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キッシンジャー回想録『中国』を読む(4) [われらの時代]

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 1989年6月の天安門事件で、中国共産党指導部内の対立が表面化すると、総書記の趙紫陽が辞任し、江沢民が共産党トップに昇格した。
 中国は孤立し、海外から経済制裁を受け、国内の政治状況も不安定となった。チベットも新疆も揺れていた。世界中で共産主義体制が崩壊していた。
 そうしたなか、1992年に鄧小平は南方への視察旅行に出かけ、深圳や珠海などのハイテク基地やモデル企業、学校などを見て回った。
 鄧小平は市場原理とリスクをとること、民間に任せること、生産力と企業家精神の重要性を訴えた。これと見定めたら、大胆に実験し、大胆に突き進むことを推奨した。外国からの投資を恐れるべきでもないと話した。科学と技術がカギだと強調し、よき統治は庶民に幸福と発展をもたらすものだと断言した。
 この南方視察が鄧小平の最後の公務となった。
 天安門事件後に中国の新指導者となった江沢民は、上海市党委員会書記から抜擢された。みずからの権力基盤は弱く、何ごとも政治局のコンセンサスにもとづいておこなわれた。キッシンジャーによれば、温かく、ざっくばらんな人物だったという。
 江沢民政権は、銭其琛外相(のち副首相)と朱鎔基副首相(のち首相)によって支えられていた。このふたりは頻繁に海外に出て、国際会議に出席し、西側世界とのつながりを回復することに努めた。
 1989年11月に江沢民はキッシンジャーと会い、米中間の懸案は台湾問題だけであり、国内問題について批判されるいわれはなく、いかなる状況でも中国の経済改革はつづくと話した。
 それから1年後、ふたたびキッシンジャーと会う。ようやく方励之問題が決着したときだった。米中間はまだ緊張状態にあり、対中制裁がつづいていた。
 江沢民は、中国とアメリカは新たな国際秩序構築に向けてともに仕事をすべきだと主張した。それぞれ国内の事象は外交政策の領域外であり、国と国の関係は国益の原則によってルールづけられるべきだ。アメリカと中国とでは価値観がことなる。それを認めたうえで、アメリカは対等な大国として中国を扱うべきだと述べた。
 このとき、江沢民はキッシンジャーを通じて、ブッシュ大統領に中国がアメリカとの友好を切望しているとの口答メッセージを伝えてほしいと頼んでいる。ただし、中国は自国の独立と主権と尊厳を重視する、ともつけ加えていた。
 1991年9月にキッシンジャーが訪中したときも、江沢民は両国間の関係を正常化させない理由などはないと話し、「互いを尊重し、内政干渉をやめ、平等と互恵の原則のもとで関係を構築できれば、両国は共通の利益を見いだすことができるはずだ」と自信をみせた。
 江沢民はアメリカに譲歩を求めていた。
 この年、ソ連は崩壊した。
「共通の敵が消えた今は、米中指導者間の価値観や世界観の相違が前面に出て来ることは避けられなかった」とキッシンジャーは書いている。
 アメリカにしてみれば、ソ連の崩壊は民主主義の勝利を意味した。多党制の議会制民主主義と市場経済の組み合わせこそが、歴史の結論のように思えた。
 しかし、中国にとってはそうではなく、共産党の支配によって政治の安定が保たれてこそ、経済の発展が可能なのだった。そのうえで、中国の発展にはアメリカの協力が欠かせないこともわかっていた。
最終的にブッシュは中国の内政に干渉することは得策ではないと判断した。米中関係は徐々に緩和しはじめる。
 だが、1993年にクリントン政権が発足すると、状況は一変する。クリントンは中国にたいするブッシュ政権の柔軟姿勢を批判し、民主主義の拡大を外交目標にかかげた。アメリカの外交政策にほかの西側諸国も同調したが、そうした圧力を、中国は内政干渉によって共産主義政権を弱体化させようとする試みととらえた。
 中国の指導者は冷戦の終結によって、アメリカの一極支配時代がはじまるとはとらえていなかった。世界の人口分布を考えても、そんな事態が生じるはずがない。キッシンジャーにたいし、李鵬首相は人権や民主的権利については、西側と完全な合意に達することはできないと述べ、そんなことをすれば中国社会の根本を揺るがすことになると弁明した。
 クリントン政権は、人権状況の改善がみられないかぎり、中国に最恵国待遇を与えないと主張した。キッシンジャーによれば、この最恵国待遇という恩着せがましい言い方は誤解を招くものだ。最恵国待遇とは、通常の貿易で与えられている権利をいうのであって、ほとんどの国がその待遇を受けており、特別な恩恵の意味などないという。
 1993年5月、クリントン政権の高官は北京を訪問し、人権問題と武器拡散防止問題などで、劇的な進展がみられないかぎり、アメリカは中国に最恵国待遇を与えないと通告した。これにたいし、江沢民は中国とアメリカはもっと長期的な観点で物事を考えるべきだと主張し、最恵国待遇問題の袋小路から抜けだそうとした。
 けっきょくクリントンは民主化問題にはふれず、人権問題の改善を条件として、1年間、最恵国待遇を延長することにした。それ以降延長するかどうかは、その間の中国の行動次第だとした。
関税と貿易に関する一般協定(GATT)、すなわちのちの世界貿易機関(WTO)への中国の加盟も行きづまっていた。
 1994年3月のクリストファー国務長官の訪中で、事態はさらに悪化した。李鵬首相は、中国の人権政策はアメリカとは関係のないことであり、アメリカこそ重大な人権問題を抱えていると述べ、けんか腰の態度をとった。最恵国待遇更新の期限が迫っていた。けっきょく、クリントン政権は中国ビジネスを手がけるアメリカ企業からの圧力を受け、さらに1年間、最恵国待遇を無条件で延長することになった。人権問題の改善については、ほかの手段をさぐるほかなかった。
 その後、クリントンは対立的姿勢を控え、建設的関与を強調するようになる。米中関係は急速に修復された。1997年には江沢民がワシントンを訪問し、1998年にはクリントンが訪中した。10年近くの対立ムードに終止符が打たれた、とキッシンジャーは書いている。『米中奔流』の著者、ジェームズ・マンにいわせれば、アメリカはまさに「回れ右」をしたことになる。
