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『三島由紀夫VS東大全共闘』をDVDで見る(2) [われらの時代]

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 三島との討論がはじまると、全共闘側の司会、木村修はまず、なぜ三島が小説を書くだけでなく、自分の肉体を週刊誌などにさらすのもいとわないのかと聞いている。これにたいし三島は、文学者というものは「自分があたかも精神によって世界を包摂し、支配したような錯覚に陥っている」が、「私は何とかしてその肉体を拡張してみようと思った」と話している。そして、肉体が拡張していくと、非常に保守的になったという。
 いっぽう木村の質問は判然としないけれど、人が暴力をふるう場合に他者という問題をどう考えるかを三島に聞いているようにみえる。自殺する場合は別だ。相手を殺すことも簡単かもしれない。その反対に自分が殴られることもある。しかし、何はともあれ、暴力は他者にとってどのように顕現するのかと聞いている(と思われる)。
 三島は大嫌いなサルトルが『存在と無』のなかで、いちばん猥褻なものは縛られた女の肉体だと書いていることを紹介し、暴力とエロティシズムには強い関係があることを示している。相手を縛るというのが、人間が他者にたいしてもっている根源的な感覚だ。
 しかし、いったん相手が縛られてしまうと、そこには暴力は発生しにくい。三島はいう。

〈たとえば佐藤首相が縛られた状態でここにいるとすると──別にまあエロティックじゃないけれども、(爆笑)──少なくともそれに暴力を行使するということはおもしろくないというのが、諸君の中に持っている状況だろうと思う。佐藤内閣というものが諸君に対して攻撃的であると諸君は理解する。そしてその攻撃意思を相手の主体的意思とすでに認める。この認めるところに、諸君が他者というものを非エロティック的に、そして主体的に把握する関係が生じるのじゃないかと思います。〉

 佐藤栄作をたとえに出すユーモア感覚がおもしろい。三島は人間のなかにある本源的な暴力性を否定していない。そして、攻撃的な意思をもつ他者にたいして、暴力をもって対応することは認められるべきだという。
 その暴力は、諫争や諫死の域にまで拡張される。三島が楯の会の会員とともに市ヶ谷の自衛隊駐屯地におもむき、バルコニーで自衛隊員に憲法改正のために蹶起するよう呼びかけ、総監室で自決するのは、東大全共闘との討論会から1年半後のことだ。
 三島を「近代ゴリラ」と揶揄する全共闘を前に、三島はすでに東大での討論会で、こう語っていた。

〈私は一人の民間人であります。私が行動を起す時は、結局諸君と同じ非合法でやるほかないのだ。非合法で、決闘の思想において人をやれば、それは殺人犯だから、そうなったら自分もおまわりさんにつかまらないうちに自決でも何でもして死にたいと思うのです。しかしそういう時期がいつくるかはわからないが、そういう時期に合わして身体を鍛錬して、「近代ゴリラ」としてりっぱなゴリラになりたい。(笑)〉

