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ジョヴァンニ・アリギの世界(1)──商品世界ファイル(29) [商品世界ファイル]

 ジョヴァンニ・アリギ(1937〜2009)は、その著『長い20世紀』で、資本主義を「[資本の]継起的蓄積システム」と定義しています。かれのこの定義は、ブローデルの歴史分析と、マルクスによる資本の運動の把握から引きだされたものです。
 ブローデルは近代社会のシステムを三層構造として理解しました。
 いちばん下には物質生活の層、中間には市場経済の層、そして最上層に資本主義の層がきます。ブローデルの規定が特異なのは、資本主義と市場経済を同一視する一般の見方に対し、かれが「資本主義は、その登場と拡大を国家権力に依存し、市場経済と対立する」とした点です。つまりブローデルにとって、資本主義とは資本(産業や金融)と一体化した国家の経済戦略にほかなりません。これにたいし、市場経済の目的は、スムーズな経済循環による物質生活の確保にあります。
 継起的蓄積とは何でしょう。
 ここでアリギが持ちだすのは、マルクスによる資本の運動の規定です。英語でいうと、マルクスは資本の運動をM→C→M′の自己増殖過程ととらえました(G─W─G′)。つまり貨幣→商品→貨幣の限りなき膨張とみたわけです。
 資本主義の「継起的蓄積」がはじまった時期を、アリギはブローデルにならって、15世紀のイタリア都市国家の時代にみました。
 そして、それ以降の中心的な流れを(1)15世紀から17世紀のジェノヴァ・サイクル、(2)16世紀後期からほぼ18世紀全体のオランダ・サイクル、(3)18世紀後半から20世紀初めのイギリス・サイクル、(4)19世紀後期に始まり現在にいたるアメリカ・サイクルとしてとらえました。
 ヘゲモニーという言い方があります。
 ふつう覇権と訳されますが、そう言い切るとだいじな部分が抜け落ちてしまいます。アントニオ・グラムシは、コントロールとリーダーシップにヘゲモニーの発現をみていた、とアリギは書いています。力だけではじゅうぶんではありません。頼らせるようにしなくてはいけない。それによって相手を仕えさせるのです。国家というのはそういう存在で、世界には多くの国々を引っ張っていく覇者としての国家が存在します。
 現代から過去に射程を伸ばして、資本主義国家の原像をさがすと、中世末期の地中海世界に行き着きます。その後、世界のヘゲモニーを握ったスペイン、オランダ、イギリス、アメリカは、ある意味で地中海世界のシステムを引き継いで、多少のひねりを加えながら、それをより大規模に再現したにすぎない、とアリギはいいます。
 そこに見られるのは資本蓄積システムとそのサイクルです。
 資本と国家は一心同体でした。対立することもありますが、概して資本と国家は一緒にタッグを組んで戦ってきました。国家が資本の自由を認め、資本が国家をあてにする、そういう状態を資本主義と名づけることができるのではないでしょうか。資本主義ということばが誕生するのは20世紀になってからですが、そうしたシステムがはじまったのは15世紀の地中海です。
 イスラム商人に独占されていたアジアの富を直接手に入れたいという思いからヨーロッパの膨張は始まりました。アジアの富の取引を担っていたのが、中世末期の「4大都市国家」、すなわちヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、ミラノです。なかでも、アリギはヴェネツィアをきたるべき資本主義国家の「完全モデル」ととらえています。
 そのヴェネツィアに打ち勝とうとしたのが、ジェノヴァで、ジェノヴァはポルトガルとスペインを応援することによって、アジアの富を確保しようとします。ポルトガルは成功しましたが、スペインは失敗します。ところが、スペインはアメリカ大陸を偶然「発見」し、それがパワーと富の源泉となります。
 16世紀ヨーロッパで、スペインは圧倒的な力を誇っていました。しかし、イギリスやフランスが経済力をつけ、勃興しはじめます。スペインは教皇やハプスブルク家と組んで、これらの国を服従させようとしますが、ことごとく失敗します。とりわけネーデルラント北部7州は結束して、スペインからの独立をはかり、1648年のウェストファリア条約で新国家としての承認を勝ち取ります。それがオランダでした。
