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プラザ合意と中曽根政権──大世紀末パレード(4) [大世紀末パレード]

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 あのころのことを少しずつ思い出してみる。
 薄らいでしまった記憶を導いてくれるのは、引きつづき吉崎達彦の『1985年』だ。
 1985年は戦後40年にあたる。1950年以降、日本は驚異的な経済成長を遂げ、この年までにGNPは80倍になり、一人あたり国民所得は50倍、輸出は140倍、輸入は90倍になった。自動車を中心に日本の対米輸出は増大し、1985年のアメリカの対日赤字は500億ドル近くまで膨らんでいた。
 当時、アメリカ大統領はロナルド・レーガン、日本の首相は中曽根康弘だった。日本の経済進出を受けて、アメリカでは「ジャパン・バッシング(日本叩き)」の動きが強まっていた。
 日本政府は大慌てで、外国製品輸入のキャンペーンを張る。4月20日には中曽根首相がみずから日本橋の高島屋を訪れ、開催中の「輸入商品フェア」で7万1000円の買い物をする。ところが、首相が買い上げたのはイタリア製のネクタイとブルゾン、フランス製のスポーツシャツ、孫のためのイギリス製ダートゲームで、肝心のアメリカ製品はひとつもなかったという笑い話が残っている。
 とってつけたような外国製品輸入促進策は、容易に進むはずがなかった。
 いっぽう「強いアメリカ」を標榜してレーガン政権が打ちだした「レーガノミックス」は、財政赤字と金利上昇、ドル高、貿易赤字を招いた。アメリカにとっては、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」が大きな課題となっていた。
 日米通商摩擦が浮上する。これを解決するうまい手が考えられた。それが通貨調整だった。
 1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに先進5カ国の財務大臣(大蔵大臣)、中央銀行総裁が集められた(日本からは竹下登蔵相が参加)。そして、わずか20分ほどの会議で、ドル安に向け各国が外国為替市場で協調介入をおこなうことが決定された。
 いわゆる「プラザ合意」である。
 プラザ合意の効き目は絶大だった。東京市場では合意前に1ドル=242円だった為替相場が、85年末には1ドル=200円まで上昇した。その勢いは止まらない。86年2月に相場は1ドル=180円をつけ、5月には165円、8月には154円となった。
 そうなると、これから先どうなっていくのかという恐怖が襲ってくる。日本政府は景気後退を予測して、強力な景気対策を打った。鉄道や道路を中心に大型のインフラ投資が発注され、1985年に5%だった公定歩合は87年2月までに2.5%まで段階的に引き下げられていった。それが結果的にバブル経済を生むことになる。株価と地価が急速に上昇していく。
 ここで中曽根政権について論じるべきなのだろうが、手元に詳しい資料がない。図書館に行くのも面倒だ(近くの図書館は改修工事のため9カ月近く休館になっている)。
そのため手近なところで、いつも世話になっている中村隆英『昭和史』の記述を借りることにする。
 中曽根康弘は、鈴木善幸首相が突然辞任したあと、田中角栄の率いる田中派の支援を受けて、1982年11月に総理の座についた。その政権は3次にわたり、1987年11月まで5年間つづくことになる。
 1985年はまだその中間期にあたっている。
 世界を眺めると、そのころアメリカではロナルド・レーガン(1981〜89)、イギリスではマーガレット・サッチャー(1979〜90)、フランスではフランソワ・ミッテラン(1981〜95)、西ドイツではヘルムート・コール(1982〜98)、中国では鄧小平(1978〜97)、韓国では全斗煥(1981〜88)、北朝鮮では金日成(1948〜94)、台湾では蒋経国(1978〜88)、フィリピンではフェルディナンド・マルコス(1965〜86)、インドネシアではスハルト(1968〜98)が政権を握っている。それこそ錚々(そうそう)たるメンバーだといってよい。
 そこにミハイル・ゴルバチョフが1985年3月にソ連共産党中央委員会書記長の座につくところから、世界史の激動がはじまる。
 複雑な国際環境のなか、中曽根が最重視したのが日米関係だったことはいうまでもない。首相就任から1カ月後、中曽根は韓国につづき、アメリカを訪問し、レーガン大統領に日米は「運命共同体」であり、日本列島は「不沈空母」であると語った。
 レーガンといわゆる「ロン・ヤス関係」を結ぶとともに、親米反ソの立場を鮮明にしたのである。三木武夫内閣が決めた防衛費のGNP比1%枠を突破し、防衛費増大を実現したのも中曽根だった。
 内政面では、中曽根内閣は、前内閣の臨時行政調査会答申を実行に移そうとしたといえるだろう。臨時行政調査会は財政再建と行政改革をめざして、鈴木内閣時代の1981年3月に設置され、経団連名誉会長の土光敏夫が会長を務めた。そのため「土光臨調」とも称される。
 戦後の赤字国債は1965年にはじめて発行され、2度の石油危機をへた1981年にいたって、その累積額は増え、80兆円を超していた(2023年現在は1068兆円)。このままの勢いでは増税が避けられなかった。
 だが、土光臨調はあえて「増税なき財政再建」を旗印にかかげた。
 答申は5次までおこなわれ、政府は徹底した行政の合理化と簡素化を求められた。
 その提言内容は、政府は「小さな政府」をめざし、(1)1984年までに赤字国債発行額をゼロにする、(2)コメ、国鉄、健康保険の3K赤字を解消する、(3)特殊法人を整理し、民営への移管をはかる、(4)省庁の統廃合をはかる、(5)国鉄、日本電信電話公社(電電公社)、日本専売公社を民営化する、などといった厳しいものだった。
 土光は答申がでたら、かならずこれを実行してほしいと政府に強く求めていた。
 しかし、と中村隆英は書いている。

