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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(4) [われらの時代]

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 日中国交正常化はアメリカ側にしこりを残し、ニクソン政権が対日政策を見直すきっかけになった。
 1973年7月31日から8月1日にかけ、ワシントンで田中・ニクソンによる2回目の日米首脳会談が開かれた。
 田中は日本がアメリカからの輸入を大幅に増やし、それによって日本の対米貿易黒字額が12億ドルに減ったことを強調した。これにたいし、ニクソンはさほど喜ぶわけではなく、むしろ日米間の経済競争が激しい政治的対決にいたらぬよう警告した。
 そのあとニクソンは田中にたいし、侮辱的なことばを次々と発した。ウォーターゲート事件で追及され、あきらかにイライラしていた。通訳官はニクソンの悪態ぶりをごまかすのがたいへんだったようである。
 田中は北方領土問題の解決にも意欲を燃やしていた。
 1973年9月26日から10月10日にかけ、田中は西欧3カ国とソ連を訪問、ソ連ではブレジネフ書記長と会見した。
 当時、ソ連は日本との領土問題は解決済みとの態度をとっていた。二島返還を明記した1956年の日ソ共同宣言は反故にされていた。しかし、ブレジネフとの会談で、田中は巻き返す。日ソ間で北方四島が戦後なお未解決の問題であることを確認させたのだ。これは田中外交の成果として、現在も評価されている。
 ところが、著者は、日ソ首脳会談に先立ってキッシンジャーが陰険な秘密工作をしていたことを暴いている。
 1973年8月16日、キッシンジャーはホワイトハウスで駐米ソ連大使のドブルイニンと会い、ソ連が北方領土問題で日本に譲歩しないよう求めていたのだ。そうした背景もあって、ブレジネフは田中との会談で、北方領土が未解決の問題であることを認めたものの、それ以上、踏みこむ気配はまるで見せなかった。
 じつは、田中と会談したブレジネフは、よそよそしく、心ここにあらずという感じだったという。田中訪ソ直前に発生した第4次中東戦争にむしろ気をとられていたのではないか、と同行団の一人が語っている。
 第4次中東戦争が発生したのは10月6日のことで、その後の石油輸出機構(OPEC)による石油価格引き上げによって世界経済は大混乱におちいる。
 資源の乏しい日本は、このとき中東外交をアラブ寄りに転換しようとした。これにたいし、キッシンジャーは日本がアラブの要求に応じないよう警告する。だが、田中は石油の問題がある以上、何もしないと自分の首を絞めることになる、とキッシンジャーの警告を無視し、11月22日に親アラブの外交政策を発表する。この新政策にキッシンジャーは激怒した。
 アラブ寄りの姿勢を示すことで、日本は石油供給を確保した。しかし、石油ショック後、国内の物価は急上昇し、国民の不満は高まっていた。
 1974年7月の参院選で自民党は大幅に議席を減らした。副総理の三木武夫は田中の金権選挙を批判して辞任、蔵相の福田赳夫も内閣を去った。
 そして、金脈問題が浮上するなか、田中は11月に首相を辞任し、いわゆる椎名裁定によって、三木武夫が首相に就任することになる。
 この年の8月にはニクソンも辞任し、9月にフォード政権が成立していた。キッシンジャーは大統領補佐官のまま国務長官に就任した。
 そのキッシンジャーは田中のカムバックを恐れていた。

 1976年4月にアメリカ政府が日本の検察庁にロッキード文書を渡すとき、国務省がその文書を点検したことは前にも述べた。そのさい、国務省は安全保障にかかわる部分は留保し、田中にかかわる部分はそのまま渡した。
 アメリカはなぜ田中にかかわる部分を留保せず、日本側に渡したのだろうか。
 そこにキッシンジャーと三木とのスクラムがあった、と著者はみる。
 三木は官僚を信用せず、1976年3月5日、NHK解説委員で外交評論家の平沢和重をキッシンジャーのもとに送り、ロッキード事件にかかわった政府高官名を早めに知らせてほしいと申し入れていた。
 だが、キッシンジャーの態度は硬かった。平沢は4月5日にもキッシンジャーと会い、三木が高官名を事前に知りたがっていると伝えた。だが、キッシンジャーの返事は同じくノーだった。
 アメリカは、ロッキード事件が自民党政権と日米安保体制に打撃を与えないかと心配していたのだ。
 5月7日、三木は首相官邸でホジソン駐日大使と会い、ロッキード事件は田中金脈問題であり、CIAとの関係は不問にするとの考えを伝えた。三木はロッキード文書のなかに田中の名前があることをすでに知っていた。
 そのころ三木おろしの動きが強くなっていた。だが、三木はそれに耐え、7月27日の田中逮捕を実現し、年内いっぱい政権を維持することに成功する。アメリカの期待どおり、後継首相には福田赳夫が就任した。
 キッシンジャーが田中の告発に直接関与したという証拠はない。そこは慎重で秘密主義を重んじるインテリジェンスの専門家である。だが、フォード大統領との会話では、自分たちがロッキード事件を演出したことをにおわせる部分もある。田中自身も晩年「キッシンジャーにやられた」と話していたという。
 ロッキード事件では、ついに「巨悪」の正体が暴かれることはなかった。著者はこう書いている。

