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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(3) [われらの時代]

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 1976年4月10日にアメリカ政府から東京地検が入手したロッキード資料のなかには、ロッキード社長コーチャンがえがいた人物相関図が含まれており、そこにロッキード→丸紅→田中のカネの流れが示されていた。
 だが、それだけでは田中逮捕に踏み切る証拠にとぼしかった。その時点から東京地検の苦闘がはじまる。
 資料には、そのほかコーチャンが東京に滞在したときに、トライスター売り込み工作にあたったときの日記があった。
 それによると、この事件に日本側で登場するのは、政治家では田中角栄、中曽根康弘(当時通産相)、二階堂進(官房長官)、田中秘書の榎本敏夫、丸紅では檜山広(社長)、大久保利春(専務)、伊藤宏(専務)、全日空では若狭得治(社長)、渡辺尚次(副社長)、それにロッキード社の長年のアドバイザーである児玉誉士夫、さらには小佐野賢治などであることがわかった。
 さらに別のメモでは、橋本登美三郞(元運輸相)、二階堂進、佐々木秀世(運輸相)、福永一臣(議員)、佐藤孝行(元運輸政務次官)、加藤六月(元運輸政務次官)にもカネが支払われていることがわかった。のちに橋本と佐藤は逮捕され、受託収賄罪で有罪判決を受ける。ほかの4人は「灰色高官」と呼ばれたものの、時効のため起訴されなかった。意外なことに、全日空社長の若狭にも多額の謝礼金が支払われていた。
 相関図は複雑にからみあっていた。その焦点にはどうみても田中角栄がいた。だが、田中逮捕を可能にする決定的な証拠は見つからなかった。
 ここで著者は、いわゆるロッキード資料のなかに、日本側に提供されなかったものがあったことを指摘する。それは軍用機の対日輸出関係にかかわる資料だった。
 もしそれが明らかになり、児玉誉士夫を通じて多くの政治家にカネが渡っていることがわかれば、日米安保体制があやうくなる、と国務省が判断したとしてもおかしくない。これがロッキード事件の裏のインテリジェンスにかかわる秘密だった。
 こうして、事件の主役と見られていた児玉誉士夫は脇役とみるほかなくなったのである。
 東京地検特捜部は田中角栄逮捕に向けて全力を集中した。その息詰まる捜査過程については本書をお読みいただくほかない。丸紅幹部の逮捕と自供、コーチャンへの嘱託尋問、全日空社長、若狭得治の逮捕をへて、田中角栄と秘書の榎本敏夫が逮捕されるのは1976年7月27日のことである。
 捜査を通じて、金銭のやりとりに関して次のような経緯がわかってきた。
 1972年8月23日、丸紅の檜山と大久保は目白台の田中角栄私邸を訪問し、総理が運輸大臣を指揮して、全日空がロッキード社の飛行機を導入するよう働きかけてもらいたいと依頼した。そのとき、田中は即座に「よっしゃ、よっしゃ」(実際には「よしゃ、よしゃ」だったらしい)と答え、5億円の献金(賄賂)を受け取ることを了承した。
 8月28日にも、財界人の集まりで、檜山は田中と話し、トライスターの導入を勧めている。
 さらに10月14日、檜山は田中邸を訪れ、田中からロッキードの件はうまくいっているから心配ないという話を聞いている。田中は全日空の若狭社長に電話するとともに、全日空の大株主で盟友でもある小佐野賢治にもトライスターを採用するよう働きかけていた。
 こうして、10月30日に全日空による最初のトライスター6機の正式発注が決まるのである。
 ところが、ロッキード社はすぐ田中に5億円を支払ったわけではない。翌1973年6月ごろ、田中の秘書、榎本敏夫から丸紅専務の伊藤宏に支払いを催促する電話がかかってきた。
 伊藤はさっそくコーチャンに連絡したが、コーチャンはもう予算は使ってしまったと答えた。連絡がないので、たぶん、田中との約束はなくなったのだろうと思っていたというのだ。
丸紅側は激怒し、それならもうロッキード社の製品は日本では売れないようにすると答える。これにはロッキード社のほうが慌て、さっそくカネを用意することにした。
 ロッキード社は4回に分けて、カネを支払うことにした。カネが用意できるとロッキード社日本支社長のクラッターが丸紅の専務、大久保に連絡し、伊藤がそれを受け取るという段取りになった。
カネを受け取ると伊藤は1回目はピーナツ領収書を、2回目からはピーシズ領収書をクラッターに渡した。そのカネはすぐに田中の秘書、榎本か、榎本の運転手に渡された。
 渡された時間と場所は1回目が1973年8月10日で英国大使館裏(1億円)、2回目が10月12日で伊藤の自宅近くの電話ボックス前(1億5000万円)、3回目が1974年1月21日でホテルオークラ駐車場(1億2500万円)、4回目が3月1日で伊藤の自宅玄関(1億2500万円)だった。
カネは段ボールにはいっていた。
 ロッキード裁判は長期化し、昭和と平成をまたぐ18年間の長期裁判となった。1983年10月12日、田中角栄に懲役4年の判決が言い渡される。田中は上告し、最高裁判決が出る前の1993年12月16日に死去した。これによって田中の受託収賄罪が確定した。