 その前に台湾海峡危機が発生していた。中国政府は1980年代から台湾を国内の完全な自治州として扱うことを前提に統一を提案していた。台湾側はあくまでも慎重だった。だが、経済面では中台間の相互依存が高まり、1993年末には、台湾の対中投資額は日本を抜いて世界で第2位となっていた。
 経済的な相互依存が高まるいっぽうで、台湾は中国とは政治的には大きく異なる方向を選んだ。劇的な自由化がはじまった。それをリードしたのは1988年に蒋経国から総統を継承した李登輝である。
 クリントンはあくまでも「一つの中国」を順守し、台湾とは距離をおこうとしていた。しかし、1994年には李登輝の個人的かつ非公式なアメリカ訪問を認めている。李登輝は母校のコーネル大学を訪れ、台湾人の思いを雄弁に語った。中国側はこれに反発し、駐米大使を召還し、台湾海峡にミサイルを打ちこんだ。
 1995年7月にキッシンジャーは訪中し、江沢民や銭其琛と会って、事態の収拾をはかった。だが、それ以降も台湾海峡での緊張は収まることがなく、1996年3月にも中国人民解放軍は福建省の沿岸での演習を実施し、台湾の沖合にミサイルを撃ちこんでいる。これにたいし、アメリカは空母ニミッツを含む空母戦闘群を台湾海峡に派遣した。
 1999年には、コソボ紛争で、アメリカのB2爆撃機がベオグラードの中国大使館を誤爆する事件も発生した。「両国政府は協力の必要性を認識していたが、両国が互いに衝突するすべての可能性を制御できているわけではなかった」とキッシンジャーは書いている。
 危機は周期的に発生した。しかし、1990年代に中国経済は驚異的に発展し、この10年に年7%以上、ときに二桁の経済成長を達成し、一人あたりGDPも持続的に伸び、1990年代末に都市部の収入レベルは1978年の約5倍となった。中国は緊縮財政でインフレも乗り切り、周辺諸国との貿易額も増やし、経済大国に成長した。中国とアメリカは経済的にますます結びつきを深めていった。いまやアメリカの多国籍企業にとって、中国は生産拠点、金融市場としても、ビジネス戦略上欠かせない拠点となった。いっぽう中国も増えつづける外貨残高でアメリカの国債を大量に購入し、アメリカ経済を支えていた。
 だが、「グローバル化された世界は両者を結び付けるとともに、危機が訪れると、より頻繁に、そしてあっという間に緊張が激化する」世界でもある、とキッシンジャーはいう。
 そのひとつの現れが、2001年4月に発生した米偵察機と中国軍用機との接触事故だった。中国軍用機は海南島近くに墜落して、中国人パイロットが死亡した。しかし、このときも江沢民は事故をおおごとにせず、米中協力の重要性を強調して、事態の収拾をはかった。たとえ、さまざまな問題があるにせよ、世界の将来が米中協力にかかっているというビジョンを江沢民は示したのだ、とキッシンジャーはいう。
 2002年11月に江沢民は党総書記を辞任し、胡錦濤にその地位を譲った。アメリカでは2001年にジョージ・W・ブッシュ政権が、2009年にバラク・オバマ政権が発足した。
 キッシンジャーの『中国』が出版されたのは2011年のことである。したがって、本書では、その後の習近平時代、トランプ時代については、触れられていない。それでも、キッシンジャーのスタンスはその後も基本的に変わらないとみてよいだろう。
 新世紀にはいってからの10年は、アメリカにとっては苦難の時代だった。2001年には9・11中枢同時テロが発生し、そのあとイラクとアフガニスタンでの戦争がはじまった。2008年にはリーマン・ショックがあり、世界中が深刻な金融危機に見舞われた。しかし、その間も米中関係は順調に推移した。
 胡錦濤政権は、経済発展を継続するとともに、「調和のとれた社会」、「調和のとれた世界」を目指していた。外交的には慎重な姿勢を崩さず、平和的な国際関係を維持するなかで、世界貿易機関(WTO)に加盟し、資源と原材料の確保をめざす経済外交を展開した。2008年には北京五輪が開かれた。台湾問題に関しては、米中はたがいに牽制しながらも、波風を立てぬよう行動した。
 アメリカが困難に見舞われるなか、米中の相互協力は拡大した。通貨や北朝鮮の核問題などをめぐって、さまざまなやりとりがあったものの、それは対立にまでは発展しなかった。
 中国は21世紀最初の20年間を戦略的なチャンスととらえていた。「平和的台頭」という考え方が出てくるのも、この時代である。胡錦濤は国連総会で演説し、「中国国民は平和を愛する」と強調し、「中国の発展は、誰も傷つけたり、脅かしたりはせず、世界の平和と安定と共通の繁栄に寄与するだけである」と述べた。
 平和的台頭という概念は、世界支配への野望を秘めていると誤解されないように、平和的発展という言い方に置きかえられるようになった。中国は革命を求めないし、戦争や復讐を望まないと国務委員の戴秉国は強調した。
 現在、米中間では国際問題や経済問題で、常に協議がなされている。いまやアメリカと中国は「対等なパートナー」となっている、とキッシンジャーはいう。これからは「中国と米国が真の戦略的な信頼を育む」ことによって、「協力に基づく真のパートナーシップと世界秩序の進化」を成し遂げることが重要だと考えている。
 おそらくキッシンジャーは、ソ連崩壊後の世界は、アメリカ一極支配、あるいは「歴史の終わり」をもたらすのではなく、米中を軸とした多極化世界になると思っていたはずである。
 キッシンジャーはアメリカと中国が対立しつづけるのはおろかだという。いま世界は、地球規模の核拡散問題、環境問題、エネルギーの安全保障問題、気候変動問題などさまざまな問題で、たがいに協力しなければならない。そんなときに冷戦をくり広げる場合ではない。
 中国を封じ込めたり、イデオロギー聖戦のために民主国家によるブロックを形成したりするこころみも成功しないだろう、とキッシンジャーは断言する。その理由は、中国が大半の周辺国にとって、欠くことのできない貿易相手国だからだ。
 キッシンジャーが提案するのは、アメリカと中国が可能な領域で協力しながら、対立を最小限に抑えるよう互いの関係を調整しつつ、「相互進化」をめざすことである。アメリカは中国を支配できないし、中国もまたアメリカを支配できない。戦争はまったく意味がない。
 危機があれば、それは話しあいによって解決されるべきだ。中国とアメリカが太平洋全域で勢力圏を競いあうという構図は、両国にとって破滅への道を意味する。
 キッシンジャーは「太平洋共同体」構想を提案する。

