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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(4) [われらの時代]

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 日中国交正常化はアメリカ側にしこりを残し、ニクソン政権が対日政策を見直すきっかけになった。
 1973年7月31日から8月1日にかけ、ワシントンで田中・ニクソンによる2回目の日米首脳会談が開かれた。
 田中は日本がアメリカからの輸入を大幅に増やし、それによって日本の対米貿易黒字額が12億ドルに減ったことを強調した。これにたいし、ニクソンはさほど喜ぶわけではなく、むしろ日米間の経済競争が激しい政治的対決にいたらぬよう警告した。
 そのあとニクソンは田中にたいし、侮辱的なことばを次々と発した。ウォーターゲート事件で追及され、あきらかにイライラしていた。通訳官はニクソンの悪態ぶりをごまかすのがたいへんだったようである。
 田中は北方領土問題の解決にも意欲を燃やしていた。
 1973年9月26日から10月10日にかけ、田中は西欧3カ国とソ連を訪問、ソ連ではブレジネフ書記長と会見した。
 当時、ソ連は日本との領土問題は解決済みとの態度をとっていた。二島返還を明記した1956年の日ソ共同宣言は反故にされていた。しかし、ブレジネフとの会談で、田中は巻き返す。日ソ間で北方四島が戦後なお未解決の問題であることを確認させたのだ。これは田中外交の成果として、現在も評価されている。
 ところが、著者は、日ソ首脳会談に先立ってキッシンジャーが陰険な秘密工作をしていたことを暴いている。
 1973年8月16日、キッシンジャーはホワイトハウスで駐米ソ連大使のドブルイニンと会い、ソ連が北方領土問題で日本に譲歩しないよう求めていたのだ。そうした背景もあって、ブレジネフは田中との会談で、北方領土が未解決の問題であることを認めたものの、それ以上、踏みこむ気配はまるで見せなかった。
 じつは、田中と会談したブレジネフは、よそよそしく、心ここにあらずという感じだったという。田中訪ソ直前に発生した第4次中東戦争にむしろ気をとられていたのではないか、と同行団の一人が語っている。
 第4次中東戦争が発生したのは10月6日のことで、その後の石油輸出機構(OPEC)による石油価格引き上げによって世界経済は大混乱におちいる。
 資源の乏しい日本は、このとき中東外交をアラブ寄りに転換しようとした。これにたいし、キッシンジャーは日本がアラブの要求に応じないよう警告する。だが、田中は石油の問題がある以上、何もしないと自分の首を絞めることになる、とキッシンジャーの警告を無視し、11月22日に親アラブの外交政策を発表する。この新政策にキッシンジャーは激怒した。
 アラブ寄りの姿勢を示すことで、日本は石油供給を確保した。しかし、石油ショック後、国内の物価は急上昇し、国民の不満は高まっていた。
 1974年7月の参院選で自民党は大幅に議席を減らした。副総理の三木武夫は田中の金権選挙を批判して辞任、蔵相の福田赳夫も内閣を去った。
 そして、金脈問題が浮上するなか、田中は11月に首相を辞任し、いわゆる椎名裁定によって、三木武夫が首相に就任することになる。
 この年の8月にはニクソンも辞任し、9月にフォード政権が成立していた。キッシンジャーは大統領補佐官のまま国務長官に就任した。
 そのキッシンジャーは田中のカムバックを恐れていた。