〈ロッキード事件はまさに、残された課題の方が大きかった。児玉誉士夫から先に広がる闇を暴くことができなかったからだ。その闇に棲む「本当の巨悪」[において]は、ロッキード社、丸紅から田中角栄や全日空とつながったルートとは比較にならないほど巨額の金が動いた。〉

 丸紅ルートは5億円、それにたいし児玉ルートは21億円。その21億円のルートはついに解明されることなく、ロッキード事件は幕を閉じた。
 児玉は長年、ロッキード社の秘密コンサルタントをつづけてきた。そのため、実際には児玉への支払いはもっと多額にのぼる。
 児玉が扱っていたのはロッキード社の軍用機だった。その金額は政府予算から支出されるから税金である。軍用機の売り込みに児玉がかかわり、その成功報酬としてロッキード社から多額の現金が支払われていたという事実が判明すれば、日米安保体制が大きく揺らぐ。
 ロッキード社は、CIAの協力者でもある児玉を秘密コンサルタントにすることによって、自衛隊に次期戦闘機F104や次期対潜哨戒機PXLを売り込んできた。
 さらに児玉は全日空へのトライスター売り込みでも暗躍した。マクダネル・ダグラス社のDC10導入を決めていた全日空の大庭哲夫を失脚させたのも、児玉の工作による。
 1972年10月、ダグラス社の巻き返しによって、ロッキード社の工作があやうく水の泡になろうとしたときも、それを救ったのは児玉だった。児玉はコーチャンの訴えを聞くと、その場ですぐ中曽根康弘に電話をかけ、田中角栄を通じて話をひっくり返したのだという。
 ロッキード工作で児玉のはたした役割は大きかった。だが、児玉が成功報酬としてロッキード社から受け取ったとされる少なくとも16億円がどのように使われたかは、ついに解明できなかった。
 児玉誉士夫はロッキード社の次期戦闘機FXにつづき次期対潜哨戒機PXLの売り込みでも動いていた。
日本政府はPXLの国産化を断念し、1977年にロッキード社からP3Cを購入することを決定した。このとき田中はすでに失脚していたが、PXLの国産化方針が撤回されたのは田中政権時代の1972年10月のことである。この一件にも、児玉誉士夫と小佐野賢治が密接にかかわったことがあきらかになっている。そのときもおそらくカネが動いていた。
 いわゆるロッキード事件を暴いた1976年2月のチャーチ小委員会でも、日米間の軍事問題にかかわる秘密工作資金の流れについては、いっさい検証されることがなかった。
 児玉誉士夫がCIAと深くかかわる人物であったことが、児玉ルートの解明を阻む要因になっていた。
 日本の政界で児玉誉士夫ともっとも関係が深かったのが中曽根康弘である。
 1976年2月下旬、中曽根(当時自民党幹事長)はチャーチ小委員会が開かれたあと、ロッキード事件をもみけすようアメリカ側にはたらきかけていたことがわかっている。これにたいし、アメリカ政府も、自民党政権を維持するため、これ以上の情報開示はしないと判断したと思われる。
 こうして中曽根は巧みに逃げ切ることに成功した。そして、1982年11月から87年11月まで日本の首相を務め、日米同盟の強化を推進することになる。
 1979年1月、こんどはアメリカの証券取引委員会(SEC)で、ダグラス・グラマン事件が表面化する。早期警戒機E2Cホークアイを売り込むため、グラマン社が日商岩井を通して、日本の政府高官(岸信介、福田赳夫、松野頼三、中曽根康弘)に不正資金を渡していた容疑がでてきた。
 だが、この事件では、実際のカネの流れについては、ほとんど証拠が明らかにされなかった。
元防衛庁長官の松野頼三に日商岩井から5億円の政治献金が支払われたことがわかったものの、それはすでに時効を迎えていた。
 E2C導入をめぐる疑惑は事実上シロということになる。野党が要求したにもかかわらず、岸信介の国会証人喚問もかなわなかった。
 岸は「政治は力であり、カネだ」と考えていた。「カネは濾過してから使え」が口癖だったという。
 田中以外にも「巨悪」は存在した。
 著者はいう。
「彼らは日米安保関係強化を旗印にした、巨額の米国製軍用機輸入の利権に群がっていたのだ」
 ロッキード事件は、日米安保体制の裏にひそむ利権構造の氷山の一角にすぎなかったことがわかる。

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