〈現在の世界情勢における戦略的緊張の一側面には、米国が中国を囲い込もうとしているという中国側の懸念があり、これと平行して、中国が米国をアジアから追い出そうとしているとの米側の懸念もある。太平洋共同体という構想は、米国、中国、その他の諸国すべてが、共同体の平和的発展に参加するというものであり、米中両国の懸念を緩和する可能性がある。〉

 太平洋構想は、中国とアメリカのブロックに地域を分割することを目指すのではない。太平洋を囲むすべての国がこの仕組みに参加し、共に進化する道を進むことが目的なのだ、とキッシンジャーは論じている。
 太平洋共同体はアジア共同体より筋がよさそうだ。しかし、はたしてそんなふうに話がうまく運ぶものか。その前にひと波乱もふた波乱もありそうである。

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キッシンジャー回想録『中国』を読む(3) [われらの時代]

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 1979年はじめ、ベトナム軍はポル・ポト政権を倒すためカンボジアに攻めこんだ。これに懲罰を与えるため、中国は2月半ばから6週間にわたって、ベトナムに侵攻した。ベトナムとソ連のあいだには友好協力条約が結ばれていたが、ソ連は動かなかった。
 ベトナム戦争で中国は北ベトナムを支援した。しかし、戦争に勝利して統一ベトナムが誕生すると、ベトナムは中国にとって大きな戦略的脅威になった。ベトナムがソ連と手を組んでインドシナ全体を支配することを中国は恐れた。そのため、カンボジアのポル・ポト派を支援したのだった。
 中国は北方でも南方でも西方でもソ連の包囲網が強まっているように感じていた。あらゆる前線で脅威に直面した鄧小平は、外交的・戦略的な攻勢に出ることを決意した。それがベトナムとの戦いだった、とキッシンジャーはいう。
 1977年に復権した鄧小平には、中国が世界革命に向けてチャンスをつかもうなどという考え方は毛頭なかった。現実のソ連の脅威にたいし、アメリカと実務的に協力する強めていった。
 だが、この時点で米中間の国交は結ばれていない。アメリカはまだ台湾に拠点を置く中華民国を合法政府と認めていた。米中の関係正常化は当時のカーター政権にとって、大きな課題となっていた。それは鄧小平にとっても同じだった。
 ネックになっているのは台湾問題だった。カーターは対中関係を最優先課題と考え、1978年5月に大統領補佐官のブレジンスキーを北京に送りこんだ。そのとき黄華外相は「ソ連こそが戦争の最も危険な源だ」と述べ、アメリカとの戦略的協力関係を求めた。鄧小平も、当時まだ首相の座にあった華国鋒もソ連との対決姿勢を鮮明にしていた。
 アメリカとの関係正常化を推進するにあたって、台湾にたいする中国の立場は一貫していた。台湾からの米軍撤退、台湾との相互防衛条約の破棄、外交関係の断絶を求めるというものだ。カーターはこの原則を再確認したうえで、アメリカはあくまでも台湾に関し平和的な解決を望むとし、アメリカによる台湾への一定の武器売却を中国側が黙認することを求めた。鄧小平はこれを了承した。そして、このあいまいさのうえに1979年1月に米中関係正常化が実現することになった。
 正常化を目前に、鄧小平は各国を歴訪し、中国の後進性と海外から学ぶ必要性を強調した。
鄧小平の最初の訪問先は日本だった。1978年8月には、日中平和友好条約が調印されていたが、10月の批准書承認セレモニーに出席するため、日本を訪れたのだ。そのとき、各地の企業を見学し、「われわれは偉大で、勤勉で、勇敢で、知的な日本の人々を尊敬し、その人々から学んでいる」と記帳したりしている。
 11月には、マレーシア、シンガポール、タイの三カ国を歴訪し、ベトナム、ソ連に対決する姿勢を示した。しかし、東南アジア諸国はむしろ慎重な態度を保った。
 1979年1月、米中関係正常化を祝って、鄧小平はアメリカを訪問した。ベトナムへの戦争を仕掛ける直前である。「鄧小平の米国訪問は、ソ連をけん制することを目的の一つとした、一種の影絵芝居だった」とキッシンジャーは書いている。
 訪米中、鄧小平は、中国は外国の技術を導入し、経済を発展させなければならない、と強調した。日本と並んでアメリカは中国の産業発展のモデルと考えられていた。
 カーターとの会見では、中国はアメリカとの正式な同盟を望まないものの、ソ連がいままさに戦争を仕掛けようとしているなか、両国は共通の立脚点に立ち、行動を調整し、必要な手段を取るべきだと話している。
 中国はソ連のたくらみを防ぐため、東南アジアとアフリカで積極攻勢に出るつもりだった。すでにカンボジアとラオスに侵攻し、インドシナ連邦構想を実現しようとしているベトナムにたいし、中国は行動する義務があると宣言した。
 カーターは中国による対ベトナム専制攻撃を承認せず、そんなことをすれば中国が好戦的とみられるのではないかと懸念を示した。カーターは自制をうながす。だが、鄧小平はベトナムとの戦争に踏み切る。2月4日、アメリカをあとにした鄧小平は再度東京に立ち寄り、大平正芳首相と会って、目前に迫る軍事行動への日本政府の支援を求めている。
 2月17日、中国はかつての同盟国ベトナムへの侵攻を開始した。20万から40万の人民解放軍が動員されたとされる。鄧小平はソ連は中国を攻撃しないだろうと踏んでいた。じっさい、ソ連は戦争拡大の危険を冒さなかった。
 中国は限定的な「懲罰」攻撃をおこなったあと、ただちに撤退した。戦争は29日間で終わった。それからひと月後、キッシンジャーと会った鄧小平は、ベトナムにもっと深く攻め込んでいたら、さらにいい結果が得られたかもしれない、と強気の見解を示した。
 しかし、中国のベトナム侵攻はあきらかに失敗だった。人民解放軍は多大な犠牲を払って撤兵したのだ。ただ、中国側はベトナムのインドシナ連邦構想に釘を差したという意味で、この戦争の意義を認めていた。
 中国政府はベトナムに対抗するため、カンボジアのポル・ポト派を支援していた。しかし、アメリカは非人道的で残虐なポル・ポト派を積極的に支援するわけにはいかなかった。その後、ベトナム軍はカンボジアに10年間駐留する。そのかんポル・ポト派の勢力は衰えていった。
 キッシンジャーは中越戦争を次のように評価する。短期的には中国は敗れた。しかし、ベトナムが中国による再侵攻の可能性に備えて、100万の常備軍を維持しなければならなかったことは、ベトナム自身にとっても、それを支援するソ連にとっても大きな負担となり、そのことがソ連の弱体化につながった。「戦争の究極の敗者は、世界に対する野心を持っていると世界から警戒される羽目になったソ連だった」と書いている。
 中越戦争から1年後、ソ連はアフガニスタンに介入した。世界の非難はソ連に向かった。そして、最終的に中国は東南アジアからソ連の影響力を排除することに成功する。
 1981年、アメリカではレーガン政権が発足した。レーガンは共産主義嫌いだったが、中国政府との関係は維持したいと思っていた。そのいっぽう、台湾に思い入れをもつレーガンはなんとかして台湾との「公式な関係」を維持できないものかと考えていた。
 中国との関係が正常化されたあと、アメリカ議会では台湾関係法が可決された。この法律はアメリカと台湾の経済、文化、安全保障面の結びつきを維持するとともに、台湾への武器供与を認めるものだった。この法律に中国はあえて異議を唱えなかった。
 1982年8月、米中共同コミュニケ(第3のコミュニケ)が発表された。中国が台湾問題が中国の内政問題であることを両国は確認する。いっぽう、アメリカは台湾問題が平和的に解決されることを期待し、「平和的解決に努力する中国の姿勢を評価する」。これがぎりぎりの妥協だった。
 アメリカによる台湾への武器売却を中国は黙認した。しかし、その期間や内容、量に関しては明確な規定がなされなかった。レーガンはテレビのインタビューでも「われわれは台湾に武器を供与し続ける」と語っている。そして実際、台湾にたいする武器援助計画を拡大した。
「レーガン政権一期目の中国・台湾政策は、ほとんど不可解な矛盾の典型となった」。かれの型破りの動きは、基本原則から逸脱していたが、それはきわめてうまく機能した、とキッシンジャーは評している。