 ウェストファリア条約には、勢力均衡や内政不干渉といった政治原則のほか、貿易障壁の撤廃や商業の自由といった経済原則が謳われていました。これが近代国際システムの原型となります。
 オランダの通商・金融ネットワークは、スペインやポルトガルから奪い取ったもので、かつてのヴェネツィアよりずっと強大でした。オラニエ公マウリッツの考案した軍事技術が、オランダの力を支えていました。しかし、オランダの覇権は長くつづきません。
 1652年の英蘭戦争にはじまり、1815年のナポレオン戦争の終結にいたるまで、イギリスやフランスとしのぎを削る時代となるからです。
 当初はネーデルラントの支配をめぐる争いでした。それが次第に「富とパワーの源泉を取りこむ」ことへ次元が移ると、イギリスはアメリカにつながる大西洋の支配、さらには弱体化しつつあるオスマン帝国やムガール帝国の切り崩しへと向かいます。
 この時代の特徴は、資本主義と領土主義の結合にあるとアリギはいいます。具体的には、入植植民地主義と資本主義的奴隷制、経済的ナショナリズム──それらがあわさって、海外への膨張を促しました。
 世界商業と植民地から得られた利益を国内経済の形成へと誘導し、それによってますます多くの市民を「間接的、かつしばしば知らぬ間に、支配者の戦争と国家形成の努力を支えるために動員[する]」流れができつつありました。
 大陸から離れた島国であったために、イギリスは大陸の抗争に巻きこまれず、優位のうちに海外拡大をはたすことができました。ナポレオンのヨーロッパ支配を打ち砕き、ヨーロッパ協調の道筋をつけたイギリスは、自由貿易帝国主義のもとに、非西洋世界への植民帝国の拡大に乗りだします。
「植民地から提供させた帝国の献上品を、世界中に投下される資本に再循環させることで、世界金融センターとしてのロンドンの比較優位は、アムステルダム、パリという競合センターに対して、いっそう強まることになった」とアリギは書いています。
 イギリスの強さは自由貿易と帝国主義を結びつけたことにあります。世界の産物が自由にイギリスの国内市場に流入するいっぽうで、産業革命で生みだされた財が世界中に流れ、資産家の富が増大していきました。
 イギリス資本主義の本質は、ヴェネツィア型とオランダ型とスペイン型を合わせた世界経済=帝国にあったとアリギはみています。そのイギリスが19世紀末ごろから力を失っていったのは、ドイツやアメリカの挑戦に対応できなかったためです。
 北米大陸の端から端まで領土を拡張したアメリカは、世界の労働、資本、企業活動を引きつける「ブラックホール」になろうとしていました。いっぽうドイツは海外植民地の拡大に失敗したあと、強力な軍産複合体をつくりあげ、イギリスに対抗します。
 イギリスのヘゲモニーを引き継いだのは、大西洋と太平洋の二大海洋に接近できるという優位性をもつ大陸国家アメリカです。民族解放運動の流れのなかで、イギリスは次第に植民地を維持するコストに耐えられなくなっていきます。
 アメリカのヘゲモニーは「自由世界主義」とでもいうべきもので、「帝国主義」でも「自由貿易主義」でもないところに特徴があった、とアリギは書いています。それはアメリカを中心とする「自由世界」をつくる動きとなっていきます。
 アメリカは植民地をつくろうとはしませんでしたが、国内の産業を保護するいっぽう他国には門戸開放を求めていました。とりわけ第2次世界大戦後は、ブレトンウッズ体制とGATT(関税および貿易に関する一般協定)がアメリカの主導権を支えることになります。
 これが世界史の大まかな動きですが、以下、それをもう少し詳しくみておくことにしましょう。

 近代資本主義の揺籃の地は地中海世界です。
 商業につづいて金融が拡大し、資本が持続的に蓄積されるようになるのは14世紀ごろからで、その中心となったのはイタリアの「4大都市国家」、すなわちフィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァでした。
 これらの都市国家のあいだには、経済面で一種の棲(す)み分けがなされていました。アリギはこう書いています。

