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ドン・オーバードーファー『テト攻勢』を読む(3) [われらの時代]

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 北ベトナム軍とベトコンの混合部隊が古都フエに突入したのは1月31日未明のことだった。大和殿のある城砦が占拠された。夜が明けると、川向こうの米援助軍施設と城砦内の南ベトナム軍野営地を除いて、町全体が解放軍の支配下に置かれていた。
 城塞の門の上には、黄色い星のついた解放民族戦線の旗がかかげられた。
 それ以降、2月24日までの25日間、フエでは酸鼻を極めた地上戦がくり広げられることになる。
 そのかん、ベトコンは、市内にいたアメリカ人やドイツ人、ベトナム人のカトリック信者、役人や区長、有力者などを注意人物として300人殺害した。
 だが、この蛮行は3月16日に米軍兵士が引き起こすクアンガイ省ソンミ村での500人虐殺事件によって、ほとんど忘れ去られることになる。
 解放軍の攻撃がはじまって5時間後、米軍はフエに海兵隊1個中隊を派遣した。しかし、この増援部隊は城砦にたどりつけぬまま米軍施設に撤退する。
 南ベトナム軍も市外にいた各部隊に、城砦内に向かうよう指示したが、解放軍によって食い止められ、しばらく市内にはいることができなかった。掃討には、さらなる増派が必要だった。
 最初はフエの被害を最小限にとどめるため、爆弾を投下したり爆撃を加えたりしないという方針が立てられていた。だが、戦闘が長引くにつれ、その方針は破棄される。
 2月13日、ロケット砲や臼砲、爆弾が降り注ぎ、フエはほとんど瓦礫の山と化した。
 しかし、城砦内部ではまだ激しい戦いがつづいていた。いくら砲撃を加えても、中心部の砦をなかなか落とすことはできなかった。
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 2月24日、南ベトナム軍は、ようやく城砦の南にある国旗掲揚塔を奪い返した。黄色と赤のベトナム共和国の旗をあげたあと、宮殿の中庭にはいったが、解放軍はすでにいなくなっていた。
 最後に残ったのが城砦に接するザーホイ地区だった。2月25日、南ベトナム軍は解放軍のこもる寺院を攻略した。これによりフエでの長い戦闘が終わった。
 このとき、フエでは家屋や建物の80%が破壊されていたという。
 テト攻勢はしりぞけられた。だからといって、アメリカが勝利したわけではなかった。解放軍によって占拠されたものを奪い返しただけである。
 いっぽう敗退したベトコン陣営はふたたびジャングルに戻り、戦略を練り直しはじめていた。
 アメリカの統合参謀本部は、現在の抜き差しならない膠着状態を打破するには、大規模な地上軍の追加投入が必要だと考えるようになっていた。
 共産軍は今回のテト攻勢の失敗で大きな打撃を受けたが、それでもまだゲリラや戦闘支援部隊が残っているし、さらには新規補充部隊のことも考慮しなければならない。南ベトナム軍の能力には限界がある。それが現地の軍の判断だった。
 統合参謀本部議長のホイーラー将軍は、ベトナムを訪問してウェストモーランド司令官と打ち合わせた結果、次のような結論を下した。
 今後、回復する共産軍勢力に対応し、さらにはラオスやカンボジア、北ベトナムで展開すべき作戦計画を配慮すると、米軍としては、現在の約51万の兵力に加え、20万6000の増派を必要とする。
 ところがこの20万6000という数字がもれてしまう。
 1968年3月10日、「ニューヨーク・タイムズ」は、「ウェストモーランド20万6000の兵員を要求、政府に動揺」という見出しつきの記事を掲載した。
 ジョンソン政権は68年秋までに、兵力を52万5000に増やすことを承認している。それをさらに20万6000増やすというのはどういうことか。新聞は政府内にも増派に反対する者がいることを伝えていた。