〈しかし、政府側はいわば総論賛成各論反対の昔ながらの姿勢を変えず、各省庁はいずれも激しい抵抗を繰り返したため、行政機構の改革はほとんど実現しないままに終り、臨調の担当部局であった行政管理庁が解消されて総務庁に切り替えられた程度の改革しかできなかった。〉

 国債発行はつづく。行政改革もほんの小手先でしかおこなわれない。
 ただひとつ積極的に実施されたのが、公共部門、とりわけ国鉄、電電公社、専売公社の民営化だった。
 電信・電話事業を担っていた日本電信電話公社は1985年4月に民営化され、NTTグループとなる。タバコと塩の専売事業を担っていた日本専売公社も同じ時に民営化され、日本たばこ産業が誕生する。
 難関は国鉄の分割民営化だった。国鉄は自動車時代におされて、大赤字を抱えていたうえに、その内部では1970年以来、激しい労使間対立がつづいていた。
 分割民営化案にたいしては、国労や動労の組合側はもちろんのこと、国鉄幹部のあいだでも強い抵抗がみられた。
 その経緯を中村はこう解説する。

〈国鉄幹部は、民営化はやむをえないとしても全国一社体制を残そうと抵抗したが押し切られたのである。明治以来の国鉄がこのような形で終焉をつげたことは、政治家や特権企業が鉄道を食い物にしてきたこと、古い大家族主義の労使関係の破綻をはじめ多くの理由が指摘されている。そのいずれもが誤りではあるまいが、同時に、石油危機以後の古典的な自由経済論の復活が、その底流として存在したことを忘れるべきではないであろう。第二次石油危機のあとで発足した臨調は「小さい政府」の発想を打ち出し、大赤字を出しつづける国鉄を、ともかく民間企業として再編することに成功したのである。〉

 多くのコメントが必要かもしれないが、それはあとに回そう。
 いずれにせよ、国鉄分割民営化法案は難航したものの1986年11月に成立し、87年4月からJRグループ(6つの旅客事業会社と日本貨物鉄道)が誕生することになる。
 そして中曽根内閣は国鉄分割民営化を最大の功績として、1987年11月に「禅譲」によって退陣する。そのあとを継いだのは、田中派から抜けて、「経世会」を結成した竹下登だった。
 きょうはこのあたりで終わりとしよう。ぼんやりとしか覚えていなかったが、ほんとうにあのころはいろいろなことがあったのだと思う。

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