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與那覇潤『平成史』 を読む(1) [大世紀末パレード]

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 人には人の歴史があるというけれど、歴史の見方も人さまざまだろう。とくに同時代史に関しては、人びとの経験の多様さに応じて、その見方は千差万別だと思われる。その点、これは與那覇潤の個性あふれる『平成史』である。早いもので、平成(1989年から2019年にかけて)の時代も、はや遠くに過ぎ去った感がある。いま、それをふり返るときに、本書は多くのシーンを喚起させてくれる。
 奥付によると、與那覇潤は1979年生まれで、2007年に東京大学大学院を修了し、地方公立大学で教鞭をとった。その代表作『中国化する日本』を読んだことがある。とても面白かったが、「中国化」という概念が多義的で、すんなり理解できなかったという印象が残っている。
 與那覇はその後、重度のうつ病にかかり、2017年に大学を退職し、現在は歴史学者としてではなく、在野の文筆家として活躍している。
 ぼくより30歳以上、若い人だ。この時代を生き、いまも何とか生きているぼくは、いまでは毎日をぼんやりとすごし、何もかもすぐに忘れてしまうありさまだ。人の名前はとくに出てこなくなった。
 そんな自分でもあの時代をふり返れば、これまで気づかなかった新たな発見があるかもしれない。脳の刺激になること、まちがいなし。そんなせこい了見から、この本を読んでみることにした。ほんの少しずつだ。

 著者ははじめに、平成期は「まるで霧のなかに迷い込んだかのように、全体像を見渡しにくい時代だ」と述べている。情報があふれているという点では、この時代の見晴らしはいい。でも、どうも全体像がうまくえがけないという。
 人はばらばらに分断化され、異なる人どうしの対話がなりたたない。そのくせ、ますます社会の画一化が進み、人は与えられた全体に順応することを強いられている。
 ほんとうは全体像など知らないほうが、幸せに生きていけるのではないか、全体は「機械じかけの新たな神」にまかせて、人は目の前に提示された楽しい現実を選びとっていくほうが楽しいのではないか。著者はどこかにそんな疑いも覚えている。
 霧はますます濃くなっている。それでも「昨日の世界のすべて」を知りたいという激しい思いが、この本を書かせたといえる。
 全体は15章、全部で550ページ以上の大著だ。世紀をまたいで、1989年から2019年にかけて31年間の心象がほぼ2年ごとに順につづられている。それを少しずつ読むことにした。
 まずは1989年から1990年にかけて。
それは「静かに、しかし確実に社会のあり方が変わっていった21世紀への転換点」だったという。
 昭和天皇が亡くなったのが1989年1月7日。この年、ポーランドでは「連帯」が選挙で圧勝し、ハンガリーが社会主義を放棄し、チェコスロヴァキアでビロード革命が発生し、ルーマニアで独裁者チャウシェスクが処刑された。
 天皇とマルクス主義というふたつのモデル(師範、あるいは芯棒)が失われたところから、平成元年(1989年)がはじまる、と著者はいう。
 ふたりの父が死んだ。天皇とマルクスという父が……。それにより、世界のタガがはずれ、タブーは消えたかのようにみえる。
 父なき時代はすでに1970年前後からはじまっていた。いわゆる全共闘の時代だ。だが、平成にはいると、「最初に父を否定した世代の人びとが、今度は糾弾される側の父の座に就き」、その役割を問われるようになる。
 時代の転換点は世代の転換点でもある。
 天皇とマルクスが死んだことにより、中心は空洞化し、だれもがバラバラな「自由」を求めはじめ、社会主義は嫌われるようになった。
 1989年7月の参院選で自民党は大敗し、90年初頭からバブル崩壊がはじまる。
 1989年には、漫画家の手塚治虫、実業家の松下幸之助、歌手の美空ひばりも亡くなっている。ひと時代を築いた多くのカリスマが世を去った。
 民俗学者の大塚英志は、昭和末期に病中の天皇への記帳に訪れた制服姿の少女たちが「天皇ってさ、なんか、かわいいんだよね」という声を聞いた。それは、これまでの日本社会にはない天皇観だった。
 これまでないといえば、1989年には宮崎勤事件がおこった。「文字どおりオタクグッズに囲まれて私室に籠っていた青年が連続幼女殺人を犯した」という事件だった。
 不安な時代が幕をあけた。

 1991年から92年にかけて。
 著者が注目するのは、このころ柄谷行人と浅田彰による『批評空間』が創刊されたこと、そして漫画家の小林よしのりが『SPA!』で『ゴーマニズム宣言』の連載を開始したことだ。
 残念ながら、ぼくはこの両方とも関心がなかった。仕事に追われ、すでに感性が摩滅していたのだろう。
 浅田彰は学者の領域を超えて、軽やかに社会事象に切りこんでいく。小林よしのりはギャグマンガを武器に自由な発言の場を確保し、次第に右旋回していく。
 著者によると、柄谷行人や浅田彰が政治化するのは、1991年の湾岸戦争に際し、「湾岸戦争に対する文学者声明」を発表してからだという。
 このとき日本政府は自民党の海部俊樹首相—小沢一郎幹事長の体制。イラクへの多国籍軍派遣にあたり、それを積極的に支援するかどうかをめぐって、もめにもめていた。これにたいし、柄谷行人らはあらゆる戦争への加担に反対することを表明した。
 その後、柄谷と浅田は平和憲法擁護で共闘するようになる。しかし、平和憲法の意義が「よその地域での紛争に巻きこまれない」ことだとすれば、こうした「閉ざされた戦後」のシンボルである憲法9条を「世界史的理念」にまで格上げするのは、どこかちぐはぐではないか。著者はそんな疑問を投げかけている。
 こうした「反戦」の子供っぽさを批判したのが、評論家の加藤典洋だ。それ以降、平成期を通じて、柄谷、浅田の『批評空間』グループと、加藤をはじめとする吉本隆明の継承者たちは、「仇敵と呼べる関係」になり、思想的な対立軸を形成していくようになったという。
 1990年にはいると、大学が変わりはじめ、学際化と大学院重点化の波が広がっていった。慶應義塾大学には総合政策学部と環境情報学部ができ、湘南藤沢キャンパスが開設される。多くの大学で教養学部が解体され、専門化による大学院重視の姿勢が強まる。
 このあたり、ついぞ大学と接触のなかった(摩擦はあったけれど)ぼくには、事情がよくのみこめない。
 そして、「情報」の時代が幕を開ける。それはどんどんスピードを上げ、やがて日常のなかに情報が浸透していくことになる。
 1991年には評論家の山本七平が亡くなる。右派論壇人とみられがちな山本を、著者は国家主義にきわめて批判的だった人物ととらえている。
 1992年に出版された本としては、村上泰亮の『反古典の政治経済学』が忘れがたいという。
「ナショナリズム」、「経済的自由主義」、「技術オプティミズム」を重視する村上の立場は、新保守主義といっていいが、そこにはみずから一貫した筋道を追求する姿勢が貫かれている、と著者は高く評価している。
 天皇とマルクスなき時代のはじまりは、のっけから混沌とした様相を呈している。

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