 ホワイトハウスは、その記事を無視した。否定するのが困難だったためである。すでにこのとき国防長官はマクナマラからクリフォードに変わっている。
 3月12日、ニューハンプシャー州では、大統領選挙の皮切りとなる民主党の大統領予備選挙がおこなわれ、早くから名乗りを上げていたハト派のユージン・マッカーシーが勝利した。
 その時点で、ジョンソン大統領はまだ公式に出馬の名乗りを上げていない。それでもマッカーシーの勝利は、民主党支持者のジョンソン政権にたいする強い不満をあらわしていた。
 新国防長官のクリフォードは、はたして20万6000の増派が必要なのかを疑っていた。
 増派の目的は南ベトナム領土内のベトコンと北ベトナム軍を打ち破り、アメリカのいう「自由で独立した南ベトナム」を絶対的なものとして確立することだ。だが、そうした圧倒的な勝利が、はたして達成できるかは疑問に思えた。
 クリフォードの結論は、及び腰で、中途半端なものとなった。北爆の強化に積極的に賛成するわけでもなかった。
 ジョンソン大統領は追い詰められ、懊悩していた。
 軍は共産側のテト攻勢に強く報復することを求めていた。しかし、国民のあいだでは、ベトナムがアメリカ人の生命をのむこむ底なし沼になりつつあるのではないかという懸念が広がっていた。
 20万6000の増派というニューヨーク・タイムズのすっぱ抜きが戦争への不安と不信を広げていたのだ。
 ジョンソンは和平提案を決意する。だが、それは弱腰の和平ではない。チェンバレンの平和ではなく、チャーチルの和平でなければならなかった。
 南ベトナムではテト攻勢が最後の局面を迎えていた。解放軍はほぼジャングルの奥に撤退し、残っているのはケサン周辺の戦闘だけだった。
 2月末から3月10日にかけ、ケサンでは基地にたいする最後の大規模な地上攻撃が展開されたが、米軍の空爆が激しさを増すにつれ、北ベトナム軍は3月半ばにラオス国境を越えて撤退していった。
 ジョンソン大統領は20万6000の増派案を却下した。ウェストモーランド司令官はワシントンに召喚され、陸軍参謀長に任命された。
 3月31日夜9時、ジョンソンはアメリカ国民に向けたテレビ演説で、ベトナム和平を提案し、こう述べた。

〈こんな状態をつづける必要はありません。この長くて血なまぐさい戦争を終わらせるための話しあいを遅らせる必要はないのです。
今夜、私は昨年の8月に行なった提案をあらたにくりかえします。つまり、北ベトナム爆撃の停止です。われわれはすみやかに話しあいを始めること、それが平和の問題をめぐる真剣な話しあいになることを要求します。その話しあいのあいだに、ハノイがわれわれの抑制を利用しないと仮定して。〉

 この長い演説をジョンソンは驚くべき発言でしめくくった。
「私は大統領としてもう1期つとめるために、わが党の指名を求めもしないし、その指名を受けるつもりもありません」
 大統領選に再出馬するつもりはないと表明したのである。
 アメリカは和平に向けて舵を切った。だが、それがどのような和平になるかは、次期政権次第だった。
 ジョンソンの提案に北ベトナムはすぐに応じ、5月、パリで予備会談が開かれた。
 10月には北爆が停止される。そして、翌1969年1月、アメリカ、北ベトナム、解放民族戦線、南ベトナムによる公式会談がパリではじまるのだ。そのとき、アメリカではニクソン政権が発足している。
 しかし、先はまだ見えなかった。

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ドン・オーバードーファー『テト攻勢』を読む(2) [われらの時代]

 1967年夏から秋にかけ、ベトナム戦争へのアメリカの世論は懐疑的になりつつあった。政府としては、それを反転させるには、軍が具体的な成果を示し、戦争が勝利に向かっていることを立証しなければならなかった。