フィレンツェとミラノは、どちらも製造業と北西ヨーロッパとの陸路貿易に従事していたが、フィレンツェが織物貿易に特化していたのに対して、ミラノは金属製品の貿易に特化していた。ヴェネツィアとジェノヴァは、どちらも東洋との海上貿易に従事していたが、ヴェネツィアが香辛料貿易に基礎をおく南アジア回路の取引に特化していたのに対して、ジェノヴァは絹貿易に基礎をおく中央アジア回路の取引に特化していた。

 14世紀半ばから15世紀半ばにかけて4大都市国家間に抗争がなかったわけではありません。都市内部の対立も激しいものがありました。
 フィレンツェを例に取りあげてみましょう。
 13世紀後期にフィレンツェは織物産業の中心地として発達します。原料の羊毛は最初イタリア国内から集めていましたが、それが足りなくなるとネーデルラント、フランス、さらにはスペイン、ポルトガル、イングランドにも原料を求めるようになりました。
 フィレンツェでつくられた毛織物製品は、イタリア国内だけではなく、レバント(現在のギリシャ、トルコ、レバノン、エジプト方面)、さらにはフランス、イングランドにも輸出されていました。この毛織物貿易網が、フィレンツェの金融ネットワークに重なっていきます。
 英仏間に王位継承権をめぐって「百年戦争」(1337〜1453)がはじまると、イングランドは毛織物工業を「国産化」する動きに出ます。以前からフィレンツェの毛織物は高品質・高価格品へ次第に移行していたとはいえ、イングランドの「国産化」の影響は大きく、毛織物産業全体の生産量は徐々に落ちこんでいきました。
 1340年代にイングランドのエドワード3世がフィレンツェ商人から借りていた戦費を踏み倒したため、「大恐慌」が発生し、バルディとペルッツィの両家が倒産します。1378年には梳毛工(そもうこう)らの下層労働者が反乱を起こし(チオンピの乱)、一時、市の政権を握ります。下層ギルドの労働者が立ち上がったのは、旧来の毛織物産業が衰退したからです。だが、かれらが政権を掌握したからといって、経済が立ち直るわけでもありません。その政権はやがてひっくり返されます。
 そのあとはメディチ家に代表される裕福な商人一族による寡頭支配が半世紀つづきます。メディチ家はイタリア国内のみならずフランスやイングランド、フランドルなどにも支店を置き、各国政府にカネを貸し付けていました。
 メディチ家の収益は、大半がローマ教皇庁とそのネットワークを基盤にしていました。しかし「百年戦争」が終わると、メディチ家は次第に衰えていきます。ルネサンスはメディチ家の最後の輝きでした。ロレンツォ・デ・メディチ(1449〜92)は銀行業から得た利益を芸術や貧者の救済、政治につぎこみました。
 だが、時代は大きく変わっていきます。いわゆる「大航海時代」がはじまり、新大陸アメリカが「発見」され、インド・ルートが開発されると、地中海は経済の中心ではなくなり、イタリアの都市国家はかつての柔軟性を失っていきます。
 イタリアの4大都市国家のなかで、大航海時代に対応したのはジェノヴァだけでした。その代わり、フィレンツェとヴェネツィアには壮麗なルネサンス都市と海の都が残されることになりました。

 アリギは、ジェノヴァを資本主義蓄積システムの「第1サイクル」と位置づけています。なぜジェノヴァだったのでしょう。ジェノヴァ経済の要となったのは、1407年に設立されたサンジョルジョ銀行でした。
 アリギによれば「[ジェノヴァの]富の基盤は、中国に向かう中央アジア交易路が競争力をもち、ジェノヴァ企業がこの交易路の黒海『終点』で準独占的支配権を確立していたことにあった」といいます。ジェノヴァはクリミア半島沿岸部を支配し、中央アジア交易路を押さえていました。ところがモンゴル帝国の衰退とオスマン帝国の台頭によって、ジェノヴァの貿易は大きな打撃を受けます。
 ヴェネツィアがオスマン帝国やカタロニア、アラゴンと結びつくことによって、ジェノヴァを排除するようになると、交易路を失ったジェノヴァは万事休すかのようにみえました。残っていたのはサンジョルジョ銀行に集まっていた「過剰蓄積」だけです。