〈中国は、米国による第三のコミュニケの柔軟解釈に不満だったが、全体としては、この一〇年間[1980年代を通じて]、米国の支援を得て、経済面と軍事面で力を付け、世界政治において、独自の役割を果たす能力も身に付けてきた。米国は、台湾海峡の両岸と友好関係を維持し、中国とは、情報の共有やアフガニスタンの反政府ゲリラ支援など、反ソのための共通の緊急事態で協力することができた。台湾は、中国と交渉を行うに当たっての有利な立場を獲得した。〉

 1980年代、中国、アメリカ、台湾は、それぞれ利益を確保していた。中国が第三のコミュニケのあいまいな台湾条項を見逃してきたのは、対ソ戦略上、アメリカとの協力が中国の国益にかなうとみたためである、とキッシンジャーはいう。
 1980年代半ばになると、ソ連はほぼあらゆる国境線で、防御と抵抗に直面するようになった。アフリカ、アジア、中南米では、革命による解放への懐疑的な見方が広がっていた。アフガニスタンでは苦戦がつづいていた。加えて、レーガンが推し進めた戦略防衛構想が、ソ連に重い軍事的負担を強いていた。
 アメリカは財政面、地勢面でソ連に圧力をかけ、冷戦に勝利しようとしていた。そして、ソ連が退却するなか、中国は世界に徐々に進出していく。
 1982年、中国共産党総書記の胡耀邦は、中国共産党第12回党大会で「中国はいかなる大国とも、いかなる国家集団とも決して結び付かず、いかなる大国の圧力にも決して屈しない」と述べた。中国が内政問題と考えている台湾問題への介入をアメリカがやめないかぎり、米中関係は健全に発展しないだろうともつけ加えている。「他の第三世界諸国とともに、帝国主義、覇権主義、植民地主義と断固として戦う」というのが中国の立場だった。
 そのいっぽうで中国は、対決しているソ連との関係を復活させようとしていた。アメリカとソ連を両天秤にかけながら、ソ連崩壊後の超大国となるために着々と準備をはじめていたのだ。
 レーガン時代の米中関係は、はじめのころの熱狂が冷め、とりあえず友好を保つ相手国になっていた、とキッシンジャーはいう。

〈米国と中国はともに、その存在に関わる共通の脅威に直面する戦略的パートナーとしてのかつての同盟関係から、徐々に離れつつあった。ソ連の脅威が弱まった今では、中国と米国は実質的には、その国益が一致する個別の問題についての便宜的なパートナーにすぎなかった。〉