 そのためベトナムでの米軍の兵力は5万5000追加され、52万5000に増強される。すでに朝鮮戦争での動員兵力を上回っていた。増員にともない、ジョンソン政権は増税を決定する。
 泥沼状態となりつつあるベトナム戦争に、アメリカのメディアも次第に疑いの目を向けるようになる。
保守的な雑誌「ライフ」ですら、自由世界の戦略的利益を保持しようとするこの戦争が、はたして若いアメリカ人に生死をかけることを求めるだけの価値があるのかという論説をかかげるほどだった。
 1967年末までに、アメリカは163万トンの爆弾を南北ベトナムに投下していた。これはすでに太平洋戦争で投下された量の3倍にのぼる。にもかかわらず、効果は上がったふうにみえなかった。
 マクナマラ国防長官は、一時北爆を停止して、北ベトナムとすみやかに建設的な話し合いにはいることを提案した。アメリカが徐々にベトナムから手を引くことを考えはじめていたのだ。しかし、この構想は受けいれられない。翌1968年2月、かれは国防長官を辞任することになる。
ジョンソン政権の首脳部は、むしろ確実な勝利に向けて戦争をさらに進展させようとしていた。
 1968年1月末のテト攻勢がはじまったのは、その矢先である。
解放軍側は南ベトナムに24万の兵力を擁していた。テト攻勢には、その4分の1にあたる6万7000が投入された。
 目標とされたのは首都サイゴンの要所、それに100あまりの都市と町である。解放軍の攻撃を合図に、民衆はかならず蜂起するはずだと信じられていた。
 南ベトナム政府側は、49万2000の米軍、34万2000の政府軍を中心に110万の兵力によって支えられている。近代的な兵器に加え、2600機の航空機、3000台のヘリコプター、3500台の装甲車も保有している。
 こうした圧倒的な軍事力の差が、油断を招いたのかもしれない。米軍司令部は、まさかベトコン側が旧正月の休暇中に全国的な一斉攻撃をしかけてくるなどとは思ってもいなかった。
 旧暦元旦の1月30日零時すぎ、最初に砲撃が開始されたのは、南ベトナム中部の港町ニャチャン(いまは大リゾート地)である。しかし、800人の解放軍兵士で町を占拠するのはそもそも無理だった。14時間後には、ほぼ排除されている。
 その日の夜明け前、沿岸部のダナン、ホイアン、クイニャン、それに山中のコントムやプレイクでも、解放軍側の攻撃がはじまった。
 解放軍の攻撃を受けて、米軍と南ベトナム政府軍はテトの休戦宣言を撤回し、各地で激しい戦闘が交わされる。
 30日早朝、サイゴンのタンソンニュット空軍基地にある情報センターにも、南ベトナム北部(第1軍管区)と中部(第2軍管区)の戦闘の様子が、次々伝わってきた。
 南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は休戦取り消し命令に署名したが、サイゴンには戻れなかった。メコン・デルタのミトーにある別荘でテトを祝っていたためである。
 緊急警戒命令が出されたものの、なぜかサイゴンは安全だと信じられていた。しかし、このとき解放軍部隊はサイゴン市内に潜入していたのだ。
 1月31日午前3時、サイゴン郊外にあるビエンホア空軍基地にロケット砲が浴びせられる。
 それを皮切りに解放軍の主力部隊はサイゴン市内での戦闘を開始した。あらかじめ市内に潜入した兵士たちは、隠れ家で武器を受け取り、指示にしたがって行動した。
 大統領宮殿を襲ったのはほとんどが20歳以下の兵士14人で、なかには女性もひとり含まれていた。現場に到着したトラックにはTNT爆弾が積まれていた。だが、かれらは通用門で撃退されてしまう。仕方なく、通りを隔てた建物に立てこもって15時間ほど交戦したが、けっきょくは全員殺害された。
 アメリカ大使館の攻撃は、前回紹介したので、くり返さない。サイゴンでは、ほかにも放送局やタンソンニュット空軍基地、南ベトナム軍統合参謀本部、米軍兵舎などが襲撃されている。だが、いずれも短時間で排除される結果に終わっている。
