に決定的な影響をもたらしました。もし特許法の刺激がなければ、こうした発明は不可能だったろう、とウェーバーは論じています。
商業はいかなる場所、いかなる時代にもありました。しかし、合理的な労働組織、つまり機械装置とともに労働を合理的に組み立てるやり方は西洋でしか生まれなかった、とウェーバーはいいます。

 資本主義が自律的に発展するには、市民という概念が必要だった、とウェーバーは考えていました。こうした西洋独特の「市民」はどのようにして生まれたのでしょうか。
市民とは何か。ウェーバーは3つのとらえ方を示します。。
(1)市民階級は統一的な階級ではありません。富裕な市民も貧しい市民も、企業家も手工業者も同じ市民として、特定の経済的利害状況にかかわっています。
(2)政治的意味においては、市民は特定の政治的権利(人権)を有する政治的存在です。
(3)最後に(限定的にいえば)市民とは財産と教養をもつ社会層(とりわけブルジョワジー)を意味します。
 市民の3概念は、いずれも西洋に固有の形態で、しかも「市民は、つねに特定の都市の市民」でした。こうした都市は西洋にしか存在せず、都市も市民も西洋特有の形態だ、とウェーバーは断言します。
都市が文化にもたらした影響ははかりしれません。芸術や科学を生みだしたのも都市です。政党を生みだしたのも都市でした。都市は宗教の担い手ともなりました。
 経済的観点からみれば、都市は当初、商工業の所在地であり、外部から不断の食料品移入を必要としました。したがって、都市は何らかのかたちで食料品への対価を払わねばなりませんでした。軍事的にみれば、都市はたいていかつての城砦でした。さらに、そこは行政機関の所在地でもありました。
 しかし、西洋以外では自治団体としての都市はなかった、とウェーバーはいいます。西洋の都市は古代においては共住、中世においては盟約を基本として発生しました。それは古代アテネや中世のヴェネツィアをみてもわかります。
 西洋のポリスのようなものは東洋では生まれませんでした。その理由をウェーバーは、治水を統制する王の権力があまりにも強大だったことと、呪術や禁忌(きんき)の縛りが強かったことに求めています。
 ウェーバーは、西洋の古代都市と中世都市の比較を長々とつづけていますが、それは省略します。いずれにしても、重要なのは、西洋においては、たとえ一時的だったにせよ、都市における民主制が確立されたことだといいます。つまり豪族の支配に代えて市民の支配が成立したのです。
 もっとも、古代と中世でちがいはあります。
 中世の都市において、市民は自由でした。「都市の空気はすべてを自由ならしむ」という原則は、中世の都市にこそあてはまりました。「身分の平等化と、自由の束縛の撤廃とは、中世都市の発展の決定的傾向になった」とウェーバーはいいます。
 古代では、事情はこれとは逆で、身分の差や隷属関係があり、多くの奴隷がいました。しかも、民主政治の発展にともなって、都市にはますます奴隷が流れこみ、身分的不平等が拡大していきました。古代民主制とは、戦士ツンフトによる都市国家なのだ、とウェーバーはいいます。「慢性的戦争はギリシアの完全市民にとっては正常の状態であった」。さらに、「戦争は都市を富裕ならしめるに反し、長い平和の時期は市民の到底耐ええないことであった」ともつけ加えています。
 古代ギリシアに中世のような手工業者ツンフトが生じなかったのは、古代都市国家の民主制が戦争によって支えられていたためです。古代においては、商人や手工業者は市民として認められませんでした。
 近代資本主義の特徴は合理的であることです。いかなる時代においても商人は存在しました。商人は租税を請け負ったり、戦費を融通したり、戦利品を処分したり、高利をとったり、投機をしたりして活動していました。しかし、それはウェーバーにいわせると、あくまでも非合理的資本主義だったのです。
 合理的資本主義は市場における、より大量、かつ大衆的な需要をめざして、努力を傾けるものです。だが、古代において、こうした発展は閉ざされており、それがようやく緒についたのは、西洋の中世末期においてだった、とウェーバーはいいます。
 つまり、中世の都市こそが、近代資本主義を準備したわけです。その後、国家が台頭することによって、都市の力は衰えていきます。
国家の台頭によって、都市の自治権が奪われていったのは事実です。しかし、その都市を手に入れたのは「互いに覇を競いつつある民族国家」にほかなりませんでした。