 そうしたなか、鄧小平は「改革開放」路線を推し進めていた。中央計画経済に代わって、社会主義体制を保ちながら市場経済、外部世界への経済開放を実現するにはどうすればよいのか。その基礎となるのは、中国人の生来の経済的活力だと思われた。
 鄧小平のブレインとなったのが、胡耀邦と趙紫陽だった。1987年に中国を訪れたキッシンジャーに、共産党総書記になったばかりの趙紫陽は、中国は社会主義のもとに市場を取り込んでおり、「企業は市場の力を十全に使い、国家はマクロ経済政策を通じて経済を指導する」と語っている。
 中国は沿海部に経済特区を設け、海外からの投資を奨励していた。この特区では企業家に大幅な自由が認められ、投資家に特別の優遇措置が与えられていた。
 農業では人民公社に代わって生産責任制が導入された。個人向けの経済優遇措置がとられたため、工業生産高の5割近くを民間セクターが占めるようになった。1980年代を通し、中国のGDPは年率平均9%の成長を示した。
 そのころ鄧小平は党の若返りをはかるとともに、党のあり方自体を変えようとしていた。これまでの党は中国人民の日常生活を細部にわたって統制する役割を果たしていた。しかし、これから共産党は国家の経済と政治構造を全般的に監督する役割に徹するとキッシンジャーに話した。
 だが、鄧小平の改革はさまざまな問題を生む。多くの中央機関を廃止し、党官僚制度の合理化をはかることは難題だった。公共セクターと市場経済という二つのセクターの存在が、二重価格制度を生みだし、それが腐敗と縁故主義をもたらしていた。官僚と企業家は、ふたつのセクターのあいだで、製品を行ったり来たりさせながら、個人的な利益を得た。中国のような家族主義の社会では、経済の拡大はしばしば縁故主義と結びついた。
 市場経済においては勝ち組より負け組が多いのがふつうだ。負け組はとうぜん不満をいだく。キッシンジャーは「経済改革は大衆レベルで、生活水準と個人的自由の向上への期待を抱かせると同時に、社会の緊張と不公平を生んだ」と記している。それを是正するには、より開かれた参加型の政治システムをつくるほかない。中国の指導部のなかにも、ゴルバチョフの示したグラスノスチとペレストロイカのようなものが必要ではないかと考える者もでてきた。
 1989年、東欧ではソ連の一元的支配にひび割れが生じ、ベルリンの壁が崩壊する。しかし、中国は安定しているようにみえた。
 4月15日、前党総書記の胡耀邦が死去する。胡耀邦は1986年に学生デモへの対処が手ぬるいとして解任され、ひらの政治局委員に降格されていた。胡耀邦の支持者たちは天安門広場の人民英雄記念碑に花輪と弔詞を捧げ、かれの精神を引き継ぎ、さらなる政治的自由化をめざそうと呼びかけた。
 5月はじめ、折しもゴルバチョフが北京を訪れるころ、追悼は抗議へと発展する。汚職、インフレ、報道規制、学生の生活条件、長老の党支配などへの不満が高まり、さまざまな抗議活動が全国の都市に広がり、天安門広場は占拠された。西部ではチベット人やウイグル人が政府への抗議活動をはじめた。
 中国当局は7週間にわたってためらい、6月4日に武力行使に踏み切った。武力行使に反対した趙紫陽は党総書記を解任され、軟禁された。鄧小平は人民解放軍に天安門広場の制圧を命じ、多くの死傷者がでた。その様子は世界中から集まっていたメディアによって伝えられた。その後、全国で徹底的な弾圧がくり広げられた。
 世界の反応は厳しかった。アメリカでは中国への制裁論が高まった。その年、大統領に就任したジョージ・W・ブッシュは、鄧小平とも面識があり、かれの改革開放路線を称賛していたため、制裁には気乗り薄だった。
 アメリカは中国との協力関係を修復させるのか、あるいは自由化を要求して中国を制裁するのかの決断を迫られていた。中国を孤立化させれば、長い対決の時代がやってくることが予想された。そのいっぽう、アメリカの安全保障上、ブッシュは中国との友好関係を維持する必要があるとも感じていた。
 議会が中国への制裁措置を決定すると、ブッシュはその一部を緩和した。しかし、中国への批判をあきらかにするため、高官級の政府間交流の禁止、軍事協力の停止、警察用・軍用機器売却の禁止、世銀などの新規借款に反対するなどの措置を発表した。そのかたわら、鄧小平に長文の親書を送り、抗議活動に参加した学生たちへの寛大な措置を求め、使節を北京に送りたいと提案した。親書の最後は、これまで17年間にわたって築き上げられてきた関係を台無しにしないようしなければならないと結ばれていた。
 天安門事件から3週間後の7月、大統領補佐官のスコウクロフトと国務副長官のイーグルバーガーが極秘に北京を訪れ、鄧小平、李鵬首相らと会見した。鄧小平はわれわれは制裁など気にしていない、アメリカはもっと歴史を学ぶべきだ、などといいながら、関係改善の責任はアメリカにあると主張した。いっぽうで、反乱の扇動者の処罰はためらわないとも述べた。
 スコウクロフトらは事件の扱いは中国の内政問題だと認めたものの、その対応がアメリカ国民のもつ普遍的と思われる価値観を逆なでしたことは事実だと述べた。たがいの溝が埋まることはなかった。
 1989年秋には、米中関係は最悪の状態におちいっていた。断絶は回避できそうにもなかった。そのさなかの11月、中国指導部の招きに応じて、キッシンジャーは訪中する。
 鄧小平はキッシンジャーに「中国政府が天安門で断固たる措置を執らなければ中国に内戦が起きていただろう」と語り、アメリカからあれこれ指図を受けたくない、内政不干渉は中国外交政策の原則だ根本と主張した。そのいっぽうで、安定した中国がめざすものは、新たな国際秩序への貢献であり、その中心となるのはアメリカとの関係だとも話した。
 キッシンジャーが訪中したとき、米中間の断絶のシンボルとなっていたのが、反体制物理学者の方励之の存在だった。2月に北京を訪れたブッシュ大統領は、方励之を晩餐会に招いた。しかし、中国治安当局はかれを晩餐会会場に近づけさせなかった。6月4日の天安門事件のあと、方励之はアメリカ大使館に避難した。中国当局はアメリカにかれを引き渡すよう求めたが、アメリカ側は拒否していた。
 訪中したキッシンジャーに鄧小平はこの問題を持ちだした。キッシンジャーは中国が方励之を国外に追放し、どこにでも好きなところに行かせたらどうかと提案した。アメリカはかれを政治的に利用することはないだろうとも話した。
 しかし、そのころアメリカで緊急の課題となっていたのは、むしろベルリンの壁の崩壊が与えた衝撃にどう対応すればよいかということだった。ソ連が崩壊する事態も考えられた。
 その対応に追われたため、アメリカが中国に特使を送るのは12月中旬になった。中国は方励之の亡命を認める見返りとして、中国にたいする制裁解除や大型経済協力プロジェクトの協定締結などを求めた。米中の交渉は長引き、方励之は1990年6月にようやく解放され、家族ともどもイギリスに出国することになる。
 東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニアで共産主義政権が崩壊すると、1990年春に鄧小平は中国共産党に「現下の国際情勢においては、敵があらゆる関心を中国に集中していることを、全員が肝に銘じなければならない」と警告を発し、これから3年ないし5年が重要な時期だと述べた。
 1990年代にはいると、鄧小平は徐々に重要な役職から身を引き、1997年に死去する。その前に共産党の幹部たちに短い遺訓を残した。
 キッシンジャーはこう評している。
「鄧小平は、騒乱と孤立の低迷期に、中国が危機の中で燃え尽きてしまうことを懸念し、また同時に、中国の将来は、自信過剰に陥ることの危険性を認識できるだけの視野を、次世代の指導者が獲得できるかどうかにかかっている、と考えていたのかもしれない」
 ここでもキッシンジャーは中国にたいする好意的な見方を崩していない。

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キッシンジャー回想録『中国』を読む(2) [われらの時代]