 放送局は一時占拠された。しかし、放送回線のスイッチが切られたため、ベトコン側はあらかじめ用意されていた蜂起呼びかけのテープを流すことができなかった。
 グエン・バン・チュー大統領は米軍のヘリコプターに拾われて、ようやくミトーの別荘からサイゴンに戻り、グエン・カオ・キ副大統領とともに、統合参謀本部にはいり、そこに数日間、滞在した。
大統領の暗殺を命じられたベトコンの暗殺隊は、大統領の行方がわからなかったため、その使命を達することができなかった。
 しかし、統合参謀本部には3発のロケット砲が打ちこまれたから、砲撃が正確なら、このとき解放軍側は南ベトナムの首脳部を一気に殺害できる可能性もあったのだという。大統領と副大統領はすんでのところで、難を免れた。
 メコン・デルタでもゲリラ戦はくり広げられた。このあたりを守る南ベトナム軍の士気はまったくひどいものだった。
 ベトコンはメコン・デルタ諸都市の建物を占拠したが、南ベトナム軍はそれを手をこまぬいて眺めているだけだった。ベトコンを排除したのは、アメリカの空爆と圧倒的な火力である。
それにより、メコン・デルタでは5200人のベトコンが死亡し、2400人の民間人が殺され、21万1000人が家を失うことになった。
 一斉蜂起は起こらなかった。古都フエを例外として、都市の占領もたちどころに解除された。
北ベトナム軍の主力部隊が控えに回っていたのにたいし、先鋒となった南ベトナム民族解放戦線の部隊は、立ち直れないほどの大きな打撃を受けた。
 テト攻撃は失敗に終わる。
 にもかかわらず、アメリカ本土では、事態はむしろ逆方向に受け止められようとしていた。
 それまで、すべては順調に進んでいると思っていたアメリカ国民は、テレビでテトのニュースが生々しい映像とともに流れてくるのを見て、心底震えた。ほんとうは戦争は行きづまっているのではないか。いや、戦争自体、そもそも誤りだったのではないか。
そんなふうに感じはじめていた。
 2月1日、サイゴンの街角で、あるベトナムの軍人が、格子縞のシャツと半ズボンをまとったベトコン容疑者の頭部に弾丸を撃ちこんだ。そのとき、AP通信のエドワード・アダムズが撮った写真が、全米各地の新聞に掲載され、人びとに衝撃を与えた。
 はたしてベトナム戦争は、正義の戦争なのだろうか。たった1枚の写真がそんな疑惑を呼びさますことになった。
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 ジョンソン大統領はベトナムのウェストモーランド将軍から、共産軍が大規模な攻勢をかけたものの、決定的に敗退したという電文を受け取っていた。だが、テレビでくり返し流されるゲリラ攻勢の映像を見るにつけ、憂慮を深めないわけにはいかなかった。
 それでもジョンソンは気を取り直して、2月2日正午にホワイトハウスで記者会見を開き、テト攻勢が完全な失敗に終わったことを強調した。
 その夜、テレビは東京経由で届いたばかりの戦闘のフィルムを流しはじめた。
 アメリカ国内で、政府への不信感がうずまくなか、リチャード・ニクソンが、この年におこなわれる大統領選挙で、共和党の大統領候補として名乗りを挙げた。かれはジョンソン政権を攻撃するとともに、北ベトナムに、さらに強硬な圧力をかけ、南ベトナムにもっと戦闘を分担させるべきだと提案した。
 いっぽう、いったん大統領選には出馬しないと表明した民主党のロバート・ケネディは、まよいはじめる。ジョンソンと一線を引き、ベトコンを加えての政治的妥協をさぐるべきだと発言するようになる。これはもちろん大統領選を意識しての発言だった。
 テロ攻勢で、ワシントンは根底から揺さぶられていた。しかし、言質ベトナムのウェストモーランド司令官は自信満々だった。
 南北国境の非武装地帯南25キロにあるケサンには、米軍の大きな基地が置かれていた。
ウェストモーランドは共産軍のほんとうのねらいはこの基地だと踏んでいた。ケサン周辺でも小競り合いがはじまっていた。