 しかし、破綻のなかから新たな道がみつかります。カスティリア貿易です。ジェノヴァ商人はコルドバ、カディス、セビーリャに出張所を設け、カスティリアの商業に食いこみます。
 ジェノヴァはイベリア半島南部とアフリカ北西部沿岸(マグレブ)に経済的拠点を広げていきます。目ざすは、マグレブに集まるアフリカの金と、大西洋航路でした。
 十字軍精神にあふれたポルトガルとスペインを動かしていたのはジェノヴァの資本でした。インド航路の「開発」とアメリカの「発見」の背後には、ジェノヴァの存在があります。クリストファー・コロンブス(クリストフォーロ・コロンボ)はジェノヴァ出身の商人でした。
 フランドルで生まれたハプスブルク家のカール5世(1500〜58)は、1516年にスペイン王(カルロス1世)となりますが、ジェノヴァの資本はかれを財政的に支えて、1519年に神聖ローマ皇帝へと押しあげます。ドイツの銀を握っていたフッガー家もカール5世の財政を支えるもうひとつの柱でした。ところが、アメリカから大量の銀がヨーロッパに流入するようになるとドイツの銀は太刀打ちできなくなり、フッガー家は破産に追いこまれ、ふたたびジェノヴァの銀行家の力が強くなるわけです。
 ジェノヴァはスペインの盛衰と運命をともにします。ピアツェンツァ(ミラノ南方の町)の大市(おおいち)はジェノヴァの資本が牛耳っており、ヨーロッパの金融センターとなっていました。しかし、スペイン領ネーデルラントの力が次第に大きくなってきます。
 ブローデルがフィレンツェやヴェネツィアでなくジェノヴァを「蓄積システムの第1サイクル」として選んだ理由ははっきりしています。それはジェノヴァこそが、その後のオランダ、イギリス、アメリカへとつづく世界資本主義システムを起動させる淵源となったからです。

 16世紀になると、資本蓄積の中心地は都市国家ではなく、それなりの領土をもつ国家へと移行しました。ジェノヴァとスペインのあいだには、アメリカ銀を金や為替手形に変えて、富の流通をはかる金融システムができあがっていました。オランダ独立戦争は、このジェノヴァ・イベリア結合を打ち破り、アムステルダムを世界の金融中心地へと変えていくことになります。
 もともとアムステルダムはバルト海交易(穀物と海軍物資)によって発展しました。そこから生じた余剰は土地開拓や農産品の開発にあてられていました。スペインからの独立戦争が始まるのは1568年のことで、プロテスタントのオラニエ家を中心にネーデルラント北部7州連合が形成されます。そして1600年ごろには実質的に独立を勝ちとり、1648年のウェストファリア条約によって、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)として承認されるのです。
 オランダの商人は、積極的で機敏な商業活動によって世界各地から集めた穀物や鰊(にしん)、香辛料、織物、ワイン、硝石(しょうせき)、銅、タバコ、カカオ、羊毛、絹、麻などを巨大倉庫に積みあげ、ヨーロッパ各地に販売しました。
 17世紀初頭につくられたアムステルダム証券取引所やヴィッセル銀行によって、ヨーロッパ中から貨幣資本が集まってくるようになると、アムステルダムは世界の通商と金融の中心となります。それを促進したのが1602年に設立されたオランダ東インド会社でした。それから1740年ごろまでがオランダの全盛時代です。重商主義時代がはじまります。
 オランダ東インド会社は東インド諸島(現在のインドネシア)で貿易を拡大するとともに、有利な条件を作るために広範な軍事活動をおこない、領土を征服しました。当時の国際商品である胡椒を含む香料の独占をはかったのです。その行動はまさに南米のスペイン人同様、残忍そのものでした。「しかし、この残忍性は、まったく企業的論理に内面化しており、それは収益性を破壊するものではなく、それどころか収益性を支えるものであった」とアリギは記しています。
 イギリスとフランスは重商主義を模倣し、オランダを追いかけました。オランダを模倣し追い越そうとした西洋の国々が、資本主義のパワーと領土(帝国)を獲得しようとしたのは悪しき必然でした。