 1976年4月にアメリカ政府が日本の検察庁にロッキード文書を渡すとき、国務省がその文書を点検したことは前にも述べた。そのさい、国務省は安全保障にかかわる部分は留保し、田中にかかわる部分はそのまま渡した。
 アメリカはなぜ田中にかかわる部分を留保せず、日本側に渡したのだろうか。
 そこにキッシンジャーと三木とのスクラムがあった、と著者はみる。
 三木は官僚を信用せず、1976年3月5日、NHK解説委員で外交評論家の平沢和重をキッシンジャーのもとに送り、ロッキード事件にかかわった政府高官名を早めに知らせてほしいと申し入れていた。
 だが、キッシンジャーの態度は硬かった。平沢は4月5日にもキッシンジャーと会い、三木が高官名を事前に知りたがっていると伝えた。だが、キッシンジャーの返事は同じくノーだった。
 アメリカは、ロッキード事件が自民党政権と日米安保体制に打撃を与えないかと心配していたのだ。
 5月7日、三木は首相官邸でホジソン駐日大使と会い、ロッキード事件は田中金脈問題であり、CIAとの関係は不問にするとの考えを伝えた。三木はロッキード文書のなかに田中の名前があることをすでに知っていた。
 そのころ三木おろしの動きが強くなっていた。だが、三木はそれに耐え、7月27日の田中逮捕を実現し、年内いっぱい政権を維持することに成功する。アメリカの期待どおり、後継首相には福田赳夫が就任した。
 キッシンジャーが田中の告発に直接関与したという証拠はない。そこは慎重で秘密主義を重んじるインテリジェンスの専門家である。だが、フォード大統領との会話では、自分たちがロッキード事件を演出したことをにおわせる部分もある。田中自身も晩年「キッシンジャーにやられた」と話していたという。
 ロッキード事件では、ついに「巨悪」の正体が暴かれることはなかった。著者はこう書いている。

〈ロッキード事件はまさに、残された課題の方が大きかった。児玉誉士夫から先に広がる闇を暴くことができなかったからだ。その闇に棲む「本当の巨悪」[において]は、ロッキード社、丸紅から田中角栄や全日空とつながったルートとは比較にならないほど巨額の金が動いた。〉

 丸紅ルートは5億円、それにたいし児玉ルートは21億円。その21億円のルートはついに解明されることなく、ロッキード事件は幕を閉じた。
 児玉は長年、ロッキード社の秘密コンサルタントをつづけてきた。そのため、実際には児玉への支払いはもっと多額にのぼる。
 児玉が扱っていたのはロッキード社の軍用機だった。その金額は政府予算から支出されるから税金である。軍用機の売り込みに児玉がかかわり、その成功報酬としてロッキード社から多額の現金が支払われていたという事実が判明すれば、日米安保体制が大きく揺らぐ。
 ロッキード社は、CIAの協力者でもある児玉を秘密コンサルタントにすることによって、自衛隊に次期戦闘機F104や次期対潜哨戒機PXLを売り込んできた。
 さらに児玉は全日空へのトライスター売り込みでも暗躍した。マクダネル・ダグラス社のDC10導入を決めていた全日空の大庭哲夫を失脚させたのも、児玉の工作による。
 1972年10月、ダグラス社の巻き返しによって、ロッキード社の工作があやうく水の泡になろうとしたときも、それを救ったのは児玉だった。児玉はコーチャンの訴えを聞くと、その場ですぐ中曽根康弘に電話をかけ、田中角栄を通じて話をひっくり返したのだという。
 ロッキード工作で児玉のはたした役割は大きかった。だが、児玉が成功報酬としてロッキード社から受け取ったとされる少なくとも16億円がどのように使われたかは、ついに解明できなかった。
 児玉誉士夫はロッキード社の次期戦闘機FXにつづき次期対潜哨戒機PXLの売り込みでも動いていた。
日本政府はPXLの国産化を断念し、1977年にロッキード社からP3Cを購入することを決定した。このとき田中はすでに失脚していたが、PXLの国産化方針が撤回されたのは田中政権時代の1972年10月のことである。この一件にも、児玉誉士夫と小佐野賢治が密接にかかわったことがあきらかになっている。そのときもおそらくカネが動いていた。
 いわゆるロッキード事件を暴いた1976年2月のチャーチ小委員会でも、日米間の軍事問題にかかわる秘密工作資金の流れについては、いっさい検証されることがなかった。
 児玉誉士夫がCIAと深くかかわる人物であったことが、児玉ルートの解明を阻む要因になっていた。
 日本の政界で児玉誉士夫ともっとも関係が深かったのが中曽根康弘である。
 1976年2月下旬、中曽根(当時自民党幹事長)はチャーチ小委員会が開かれたあと、ロッキード事件をもみけすようアメリカ側にはたらきかけていたことがわかっている。これにたいし、アメリカ政府も、自民党政権を維持するため、これ以上の情報開示はしないと判断したと思われる。
 こうして中曽根は巧みに逃げ切ることに成功した。そして、1982年11月から87年11月まで日本の首相を務め、日米同盟の強化を推進することになる。
 1979年1月、こんどはアメリカの証券取引委員会(SEC)で、ダグラス・グラマン事件が表面化する。早期警戒機E2Cホークアイを売り込むため、グラマン社が日商岩井を通して、日本の政府高官(岸信介、福田赳夫、松野頼三、中曽根康弘)に不正資金を渡していた容疑がでてきた。
 だが、この事件では、実際のカネの流れについては、ほとんど証拠が明らかにされなかった。
元防衛庁長官の松野頼三に日商岩井から5億円の政治献金が支払われたことがわかったものの、それはすでに時効を迎えていた。
 E2C導入をめぐる疑惑は事実上シロということになる。野党が要求したにもかかわらず、岸信介の国会証人喚問もかなわなかった。
 岸は「政治は力であり、カネだ」と考えていた。「カネは濾過してから使え」が口癖だったという。
 田中以外にも「巨悪」は存在した。
 著者はいう。
「彼らは日米安保関係強化を旗印にした、巨額の米国製軍用機輸入の利権に群がっていたのだ」
 ロッキード事件は、日米安保体制の裏にひそむ利権構造の氷山の一角にすぎなかったことがわかる。