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 ニクソン訪中後、米中間にはともかくもパートナーシップが形成された。それは疑似同盟と呼んでもいいものだった、とキッシンジャーは書いている。ソ連に対抗することが目的だった。
 1973年2月と11月にキッシンジャーは2度毛沢東と会談した。周恩来も同席していた。1回目はパリでベトナム和平協定が結ばれた直後、2回目は第4次中東戦争のさなかである。
 台湾問題について、毛沢東は「私は平和的な移行を信じていない」としながらも、早急な解決は望まないと話した。ソ連については、世界中でソ連を封じ込める政策はきっと勝利するだろうと述べた。米軍が中東に関与するよう勧め、ソ連にたいする防波堤としては、トルコ、イラン、パキスタンが重要だと指摘した。力をつけた日本を孤立させて、ソ連のほうに追いやらぬよううまく扱えとも警告した。
 毛沢東はソ連に対抗するため、アメリカ、日本、パキスタン、イラン、トルコ、ヨーロッパへと横のラインを引く案を口にした。ただし、中国はあくまでも自力依存でソ連と対抗すると強調した。毛沢東は中国には核戦争を生き残る能力があると、くり返し語った。
「われわれは核の傘の保護を必要としていない」というのが毛沢東の信念だった。核問題について、アメリカと話しあうつもりはなかった。
 中国が懸念していたのは、アメリカが柔軟にソ連に対処することだった。中国がガードを下げれば、アメリカとソ連は共謀して中国を破壊するのではないかと恐れてもいた。キッシンジャーが「ソ連による中国への攻撃にアメリカが協力することはけっしてない」と話すと、毛沢東は「あなた方の目標は、ソ連を打倒することにある」と答えた。
 中国とアメリカとでは、安全保障上あきらかに発想のちがいがあった。アメリカはソ連を打倒するなどとは考えていなかったからである。それでも、ソ連に対抗するという戦略的思考においては、アメリカと中国の考え方は一致していた。
 しかし、それからまもなくの1974年8月に、アメリカではウォーターゲート事件によりニクソンが辞任するという思いがけぬできごとがあり、フォードが後任の大統領に就任した。アメリカ政界の混乱は収まらなかった。中国はアメリカの緊張緩和政策に懸念をいだいた。キッシンジャーによると、「次第に中国は、米国を裏切りよりも悪い、無力だと非難するようになった」。
 いっぽう、中国では毛沢東時代が終わろうとしていた。それにともない、後継者問題が浮上する。
 林彪失脚後、中国の政治は毛沢東の妻、江青を中心とする「四人組」と、実務派の周恩来、鄧小平とのバランス、言い換えれば継続革命と現実主義との対立のうえに成り立っていた。急進派が勢いづくと、米中関係は冷却した。
 急進派のあおりを食って周恩来が失脚する。1974年になると、周恩来は表舞台にでなくなり、がんにかかっていると伝えられた。キッシンジャーは74年12月に周恩来と面会する。だが、ほんのわずかの時間だった。その面会で、周恩来は、アメリカとの関係を永続的なものとみなし、中国は孤立をやめて国際秩序の一員にならなければ繁栄できないと考えているようにみえた、とキッシンジャーは語っている。
 周恩来が最後に公の場に姿をあらわしたのは、1975年1月に開かれた全人代の会議のときである。周恩来は農業、工業、国防、科学技術の「四つの近代化」を今世紀末までに達成するよう呼びかけた。これが、かれの最後のメッセージとなった。周恩来が姿を見せなくなったあとは、鄧小平がアメリカとの交渉相手となる。
 このころ毛沢東は横ライン戦略を放棄し、「三つの世界」論を展開するようになっていた。それによると、アメリカとソ連は第一世界、日本やヨーロッパは第二世界、発展途上国は第三世界をかたちづくっており、中国は第三世界の立場を代表して、二つの超大国と戦うというのである。
 そうはいっても、毛沢東はアメリカというセイフティネットを手放すつもりはなかった。それどころか、アメリカとの関係を強化することを望んでいた。
 1974年12月にフォード大統領がウラジオストクでロシアのブレジネフ書記長と会見したとき中国は不快感を示し、強く反発した。それでもアメリカが対中政策を変えることはなかった。もしソ連が中国を攻撃したら、アメリカが中国を支持するだろう。しかし、キッシンジャーにとって重要なのは、アメリカが二つの共産主義大国と対話できる能力を保持することだと思われた。
 キッシンジャーが毛沢東と最後に会ったのは1975年の10月と12月。フォード大統領の訪中準備と実際の訪中のときだ。10月に会ったとき、毛沢東は、現時点では台湾を要求しない、あそこにはあまりにも多数の反革命分子がいるから、と話した。ヨーロッパはあまりにもバラバラで締まりがない、戦いなくしてソ連を弱体化させることはできない、とも語った。老いが迫っていた。だが、毛沢東が挑戦的な姿勢を崩すことはなかった。
 12月にフォード大統領が毛沢東と会見したときには、中国で深刻な権力闘争がおきていることが感じられた。一部のグループは、アメリカとの友好関係に懸念をいだいていた。これにたいし、鄧小平は米中関係の重要性を確認する声明を発表して、難局を乗り切ろうとしていた。
 会談から数カ月後、中国の亀裂は目に見えるものとなり、またもや鄧小平が攻撃にさらされるようになった。
 1976年1月8日に周恩来が亡くなると、4月の清明節には数十万の中国人が天安門広場の人民英雄記念碑を訪れ、花輪や詩歌を備えて、周恩来を追悼した。北京市当局が追悼の品々を撤去したため、警察と追悼者のあいだで激しい衝突がおきた。江青ら四人組はその責任を鄧小平にかぶせ、毛沢東は鄧をすべてのポストから解任した。首相代行には、それまでほとんど知られていなかった湖南省党委員会書記の華国鋒が任命された。
 この事件を機に、アメリカと中国の関係は遠くなった。四人組のひとり、張春橋副首相は台湾に関してきわめて好戦的な立場を表明した。
 1976年9月9日、毛沢東が亡くなる。中国統一を成し遂げ、空想的ともいうべき巨大な国家事業に国民を駆り立てた、秦の始皇帝にも似た人物がこの世を去った、とキッシンジャーは感じたという。
 毛沢東と周恩来の死後、中国は混乱する。だが、その混乱を収め、中国を世界の潮流に結びつけたのは鄧小平だった。人民公社による集団農業、停滞した経済、『毛沢東語録』を打ち振る人民服姿の大衆に代わって、中国に爆発的な経済発展をもたらした人物こそ鄧小平だ、とキッシンジャーは書いている。
 鄧小平が権力を掌握するまでの道は紆余曲折に満ちていた。文革がはじまった1966年に鄧小平は走資派として逮捕されたが、毛沢東の介入により1973年に復権した。キッシンジャーによれば、「鄧小平は周恩来の後任として、ある意味では周恩来を追放するために復活してきた」のだった。
 毛沢東と四人組が圧倒的な権力をふるう時代に現実主義を標榜することは、それ自体勇気のいることだった。鄧小平は科学技術の重要性を唱え、イデオロギーよりも職業的能力を重視し、連携・安定・団結を強調し、事態の正常化を優先し、改革プログラムを全面展開しようとしていた。その矢先に四人組から糾弾され、1976年にふたたび実権を剥奪され追放されたのだった。
 毛沢東の死去後、中国の政治は不安定となる。毛沢東はみずからの後継者に華国鋒を指名していた。キッシンジャーにいわせれば、ぱっとしない人物で、政治的な基盤も欠いていたという。しかし、最高権力を譲られた直後、かれはとてつもない成果をもたらした。穏健派と手を組んで四人組を逮捕したのである。
 混乱のさなか、1977年に鄧小平は幽閉生活を解かれ、中央に戻ってきた。華国鋒のもとで、鄧小平は中国近代化へのビジョンを打ち出していく。
 1979年にキッシンジャーは訪中し、華国鋒、鄧小平と会ったが、華国鋒がおなじみのソ連型五カ年計画を語るのにたいし、鄧小平が重工業より消費物資の生産、農民の創意工夫、権力の分散を強調するのが印象的だったという。鄧小平は、中国は近代的な技術を導入すると同時に、数万の留学生を海外に送る必要があり、文化大革命の行き過ぎを未来永劫にわたって終わらさねばならないと話した。
 まもなく華国鋒は指導部から姿を消し、その後10年にわたり鄧小平が実権をふるう時代がつづく。毛沢東は持ち上げられてはいたものの、革命家よりもプラグマティストとしての側面が強調されるようになった。
 鄧小平は、中国は日本の明治維新の成果を凌駕しなければならないと語っていた。いまの中国は科学、技術、教育の面で先進国に20年は遅れているとの認識をもっていた。
 キッシンジャーはこう書いている。