 ウェーバーは、この「封鎖的民族国家こそが、資本主義に対して、その存続の機会を保証した」のだと述べています。つまり、国民と領土によって規定される封鎖的な「国家」は、他国の攻勢からの生き残りをはからないわけにはいかず、そのために国家は資本と結合したというわけです。その意味で、近代資本主義は近代国家の産物だとウェーバーは考えていました。

 ウェーバーは合理的国家という意味での「国家」が存在するのは西洋だけだと述べています。もっともそれは1920年時点の話です。
 中国では氏族や商人ギルド、職人ツンフトが根を張っていて、その上に官僚(マンダリン)が薄い覆いのように乗っていました。官僚は教養ある読書人として封土を与えられていますが、行政も法律も知らず、実際の行政は小役人にまかされていました。
 西洋の国家はこれとは異なります。専門的官僚と合理的な法律を基礎とする合理的国家だ、とウェーバーは強調します。
 首尾一貫した国家の経済政策は、近代になってはじめて登場しました。
西洋でも14世紀までは計画的な経済政策はほとんど見られませんでした。
 王侯が合理的な経済政策に着手するのは、14世紀のイギリスからで、いわゆる重商主義と呼ばれます。端的にいうと、対外交易と国内開発によって王の収入を増加させることが、重商主義の最大目的でした。
 重商主義政策は国内においては人民の租税負担力を増進させることに向けられました。そのために、王は貨幣が国外に流出するのを防ごうとしました。さらに国内の人口を増やすことをめざしました。
 このふたつの目的を達するために、できるだけ多くの商品(原料ではなく完成品)を海外に売ることが奨励されました。しかも、その取引をおこなうのは自国の商人でなければなりません。こうして「一国の輸入額が輸出額を超過すれば、その国はそれだけ貧しくなる」という重商主義のセオリーが生まれます。
 イギリスは早くも14世紀末のリチャード2世の時代に、輸入を禁止し輸出を奨励する重商主義政策をとりはじめます。その後、1440年にイギリスにおける外国商人の規制、外国で商売をする自国商人の規制がなされ、重商主義の色彩が強まります。そして1651年の航海条例にいたるまで、重商主義政策が徐々に推し進められていくことになります。
 スチュアート朝の重商主義は、国庫収入の増加を主眼としていました。すべての新規産業は国王の独占特許がなければ認められず、王の財政をうるおすことが義務づけられていました。これは身分的独占的重商主義だった、とウェーバーはいいます。
 こうした国王の独占経済は清教徒(ピューリタン)革命によって崩れ去ります。そして、重商主義の第二の形態である国民的重商主義が誕生するのです。この政策のもとで、国民的産業が体系的・組織的に保護されることになります。
 しかし、重商主義によって保護された産業が生き残ることはありませんでした。残ったのは1694年に設立されたイングランド銀行くらいです。重商主義は自由貿易の台頭とともに滅びました。
 西洋に近代資本主義をもたらしたのは、18世紀から19世紀にかけての人口増加が原因でもなければ、16世紀以降の貴金属流入でもない、とウェーバーは断言します。地中海という地理的要因、さらには戦争や奢侈による需要もそれ自体、資本主義を促進したわけではありません。
 資本主義を産み出したのは「合理的なる持続的企業、合理的簿記、合理的技術、合理的法律」です。さらにその根源には「合理的精神、生活態度の合理化、合理的なる経済倫理」がある、とウェーバーは強調します。
 なぜ西洋においてのみ、このような「合理的精神、生活態度の合理化、合理的なる経済倫理」が生まれたのでしょう。もちろん、合理的精神と倫理は伝統という壁を乗り越えることによって生まれたのです。
 伝統を支えるのは伝統主義です。「伝統主義とは、伝統を神聖不可侵視すること、祖先より伝承せる行為および経済行為のみを墨守して、すこしも改めないことを意味するが、人間生活の発端において、つねに支配的なのはこの伝統主義である」と、ウェーバーは伝統主義を規定しています。
 伝統は抜きがたく、呪術のように人びとを縛っています。ここから合理的精神が生まれるには、相当の飛躍を必要とします。しかし、中南米を征服したピサロやコルテスに見られるような営利衝動が、合理的な経済倫理を生みだしたわけではない、とウェーバーは断言します。
 もともと営利活動は家族や氏族の共同体のなかでは禁じられていました。共同体は肉親的同胞愛で結ばれ、そこでは共産主義的ともいえる対内道徳が支配しており、営利活動がはいりこむ余地がありませんでした。
 営利活動がおこなわれたのは、もっぱら共同体の外部にたいしてです。仲間以外の外部との交渉では、信仰や良心の拘束から離れて、営利衝動が無制限に発動されました。