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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(3) [われらの時代]

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 1976年4月10日にアメリカ政府から東京地検が入手したロッキード資料のなかには、ロッキード社長コーチャンがえがいた人物相関図が含まれており、そこにロッキード→丸紅→田中のカネの流れが示されていた。
 だが、それだけでは田中逮捕に踏み切る証拠にとぼしかった。その時点から東京地検の苦闘がはじまる。
 資料には、そのほかコーチャンが東京に滞在したときに、トライスター売り込み工作にあたったときの日記があった。
 それによると、この事件に日本側で登場するのは、政治家では田中角栄、中曽根康弘(当時通産相)、二階堂進(官房長官)、田中秘書の榎本敏夫、丸紅では檜山広(社長)、大久保利春(専務)、伊藤宏(専務)、全日空では若狭得治(社長)、渡辺尚次(副社長)、それにロッキード社の長年のアドバイザーである児玉誉士夫、さらには小佐野賢治などであることがわかった。
 さらに別のメモでは、橋本登美三郞(元運輸相)、二階堂進、佐々木秀世(運輸相)、福永一臣(議員)、佐藤孝行(元運輸政務次官)、加藤六月(元運輸政務次官)にもカネが支払われていることがわかった。のちに橋本と佐藤は逮捕され、受託収賄罪で有罪判決を受ける。ほかの4人は「灰色高官」と呼ばれたものの、時効のため起訴されなかった。意外なことに、全日空社長の若狭にも多額の謝礼金が支払われていた。
 相関図は複雑にからみあっていた。その焦点にはどうみても田中角栄がいた。だが、田中逮捕を可能にする決定的な証拠は見つからなかった。
 ここで著者は、いわゆるロッキード資料のなかに、日本側に提供されなかったものがあったことを指摘する。それは軍用機の対日輸出関係にかかわる資料だった。
 もしそれが明らかになり、児玉誉士夫を通じて多くの政治家にカネが渡っていることがわかれば、日米安保体制があやうくなる、と国務省が判断したとしてもおかしくない。これがロッキード事件の裏のインテリジェンスにかかわる秘密だった。
 こうして、事件の主役と見られていた児玉誉士夫は脇役とみるほかなくなったのである。
 東京地検特捜部は田中角栄逮捕に向けて全力を集中した。その息詰まる捜査過程については本書をお読みいただくほかない。丸紅幹部の逮捕と自供、コーチャンへの嘱託尋問、全日空社長、若狭得治の逮捕をへて、田中角栄と秘書の榎本敏夫が逮捕されるのは1976年7月27日のことである。
 捜査を通じて、金銭のやりとりに関して次のような経緯がわかってきた。
 1972年8月23日、丸紅の檜山と大久保は目白台の田中角栄私邸を訪問し、総理が運輸大臣を指揮して、全日空がロッキード社の飛行機を導入するよう働きかけてもらいたいと依頼した。そのとき、田中は即座に「よっしゃ、よっしゃ」(実際には「よしゃ、よしゃ」だったらしい)と答え、5億円の献金(賄賂)を受け取ることを了承した。
 8月28日にも、財界人の集まりで、檜山は田中と話し、トライスターの導入を勧めている。
 さらに10月14日、檜山は田中邸を訪れ、田中からロッキードの件はうまくいっているから心配ないという話を聞いている。田中は全日空の若狭社長に電話するとともに、全日空の大株主で盟友でもある小佐野賢治にもトライスターを採用するよう働きかけていた。
 こうして、10月30日に全日空による最初のトライスター6機の正式発注が決まるのである。
 ところが、ロッキード社はすぐ田中に5億円を支払ったわけではない。翌1973年6月ごろ、田中の秘書、榎本敏夫から丸紅専務の伊藤宏に支払いを催促する電話がかかってきた。
 伊藤はさっそくコーチャンに連絡したが、コーチャンはもう予算は使ってしまったと答えた。連絡がないので、たぶん、田中との約束はなくなったのだろうと思っていたというのだ。
丸紅側は激怒し、それならもうロッキード社の製品は日本では売れないようにすると答える。これにはロッキード社のほうが慌て、さっそくカネを用意することにした。
 ロッキード社は4回に分けて、カネを支払うことにした。カネが用意できるとロッキード社日本支社長のクラッターが丸紅の専務、大久保に連絡し、伊藤がそれを受け取るという段取りになった。
カネを受け取ると伊藤は1回目はピーナツ領収書を、2回目からはピーシズ領収書をクラッターに渡した。そのカネはすぐに田中の秘書、榎本か、榎本の運転手に渡された。
 渡された時間と場所は1回目が1973年8月10日で英国大使館裏(1億円)、2回目が10月12日で伊藤の自宅近くの電話ボックス前(1億5000万円)、3回目が1974年1月21日でホテルオークラ駐車場(1億2500万円)、4回目が3月1日で伊藤の自宅玄関(1億2500万円)だった。
カネは段ボールにはいっていた。
 ロッキード裁判は長期化し、昭和と平成をまたぐ18年間の長期裁判となった。1983年10月12日、田中角栄に懲役4年の判決が言い渡される。田中は上告し、最高裁判決が出る前の1993年12月16日に死去した。これによって田中の受託収賄罪が確定した。

