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與那覇潤『平成史』を読む(5) [大世紀末パレード]

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 2011年から2019年までを一気に飛ばし読みしよう。
 2011年3月11日、宮城県沖でマグニチュード9.0の地震と津波が発生。死者1万5899人、行方不明者2526人の惨事をもたらした。福島第一原発では、原子炉建屋が爆発するという大事故がおこった。
 このとき危機対応のため、民主・自民で「挙国一致内閣」が生まれる可能性がなかったわけではない。しかし、両党の調整はつかず、与党民主党内の混乱がつづく。
 福島原発事故から2カ月後、菅直人内閣はとつぜん浜岡原発(静岡県)の停止を要請する。それ以降も脱原発デモは収まらず、全原発の停止へとエスカレート。これに答え、政府は玄海原発の再稼働を阻止した。
 2012年3月に亡くなる戦後思想界の巨人、吉本隆明は1982年ごろから左派と決別し、核と原発を容認する方向に舵を切っていた。
 著者自身も脱近代や脱原発に批判的な姿勢を示している。
 菅直人政権は粘り腰を発揮して、内閣不信任案の危機を乗り越え、10%の増税案と東京電力支援を決定したうえで、2011年8月10日に退陣を表明。民主党代表に就任した野田佳彦に内閣を引き継ぐ。
 野田は党内の不協和音をかかえながら、消費増税と原発ゼロという難題を解決するため、自公民大連立の可能性を探っていた。だが、それは実らない。
 竹島・尖閣問題が浮上し、韓国、中国との外交関係が悪化する。さらに石原都知事が尖閣諸島を東京都が買い上げると公言したことから、野田は2012年9月11日に尖閣諸島の国有化に踏みこむ。それにより中国全土で激しい反日デモが発生した。
 このころ雑誌『Voice』はポピュリズムを肯定する論陣を張り、橋下徹の維新の会をもちあげるようになっていた。
 2012年10月には石原慎太郎が都知事辞職を表明し、「太陽の党」を結成、さらに「日本維新の会」との合流を決める。だが、危機に乗じて、このさい一挙に総理の座を狙うという野望は、たちまちついえることになる。
 自民党では9月の総裁選で安倍晋三が劇的なカムバックを遂げた。すでに解散の覚悟を決めていた野田首相は11月14日の衆議院党首会談で、安倍自民党総裁と対決する。
 12月16日に総選挙がおこなわれる。その結果、自民党は単独で294議席と圧勝、民主党はわずか57議席と完敗。第3党の日本維新の会との議席差はわずか3議席。民主党政権に代わって自公連立の安倍政権が誕生し、左右連携の可能性は消えた。
 安倍政権がかかげたアベノミクスは株価の急騰や大幅な円安をもたらした。長期不況は終わるかのようにみえた。
 2013年にはAKBブームがおこり、「恋するフォーチュンクッキー」がヒットする。
 だがアベノミクスの熱狂は1年半ほどで去る。その間、賃金所得はあまり増えなかった。消費拡大も消費税率アップを見越した駆け込み需要が後押ししたにすぎなかった。
 安倍政権では、日本銀行の金融政策で政権を好転させるリフレ発想が注目を浴びた。それは日銀が市中の国債を買い上げることで、マーケットに資金を供給し、大幅な金融緩和を実施するものだ。
 だが、賃金が上がらないため、株価だけ上がっても景気が良くなったという実感はわかない。日本経済は平成期を通じて、海外依存体質になっていた。海外からは安い商品がはいってきて、物価を引き下げる。しかし、デフレになるからといって、海外からの輸入品を締めだすわけにはいかなかった。
 安倍首相の就任当時は、強力な首相が日銀総裁に命令して、人為的に好景気をつくるというような雰囲気が生まれ、国民もそれを喝采した感があった。だが、それはたちまち馬脚をあらわす。
 外国人投資家の動きもあって株価は急上昇したあと、すぐに低迷し、日銀が目標とした2%の物価上昇もなかなか実現しない。アベノミクスの成果とされたGDPの増加も、算出基準の改変によって、かさ上げされていることがわかった。
 日本発のメッセージを求める声は、過去の再構成へと流れこんでいく。2013年には映画『ALWAYS 三丁目の夕日』がヒットし、百田尚樹の『永遠の0』が映画化にともないベストセラーとなる。宮崎駿の『風立ちぬ』もそうした歴史修正主義の一翼を担っていた。白井聡の『永続敗戦論』も裏を返せば反米ナショナリズムのあらわれだった、と著者はいう。
 2013年5月、大阪市長となっていた橋本徹は慰安婦制度は必要なものだと発言してひんしゅくを買い、維新旋風に水を差した。石原慎太郎とも決別して、党は分裂、その2年後、大阪都構想の是非を問う住民投票でも反対派に敗れ、政界引退を表明することになる。
 いっぽう、7月の参院選で、自民党は31議席増の歴史的大勝をとげ、公明党と合わせ、参議院でも与党で過半数を回復する。渡辺喜美を代表とする「みんなの党」は分裂し、翌年解党する。
 野党が低迷するなか、安倍政権は国家主義的な色彩を強め、年末に特定秘密保護法を成立させ、2014年7月には集団的自衛権容認を閣議決定する。
