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アンコール・トム──カンボジア2019春ツアー(5) [旅]

2月15日(金)
朝7時半、ホテルのレストランで食事。中国人観光客のパワーに圧倒されます。座るところがなく、食べるものもなく、ようやく席をみつけ、パンをほおばりました。
8時半バスでホテルを出発。きょうは午前中アンコール・トムを見学します。途中、小型バスに乗り換えました。
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アンコールは町、トムは大きいという意味です。アンコール・トムは「大きい町」ということになります。つくられたのは12世紀末のジャヤヴァルマン7世の時代です。ジャヤヴァルマン7世は、インドシナ半島のほぼ全域に勢力を拡げました。首都アンコール・トムでは、3キロ四方の城壁の中で8万人が暮らしていたといいます。
ここには王宮のほか、仏教寺院や病院、大学、宿泊所もありました。王が亡くなると、仏教とヒンドゥー教のあいだで宗教戦争が勃発し、国力が次第に衰微し、クメール(アンコール)王朝が滅亡します。
1431年ごろ、シャムのアユタヤ軍が侵攻し、多く存在した高床式の家はすべて燃やされました。ですから、ここはクメール王朝最後の都ということになります。
アンコール・ワットはアンコール・トムより30年ほど前の都ですが、むしろ、よく残っています。ワットは寺という意味。ヒンドゥー教の寺院です。これにたいし、アンコール・トムのバイヨン寺院は仏教寺院です。
9時50分、バイヨン寺院の入り口、南大門に到着します。堀の橋にはナーガ(コブラ)の彫刻。
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多くの仏像が並んでいます。
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ちょっといかめしい感じがするのは、寺院を守っているからでしょうか。
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寺院にはここから1キロほど歩きます。寺院の東門にやってきました。
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この仏教寺院がつくられたのは12世紀末。昔は金箔がほどこされていました。54塔のうち37塔が残っています。54は当時の県の数だといいます。なかにはいってみましょう。
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回廊左手の壁には、さまざまなレリーフが掘られています。これは行進するクメール軍で、チャンパ(現ベトナム)との戦いが描かれているといいます。
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クメールの兵士だけでなく、中国人の傭兵もいるとか。
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食料を運んでいるのでしょうか。庶民も動員されているようです。ゾウや牛の姿もあります。ほかのレリーフでは豚を見かけました。
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中央祀堂のほうに。
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あちこち、こんな女神像(デバター)を見かけます。
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塔には観音さまの像が刻まれています。
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おや、こんなところにも女神像。
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おごそかな像です。
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もうひとつの寺院パプーオンにやってきました。いまの気温は34度です。
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中央の塔の高さは42メートル。いちおうピラミッド型ですが、もとの形はわからないため、途中までしか復元されておらず、石はそのまま放置されています。1060年にヒンズー教の寺院として建てられたといいます。
もう少し接近してみましょう。
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次はピミアナカス寺院。王宮の隣にあるヒンドゥー教寺院です。
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王宮は跡地しか残っていません。アユタヤ軍によって破壊されたのでしょう。
このあたりには、かつて裁判所などもあったとか。王が住んでいたのは寺院の後ろの小高い場所で、そこに木造の高床式住居が建てられていたようです。沐浴をした池も残っています。
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王宮の門を出ると、左側には「ライ王のテラス」。ぼくは読んだことがないのですが、三島由紀夫の戯曲に『癩王のテラス』というのがあり、まさに三島はこの場所に着想を得たといいます。らいを病むジャヤヴァルマン7世が主人公で、アンコール・トムを舞台にしています。
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そして、右側には「象のテラス」がありました。ジャヤヴァルマン7世が閲兵をおこなった場所です。
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ガイドさんによると、1907年までアンコール・ワット近辺はタイ(シャム)が支配していたといいます。フランスがカンボジアを保護国とするのは1863年ですが、その後、タイはフランス領カンボジアに現在のカンボジア中部と北部を割譲します。フランスがこなければ、カンボジアはなかった、おそらくベトナムとタイに分割されていただろう、とガイドさんはいいます。当時のノロドム王はみずから進んでフランスの支配下にはいったわけです。
植民地の歴史にも複雑な背景があって、一筋縄にはいかないようです。

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