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貨幣の力──ヒックス『経済史の理論』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 都市国家の時代はゆっくりと終わりに向かい、代わってスペイン、オランダ、フランス、イギリスなど、領域国家の時代がはじまる。
 しかし、都市国家を動かしていた商人経済はすっかり解体されたわけではない。ある意味ではそれはたしかに解体だった。ヴェネツィアはゴーストタウンになってしまう。だが、領域国家は商人経済を吸収することを忘れなかった。いまや商人経済を保護し、商業センターを発展させるのは「国家」の役割になる。その局面をヒックスは「中期の局面」と名づけている。
 ヒックスのいう「中期の局面」を、われわれは「近世」と呼んでもいいだろう。
「中期の局面」の特徴は、商人共同体の内部に限られていた商人経済が、いわば周辺にはみだしていくところに求められる、とヒックスは書いている。「従前の非商業的な周辺部分はさまざまな側面において、市場に対して開放的となる」
 すなわち領域国家が商人経済を取り込むことによって、国家のなかに市場が浸透していくことになる。やがて、国家が外部に拡張していくにつれて、市場も外部に広がっていくことになるだろう。
 ヒックスは近代(産業革命)以前の「中期の局面」(近世といってもよい)における市場の浸透を4つの分野にわたって考察する。すなわち貨幣(金融)、財政(国家)、農業、労働の4つの分野だ。これらの4つの分野はもちろん相互にからんでいるが、これをあえて4つに分けることによって、市場が浸透するプロセスがより明らかになってくる、とヒックスは考えている。
 これをいっぺんに説明するのは骨が折れる。そこで、きょうはテーマを貨幣(金融)にかぎって、第5章の「貨幣・法・信用」を読んでみることにする。
 貨幣はだいたいが鋳造された金属片で、国家によってつくられたもののように思われている。それはけっしてまちがいではないが、貨幣は鋳造貨幣がつくられる前から存在した。貨幣はそもそもが商人経済の創出物で、国家はそれを継承したにすぎない、とヒックスはいう。
 たとえば村落に商人がいるとしよう。かれはいつでも商品を仲介できるように交換性のある財貨を保存しなければならなかった。そして、保蔵と隠匿が容易で、しかも損耗しにくい財貨といえば、けっきょくは金や銀などの貴金属に落ち着くというわけだ。
 貴金属が「価値保蔵」機能をもつと、それは次第に均質化されて、「価値尺度」や「支払手段」としても利用されるようになる。国家が介入してくるのはこの時点だ。
 国家は貨幣鋳造所をつくり、金属貨幣に王の刻印を押すようになる。それによって、貨幣には保証が与えられ、より受けとりやすいものになった。最初、リュディアやイオニア(ともに小アジア)でつくられた鋳貨はたちまちのうちにギリシア世界に広がっていった。
 初期の金属貨幣は比較的大型のもので、これは貨幣が価値保蔵物だったことを示している。ところが紀元前5世紀ごろに支払手段として小型貨幣がつくられるようになり、さらに代用貨幣として青銅貨幣が登場すると、貨幣はより使用しやすくなった。ギリシアは次第に貨幣経済社会へと移行する。
 金属貨幣はギリシア世界の外部にも広がっていく。ペルシアからインド、バルカン諸国、さらにローマへと。ケルト人も貨幣を鋳造するようになった。商業が衰退すると、一時的に貨幣が使われなくなることもあったが、「商業活動が行われるかぎり、どこにおいても貨幣は恒常的に使用されてきた」と、ヒックスはいう。
 そして、貨幣は中世都市国家後の「中期の局面」(近世)においても継承された。王は貨幣を放棄しなかった。貨幣の鋳造によって、直接、間接に利益を得ることができたためでもある。加えて、貨幣を媒介とする交易は王にも多くの財貨をもたらしていた。
 都市国家のもうひとつの遺産が「法」だった、とヒックスは説明する。それは中国や日本におけるような商業を規制する法ではなく、むしろ商業を促進し、商人の権利を守る都市国家の法にほかならなかった。
 ローマ法は古代ギリシアでつくられた「商人法」を受け入れ、発展させた。ローマ帝国は貨幣による評価と支払いに依存していた。ローマ帝国が滅亡したあと、貨幣経済は収縮するが、完全に消えることはなく、やがて新しい都市国家の興隆がふたたび貨幣経済を盛り返し、同時に「商人法」も維持されることになる。
 都市国家が衰退し、「中期の局面」すなわち近世の領域国家の時代にいたっても、貨幣制度と法律制度は継承され、発展することになる。
 こうして貨幣と「商人法」を論じたあと、ヒックスが強調するのが、都市国家時代につくられた「信用」制度の継承である。
ルネサンス時代、貨幣は信用および金融と結びつき、その性格を変えようとしていた。
 古代ギリシア人とローマ人は利子を取ることに良心のとがを感じなかったが、キリスト教は利子をとることを罪悪と考えていた。しかし、いかなる時代も商業取引がおのずから金融取引に発展していくことは避けられなかった。
 当初、商品の取引は「代理人」に委託されていた。貨幣が普及するようになると、現物を委託するよりも、貨幣を貸し付けるほうが取引としてはずっと楽になる。
 貨幣の貸付によって債務者は負担を負う。債権者に元金を返済するだけではなく、利子も支払わなければならないからである。債権者は債務不履行の危険度が大きければ大きいほど、高い利子を求める。これはとうぜんのことだった。
 ギリシア・ローマ時代には、借金を払えない債務者は、制裁を受け、しばしば「債務奴隷」の地位におとされていた。だが、こうした残酷な制度に代わって、次第に貸付にたいして担保を求める慣習が定着するようになる。この場合、債務者は債権者にたいし、負債以上の価値を持つ物件を預託し、借金返済後にその物件を返却してもらうことになる。
 しかし、担保物件つきの貸付が成立する場合はごく限られている。そこで、物件を預託しなくても、抵当権を設定するだけで借り入れができる方式が生まれる。この場合は、貸付の担保は債権者の手にわたらず、債務者の手元に残され、債務不履行の場合にかぎって、債権者が担保を手に入れることになる。
 担保貸付にたいして無担保貸付も存在した。無担保貸付は貸し手にとって危険度が高いため、ふつうは高利がともなう。しかし、商人仲間のあいだでは、借り手の信用に応じて、質物や担保をとらずに、低い利子で貸付がなされる場合もあった。商人経済の発展にとっては、こうした信用にもとづく低利子の融資が大きな役割を果たした、とヒックスは指摘する。
 だが、信用を確保するには、相手の経営状態を知っているだけではじゅうぶんではない。そこで信用を拡大するため、保証人や金融仲介人が求められるようになる。銀行が登場するのは、こうした金融仲介を専業とする者のなかからだ。そのころキリスト教においても、ある程度の利子を認める考え方が定着するようになっていた。
 危険分散を可能にするには、加えて保険の導入が求められた。中世に都市国家を営んでいたイタリア人は、保険契約に精通していたことで知られる。14世紀にはすでに海上保険が存在していたし、万一の事態に備えるためのさまざまな方策も考え抜かれていた。
「中期の局面」としての近世は、こうした金融制度や保険制度を都市国家の経験から受け継ぐことになる。さらに加えて、証券市場や有限責任会社(株式会社)制度が確立されるようになると、「中期の局面」は終了し、「近代の局面」の展開がはじまる、というのがヒックスの基本的な見取図だといってよい。
 だが、先走るのはやめておこう。近代を語るには、その前提として、貨幣(金融)に加えて、国家(財政)や農業、労働の分野への「市場の浸透」を論じなくてはならないからである。

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