 しかし、ロッキード事件には隠された別の面がある、と著者はいう。
 それがキッシンジャーの関与である。かれが田中角栄を排除しようとしたのは、田中外交に嫌悪をいだいたためだ。
 著者はその証拠となる文書をいくつも発見している。
 1972年7月6日に日本の首相に就任した田中角栄は、日中国交正常化に意気込んでいた。田中は9月下旬に中国を訪問、早々と日中国交正常化を実現する。そんな田中の動きに、アメリカのニクソンとキッシンジャーは強い不満と警戒感をつのらせたというのだ。
 田中は訪中を控えた8月31日から2日間、ハワイでニクソンと日米首脳会談をおこなっている。ニクソンはすでに2月下旬に中国を訪問、毛沢東や周恩来とも会見して、「上海コミュニケ」を発表し、米中関係改善の扉を開いた。
 だが、このときアメリカは中国と国交を正常化したわけではなかったし、正常化するつもりもなかった。台湾問題で合意をみられそうもなかったからである。そのため、アメリカが中国との関係を正常化するのは、日本よりもはるかに遅く、1979年1月となる。
 上海コミュニケでは、台湾からの米軍の撤退がうたわれていたが、その時期は明記されていなかった。「一つの中国」についても、アメリカは中国の考えを理解すると表明しただけである。国交正常化までにはまだ時間を要すると考えていた。
 日米の外交当局どうしの打ち合わせのなかで、アメリカは日本が中国に接近するのはかまわないが、そのさいには日米間の事前調整が必要だと主張していた。ところが、田中角栄は日中国交正常化に向けて突っ走るのである。
 9月29日に北京で合意された「日中共同声明」には、日本が中華人民強国政府を中国の唯一の合法政府であることを承認すると記されていた。これにより、台湾は即日、日本と断交した。田中は早くから台湾との断交を覚悟していたといわれる。
 この年5月15日には沖縄が日本に返還されていた。これによりアメリカは日米関係がより強固なものになると考えた。沖縄返還を花道に佐藤栄作は6月17日に退陣、そのあと自民党総裁選で総裁に選ばれたのは、佐藤の後継者と目されていた福田赳夫ではなく、コンピューター付きブルドーザーといわれた田中角栄だった。
 田中は日米間の懸案としてくすぶっていた繊維問題を通産相時代に強引な手法で、あっというまにケリをつけた。そのことを当初、アメリカは高く評価していた。
 キッシンジャーは田中と頻繁に会っている。田中はキッシンジャーとのあいだで、佐藤時代のような「密使」を使わなかった。そのため、両者の関係は当初フランクに進むかに思われた。ところが、である。田中は日中国交正常化に向けて突っ走る。
 その動きにアメリカ政府は懸念を示していた。とはいえ、それはストレートに伝わらない。表向き、アメリカは日中国交正常化を妨害しないという立場をとらざるをえなかったからである。
 田中が首相に就任すると、中国はこれまでの頑なな原則論を捨てて、日中国交正常化を積極的に求めるようになった。それにたいし、田中政権も前のめりになり、国交正常化に向けて、大胆に舵を切っていく。
 8月31日から2日間にわたって、ハワイで開かれた日米首脳会談でも、アメリカ側はホンネを隠し、日本側と日中問題について議論した。その議論は堂々巡りに終わり、アメリカは田中による日中国交正常化の動きを阻止できなかった。