 オランダの没落を招いたのは、アメリカ独立革命(1775〜83)と「バタヴィア革命」(1795〜1813)だといってよいでしょう。アメリカ革命でオランダはイギリスに対抗してフランスを支援します。そのため、イギリスから報復を受け、セイロン島とマラッカを奪われました。そして、その後、ナポレオンによる占領(バタヴィア革命=バタヴィア共和国の設立)により、決定的なダメージを受けることになります。

 オランダの金融支配力が衰退するのは、オランダがアメリカ独立戦争でフランスを支援したのにたいし、イギリスが報復を加えたことが大きいといえます。
 イギリスが世界のトップに躍りでたのは、18世紀末から19世紀初めにかけオランダとフランスを倒して、商業と金融の面で優位に立ったからです。
 そのころには大英帝国の大部分はできており、カナダ、カリブ海域、マドラス、ボンベイ、ケープ沿岸部、ジブラルタル、ベンガル、セイロン、ボタニー湾、ベナン、ギアナ、トリニダードを領していました。さらに1850年代には香港、オーストラリア、ニュージーランド、インド全土が帝国に加わります。これらの地域では、砂糖や綿花、茶、ゴムがつくられ、金、銀、銅、スズが採掘されていました。
 アリギによれば、「世界史上最強の領土主義的国家、かつ同時に資本主義的国家」であったことがイギリスの強さでした。
 それにいたるまでには長い歴史がありますが、とりわけエリザベス1世(1558〜1603)時代の改革と再編が、その後の展開を決定づけたといわれます。グレシャムの助言により、ポンドが安定したのもこの時代です。産業の発展も18世紀後半になって突然生じたわけではありません。14世紀にはすでに毛織物工業が始まっていたし、16世紀には炭鉱業や冶金業が発達します。
 そのころは、バルト海、地中海、インド洋の物資集積センターとしてのアムステルダムの優位はまだつづいていました。だが英蘭戦争(1652〜74)に勝利することよって、イギリスはタバコや砂糖、毛皮、奴隷などの中継貿易権や、インド、中国との貿易権を獲得します。またポルトガルと同盟を結ぶことにより、ボンベイや西アフリカ、ブラジルへと進出しました。イギリスの工業製品とアフリカの奴隷、アメリカの熱帯産品とのあいだの「大西洋三角貿易」が形成されるのは、18世紀初期です。
 オランダ人がイベリア人を追い落とそうとし、そのオランダ人をイギリス人が追い落とすかたちで、イングランドの通商帝国が徐々に形成されていきます。オランダは急速に貿易基盤を失い、金融へと特化していきます。オランダの投資はロンドンへと流れこんでいき、イングランドは世界的な貿易の中継地となりました。
 18世紀後半から19世紀にかけ、イギリスはフランスと戦いました。インドのプラッシーの戦い(1757)も英仏間の戦いであり、これに勝利を収めることで、イギリスはインド支配を確実にしていきます。インドのもたらした成果は大きく、これによってイギリスは外資依存経済から脱却します。その時期がまさに「産業革命」と重なっていたのです。
 19世紀にはいると、イギリスでは製鉄業が発展し、鉄道が建設され、繊維や機械などの分野でも大きな技術革新が起こりました。イギリスは貿易の自由化を唱え、世界中に鉄鋼や機械、繊維製品を輸出するいっぽう、各国から一次産品を輸入しました。
 このころイギリスはクリミア半島でロシアの膨張を抑え(1853〜56)、セポイの反乱(1857〜59)の鎮圧により、インド全土を支配するようになります。
 生産の拡大が一段落すると、1870年代から金融拡大の時代がはじまります。1873年から93年にかけて大恐慌が到来し、物価はほぼ3分の1に落ちこみました。生産と投資の拡大がつづいているときに大恐慌が発生したのは、何の不思議でもありません。金融と生産の異常膨張が恐慌の原因だった、とアリギは述べています。
 シティ(ロンドン金融街)には、世界を結ぶ金融ネットワークが形成されていました。その代表的な銀行家がロスチャイルド家です。
 19世紀後半の大恐慌を脱出に導いたのは、ヨーロッパ各国の軍備競争でした。ヨーロッパ各国の軍事費が幾何級数的に増加します。それにより経済は回復します。しかし、その結果が第1次世界大戦という破局をもたらしたことは言うまでもありません。