 討論会はすっかり三島ペースになっている。全共闘側は反論しないのか。暴力ではなく、自然や生活が重要なのではないかと言い出す学生もいるが、支離滅裂で議論は盛り上がらない。
 三島は、そこで全共闘側を焚きつけるかのように、こう話す。
 21世紀になると、「われわれは管理あるいは技術管理だけに生きる時代がきてしまって直接的な生産関係というものから切り離されてしまう」。すると、自然は二次的、三次的、四次的なものになって、自然に到達することがほとんど不可能になってくる。しかし、そのへんの敷石も武器になるし、この机もバリケードになる。生産用途からはずれて、敷石や机が戦闘目的に使われることによって、諸君ははじめて物に目ざめ、自然に到達するのではないか。その動きが諸君のやっている暴力の本源的衝動なのではないか、と。
 ここで赤ん坊を抱いて壇上に立っている、ぼさぼさ頭の無精ヒゲの男が話しはじめる。芥正彦である。
 芥は三島文学をもう終わったもの、敗退したものととらえている。芥が求めるのは歴史の可能性としての空間である。それが、たとえば解放区だ。
 三島は芥にその空間は時間的にどう持続するかを問う。芥は持続性は二義的な問題であり、重要なのは遊戯としての空間の創出だと答えたうえで、三島の楯の会は本質的な意味での自由な遊びではなく、大向こうを狙ったゲームにすぎないのではないかとからかう。しかも、そのゲームは日本というデマゴギーの上に成り立っているという。
 芥は三島のように「日本がなければ存在しない人間」ではなく、自分は「異邦人」だと宣言する。
 三島が「おれの作品は何万年という時間の持続との間にある一つの持続なんだ」と歴史の持続性を強調するのにたいし、芥は持続性にこだわらない「可能性そのものの空間」としての解放区の創出こそが革命の発出なのだと主張する。それは失敗するかもしれないが、そこでは人間のありありした原初のかたちが生まれてくるはずだ。
 芥は持論を長々と展開し、三島もこれに応じる。目的論のない純粋空間は存在しないのではないか、と三島が聞く。だが、芥が話すことをを、ほとんどだれも理解できない。「観念的こじつけじゃないか」とヤジが飛び、会場は騒然となる。論議は中断され、混沌たるやりとりがつづく。
 そこで、三島は「少し問題を変えたらどうですか」と提案する。全共闘の小阪修平が天皇の問題を論じようと切り返し、三島が自衛隊に一日入隊なんかして右翼のまねごとをするのはみっともないと話す。

  *

 天皇の問題を論じようという小阪の提案を受けて、三島は全共闘シンパを前に、みずからの天皇論を語りはじめる。

〈これはだ、これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在言われている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素は何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結することを夢見ている。〉

 三島は全共闘に、天皇について考えてほしいと呼びかけている。全共闘が直接民主主義をいうのならば、日本では天皇親政の理念こそがまさにそれではないかという。
 これにたいし、全共闘側の反応はしらけたものだ。かれらにとって、これまで天皇とは入学式や卒業式のときに儀礼的にあいさつする校長先生のような存在でしかなかった。もっと政治主義的にいえば、ブルジョア的秩序を補完する装置にほかならなかった。
 しかし、三島の思いがけぬ呼びかけに全共闘側はどう応えていいかとまどい、議論はまたもや観念的な方向にスライドする。
 三島が日本人のメンタリティのなかには、延々とした日本文化の時間が引き継がれていると話したのに反論して、全共闘のひとりは、三島がこだわっているのは過去の時間であって、問題は現在の疎外された時間を未来に向けて超越することなんだと話す。三島のなかに流れている過去の時間と、われわれの時間は切断されているというわけだ。
 不毛な議論がつづくが、それでも三島はそれに耐え、学生たちとの議論をつづけている。あなたの議論では、現在は目的論的に(いわば革命という目的に向けて)設定されているようにみえるが、小説家としての私は、その多くを過去に共同体のなかで受け継がれてきた言葉に負っており、それを未来に向けて無定型のゼリーのように押し出していく仕事をしている。だから、あなたのように未来を(共産主義のような)固い物象とは考えない。
 三島は思わずこう話している。

〈それはぼくは未来から自分の行動の選択性の根拠を持ってこないで、過去から持ってくるという精神構造を持っちゃってるわけだ。それが誤りであるか正しいかわからんが、そういうふうに持っちゃってるわけだ。〉

 未来に向けて行動するという面では、三島ははからずも全共闘と同じであることを告白してしまっている。いまは認識よりも行動のときだ。ただ、三島にとっての行動は、幻想の過去を復活させること、消え去ろうとしている日本文化、とりわけその中心である天皇のイメージを復活させることに向けられている。全共闘側にとって、それは疎外された未来でしかない。

全共闘 記憶や時代は抹消されてるでしょう。抹消されるわけじゃないですか?
三 島 それが抹消されないのだね。おれには。
全共闘 時代は抹消されていますよ。
三 島 時代は抹消されても、その時代の中にある原質みたいなものは抹消されないのだよ。君らたとえば戦後の時代というものを二十年間ね……。