〈経済的な超大国としての今日の中国は、鄧小平の遺産だ。そうなったのは、彼がこの結果を達成するための特別な計画を作り上げたからではなく、自らが属する社会を、その時の姿から、かつてなかった水準にまで引き上げるという、指導者としての究極の仕事を、彼が成し遂げたからなのだ。〉

 鄧小平は重要な役職をもたず、名誉ある称号を拒絶し、ほとんど物陰から政治を動かした。「貧困は社会主義ではない」というのが口癖だった。求められるのはイデオロギーではなく、個人の実力だ。
 鄧小平はいう。「革命を進め、社会主義を建設するため、われわれは、大胆に思考し、新たな道を探り、新たなアイデアを生み出す開拓者を、大量に必要としている」
 1978年12月の中国共産党11期三中総会において、「改革開放」というスローガンが採択され、「四つの近代化」にもとづく現実主義的な「社会主義近代化」路線が打ち出された。
 とはいえ、鄧小平のなかで経済的自由化が政治的自由化に結びつくことはなかった。西側のような複数政党制の民主主義は考えられなかった。一党支配以外の道は無政府状態につながると信じており、大衆を扇動する悪質な分子は厳しく取り締まらねばならない、と主張していた。
 鄧小平の大規模な改革は中国を世界の水準へと導いていった。だが、それは同時に中国国内に社会的、政治的緊張を生み、1989年の天安門事件をもたらすことになる。

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キッシンジャー回想録『中国』を読む(1) [われらの時代]

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 キッシンジャー回顧録『中国』が岩波現代文庫で出たので、読んでみることにした。
 大著なので全部読む自信はない。下巻を中心に。といっても、米中和解のはじまりははずせないから、上巻の最後の2章からはじめよう。
 少しずつしか読めないので、長い読書メモになりそうだ。中国とつきあうのは体力がいる。はたして、最後まで読み通せるか、はなはだこころもとない。

 アメリカと中国が接近するのは、両国がともに困難な状況をかかえたときだった、とキッシンジャーは書いている。アメリカはベトナム戦争、中国は文化大革命で苦しんでいた。
 両国はこの苦しみから逃れるために接近をこころみた。毛沢東は遠交近攻策に思いを馳せ、ニクソンは対話をはじめようと決意した。だが、両国のあいだには、それまでの深い溝が横たわっていた。
 1965年に毛沢東は『中国の赤い星』の著者エドガー・スノーに、過去15年間、アメリカと中国がまったく意思疎通できなかったのを残念に思うと語っていた。だが、ジョンソン政権はこの記事を無視し、ハノイ政権の背後には中国がいると考え、中国敵視政策をつづけていた。
 1969年にニクソン政権が発足すると、毛沢東はさらに一歩踏みこむ。就任演説にアメリカ側の意思疎通意欲を感じたからだ。とはいえ、両国の接触は容易ではなかった。
 3月、中ソ国境のウスリー川で、中国とソ連の衝突が発生した。軍事委員会副主席の葉剣英は『三国志演義』に触れながら、蜀が強力な魏と退行するために呉と連携したように、中国はソ連に対抗するため、アメリカと手を組んだらどうかという策を毛沢東に提言した。
 いっぽうニクソンはベトナムからの段階的撤退を模索していた。ニクソンはベトナム戦争を終わらせるつもりだったが、かといって単純に敗北を認めるつもりはなかった。新たな国際秩序を構築するため、中国を引きこむことができれば、全体としての社会主義圏の力を弱めることになる。ベトナムで敗れても、冷戦で勝ったことになるのだ。
 両国の歩み寄りがはじまる。「毛沢東は関係改善を戦略的責務と受け止め、ニクソンは外交政策と国際的リーダーシップに関する米国のアプローチを再定義する機会ととらえた」と、キッシンジャーは書いている。
 国境紛争をきっかけに1969年夏、中ソ関係は緊張していた。中ソ戦争が勃発し、ソ連が中国の核施設に先制攻撃をかける可能性も考えられた。とりあえず衝突は回避された。だが、その後も両国間の緊張はつづいた。
 1969年11月から70年2月にかけ、米中の外交官はポーランドのワルシャワで何度も接触をこころみた。しかし、原則論をぶつけあうだけで、その先は一歩も進まない。
 対話はなかなか進展せず、1970年5月に途絶えた。そのかんニクソンはベトナムからの米軍の段階的撤退を模索しながらも、カンボジアまで戦闘領域を広げていた。
 ニクソンとキッシンジャーは、パキスタン、ルーマニア、フランスのルートを通じて、米中のハイレベルの会談をはたらきかけた。中国側から思わしい返事はなかった。
 1970年10月に、毛沢東はエドガー・スノーと新たなインタビューをおこなった。毛沢東は、観光客としてでも、大統領としてでもかまわないから、ニクソンの中国訪問を歓迎したいと語っていた。
 雑誌に掲載される前に、毛沢東のインタビュー内容はアメリカ側にも知らされていた。国務省はそれを無視する。1970年12月8日、大統領特別補佐官のキッシンジャーのもとに、周恩来から1通の書簡が届いた。それを届けたのはパキスタン大使だった。その後、ルーマニア経由でも同じメッセージが伝えられた。
 周恩来はアメリカ側に、台湾問題について話しあうため、北京に特使を派遣してほしいと提案していた。キッシンジャーは同意する。ただし、その目的は米中間の広範な問題を話しあうためだと返事をだした。
 それから3カ月返事がなかったのは、アメリカがラオス南部のホーチミン・ルートにまで攻撃範囲を広げたためである。1971年4月になって、ようやく中国側が反応を示した。
 日本で開かれた世界卓球選手権に参加した中国のチームが、アメリカのチームを中国に招待したのだ。いわゆるピンポン外交である。アメリカの選手たちは迎賓館で周恩来に迎えられ、度肝を抜かれたという。
 4月末、ふたたびキッシンジャーのもとに、周恩来から訪中をうながすメッセージが届いた。これをオープンにするのは危険だった。複雑な手続きが必要になることに加え、喧々囂々の議論が巻き起こり、すべてが台無しになりかねなかった。キッシンジャーはニクソンと相談し、国務省には知らせないことにした。「ニクソンは北京とのチャンネルをホワイトハウスに限定することを決断した」と書いている。
 5月10日、ホワイトハウスは周恩来によるニクソン招待を受諾する。だが、首脳会談を準備するため、事前にキッシンジャーを大統領名代として送る旨、中国に伝えた。こうしてキッシンジャーの中国秘密訪問が実現する。
 7月9日、キッシンジャーとそのスタッフは、パキスタン経由で秘密裏に北京に到着した。緊張は感じられず、中国側のもてなしは丁重だった。周恩来との会談は、到着した日とその翌日の2回、迎賓館おこなわれた。1回目が7時間、2回目が6時間だったという。
周恩来について、キッシンジャーはこう書いている。