 イギリスはこの戦争に勝利することで、さらに帝国を拡大しましたが、帝国の経費は帝国の利益をはるかに上回るようになっていました。さらにポンドを基軸とする金本位制が崩れたことにより、第2次世界大戦後の帝国解体をまつまでもなく、イギリスの世界支配は終わった、とアリギは述べています。

 20世紀、とりわけ1930年代以降は、アメリカの時代となります。それが始動したのは19世紀末の大恐慌期でした。このころイギリスは産業よりも金融に重点を置く帝国になっていました。
 ヘゲモニーの衰退は突然生じるわけではありません。たいてい長い「二重権力」の時代がつづきます。1870年代から1930年代にかけては、イギリスとアメリカの「二重権力」が世界経済を支配した時代だったといえます。
 ふり返ってみれば、イギリスが世界経済のヘゲモニーを握ったのは、自由貿易帝国主義のおかげでした。自由貿易は精神の自由と結びついているわけではありません。だれにもさまたげられない貿易という意味です。それが帝国主義と結びついたところに大英帝国の特徴がありました。
 その象徴が大西洋の奴隷貿易で、人間自身が自由に売られました。当初、王立アフリカ会社が独占していた奴隷貿易は、民間にも開放されることによって、いちだんと促進されていきます。
 アジアの三角貿易も考えてみれば、ひどい自由貿易帝国主義です。当初、オランダの独占を崩せず、なかなか利益を上げられなかった東インド会社は、武力によって、大きな領土と商業的特権を勝ちとります。イギリス国内の圧力で、その特権を開放せざるをえなくなると、東インド会社は中国と茶の貿易を開始し、それを決済するためにインド産のアヘンを中国に輸出しました。
 しかし、この独占も廃止されて、中国貿易にも無数の民間商人が進出すると、アヘンはますます中国に自由に流入しました。ひどい話です。
 こういう悪の三角貿易をバネに、世界は単一の世界市場に統合されようとしていました。閉鎖的な経済では、とても手にはいらなかった物資が豊かに供給されるようになります。
 イギリスが世界に植民地帝国を広げたのは、本来は商品ではなかったもの、土地や人に帰属していたものを世界商品として組みこみ、それを自らの産業社会に統合するためでした。
 アリギは鉄鋼の生産増加が軍需と結びついていたことも指摘しています。とりわけ海軍は多くの大砲を必要としていました。18世紀後半から19世紀前半にかけての産業革命──蒸気機関の改善、鉄道、船舶の発達──は軍需が引き金になっていました。産業革命はこれまでの経済体制に大きな変化をもたらし、「従来の生活と労働の様式」を破壊し、社会に不安をもたらします。競争の世界が出現したのです。
 産業革命は自由貿易を前提としていました。それによって生じた世界産業の拡大は、「外国市場で投入物を調達し、産出物を売ることで可能となった対外経済に依存していた」からです。
 産業革命が進展するにつれ、インドでは、イギリスからますます安い機械織りの布地がはいり、在来の手織り産業は完全に駆逐されていきました。
 アリギはこう書いています。
「鉄道、蒸気船、さらには1869年のスエズ運河の開通によって、インドはイギリス資本財産業の製品とイギリスの企業のための……[保証された]主要販路になっただけでなく、ヨーロッパ向けの安い原料(茶、小麦、植物性油、綿、ジュート)の主要な供給地になった」
 イギリスが世界の金融を支配できた背景には、インドに対する膨大な貿易黒字がありました。まさにイギリスにとってインドは「金の卵」だったのです。インドの安い原料は、イギリス国内の豊かな生活も保証していました。
 ビスマルクのドイツはイギリスに対抗するため、極端な保護主義を採用します。ドイツには中央集権化された軍事=産業機構ができあがります。その終着点となったのが第1次世界大戦で、結果はドイツの悲惨な敗北を招きます。にもかかわらず、ドイツの挑戦はイギリスの没落を早め、それによってアメリカ体制への移行を促進することになるのです。

 イギリスが世界に領土を広げる帝国だったのに対し、アメリカは「大陸大の軍事・産業複合体」だった、とアリギは記しています。
 アメリカは従属国家、同盟国家に効果的な保護を与え、非友好的な政府に軍事的・経済的圧力を加えるパワーをもっていました。それに加えて、地理的な独立性、領土の広さ、豊富な資源を組み合わせることによって、資本主義を高度化していきます。