 最初の状態はこの二元対立です。それがいつしか勘定と計算の要素が伝統的な共同体の内部に浸透し、共産主義的な共同体を解体していきました。しかし、それと並行して、外部にたいしても(いわば外部の社会化が生じて)営利衝動をある程度抑えた自制的な経済が生まれてきます。
 ウェーバーはそんな図式をえがいています。
 だが、それにしてもなぜ近代資本主義は西洋においてのみ発展することができたのだろうか、とウェーバーは問います。
 キリスト教の教会は、もともと商人の活動は神の思し召しにかなわないという考えをいだいていました。それがようやく緩和されるのは、フィレンツェの勃興によってです。
 カトリックとルター派はそれでも営利活動に深刻な嫌悪をいだいていました。人間関係が物化され、倫理が失われるのではないかと恐れていたためです。教会が商人に求めたのは「公正なる価格」にもとづき、人びとの生活が保証されることでした。
 こうした教会の経済倫理を打ち破ったのはユダヤ人ではない、とウェーバーはいいます。
 中世のユダヤ人は、いわば卑賤(ひせん)なカーストに属する存在でした。ユダヤ人は市民の埒外(らちがい)にあり、いずれの都市の市民団体にも加入できませんでした。土地の取得も禁止されていましたから、農業に従事することもできませんでした。その代わり、ユダヤ人は貨幣取扱業務をいとなむことができたのです。
 とはいえ、これは賎民資本主義でした。ユダヤ人は合理的資本主義の成立に何ら貢献していない、とウェーバーは断言します。それでも、ユダヤ教のなかには反呪術的な精神が含まれていたのです。
ユダヤ教の意義は、反呪術性の精神をキリスト教に伝えたところにある、とウェーバーは見ていました。呪術の拘束があるかぎり、近代資本主義の成立は不可能でした。
 ここで、ウェーバーは不思議なことをいいます。
「世界を呪術から解放し、したがってまた、近代の科学、技術、および資本主義に対する基礎を創造したものは、実に預言にほかならない」
 人びとは預言にしたがいました。その預言は、ユダヤ教とキリスト教によってもたらされた、とウェーバーはいうのです。預言とは未来への約束にほかなりません。ユダヤ教とキリスト教の平民宗教によって、呪術は神聖ならざるもの、悪魔的なものとさげすまれるようになりました。
 さらに禁欲の教えがあります。禁欲とは規律正しい生活態度の実行を意味すます。中世の修道僧はそうした禁欲を実践する存在と考えられていました。しかし、一般の人のあいだにこの禁欲精神が行き渡らなかったのは懺悔と贖罪の制度があったからだ、とウェーバーはいいます。
 ルターによる宗教改革はこの制度を決定的に打破しました。これにより、信仰にあふれる人びとは、ふだんから僧院におけるのと同様の徳行を積まねばならなくなりました。
「新教の禁欲的宗派は打ってつけの道徳を創定した」とウェーバーは述べています。禁欲思想は独身主義をよしとするのではありません。結婚は合理的に子どもを産み育てるための制度です。貧乏がよいというのではありません。しかし、富の獲得によって思慮のない享楽を求めるのは邪道とされました。
 ここから、この世で生きていくには、定められた職業をまっとうし、営利活動をおこなうことこそが神の思し召しにかなっているという考え方が生まれました。
 キリスト教精神のもと、善良な良心をもつ企業家が誕生しました。それだけではありません。労働を嫌がらない労働者が供給されるようになった、とウェーバーはいいます。こうして、善良な企業家と献身的な労働者によって、近代資本主義は支えられることになったのです。
 しかし、と最後にウェーバーはつけ加えないわけにはいきませんでした。近代資本主義を支えた宗教的根蔕(こんてい)はいまや消え失せてしまった。現代人の職業意識は、もはや禁欲にはほど遠い。私利の追求こそ社会全体の幸福をもたらすという啓蒙的な楽観論(功利主義)が、禁欲的な理念を吹き飛ばしてしまった。19世紀がはじまるとともに、近代資本主義の黎明(れいめい)期は終わり、不断の緊張と対立を強いられる時代がはじまったのだ、と。
 いまや資本主義の精神は、プロテスタンティズムに代わって、貪欲な競争とニヒリズムが支配するようになった、とウェーバーはとらえていました。
 ウェーバーの死後、さらに高まった資本主義の力は、20世紀の巨大な震源となり、全体主義の防壁を崩壊させ、さらに21世紀の「人新世」をかたちづくろうとしています。それはもはや西洋のものだけではなく、地球全体をおおいつくしています。近代を称揚するだけではなく、近代を反省する時代がはじまっているといえるでしょう。

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