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三橋俊明『路上の全共闘1968』を読む(2) [われらの時代]

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[6月11日。ストライキに突入した法学部の3号館。眞武善行『日大全共闘1968』から]
 元日大全共闘書記長の田村正敏は、自著『蜂起と夢と伝説』のなかで、闘争が終わって数年たってから、元議長の秋田明大と飲んだときのことを書いている。

〈秋田明大の話だ。彼はあまり自分のことを語らない男だが、闘争から数年を経て後、二人でしたたか飲んだ夜に、阿弥陀様の夢の話をしてくれた。闘争の前に、夢に阿弥陀様が出てきて、ただ一言「やれ」といったというのである(因縁話めくが、僕たちが打倒しようとした古田は、かなり熱心な観音信仰の持ち主であったことを、後に知った)。〉

 以前、片眼の薬師如来の夢をみた田村は、秋田が夢で阿弥陀様をみたという偶然の一致におどろく。
 何か目に見えないものが自分たちに行動をうながしていた。秋田にとって、それは阿弥陀様の「やれ」というただ一言だった。それにしても、バリケードストにはいるには、相当の決意を必要としたはずだ。しかし、同時に敵の古田が熱心な観音信者だったと書くのが、田村のおもしろいところである。
 その田村が6・11のスト突入は直接民主主義の行使だったと語っている。日大全共闘は学生自治会を基盤にしていたわけではなかった。政治セクト、一般ノンポリ学生を問わず、闘争に直接参加する学生たちが全共闘を担っていたのだ。バリケードに籠城するか、昼間の闘争に参加するか、救対活動に回るかは、まったく個人の判断に委ねられていた。闘争に参加することも闘争から離れることも自由だった。
 6月11日以降、バリケードストは各学部に広がっていった。大学当局は大衆団交の要求を受けいれない。
 右翼学生の襲撃もすさまじかった。黒いヘルメットをかぶったかれらは、釘のついた角材、手斧、バット、火炎ビンなどで武装して、バリケードを襲撃した。全共闘は右翼学生によるひっきりなしの攻撃に耐え、「砦」を強化していった。
 日大闘争は孤立していたわけではない。東大では6月15日に占拠された安田講堂が、機動隊によりいったん解除されたあと、7月2日に再占拠されていた。そのあと、東大でも全共闘が結成される。ストライキの波は各地の国公立大学や私立大学にも広がりはじめていた。
「人は、時に不思議な行動に引き込まれてしまうことがある。人が何かに誘われたり、つかまってしまったりすることが、確かに起こる」と、著者は書いている。
 1968年はたしかに、そんな年だった。
 とはいえ、学生たちが立ちあがったのは偶然によってではない。戦後民主主義教育において「学校は、国家が定めた教育制度の下に私を調教していくために運用されていた」と著者はいう。選別と調教、ひたすら前に向かって進まされ、その挙げ句に将来の進路が振り分けられる。
 自由と民主主義の名のもとに、ひたすら試験による競争とランクづけがなされ、国家社会による人材の選別がなされていたのだ。
 全共闘はこれを「教育の帝国主義的再編」と呼んだ。
 著者は日大全共闘書記長の田村正敏がこう演説したのを覚えている。
「日本の大学生の中でぇ、最もぉ、教育のぉ、帝国主義的再編を拒否してきたぁっ、日大のぉ、同志諸君!」
 田村には、どこかユーモア感覚があった。この演説を聞いた著者は、そうだったのか、学校の勉強をあまりしてこなかったどころか、ほとんど拒否してきたおれはまちがっていなかったんだと思ったという。
おれは単なる不良ではない、教育の帝国主義的再編を拒否してきたにちがいないのだから。そう思って、心地よかったという。
 日大のバリケードのなかには、明るい解放感のようなものがあふれていた。
 まるで夏季合宿でもしているような雰囲気があって、これまで話したこともない学生どうしが泊まり込みのなかで、胸襟を開き、たがいに自分のことを語るようになっていた。一生忘れることのない全共闘クラスができたようなものである。
 そのなかでは、日本革命を唱える者から、ひたすら授業料の返済を主張する者まで、意見のへだたりは大きかった。だからといっていさかいにはならなかった。かえって全体の活力が生まれていたという。
 もちろん右翼の襲撃には備えなくてはならなかった。それに、バリケードの目的は、籠城することではなく、多くの日大生から支持を集め、大衆団交をかちとり、大学当局に学生側の要求を認めさせることにほかならなかった。
 そのため、連日、各学科各学年ごとに話し合いがもたれ、闘争委員会の会議が開かれ、行動予定が決められ、それへの参加が呼びかけられていた。
 街頭支援活動もおこなわれた。著者も西銀座のカンパ活動に出かけている。「夕刻の、まだ明るい、サラリーマンたちが帰宅を始める頃を狙ってのカンパ活動は、取り組んだ私たちの予測を遙かに超えて、驚くほどの大盛況ぶりだった」という。
 日大全共闘は五項目の要求を出していた。