 企業の統合と組織強化、生産のスピードアップ、大量生産、流通の再編、通信・輸送手段の開発、大量消費によって、アメリカは資本主義の高度化を実現しました。新たな機械装置、良質の原材料、石油や電気などのエネルギーの利用、広大な土地、増大する人口が、そのシステムを支えました。
 世界経済のヘゲモニーがイギリスからアメリカへ移行するにつれ、生産の中心はアメリカに移り、イギリスは金融に重点を移すようになります。
 歴史的にみると、どの主導的国家も次第にその経済活動を、貿易・生産から金融の投機、仲介に移行するとアリギはいいます。生産の発展が貿易の発展とあいまって資本が蓄積されていく時代は、競争の激化によって、ある時点で頭打ちとなり、それからは過剰資本が金融(貨幣の貸し付け)に向かうようになるというわけです。
 しかし、金融中心の経済は、それ自体不安定性と攪乱に見舞われます。こうして古いシステムは危機に陥り、ひとつのサイクルを終えて、新たなシステム(資本蓄積構造)にヘゲモニーを譲るようになります。イギリスからアメリカに世界経済のヘゲモニーが移行したときには、こうした現象が生じていた、とアリギは分析しています。

 アメリカ経済は「生産過程と交換過程の垂直的統合」を特徴としているとアリギは述べています。イギリスは細かく分業化・専門化された会社とその相互取引が経済の伝統で、「フレキシブルな特化と金銭的合理性」を誇りにしていました。これにたいし巨大な産業組織がアメリカの特徴です。
「生産過程と交換過程の垂直的統合」とは、「最初の原料の調達から最後の製品の処理に至るまでの生産・交換の連続的下位過程を統合する」ことです。こうした巨大産業を動かしていたのが、テクノストラクチャーと呼ばれる高度の専門的経営陣です。
 広大で多様な領土をもつアメリカは、イギリスのような帝国を必要としませんでした。
 アメリカ産業が「垂直的統合」を目ざしたのは、広大な国土に対応するためでもありました。これに加わったのが「速度の経済」です。企業は大量生産による製品のコストダウンによって、新規参入を阻止し、市場を支配していきます。政府は保護主義によって、これらの巨大企業群を守り、次第に世界全体での競争優位を勝ちとっていきます。海外への企業進出はそのあとです。
 19世紀末、ヨーロッパでは大国間の軍拡競争が盛んになっていました。イギリスは帝国を維持しつつ多くの原材料を確保し、工業製品を循環・輸出することで貿易黒字を得ていました。その余剰資本はアメリカに流れていました。
 しかし次第に「生活と戦争の必需品」をアメリカに頼るようになり、アメリカ政府から借款をするはめになります。イギリス・ポンドとともにアメリカ・ドルが世界通貨の座に躍り出たのは、このころです。そうはいっても金融の中心はまだロンドンにありました。
 1920年代、アメリカの経済成長は著しく、貿易と戦争債権によるマネーが流れこむなかで、金融の流れは対外投資だけではなく、国内投機へと向かいました。そのバブルが1929年の株価大暴落によって破裂し、31年にポンドが金交換を停止すると、金本位制は終焉を迎え、各国は保護主義へとなだれ込みます。そして第2次世界大戦を経て、機能麻痺したイギリスの世界秩序に代わって、アメリカを中心とした新世界秩序ができあがるわけです。
 第2次世界大戦でアメリカはまたも連合国の武器庫としての役割をはたし、その金準備高は世界の70%を占めるようになりました。その結果、生まれたのがいわゆるブレトンウッズ体制です。ドルと金の固定交換比率(35ドル=1オンス)と、ドルに対する各国通貨の固定相場(1ドル=360円など)が定められます。こうしてドルを中心とした金融世界秩序が形成されました。
 戦後の冷戦によって、アメリカに集中した資金(余剰資本)は世界に拡散していきます。マーシャルプランの実態はヨーロッパに対する軍事援助にほかなりませんでした。熱い朝鮮戦争は新たな軍事支出を必要としました。
 多くの経済学者が、1950年の朝鮮戦争から1973年のベトナム和平パリ協定までの時期を「資本主義の黄金期」と呼んでいます。この時期、たしかに西側資本主義国は経済成長を持続させ、大きな利益を上げていました。