 三島は戦後世代との大きなギャップを感じたにちがいない。それでも、何とか若者たちを説得しようと努めた。
 全共闘のひとりは、美は観念のなかでしか完結せず、それを現実のなかにもってこようとすると、たちまち腐蝕がはじまり、自衛隊一日入隊とか楯の会のようなみっともない行動になる、と三島の行動主義を批判した。
 これにたいし、三島ははっきりとこう答えている。

〈それはよくわかった。しかし、私にとっては、関係性というものと、自己超越性──超時間性といいましたかな、そういうものと初めから私の中で癒着している。これを切り離すことはできない。初めから癒着しているところで芸術作品ができているから、別の癒着の形として行動も出てくる。〉

 全共闘が思想と行動の一致を求めてバリケードをつくるのと同じように、私も知行合一をめざして超時間性のなかで行動する、と三島は宣言している。
 そして、ここから三島はみずからの天皇論を語りはじめる。
 最初に持ちだすのは『古事記』のヤマトタケルの話だ。三島にとっての天皇の原型は、儒教に縛られた統治的天皇ではなく、いわばヤマトタケルのような神のごとき存在だという。
 すると全共闘側はさっそく反発して、そんな神のような存在に自分を一体化させるのは一種のオナニズムであり、そんなことでは日本人という限界を越えられないと批判する。ここにも世代間のすれ違いが発生している。

三 島 できなくていいのだよ。ぼくは日本人であって、日本人として生れ、日本人として死んで、それでいいのだ。その限界を全然ぼくは抜けたいと思わない。ぼく自身。だからあなたから見ればかわいそうだと思うだろうが。
全共闘 それは思いますね。ぼくなんか。
三 島 しかしやっぱりぼくは日本人である以上日本人以外のものでありたいと思わないのだな。

 ここで話している全共闘のひとりは芥正彦だ。芥は自分には「最初から国籍はない」と宣言している。三島は「自由人としてぼくはあなたを尊敬するよ」といいながら、ぼくは日本人であることを抜けられない、これはぼくの宿命だと語っている。
 全共闘側は三島の神性をもつ英雄としての天皇像を批判する。それは現実の天皇とはかけ離れたものではないかとも指摘する。
 三島はこれにたいし、「私の言う天皇というものは人間天皇と、つまり統治的天皇と、文化的なそういう詩的、神話的天皇とが一つの人間でダブルイメージを持っている」存在であって、「天皇一人一人のパーソナリティとは関係がない」と説明する。
 全共闘側はとうぜん納得しない。天皇になんか興味はないとさえ断言する者もいれば、現実の天皇は、あの醜いじじいだと口汚くののしる者もいた。
 しかし、ここで三島はとつぜん学習院を首席で卒業したときの、こんな思い出を話しはじめる。

〈こんなことを言うと、あげ足をとられるから言いたくはないのだけれども、ひとつ個人的な感想を聞いてください。というのはだね、ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、三時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなことを言いたくないよ、おれは。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれがどうしてもおれの中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、その時の天皇は。〉

 会場が一瞬静まりかえった。
 だが、そのあとまた三島批判がつづく。
 全共闘のなかにはなぜ三島が安田講堂でわれわれと一緒に閉じこもらなかったのかと聞く者もいる。三島はこれにたいし、諸君が天皇と一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐとやり返す。
 それでも全共闘側は、問題は国家の廃絶としての革命であり、天皇という観念ではないという。三島はこれにたいし、君らこそ革命という絶対的なものに天皇という名前を与えたらいいではないかという。全共闘側が天皇はブルジョア秩序の補完物にすぎないと言い返したところで、討論会は時間切れとなった。
 最後に感想を求められた三島は、こう話している。

〈今天皇ということを口にしただけで共闘すると言った。これは言霊というものの働きだと思うのですね。それでなければ、天皇ということを口にすることも穢らわしかったような人が、この二時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。〉

