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ちっちゃな大論争(1)──大世紀末パレード(5) [大世紀末パレード]

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 そのころ吉本隆明と埴谷雄高(はにや・ゆたか)のあいだで大論争がくり広げられた。
 全共闘の端っこにいたぼくにとって、吉本、埴谷といえば、あこがれの思想家、文学者で、その思いは中年サラリーマンになっても変わらなかった。
 1985年春、そのふたりが、じつにくだらないと思われることをきっかけに、大論争をおっぱじめるのだ。吉本はその論争をへて、みずから定めた方向性を「重層的な非決定へ」と名づけ、それをタイトルとする重厚な単行本を出版する。
 ことの発端は前年に岩波書店から、大岡昇平と埴谷雄高がふたりの対談集『二つの同時代史』を刊行したことにある。そのなかに60年安保で全学連とともに闘い、警察に逮捕された吉本をからかった部分があった。
 その部分を引用しておこう。

埴谷 吉本も押し出されて敗走したんだが、追われた道路のはしでやっと塀を越えて逃げ込んだところが警視庁の中だったんだ(笑)。それで吉本は捕まっちゃったんだが、それを花田清輝は戯文詩に書いた。「逃げた先が警視庁」というようにね。花田も、吉本・花田論争をまだ根にもっていてね。
大岡 あれはおもしろいね、ケチのつけ方が。吉本はスパイで、だから警視庁の玄関から降りて来た、とかね(笑)。
埴谷 そうだったかな。
大岡 釈放されて出てくるんなら、玄関から出て来たっていいと思ったけれどね。あの論争は、ちょっと花田に分がなかったからな。

 文学界の巨匠といえる大岡と埴谷のふたりが、60年安保での吉本の闘いぶりがいかにドジなものであったかをからかっているようにみえる。
 こうしたからかいにたいし、吉本は内心怒った。あのとき、全学連とともに安保闘争を必死で闘った吉本は、国会周辺で機動隊から襲撃され、素手のままぬかるみと暗黒のなかを潰走した。そして、三十数名の学生、市民とともに、警視庁の構内に追い詰められ逮捕されたのである。けっして、笑える話ではなかった。
 加えて、埴谷は、1956年から60年にかけて吉本と花田清輝とのあいだで繰り広げられた(文学者の戦争責任などをめぐる)論争で押され気味だった花田が、戯文詩のなかで、吉本の「逃げた先が警視庁」と皮肉ったことを紹介する。それにおいかぶさるように、大岡が、花田は吉本がスパイで警視庁からでてきたとまで言ってるぜ、と知ったかぶりの発言をした。
 花田が、吉本は警視庁に逃げこんだなどと諷刺したのはまちがいない。しかし、吉本がスパイなどといった発言をした事実は確認されなかった。日本共産党が全学連をおとしいれるために、全学連主流派(共産主義者同盟)はスパイで、だから警視庁に逃げこんだという作り話を流していたことは伝わっていた。だからといって、花田が吉本は警視庁のスパイなどと評したことはなかったのだ。
 実際には吉本は6月15日に(警視庁への)「建造物侵入現行犯」の疑いで逮捕され、高井戸署に移され、数日にわたる取り調べのあと釈放されている。警視庁の玄関から降りてくること自体ありえなかった。
 吉本は大岡昇平と埴谷雄高、並びに版元の岩波書店に、花田の発言とされる事実誤認を訂正するよう求めた。
 埴谷と吉本とのあいだで「論争」が巻き起こったのは、それからである。埴谷が雑誌「海燕」に二度の公開書簡を発表したのにたいし、吉本は同じ誌上で二度にわたり反論を加えた。
 そこで明らかになったのは、吉本と埴谷の立場(考え方)が完全にわかれつつあったということである。
 埴谷は大岡の発言が不用意だったとエッセイに記すことで、ことを収めるつもりでいた。ところが、吉本はそれでは腹が収まらない。スターリズムと対決していたはずの埴谷が、1982年にヨーロッパへのアメリカの核兵器配備に反対する文学者の「反核宣言」に署名したことを蒸し返して、埴谷がレーニン-スターリン主義者の同調者に成り果てていると批判した。
 現在の「社会主義」国家がもたらしてきた現実は、理念にとはほど遠いものだ、と吉本はいう。ソルジェニーツィンの『収容所群島』、ソ連のアフガニスタン侵略、ポル・ポト派による大虐殺、中ソ国境紛争、中国・ベトナム戦争、さらにはポーランドの「連帯」にたいする鎮圧をみても、それは「ファシズムとおなじ国家社会主義のヴァリエーション」であって、その根底にはレーニン-スターリン主義にもとづく政治的暴力があると指摘した。
 さらに吉本は、大衆にとっては、現在の「社会主義」国よりも「先進資本主義体制」のもたらした成果のほうが、はるかに大きいと断言する。ソルジェニーツィンは「いま、われわれは、せめて資本主義のもとでプロレタリアートが享受している程度に、わが国のプロレタリアートに食べるものと着るものとを与え、余暇を恵んでやりたいと思うだけである」と述べたが、吉本はそのソルジェニーツィンに共感を示すようになっている。
 吉本が埴谷を批判するのは、スターリン主義を厳しく糾弾する埴谷のなかにレーニンの思想を称揚する古い左翼性が強固にこびりついているようにみえることだった。そこから話はレーニン批判へと移る。
 ここで取りあげられるのはレーニンの『国家と革命』だ。吉本はそれを執拗に批判しているが、ことこまかにそれを点検するのは気が重い。
 要点だけを記す。

〈レーニンがエンゲルスの国家観を集約した理念のうち、国家の本質規定である「だから、あらゆる国家は非自由で非人民的な国家である。」(『国家と革命』)は「現在」レーニン-スターリン自身の理念国家であるソ連国家をはじめ、あらゆる社会主義諸「国」や資本主義諸「国」の本質的な欠陥を照し出す鏡になっております。またレーニンの論理的な短絡と狭窄の産物である「国家」は「監獄その他を自由にすることのできる武装した人間の特殊な部隊にある。」(『国家と革命』)という理念の当然の報いとして、資本主義諸「国」よりも、もっと自由度の少ない、賃労働者(階級)の生活水準も低い「強制収容所その他を自由にできる武装した人間の特殊な部隊」であるソ連その他の社会主義「国」の権力を創り出しています。〉

 レーニンの国家論はきわめて幅の狭いもので、国家を暴力装置ととらえるものだといってよい。党が国家を領導することによって「国家」を乗り越えようとしたレーニンとスターリンの共産党が、まさに強制収容所などに代表される「非自由で非人民的な」監獄国家をつくりあげたことを吉本は批判した。
 さらに吉本は「革命やその世界の概念を、理念を仕込んだ支配したがりの、陰謀好きな知識人のせまく暗く、快活でない党派のものにしてしまった」のも、レーニンにほかならなかった、とも述べている。
 レーニン-スターリン主義の根本的な問題は、「正しい」思想をもつ唯一の党(指導者)が国家の上に立って国家を指導し、党に反対する者は徹底して排除していくという発想にあった。そうした考え方は、21世紀のいまも中国にかぎらず多くの権威主義的国家に引き継がれている。
 このあと、吉本と埴谷の論争は思わぬ方向に広がっていく。いわゆるコム・デ・ギャルソン論争である。長くなったので、そのつづきはまたにしよう。

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