 しかし、アメリカのホンネは、日本が中国との関係において、米中の「上海コミュニケ」を超えたところまで踏みこんでもらいたくなかったのである。とはいえ、アメリカが日中国交正常化に反対したととらえられる愚は避けたかった。ベトナム戦争がつづくなか、アメリカも米中関係の改善を望んでいたからである。
 こうして、アメリカ側、とりわけ外交の責任者であったキッシンジャーは、アメリカの苦労を無視して、さっさと先に進んでいった田中外交にたいする怒りをふつふつと煮えたぎらせることになる。田中外交への不信、 それが、ロッキード事件でふきだすことになるのである。
 ロッキード疑獄は単なる贈収賄事件ではない。アメリカに逆らうと、どんな痛い目にあうかを、日本の政治家の頭にすり込んだできごとだったともいえる。

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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(2) [われらの時代]

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アメリカの航空機会社ロッキード社による日本へのエアバス売り込み工作が最終局面を迎えたのは1972年のことである。
 その背景にはどのような状況があったのだろう。
 著者による説明を聞いてみよう。
 ベトナム戦争末期、軍需が減るなか、アメリカの巨大航空会社各社は経営困難におちいり、旅客機開発に社運をかけていた。
 そのころ、日本では田中角栄が首相となり、アメリカではニクソンが大統領に再選されていた。
 ニクソンは地元カリフォルニアのロッキード社に肩入れしていた。そのロッキード社が再建の柱としたのが、民間旅客機のL1011トライスターであり、その最大の売り込み先が日本だったのだ。
 ロッキード社の最大のライバルはマクダネル・ダグラス社だった。両者はともにエアバス(広胴型)のトライスター機とDC10の売り込みをめぐって、激しく争っていた。
 1970年代はじめ、日本では日本航空がエアバスの導入を断念したため、売り込み先は全日空にしぼられていた。その全日空にたいしても、ロッキード社はマクダネル・ダグラス社に遅れをとっていた。
 そこで、ロッキード社は、これまで日本に軍用機を売り込むさいに世話になっていた児玉誉士夫にあらためて工作を依頼する。調べてみると、すでに全日空は三井物産を通じて、DC10型機3機をオプション契約していた。
 1970年、児玉は汚い手を使って、全日空社長の大庭哲夫を辞任に追いこむ。こうしてDC10の発注が白紙に戻ったあと、ロッキード社の社長コーチャンが1972年8月から70日間、東京に乗り込んで、陣頭指揮をとり、全日空からの受注を勝ちとるのである。
ニクソンもロッキード社を支援した。
 1972年8月31日から2日間、ハワイでは田中・ニクソンの日米首脳会談が開かれていた。記録には残っていないが、その懇親会で、田中がニクソンにロッキード社のトライスター購入を頼まれた形跡がある。
 だが、田中がニクソンからロッキード社製のトライスター購入を依頼される約1週間前に、田中はすでに丸紅社長の檜山広から5億円の秘密政治献金の話を持ちかけられていたのだ。