 最後に全共闘から「それで共闘するんですか? しないんですか」と聞かれた三島は「今のは一つの詭弁的な誘いでありまして、非常に誘惑的になったけれども、私は拒否いたします」と答える。
 こうして笑いと拍手のうちに討論会は幕を閉じた。
 三島は全共闘を説得できなかった。しかし、これまで意識したこともない天皇という言霊は、革命を唱える全共闘側にもたしかに忍びこんだのだ。そして、それは三島にも反作用のようにはたらいていくことになる。

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『三島由紀夫VS東大全共闘』をDVDで見る(1) [われらの時代]

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 全共闘は身体の叛乱であると同時にことばの氾濫でもあった。猛烈な勢いであふれる、そのことばは容易に理解しがたく、気がつけばいつのまにか、それに流され、おぼれてしまっている。そんなことばの氾濫を前に、三島由紀夫はおくせず立ち向かった。1969年5月13日、東京・駒場の東大教養学部900番教室(講堂)で開かれた討論会でのことである。
 この催しを企画したのは東大全共闘駒場共闘焚祭委員会と称する団体だった。団体といっても昔からあった団体ではない。三島との討論会を企画するために急遽つくられた。東大全共闘という名称も、だれでも名乗れたから、それを拝借したにすぎない。
 そのため、あれは東大全共闘ではないとか、三島と討論するならもっとまともなやつを出せというような陰の声も聞かれた。しかし、だいじなのは、あのとき全共闘を称するノンセクトの若者たちが三島に討論を呼びかけ、三島もそれを無視せず若者との討論に応じたことなのである。
 単行本の『三島由紀夫vs東大全共闘』(藤原書店)によると、最初、三島に電話をかけたのは、1947年生まれの東大教養学部学生、木村修だった。三島を呼んでシンポジウムをやろうという話は、すでに同学部の芥正彦(のち演劇家)や小阪修平(のち評論家)などとしていた。三島は「右翼に呼ばれて駒場に行くのは嫌だ、君たちの方が良い」とあっさり了承したという。
 そのときはあくまでも少人数のシンポジウムを考えていたが、実際にふたをあけてみると、900番教室には1000人以上が集まって、2階の座席が抜けるのではないかと心配するほどの盛況だった。
 東大焚祭委員会という名称をつくったのは小阪修平である。安田砦は陥落したが、全共闘運動は終わっていない、芸術、思想面での戦いをつづけるのだという気分が強かった。焚祭には古い思想を燃やす祝祭であると同時に、虚偽に満ちた大学を粉砕するという意味もこめられていた。
 1月19日に本郷の安田講堂(安田砦)が陥落したあと、駒場キャンパスもしばらくロックアウトされ、全共闘の学生は学内から排除された。4月、5月になり、授業が再開されても、駒場寮近辺は民青系によって支配され、全共闘系の学生は近寄れなくなっていた。しかし、正門から左側はその支配がゆるやかで、900番教室(講堂)にはいることができた。そのため、全共闘を名乗る若者たちは、勝手にここを会場にした。
 その会場に三島はやってきた。案内のビラをすべて民青がはがしたらしく、会場を探すのに少し手間取った。このとき、三島は44歳。
 集会はすでに30分ほど前からはじまっていた。黒のポロシャツを着た三島は壇上に立つと、すぐに力強く話しはじめた。

〈今、私を壇上に立たせるのは反動的だという意見があったそうで、まあ反動が反動的なのは不思議がございませんので、立たしていただきましたが、私は男子一度門を出ずれば七人の敵ありというんで、きょうは七人じゃきかないようで、大変な気概を持って参りました。〉

 このときの討論の様子が映像に残されている。
 のちに三島自身がまとめているところによると、この日の討論で、三島は次のようなことを話そうとしていたという。

一は暴力否定が正しいかどうかといふことである。
二は時間は連続するものかといふことである。
三は三派全学連はいかなる病気にかかってゐるかといふことである。
四は政治と文学との関係である。
五は天皇の問題である。