 しかし、ロッキード事件には隠された別の面がある、と著者はいう。
 それがキッシンジャーの関与である。かれが田中角栄を排除しようとしたのは、田中外交に嫌悪をいだいたためだ。
 著者はその証拠となる文書をいくつも発見している。
 1972年7月6日に日本の首相に就任した田中角栄は、日中国交正常化に意気込んでいた。田中は9月下旬に中国を訪問、早々と日中国交正常化を実現する。そんな田中の動きに、アメリカのニクソンとキッシンジャーは強い不満と警戒感をつのらせたというのだ。
 田中は訪中を控えた8月31日から2日間、ハワイでニクソンと日米首脳会談をおこなっている。ニクソンはすでに2月下旬に中国を訪問、毛沢東や周恩来とも会見して、「上海コミュニケ」を発表し、米中関係改善の扉を開いた。
 だが、このときアメリカは中国と国交を正常化したわけではなかったし、正常化するつもりもなかった。台湾問題で合意をみられそうもなかったからである。そのため、アメリカが中国との関係を正常化するのは、日本よりもはるかに遅く、1979年1月となる。
 上海コミュニケでは、台湾からの米軍の撤退がうたわれていたが、その時期は明記されていなかった。「一つの中国」についても、アメリカは中国の考えを理解すると表明しただけである。国交正常化までにはまだ時間を要すると考えていた。
 日米の外交当局どうしの打ち合わせのなかで、アメリカは日本が中国に接近するのはかまわないが、そのさいには日米間の事前調整が必要だと主張していた。ところが、田中角栄は日中国交正常化に向けて突っ走るのである。
 9月29日に北京で合意された「日中共同声明」には、日本が中華人民強国政府を中国の唯一の合法政府であることを承認すると記されていた。これにより、台湾は即日、日本と断交した。田中は早くから台湾との断交を覚悟していたといわれる。
 この年5月15日には沖縄が日本に返還されていた。これによりアメリカは日米関係がより強固なものになると考えた。沖縄返還を花道に佐藤栄作は6月17日に退陣、そのあと自民党総裁選で総裁に選ばれたのは、佐藤の後継者と目されていた福田赳夫ではなく、コンピューター付きブルドーザーといわれた田中角栄だった。
 田中は日米間の懸案としてくすぶっていた繊維問題を通産相時代に強引な手法で、あっというまにケリをつけた。そのことを当初、アメリカは高く評価していた。
 キッシンジャーは田中と頻繁に会っている。田中はキッシンジャーとのあいだで、佐藤時代のような「密使」を使わなかった。そのため、両者の関係は当初フランクに進むかに思われた。ところが、である。田中は日中国交正常化に向けて突っ走る。
 その動きにアメリカ政府は懸念を示していた。とはいえ、それはストレートに伝わらない。表向き、アメリカは日中国交正常化を妨害しないという立場をとらざるをえなかったからである。
 田中が首相に就任すると、中国はこれまでの頑なな原則論を捨てて、日中国交正常化を積極的に求めるようになった。それにたいし、田中政権も前のめりになり、国交正常化に向けて、大胆に舵を切っていく。
 8月31日から2日間にわたって、ハワイで開かれた日米首脳会談でも、アメリカ側はホンネを隠し、日本側と日中問題について議論した。その議論は堂々巡りに終わり、アメリカは田中による日中国交正常化の動きを阻止できなかった。
 しかし、アメリカのホンネは、日本が中国との関係において、米中の「上海コミュニケ」を超えたところまで踏みこんでもらいたくなかったのである。とはいえ、アメリカが日中国交正常化に反対したととらえられる愚は避けたかった。ベトナム戦争がつづくなか、アメリカも米中関係の改善を望んでいたからである。
 こうして、アメリカ側、とりわけ外交の責任者であったキッシンジャーは、アメリカの苦労を無視して、さっさと先に進んでいった田中外交にたいする怒りをふつふつと煮えたぎらせることになる。田中外交への不信、 それが、ロッキード事件でふきだすことになるのである。
 ロッキード疑獄は単なる贈収賄事件ではない。アメリカに逆らうと、どんな痛い目にあうかを、日本の政治家の頭にすり込んだできごとだったともいえる。

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