 石原都知事の後継となった猪瀬直樹知事がスキャンダルで辞任したあと、2014年2月には東京都知事選がおこなわれ、舛添要一が自公推薦で当選する。「反原発」をかかげて立候補した元首相の細川護熙は、共産・社民が推薦する宇都宮健児にも競り負けて、3位となる惨敗を喫した。
 2015年5月に安倍内閣は集団的自衛権を行使する条件や手続きを定める安保法制を国会に提出し、9月に成立させた。
 このときSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)を名乗る若者たちが街頭に現れて抗議デモをくり広げた。だが、さして大きな広がりはなく終わった。
 2016年7月10日の参院選では自民・公明・維新が勝利し、改憲勢力は、衆参あわせて3分の2を突破した。
 参院選から3日後の7月13日、NHKは天皇が生前退位する意向であることをスクープする。8月8日に天皇自身がビデオメッセージを通じて、退位の趣旨を国民に説明した。
2017年には退位のための特例法が成立する。その前年から、言論界では天皇制への礼賛が相次いだ。「批判的な知識人たちは、ここに及んでちにこと切れた」と、著者は評している。
 2016年6月にはイギリスが国民投票でEU脱退を決定、11月にはドナルド・トランプが米大統領選に勝利する。国際社会は地すべり的な急変を遂げようとしていた。
 2017年5月には、韓国で左派系の文在寅(ムンジェイン)が大統領に就任。加速する韓国ナショナリズムを制御できず、日韓関係は悪化する。
 中国では第2期習近平体制が発足し、「習近平思想」のもと個人崇拝傾向が強まる。2018年3月には、憲法改正によって、国家主席の任期が撤廃された。
 ポスト冷戦期の民主世界が揺らぎはじめた。
 2016年7月には、政治資金問題で辞職した桝添要一に代わって、自民党を離党した小池百合子が東京都知事の座を射止める。翌年7月の都議選でも新党「都民ファーストの会」を立ち上げ、自民党に圧勝。
その勢いをかって、小池は10月の衆院選でも「希望の党」を結成し、自民党を倒すと宣言した。これに前原誠司を代表とする民進党が乗って、合流することを発表。
 ところが、小池が民進党左派は「排除いたします」と表明したことにより、小池支持は急落。悲壮な表情でリベラル結集を訴えた枝野幸男の立憲民主党が希望の党を抑えて野党第1党の座を確保した。とはいえ、バラバラになった野党に自民党が圧勝するのはあきらかだった。
 このころ注目されたのが、安倍官邸との蜜月を保っていた右派団体の日本会議だ。著者によると、その思想は素朴な前近代への郷愁にほかならなかった。
 2016年には『シン・ゴジラ』と『君の名は。』が映画館をわかせていた。ともに5年前の震災と原発事故を主題としたものだが、題名からして昭和の郷愁をただよわせながら、ハッピーエンドで終わる。
 小説では村田紗耶香の『コンビニ人間』、又吉直樹の『火花』が話題になった。壊れてしまった社会のなかで、どう生きていくのかが問われるようになっていた。
 2017年には国分功一郎の『中動態の世界』が話題になる。中動態とは、強制されたわけではないが、かといって能動的でもない状態を指す。映画は『この世界の片隅に』がロングランをつづけていた。原爆投下前後の日常を、受け身の主人公が生き抜く姿をえがく。
 2018年にはいると改元が目前に迫っていた。メランコリーな気分が世の中をおおう。1月21日には評論家の西部邁が命を絶った。
 3月、アメリカのトランプ大統領がとつぜん北朝鮮の金正恩委員長との首脳会談を発表し、世界はあっけにとられる。だが、それはトランプ一流のはったり外交で、けっきょく会談は物別れに終わる。
 平成の30年間は、マクロ的にみれば、「アメリカの衰退」と「中国の台頭」(そして日本の没落)の時代だった、と著者はいう。そうしたなか中国への警戒感が強まっていった。
 もはや中国を叩き潰すことはできない。その代わり、フェイクと「やってる感」の政治が横行する。いっぽうリベラル派はほとんど対抗軸をもたず、次々とおこるできごとに目先で対応することに追われるばかりだった。
 AKBグループにかげりがみえ、韓国のK-POPがはやるようになる。日本はGAFAどころか、ファーウェイやサムソンさえ生みだせなくなっていた。
 2019年4月1日、安倍政権の菅義偉官房長官によって新元号「令和」が発表される。
 2018年から19年にかけては、平成と昭和というふたつの元号が同時に幕を下ろすかのような「別れの季節」になった、と著者はいう。
 2018年9月には歌手の安室奈美恵が引退した。2019年はじめには作家の橋本治が亡くなる。さらに5月には評論家の加藤典洋が世を去る。
 著者は平成史の記述を終えるにあたって、過去からの歩みをなぞることが、人類や社会の「進歩」を描くことと等価だった時代はとうに去ったと書いている。
過去に向かってボールを投げ込んでみることは、子どもじみた遊びみたいなようなものかもしれない。しかし、そこから模索の果ての成熟のようなものがもたらされるのではないかとも述べている。
 平成史は日本没落の歴史でもある。だが、同時にそれは未来への成熟した思想をもたらす熱源となりうるのだ。

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