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『儀礼としての消費』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 人はなぜ商品(財)を求めるかという問いにたいし、経済学は明確に答えていない、と著者はいう。経済学は価格と所得の変化にたいして、消費がどのように変化するかを機械的に説明するだけ。いっぽうのモラリストは、ひたすら消費社会の貪欲ぶりを非難するばかりだ。
 人はなぜものやサービスを買うのか。身体的必要、さらには精神的必要のためというのが普通の答えだろう。さらに、そこから必要と贅沢を区別し、贅沢を否定する議論もでてくる。
 差別化や見せびらかし(衒示)もまた、人が商品を求める動機と考えられてきた。そこには非合理な人間の欲望を感じ取ることができる。
 だが、現代経済学は人が商品を求めるさいの身体的・精神的必要、あるいは見せびらかしといった心理的動機を排除してきた。個人の好みは所与とされ、商品の価格が下落すれば多くの量を買い、上昇すれば少なく買う。所得が増えたり、減ったりしても商品を買う量は変化するというわけだ。
 要するに、現代経済学は、人が経済的合理性にもとづいて行動すると仮定したうえで、価格と所得の変化に応じて、商品の購入量がどう決まるかを論じてきたのである。
 もっとも経済学者のなかには、こうした機械的な仮定に疑問を投げかけた者もいる、と著者はいう。
 サイモン・クズネッツは食物や健康、レクリエーションへの支出を経済コストととらえるのは、人を仕事のために生きる馬車馬のように考える見方だと批判した。
 フランク・ナイトは逆に、生産過程を何らかの幸福を得るための犠牲だと考える経済学の仮定はまちがっているという。
 ピエロ・スラッファは生産と消費をばらばらにとらえるのではなく、ひとつの循環過程のシステムとして考えるべきだという。
 いずれにせよ著者メアリー・ダグラスのような人類学者の目からすれば、経済学者の厳密な仮定にもとづく経済理論構築は、自分の手を縛ったうえで、理論のための理論づくりにいそしんでいるように思えたのだ。
 著者はいう。現代経済学を学んでも、人がなぜ商品(財)を求めるのかの答えはでない。それでは、「人はなぜ貯蓄するか」についてはどうだろう。
 ケインズは、人間は所得が増えると消費を増やすが、そっくりそのまま消費に回すのではなく、その一部を貯蓄すると考えた。
 しかし、過去1世紀を振り返ると、実質所得が増加したわりに貯蓄はそれほど増えているわけではない、と著者はいう。さらにさまざまな民族の生活誌をみると、倹約を美徳とする文化もあれば、倹約を欲深で下劣とみる文化もある。したがってケインズの定式は普遍的にあてはまるわけではないという。
 ウェーバーは経済を「伝統経済」、「農民経済」、「冒険商人的資本主義」、「個人主義的資本制」の類型でとらえた。16世紀から17世紀にかけては、大きな変化が生じた。私的蓄積を非難するカトリック様式から、私的蓄積を承認するプロテスタント様式への転換が生じたという。
 ウェーバーの関心は伝統的経済から資本主義的な私的経済への移行がいかにして生じたかに向けられていた。
 伝統経済にとっては土地こそが収入源であり、王や貴族たちは領地を確保するために無茶な浪費をし、家臣の忠誠心を引きだした。人間的なつながりがきわめて重要だった。敵味方のあいだでは脅迫とへつらいが入り乱れ、寝返りがくり返されていた。
 聖職者は大領主から土地の寄贈を受けることによって、財産を獲得した。だが、その財産は聖堂やモニュメント、十字軍、巡礼、何千という宗教儀式のために費やされた。中世においては、フランシスコ会やアウグスティヌス会、カルメル会、ドミニコ会などが広い土地を所有し、修道会としての資産を蓄積していた。
 ここで、著者は集団と個との関係を論じる。集団はみずからが長期的な観点をもち、公共(成員)の利益を代表すると主張し、そのため成員のコントロール(支配)をゆだねられるといってよい。伝統的経済は集団的環境のもとに成り立っている。
 集団の背景にはもちろん個人がある。近代の特徴は集団的環境のなかから個人主義的環境が誕生することである。集団の圧力が弱まるなかで、個人の責任が重視される個人主義的秩序が生まれる。そこでは個人間の関係は集団の価値によってではなく、猛烈な競争によってランキングされる。こうして個人間の競争の平等と公正さを律するルールが求められるようになる。