  1、全理事は総退陣せよ
  2、経理を全面公開せよ
  3、検閲制度を撤廃せよ
  4、集会の自由を認めよ
  5、不当処分を白紙撤回せよ

 大学の自治といいながら、日大では学内民主主義がまるで認められていなかったのだ。
大学当局が全共闘の要求に応えないまま、バリケード内の籠城は7月の夏休みを迎えた。
 全共闘のなかには社学同ML派や中核派のメンバーがいて、夏休みでも党派の機関紙を読んだり、読書をしたりしていた。これにたいし、著者のようなノンセクト組は、何よりも仲間たちとの交流をだいじにし、社会との接点をみつけようとしていた。このままバリケードストを維持することができれば、かならず展望は開けるはずだと思っていた。
 御茶の水の材木屋が火事になった。全共闘の一団が、ヘルメットとゲバ棒姿で駆けつけ、消火に協力した。後日、材木屋のオヤジがバリケードにお礼の品をもってやってきた。てっきり角材だと思っていたら、菓子折だったというのは冗談だろう。
 全共闘が警視総監賞をもらったという話もある。深夜、バリケード封鎖していた農獣医学部の向かいにあるガソリンスタンドに侵入した4人組の泥棒を、校舎を警備していた学生たちが見つけ、うち2人を取り押さえ、駆けつけた世田谷署員に引き渡した。このとき活躍した全共闘の学生3人はほんとうに賞をもらったらしい。この警視総監賞は、はたして逮捕されたときに、多少なりとも役立ったのだろうか。
 7月9日、東京国税局は日大の使途不明金の大半が、会頭の古田重二良会頭をはじめ大学幹部や職員に闇給与として支払われていたことを公にした。
 その報道を受けて、大学は日大全共闘にたいし、学生集会を前提とした予備折衝をおこないたいと申し入れた。
 18日と20日の予備折衝の結果、大学当局は8月4日に法学部1号館大講堂で日大全学生との大衆団交に応じると文書で約束した。
 ところが、そのいっぽうで、当局は警察に要請し、全共闘の排除を画策していたのだ。誓約書がつくられた当日、法学部から経済学部校舎に戻ろうとした学生21人が機動隊によって検挙される。これに抗議するため神田警察署に出向いた300人あまりの学生にも機動隊が襲いかかり、全共闘の86人のメンバーが逮捕された。そのなかには著者も含まれていた。
 何で日大生を逮捕する、早く古田を逮捕しろ、と抗議しても、警察は「分かったから、さっさと住所と名前を書いて、早く帰れ」というばかり。仕方なく住所と名前を書くと、そのあと両手の指の指紋をとられて、すぐに釈放された。
 著者はその後、何度も逮捕される。しかし、最初に住所と名前を書いたことが、完全黙秘を台無しにしてしまう。取調室に行くと、母親がいて、「あら、としちゃん、大丈夫」といった調子になってしまったのだ。
 その母親も自分の息子は何も悪いことをしていないと思っていた。その後、デモがある日には、母親が赤旗を縫ってくれるようになる。
 7月24日、大学当局は手のひらを返し、大衆団交を無期延期するという申し入れ書を全共闘に送りつけてきた。身の保証がないかぎり大衆団交を延期するというのだ。全共闘はそれに応える回答書を送ったが、8月1日に大学当局は最終的に大衆団交を無期延期するとの文書を寄越した。
 こうして暑い夏のバリケード籠城がつづく。砦での共同生活によって、仲間たちの連帯感はむしろ強まっていった。
 日大全共闘は、大学当局による一方的な大衆団交無期延期通告に抗議する集会を開き、あらためて大学側に8月25日に大衆団交を開くよう申し入れた。これにたいし、当局は8月24日にいくつかの改革案を提示したうえで、夏休み明けの授業再開を画策していた。
 大衆団交を拒否する大学当局に抗議するため、8月25日に全共闘は神田三崎町の法学部第1号館で総決起集会を開く。その間隙を縫って、右翼暴力団が手薄になった商学部のバリケードを襲った。
 8月31日、大学当局は東京地裁に法学部、経済学部など6カ所の「不法占拠」を強制排除する仮処分申請をおこなう。そして、9月2日に、この仮処分申請が受理されると、翌日の新聞に9月11日に授業を開始するとの広告を打った。
 大学の権力の壁は厚かった。だが、全共闘は徹底抗戦する。このまま引き下がるわけにはいかなかった。

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