 討論会では、これらの五点がじゅうぶんに討議できたわけではない。全学連批判はおざなりだった。政治と文学との関係もさほど論じられていない。それでもその一端に触れている。なお三島が全共闘のことを最初、三派全学連と認識していたことも指摘しておかなければならない。
 そして、その討論会は全共闘流の言い方をすれば、人を消耗させるものだった。三島も、このようなディスカッションはもう二度としたくないと書いている。

〈パネル・ディスカッションの二時間半は、必ずしも世上伝はるやうな、楽な、なごやかな二時間半であつたとはいへない。そこには幾つかのいらいらうするやうな観念の相互模索があり、また了解不可能であることを前提にしながら最低限の了解によつてしか言葉の道が開かれないといふことから来る焦燥もあつた。その中で私は何とか努力してこの二時間半を充実したものにしたいといふ点では全共闘の諸君と同じ意志を持つてゐたと考へられるし、また、私は論争後半ののどの渇きと一種の神経的な疲労と闘はなければならなかった。〉

 東大全共闘を称する若者たちは、いったい何を言いたいのか、つかみがたいことが多かった。三島はそれをがまんして聞き、何とか理解したところに沿って、真摯(しんし )に自分の意見を述べている。
 2020年に公開されたドキュメンタリー映画と当時の討論会の記録をみると、あのころの熱気がよみがえってくる。あのころ、ぼくは三島の小説をたいして読んでもいなかったが、全共闘つながりの周辺にいたことはたしかである。文学や哲学、美とはまるで無縁の衆生だった。

 三島は快活で精悍な人物だった。その話ぶりは気迫とユーモアにみち、しかも丁寧だった。自分をたたきつぶすために企画された集会に堂々とやってきただけではなく、全共闘の若者たちをむしろ説得しようとしていた。そのため、三島のスピーチは全共闘をなぜ評価するかというところからはじまる。このあたり巧みである。
 こう話している。

〈私は右だろうが左だろうが暴力に反対したことなんか一度もない。これは、私は暴力というものの効果というものが現在非常にアイロニカルな構造を持っているから、ただ無原則、あるいは無前提に暴力否定という考えは、たまたま共産党の戦略に乗るだけだと考えているので、好きでない。東大問題は、全般を見まして、自民党と共産党が非常に接点になる時点を見まして、これなるかな、実に恐ろしい世の中だと思った。(笑)私はあの時東大問題全体を見て、暴力というものにたいして恐怖を感じたとか、暴力はいかんということは言ったつもりもない。〉

 三島は、筋や論理はどうでもいい、ともかくも秩序がたいせつだとする収拾の考え方に嫌悪を感じていた。現存の秩序がおかしければ、暴力をもってしてでも闘うのがとうぜんだと考えていた。だから、全共闘学生の暴力を必ずしも否定しない。
 さらに、三島は全共闘をさらにこう持ちあげる。

〈そしてその政治思想においては私と諸君とは正反対だということになっている。まさに正反対でありましょうが、ただ私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。具体的に例をあげればいろいろな立派な先生がいる……。そういう先生方の顔を見るのが私は嫌でたまらなかった。これは自分に知識や思想がないせいかもしれないが、とにかく東大という学校全体に私はいつもそういうにおいを嗅ぎつけていたから、全学連の諸君がやったことも、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人の自惚れというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます。(拍手)〉

 三島は全共闘の「反知性主義」に喝采を送っている。東大を頂点とする日本の知性秩序に反逆をくわだてたのは、全共闘の功績だという。
 その知性秩序が「無機的な、からっぽな」戦後の民主主義日本をつくりあげてきたのだ。それに反抗した全共闘は絶対に認められるべきだ、と三島はいう。
 だが、三島と全共闘の共通点はそこまでだ。三島は天皇を中心とする日本を取り戻すことを説くために、ここにやってきた。これにたいし、全共闘はあくまでも祝祭としてのコミューンにこだわった。
 討論は対決となる。だが、その対決は意外な論戦からはじまっている。すなわち、他者とは何か、自然とは何かをめぐる、一見スコラ的な論議である。
 長くなったので、それについては、また次回ということで。

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