 そのあと、ブレトンウッズの固定為替相場体制がもたなくなります。1973年には石油ショックが起こります。アメリカは「軍事的ケインズ主義」と多国籍企業によって世界的パワーを追求してきましたが、それによって、ドルは世界に拡散し、もはや固定相場制が維持できなくなり、代わりにドルを基軸とする変動相場制が導入されることになります。
 これにより、アメリカは非兌換ドルを国際循環の中にたれ流すことが可能となりました。ドルの引き続く下落によって、外国市場でアメリカ製品の価格は下がり、アメリカ市場で外国製品の価格は引き上げられ、アメリカの輸出と収入は増大します。
 変動相場制は大成功を収めたようにみえました。だが、そこには新たな問題が発生したのです。変動相場制のもとでは、企業自身が毎日の為替相場の変動に対処しなければならなくなります。さまざまな通貨で、お金が企業の銀行口座に出入りするため、企業は為替リスクを避けるため、為替の先物取引をせざるを得なくなります。
 こうして金融カジノが開店します。ユーロカレンシーやオイルダラーもそこに流れこんで、金融のリスクと不安定性が増大していきます。1970年代には世界的にインフレが発生しました。
 アメリカは強大な軍事力を背景に、世界をアメリカのイメージにつくりかえ、第三世界の原料と第一世界の購買力とを組み合わせることで、企業の既得権益を拡大・確保することをめざしていました。これがアメリカ流の世界秩序だったといえるでしょう。その構図が1970年代に崩れたあと、アメリカの権威は失墜することになります。
 レーガン政権は金融引き締め策をとり、金利を引き上げて、世界から資金を吸収するいっぽうで、規制緩和によって企業の自由を拡大する方策をとりました。いわゆるレーガノミクスです。そのうえで、さらに借金財政によってソ連との軍事対決姿勢を強めました。
 ソ連の崩壊は資本主義の勝利とアメリカの繁栄をもたらすかのように思えました。だが、その後、アメリカはすでに超国家的となった金融市場をコントロールできなくなっていきます。「ふたたび危機がもっと厄介なかたちで浮上してくるのは、単に時間の問題であった」とアリギは予言しています。2008年の恐慌はまさにその実現だったのかもしれません。
『長い20世紀』が出版されたのは1994年のことです。その最終章で、アリギは現在進行形の変化と将来の可能性をどう見るかを論じていました。
 アリギによれば、ひとつの可能性は、機能不全におちいったアメリカに代わって、世界政府のようなものができることでした。たとえば主要7カ国会議(G7)や国連安全保障理事会のような超国家組織がじゅうぶんに役割を発揮して、全世界をリードしていくことが想定されていました。しかし、その後、世界はむしろ混迷を深めているようにみえます。
 アリギが考えたもう一つの方向は、アメリカをヨーロッパとアジアが支えていくという協調体制ができあがる可能性でした。そのさい、軍事力をもつアメリカが、これまでのような一国主義的姿勢をとるのではなく、世界と調和して、疑似帝国的な役割を果たしていくという構図が考えられていました。
 さらにもうひとつの可能性は、東アジアの台頭です。本書が出版された1994年の時点で、アリギは日本や韓国、台湾、シンガポールなど東アジアの「資本主義群島」に期待をかけていました。しかし、2009年に日本語版が出る時点では意見を修正して、日本の重要性をちいさく見積もり、中国が経済的に拡大する可能性をみるようになっていました。
 さすがに「アメリカのサイクル」が終わって、いよいよ「中国のサイクル」が始まろうとしているとは言っていません。アリギ自身は日本語版において、中国が「アメリカのリーダーシップに対する歴史的オルタナティブになりつつある」という慎重な言い回しをしています。
 しかし、最悪のシナリオは米中対決の可能性です。その場合、「世界はシステム的な長期のカオスに突入してしまうかもしれない」。戦争がもたらすのは「資本主義の歴史の終焉」かもしれないが、「人類の歴史の終焉」でもありうるとアリギは預言しています。この預言が実現しないことを祈るのみです。

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