 ロッキード事件が浮上するのは4年後の1976年になってからだ。
 そのころ、ニクソンはウォーター事件で失脚(田中も金脈問題で失脚)、その後、アメリカではニクソンへの違法な政治献金疑惑が浮上していた。
 アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会のフランク・チャーチ委員長は、証券取引委員会(SEC)とともに、多国籍企業による多くの違法政治献金事件を調査していた。そのなかで、ロッキード事件が見つかることになる。
 1976年2月4日。この日、ワシントンの連邦議会議事堂では、上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会が開かれていた。フランク・チャーチ委員長の名前をとって、チャーチ小委員会と呼ばれる。
 このとき、ロッキード社が対日工作資金として、児玉誉士夫に約700万ドル(当時のレートで21億円)、丸紅に約320万ドル(同9億6000万円)を支払っていたがあきらかになった。
 丸紅専務の伊藤宏がピーナツ100個を受領したという領収書も公表された。ピーナツは金を意味する暗号で、1個100万円で計1億円となる。ほかにも伊藤が4億円を受け取ったことを示すピーシズの領収書も提出され、丸紅が合わせて5億円を受け取った事実が立証された。
 他方、児玉の領収書には宛先がなく、児玉の丸印だけが押されていた。その枚数は36通、金額は15億4334万円にのぼった。
 2月6日の公聴会ではロッキード社副会長になっていたコーチャンが証言した。そこでコーチャンは、児玉誉士夫が1960年代はじめからロッキード社と協力関係にあったこと、旅客機トライスターの売り込みにあたっては国際興業社主の小佐野賢治の協力を得たこと、さらに丸紅側の提案により複数の日本政府高官に賄賂を送ったことを認めた。
 あらかじめ、その後の日本側の捜査についてふれると、児玉ルートは解明されないまま1984年の児玉の死去により捜査は終了することになる。戦闘機の売り込み工作に用いられたとされる総額21億円の行方は、いまもわからずじまいである。
 捜査が執拗につづけられたのは丸紅ルートである。その結果、丸紅から5億円を受け取ったとして8月16日に田中角栄が逮捕された。田中は1審、2審で実刑判決を受けたあと、上告後の1993年に死亡し、その後、ロッキード事件は次第に忘れられていった。
 田中逮捕にいたる経緯については、あらためてふれることにしよう。