 ウェストモーランドは、ついに本格的な戦争がやってきたと予感し、共産軍側を徹底的につぶしてみせると張り切っていた。
 このつづきは次回。

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ドン・オーバードーファー『テト攻勢』を読む(1) [われらの時代]

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 テトはベトナムの旧正月のことである。
 1968年、ベトナム戦争はつづいていた。その年のテト、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線軍(いわゆるベトコン)からなる解放軍は、南ベトナムの主要都市や米軍基地、大使館に全面攻撃をしかけた。
 ぼくがそのニュースを知ったのは、どこかの食堂で、テレビを見たときだったかもしれない。あるいは新聞や雑誌で読んだのかもしれない。しかし、当時はこのできごとに、ほとんど興味をいだかなかった。ベトナムはやはり遠かったのである。
 東京で大学生活を送っていたぼくはそのころ、何ごとにも自信をなくし、毎日ぼんやりと下宿ですごしていた。まもなく始まる期末試験を受ける意欲もなくしていた。政治や経済、国際問題にも、まったく関心を失っていた。いつもおなかをこわし、からだはだるかった。そんななかで、唯一の取り柄は本好きだったことくらいである。
 そんなことはどうでもいいのだが、いまあのころをふり返って気づくのは、1968年のベトナムでのテト攻勢が、いかに世界史を大きく変えるできごとだったかということである。テト攻勢がなければ、アメリカはベトナムからの撤退を考えなかったかもしれず、1972年2月のニクソン訪中もなく、1976年の南北ベトナムの再統一もなかったかもしれないのだ。
 戦術的にみれば、テト攻勢は北ベトナムにとってほとんど失敗に終わった。しかし、長期的にみれば、それはアメリカに大きな政治的衝撃を与えたのである。
 テト攻勢とは何だったのか。それを知るために、ドン・オーバードーファーの『テト攻勢』を読んでみることにした。
 著者のオーバードーファー(1931-2015)は、主に外交問題ジャーナリストとして活躍し、ベトナム戦争の取材をつづけるうちに1969年から「ワシントン・ポスト」に勤めはじめた。1972年から3年間、ワシントン・ポストの特派員として東京にも駐在している。
 ぼくとも縁が深いのは、その後、ぼくがかれの代表作『二つのコリア』や『マイク・マンスフィールド』の日本語版の編集を担当することになるからである。そして、本書『テト攻勢』の訳者、鈴木主税氏(1934-2009)にも、さまざまな本の翻訳で晩年までお世話になった。
 本の内容とは別に、著者や訳者にまつわるエピソードを際限もなく、次から次に思いだしそうになるのは、年寄りの悪い癖である。思い出の数々が広がっていくのを抑えて、いまは先に進むことにしよう。
 テト攻勢の話である。
 1968年1月30日、テト(旧正月)を迎えたサイゴンでは、あちこちで騒がしい爆竹の音が鳴り響いていた。
 だが、そのとき、アメリカ大使館から500メートルほど離れた自動車修理工場に、20人足らずのベトコン兵士が身をひそめていたのだ。
 かれらが狙っていたのはサイゴンのアメリカ大使館だけではない。実に6万7000人からなる解放軍の兵士が、サイゴンをはじめ、南ベトナムの100カ所あまりの都市や町で、一斉蜂起しようとしていたのである。
 アメリカ大使館の襲撃は、戦闘上、さほど意味をもつわけではなかった。しかし、ベトナムで唯一星条旗が掲げられている場所を占拠することが、アメリカ人に大きな衝撃を与えることを、解放軍側はじゅうぶんに計算していた。
 31日、午前3時前、解放軍の兵士20人は小型トラックとタクシーに分乗して、大使館に向かった。最初に通用門の外に立っていた二人のMPに小銃が発射された。そのあと車を降りると、かれらはロケット砲で高さ2メートルほどの大使館の外壁をぶちぬき、敷地内に侵入した。そこに駆けつけた別の二人のMPも射殺された。