 集団的環境から個人主義的環境への移行は、節倹と貯蓄の考え方に大きな変化をもたらす。
 伝統社会では個人の私的蓄積の可能性はきわめて低い。教会や修道院でもそれは同じである。個人の貯えは常に集団の目的のために吸い上げられる。個人はほとんど蓄積せず、集団が富を蓄積する。
 すると、個人主義的環境のなかで、人はなぜ貯蓄するようになるのか。近代産業社会においては「個人は[集団から]解き放たれることで自由になるのではなく、きわめて困難な社会環境の中に引き込まれる」というのが著者の見方である。競争社会のなかで諸個人はみずからの身を守るために、ちいさな集団をつくるいっぽうで、将来の不安に備えて貯蓄に励まざるをえない。
 ここで、経済学が消費をどう考えていたかを、もう一度振り返ってみよう、と著者はいう。従来、経済学では、消費者はあくまでも個として支出を決定するとされていた。ところが、消費者がご近所の買い物や広告に影響されることはいうまでもない。そこで、個人主義的でアトム化された消費者のモデルは、デューゼンベリーによって修正されることになったという。
 デューゼンベリーによると、商品(財)は特定目的(活動)のために特殊化されているからこそ商品なのである。そのうえで、同じ目的をもつ複数の商品は、文化的尺度にもとづいてランクづけされ、所得に応じて選択される。
 高度な消費水準をもつ社会では、消費者により多く支出させようとする持続的な圧力がはたらいている。そのため、比較的高所得の人は社会的に課される文化的要求を満たしたうえで、貯蓄のための「残余」をもつ。これにたいし低所得の人は文化的要求を満たすのがせいいっぱいで、あまり貯蓄を残すことができない。これがデューゼンベリーによる(残余としての)貯蓄の説明である。
 デューゼンベリーは、たえざる文化的変化が消費増加への欲求を強めていくことを示した。さらに、上流階層と下流階層、あるいは専門職と非専門職とでは、文化水準にたいする欲求が異なることも指摘した。
 とはいえ、著者はデューゼンベリーが貯蓄を消費需要の「残余」と考えていることを批判する。著者によれば、貯蓄はけっして消費の残余ではなく、文化的に求められる第一の先行要件なのだ。商品世界のつくりだす文化水準は、いま支出するよう個人に圧力をかける。だが、そのいっぽうで、商品世界は未来に備えて貯えるよう個人に圧力をかけているのだという。
 ここで著者はさらにフリードマンの恒常所得理論を紹介する。フリードマンは所得を恒常所得と一時所得に分けたうえで、貯蓄は将来への備えであって、残余のカテゴリーではないと仮定している。
 フリードマンの恒常所得理論は、個人が一生にわたる消費計画をもち、その範囲で日々の予算配分をおこなうものと想定する。個人の人生計画は変わっていくが、そのガイドラインとなるのは恒常所得と恒常消費である。消費者は生涯の目的に応じて、恒常所得を消費と貯蓄に振り分け、みずからの経済環境を維持しようとする。
 恒常所得理論は、たまたま手に入った所得によってではなく、期待される生涯所得にもとづき、一生の所得の流れを構造的に分析しようというものだ。
 デューゼンベリーとフリードマンが前提としているのは、個人主義的な色彩の強い合理的な市場社会である。だが、それはすべての社会の状況を説明できるものではない。たとえば中世ボルドーの大貴族は破滅的なカネの使い方をしていたし、いまでも「明日は明日の風が吹く」とばかりに手に入ったカネをたちまち浪費してしまう労働者もいる。
 社会環境は多様である。経済学者の仮定の範囲をたちまちはみだしてしまう。貧困の問題を理解するには、経済学者の仮定からはみだす部分を考慮に入れなければならない、と著者はいう。
 いずれにせよ消費社会を論ずるにあたっては、軽薄にそれを批判するのではなく、消費と貯蓄の冷静な分析にもとづかなければならない、というのが著者の考え方である。
 じつに曲がりくねった議論というべきだろう。ついていくのは容易ではない。投げだす人が多いのもわかる。
 しかし、思えば、消費といい貯蓄といい、ふだんわれわれがあたりまえのように取っている行動は、近代に現れた商品世界特有の現象なのであって、それが何を意味するかを考え直してみることは、人類学的にも重要なテーマなのである。

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