 著者はチャーチ小委員会の半年前の1975年夏に、上院の別の委員会(銀行委員会)で、すでにロッキード事件が暴かれていたことをあきらかにしている。ロッキード社のホートン会長が、日本を含む各国政府の高官にカネを支払ったことを事実上認める発言をしていたのだ。
 日本のメディアは、この事実をほとんど報道しなかったが、この情報をいちはやく活用した国会議員がいる。社会党の楢崎弥之助である。
 楢崎は1975年10月23日の衆議院予算委員会で、ロッキード社の次期対潜哨戒機(PXL)と旅客機L1011トライスターの対日売り込みにさいし、日本の政界に5000万円ないし3億円のコミッションが流れたのではないかという疑惑を追及した。
 楢崎が注目したのは1972年8月31日から9月1日にかけてハワイで開かれた田中・ニクソン会談だった。だが、証拠はまだ見当たらなかった。楢崎がさらに田中とロッキード社との関係に言及するのは、翌年チャーチ小委員会が開かれた直後の2月10日のことである。
 チャーチ小委員会で事件が明るみにでた以上、東京地検、警視庁、東京国税局は動かざるをえなかった。合同捜索がはじまる。丸紅による改ざん書類やいくつかの証拠が見つかった。
 国会では2月16日から衆議院予算委員会で証人喚問がはじまった。だが、国際興業社主の小佐野賢治、全日空社長の若狭得治、丸紅社長の檜山広も、存じていない、記憶にございませんをくり返すばかりだった。
 じつはチャーチ小委員会の資料には、政府高官名を記したものはなかった。田中角栄の名前が明記されていたのは、証券取引委員会(SEC)の資料である。日本側はこの資料をどのようにして手に入れたのだろう。
 その裏にあったのは、首相三木武夫の執念である。三木おろしの動きが表面化するなか、三木はカムバックをはかろうとしていた金権政治家の田中角栄を政治的に封じようとしていたという。野党の証人喚問要求に積極的に応じたのもそのためだったが、その証人喚問は茶番で終わってしまった。
 三木はアメリカ政府に政府高官名を含めた関連資料の公表を求めていた。しかし、フォード大統領は捜査が完了するまで、SECの資料は公開できないとの立場を示した。

 ここで、時間を少し巻き戻してみよう。
 上院外交委員会多国籍企業小委員会、通称チャーチ小委員会がロッキード社の問題を取りあげるようになったのは、1975年9月12日からである。最初はインドネシアやイラン、サウジアラビア、フィリピンへの軍用機販売がテーマになり、翌年2月4日になって、ようやく対日売り込み工作の問題が取りあげられた。
 追及の焦点となったのはロッキード社から賄賂を受け取った日本の政治高官の名前だった。
ロッキード社の会計事務所からチャーチ小委員会に提出された資料には、政府高官の名前がはいった文書が削除されていた。外交関係に配慮したとされる。
 また調査されたのは民間航空機トライスターの件だけで、軍用機P3Cオライオンについてはまったく調査がなされなかった。
 こうしてチャーチ小委員会は尻切れトンボで幕を閉じることになる。
 他方、証券取引委員会(SEC)もロッキード社に資料提出を求めていた。ロッキード社に不正行為の疑いがあれば、徹底追及するのがSECの立場である。
 SECは外国政府高官の名前を特定するため、粘り強い調査をつづけていた。そして、SECが最終的に獲得したロッキード社の資料に、田中角栄の名前も含まれていたのだ。

 そのころアメリカの外交を牛耳っていたのがヘンリー・キッシンジャー(大統領補佐官に加え73年9月から国務長官兼務)である。
キッシンジャーは証券取引委員会(SEC)の資料を日本の東京地検に引き渡す件に関して、「助言」する権限をもっていた。キッシンジャーはSECの資料のなかに田中角栄の名前があることを知っていた。
 SECの資料はワシントンの連邦地裁の法的管理下に置かれていた。これを外国の捜査機関に引き渡すかどうかは、司法省と国務省の判断にゆだねられていた。
 日米司法当局の交渉により、3月23日に日米の取り決めが調印された。SECの資料が東京地検に到着したのは4月10日のことである。
 検察庁から派遣されて米司法省と交渉したのは堀田力だった。
 日本への文書提供に関し、最終的にチェックをおこなったのは国務省である。田中角栄の名前を記した文書は渡すが、日米関係に過度のダメージを与えないよう(つまり反米政権などが生まれることのないよう)最大限の配慮が払われた。日本に渡された資料は6000ページのうち2860ページだった。
 国務省内で田中角栄の名前入り文書を日本側に引き渡すよう強く求めたのは、国務長官のキッシンジャー自身だ、と著者はみている。
 ロッキード事件でアメリカ政府が恐れたのは自民党政権の崩壊である。非自民の反米政権が誕生すれば、日米安保体制はあやうくなり、在日米軍基地の維持もむずかしくなるかもしれない。しかし、政府高官の名前のはいった文書を日本側に渡さなければ、大物政治家が逮捕されず、日本国民の不満が溜まるいっぽうだろう。
 国務省は内部で論議を重ねた末、田中の容疑を示す文書を日本側に渡すことにした。アメリカ政府は、日本側の慎重な捜査が進展することで、むしろ三木政権が安定することに賭けたのである。
 4月10日に東京地検に到着したロッキード資料のなかで、政府高官名が記された文書は意外に少なく3点だけだった。だが、そのなかにロッキード社社長のコーチャンが手書きで記した人物相関図があった。その中央に書き込まれていたのがTanakaの名前だった。キーパーソンが田中であることはまちがいなかった。
 三木がロッキード事件の徹底解明を主張するなかで、水面下では三木おろしの動きが活発になっていた。だが、それは成功しない。世論はロッキード事件の解明を求めていたからである。
 1976年6月30日、ワシントンのホワイトハウスで三木・フォードによる2回目の日米首脳会談が開かれた。アメリカはクリーン・イメージの三木を洗練された「進歩派」と高く評価するようになっていた。
そして、このあと7月27日、東京地検特捜部は田中前首相の逮捕に踏み切るのである。
 疲れたのできょうはこのあたりまで。あらためて、すごい話だなと思う。