 大使館を守るはずの南ベトナムの警察は、ほとんどなすすべもなく事態の推移を見守るばかりだった。
 大使館の敷地内を守っていたのは、アメリカ海兵隊の保安部隊である。この日は二人の海兵隊員が、6階建て事務棟内のロビーで夜間警戒にあたっていた。屋上にも一人の兵士が配備されていた。
 封鎖されたこの事務棟に解放軍側は何発もロケット弾を打ちこんだ。建物内に侵入するのも時間の問題だった。
 大使館から500メートルほど離れたところに、海兵保安部隊の宿舎があった。襲撃を知ると、宿舎に残っていた者は反撃チームを編成して大使館に駆けつけた。
 いっぽう大使館から数百メートル離れた公邸にいたバンカー大使は、警備員に起こされ、あらかじめ定められていた秘密の隠れ場所に避難した。
 この夜、米ベトナム派遣軍の司令官、ウェストモーランド将軍は、南ベトナム全土で解放軍側が攻勢をかけていることを知った。かれはまず市内のアメリカ軍戦闘部隊に、大使館構内の共産軍を排除するよう緊急命令を発した。
 しかし、解放軍側も混乱におちいっていた。二人のリーダーが早い段階でMPによって射殺されていたためである。そのため、かれらは大使館の建物には突入せず、次第に激しさを増す銃火に対応するため、大きな鉢の背後に陣を敷いていた。
 解放軍側が制圧され、大使館での戦闘が終結したのは、午前9時過ぎのことである。
 すでに午前7時すぎ(アメリカ時間前日午後6時すぎ)AP通信のピーター・アーネットは、サイゴン発の特報として、ベトコンがサイゴンを攻撃し、アメリカ大使館の一部を占拠したと打電していた。それを受けて、NBCテレビは6時半のニュースで、そのことを伝えた。アメリカ人にはショッキングなできごととなった。
 1967年7月にテト攻勢の命令を下したのは、北ベトナム政府だった、と著者は明言する。にもかかわらず、テト攻勢から1年たっても、北ベトナムの国防相ボー・グエン・ザップは西側のジャーナリストに、あれは南の解放戦線の作戦だとしらをきったという。
 ベトナムの共産主義運動では、勝利をかちとるには総反攻と一斉蜂起意外にないという考え方が根強かった。
 北ベトナム側はそのチャンスをねらっていた。
 1967年7月末、カンボジアとの国境地帯に置かれた秘密本部に、南ベトナム全土から解放戦線の指導者が集められ、Nデイに向けての綿密な計画が練られた。全土にわたり大がかりな戦闘が発生すれば、都市の人民も蜂起するはずだと信じられていた。
 サイゴン攻撃計画は10月にほぼまとまっていた。大量の新しい兵器が、自転車や牛車、サンパンなどでサイゴン市内と周辺地域に運ばれ、解放軍の兵士たちに配られた。
 北のハノイでは、クリスマス直前に開かれた抗仏戦争開始23周年の祝賀会に、77歳のホー・チ・ミンが久しぶりに姿をあらわし、演説した。その演説で、かれは、南北あわせて3100万のベトナム人が、レジスタンスの戦士になって、勝利に向かって邁進しなければならない、と呼びかけていた。
 1963年以来、ベトナムではクリスマスと新年、テト(旧正月)は休戦となるのが恒例となっていた。しかし、解放軍はその隙をねらって、慎重に作戦を練っていたのだ。
「攻撃の前夜、テトの爆竹が市街で炸裂している頃、解放軍の兵士たちは、都市の外れの森の静けさの中に集結していた」と、著者は記している。
 こうしてテト攻勢がはじまる。そして、1月末から3月末にかけての戦闘で、アメリカ軍3895人、韓国などの派遣軍214人、南ベトナム軍4954人、解放軍(北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線軍)5万8373人の兵士が戦死し、1万4300人の民間人が死亡することになるのだ。

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