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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(1) [われらの時代]

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 立花隆はこう書いている。
「ロッキード事件は裁判によって明るみに出される部分より、関係者の沈黙によって永遠に闇の中に葬られた部分のほうがはるかに巨大なのである」
 ほとんどの人は、1976年に発覚したロッキード事件を田中角栄による収賄事件と思いこんでいる。だが、それはほんの氷山の一角にすぎない。立花隆のいうように、この事件の闇は深いのである。
 本書『ロッキード疑獄』の著者は『秘密のファイル』などで知られる国際ジャーナリスト。共同通信ワシントン支局長や特別編集委員を歴任し、テレビでもおなじみだが、15年がかりの執念で執筆した600ページ近い本書では、知られざるロッキード事件の隅々に光をあて、はじめて事件の全容をあきらかにした。そこから浮かびあがるのは、日米安保体制の利権に巣くう黒いネットワークである。
 それでも、この事件では、なぜ田中角栄ばかりに注目が集まったのだろうか。黒幕とされた児玉誉士夫とそのルートにほとんど捜査がおよばなかったのはなぜか。そこには、何か政治的な意図のようなものすら感じられはしないか。
 昔、文明子(ムン・ミョンジャ)の『朴正熙と金大中』(2001)という本を編集していたときに、あっと思う一節にぶつかったことがある。
 文明子は韓国系の女性ジャーナリストで、長くホワイトハウスの取材を担当していた。金大中拉致事件をいち早く伝えたため、韓国中央情報部(KCIA)にねらわれ、アメリカに政治亡命した。
 その彼女があるとき、キッシンジャー国務長官にこう尋ねた。
「ヘンリー、ロッキード事件もあなたが起こしたんじゃないのですか?」
 するとキッシンジャーは「オブコース(もちろんだとも)」と答えたというのだ。
 彼女によると、キッシンジャーはアメリカを差し置いて中国と国交を結んだ田中角栄を「あまりにも生意気」と考え、「田中程度なら、いつでも取り替えられる」とうそぶいていた、と彼女は書いている。
 ちょっと眉唾なところもある。というのも、1976年にロッキード事件が発覚したときには、田中角栄は金脈問題で、すでに失脚していたからである。
 はたして、このキッシンジャーの発言はほんとうなのか。それとも、それは彼女の創作なのか。もし、ほんとうだとしたら、キッシンジャーはロッキード事件の暴露とどのようにかかわっていたのか。
 キッシンジャー発言の謎は、その後、長いあいだ、ぼくのなかでわだかまっていた。
 そして、本書によって、キッシンジャーがロッキード事件を利用して、田中角栄を政治的に葬ろうとしたのは事実であることをはじめて確認することができた。さらに、キッシンジャーがなぜそんなことをしたのかという謎もようやく解けたのである。
 そこでは日米間のすざまじい政治的暗闘がくり広げられていた。

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