〈およそ六〇年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない。彼は小柄で気品があり、聡明な目をした印象的な顔立ちで、相対する人物の心の中の見えない部分をも直感する、けた外れの知性と能力によって他を圧倒した。〉

 毛沢東と周恩来は補完関係にあった。だが、地位は毛沢東が圧倒的に上で、毛沢東の前では周恩来は異常なまでに慇懃に振る舞った。文革中は自分の意に沿わないことでも、毛沢東にしたがって、淡々と行政手腕を発揮した。ともかくも粛清をまぬかれたのはそのためだ、とキッシンジャーは書いている。
 キッシンジャーと周恩来のあいだでは、たがいの考え方や価値観は別として、米中の相互信頼と相互尊重を醸成するため、じっくりと率直な話し合いがなされた。焦点となったのは、台湾とベトナムである。
 この時点で、アメリカの中国大使は台北に駐在している。アメリカの外交官はだれひとりとして北京にはいなかった。
 北京は「一つの中国」の原則をアメリカが受諾することを求めた。これにたいし、アメリカはその原則を話しあう前に、中国が台湾問題の平和的解決を誓約するよう求めた。
 キッシンジャーと周恩来は台湾問題が一挙に片づくとは思っていなかった。棚上げにするほかない。結論は歴史の流れを待つのみ。

〈米国にとっての問題は、「一つの中国」の原則に同意することではなく、統一中国の首都としての北京を承認することを、米国の国内事情に合った時間枠で実現することだった。秘密訪問は、米国が「一つの中国」という概念を段階的に受け入れ、中国がその実行時期については極めて柔軟な姿勢を示すという、デリケートなプロセスをスタートさせることになった。〉

 次はベトナム問題である。
 周恩来は、中国がベトナムを支援しているのは歴史的な由来があるとしながらも、今後ベトナムに関して、外交面、軍事面でアメリカに圧力をかけたりはしないことを約束した。
 2日目の会議で、周恩来はとつぜん文化大革命のことを話しはじめた。文革は共産党を浄化し、官僚機構を打破するため、毛沢東が指示した運動であり、一時的な混乱はあったものの、いまは秩序が回復されたと、周恩来は説明した。この発言をキッシンジャーは「中国が混乱を克服し、それゆえ信頼が置ける国家であること」を示したものと受け止めたという。
 周恩来は中国が「ソ連の脅威に対抗する潜在的なパートナー」となりうることをアメリカ側に示した、とキッシンジャーは受け止めた。巧妙なやり方だった。中国がアメリカからの支援を求めたわけではない。中国はあくまでも「自立自存」をつらぬく。ただ周恩来は、両国が共通の利害をもつことを示すことによって、戦略的協力が得られることを示唆したのである。
 最後にニクソン訪中についての打ち合わせがおこなわれた。米大統領の訪中希望を知った中国側が招待を表明し、アメリカ側がこれを喜んで受諾するというかたちをとることが確認された。
こうして1971年7月15日、北京とロサンゼルスから同時に、ニクソン訪中が決まったという電撃的発表がなされるのである。
 1972年2月21日、ニクソンは底冷えのする北京に到着した。それは静かな訪問で、祝賀ムードとは無縁だったという。中国にとっては同盟国ベトナムを刺激するわけにはいかなかったからである。
 ニクソンは中南海にある毛沢東の自宅で、この歴史的人物と会見した。毛沢東はどこに向かうかも知れぬとりとめのない談論をくりだしながら、ニクソンとの間合いをはかり、時に鋭く斬りこんできた。
 ニクソンはソ連の話をもちだしたが、毛沢東はとりあわなかった。台湾問題も聞き流してしまう。ただ、ニクソンを歓迎している様子ははっきりとみてとれた。
 毛沢東は米中両国間に「戦争状態は存在しない」と話し、「あなた方は自らの部隊の一部を本国に撤退させたいし、われわれの部隊は外国には行かない」と発言した。
 さらに毛沢東は、中国にもアメリカと接触することに反対する反動派グループがいたが、やつらは飛行機に乗り、外国に行こうとして墜落したと話した。林彪事件があったことを認めたのだ。
 米中関係を実務レベルで促進することがだいじだとも述べた。さらに毛沢東はいささかシニカルな調子で、ニクソンに個人的な好意を示した。「私は右派が好きだ。あなたは右翼だと言われているし、共和党は右派であり、ヒース首相もまた右寄りだ」といわれて、ニクソンはどう思ったのだろう。
 結論をあせる必要はないというのが毛沢東の考え方だった。「私のような人間は多くの大砲を鳴り響かせる」が、ほんとうはイデオロギーなんかどうでもよく、「この時間、この日を生きよ」だよ、とキッシンジャーに向かって話している。
 ただ、中国がアメリカと戦略的な協力関係を持ちたいと表明したことは間違いなかった。
 ニクソンの訪中は5日にわたり、このかん遊覧と対話、晩餐会がつづいた。周恩来とニクソンは毎日午後少なくとも3時間話しあった。晩餐会のあとは、実務者どうしが最終コミュニケの文言を詰めなければならなかった。
 ニクソンと周恩来が話しあったのは、米中関係のビジョンと今後の影響についてである。
 ニクソンは中国政策の重点を台北から北京に移すことをすでに決意していた。反共主義者のニクソンが中国にきたのは、中国の指導者をアメリカの原則に改宗させるためではない。両国の価値観はことなっている。しかし、たがいの国益を考えれば、米中は戦略的に協力しあえると、とニクソンは率直に周恩来に語った。
 ニクソン訪中の成果は、上海コミュニケとしてまとめられた。
 コミュニケの骨格は、1971年10月(林彪事件直後)の、キッシンジャーの二度目の訪中で、ほぼまとまっていた。アメリカ側が提示したコミュニケ草案は毛沢東によってうっちゃられ、毛沢東の指示に従って周恩来が中国側のコミュニケ草案を提示した。
 そこには強いことばで中国側の立場が述べられ、そのあとアメリカ側がみずからの立場を書くよう空白があけられていた。そして、最後に共通の立場について記す部分があった。
 キッシンジャーは驚いた。だが、この異例の方式がいいかもしれないと思い直し、ニクソンに相談しないまま、中国側の方式をのんだ。コミュニケには両国のそれぞれの価値観が表明され、最後に事実上のイデオロギー休戦が告げられることになった。
 キッシンジャーによれば、このコミュニケでもっとも重要だったのは覇権に関する条項だったという。
「いずれの側も、アジア・太平洋地域における覇権を求めるべきではなく、他のいかなる国家ないしは国家集団によるこのような覇権樹立の試みにも反対する」
 これは米中の共存をはかるとともにソ連の進出をおさえるための宣言だった。この時点では、まさか現在のような米中冷戦がはじまるとは思いもしなかっただろう。
 残った問題は台湾の扱いだった。最重要部分は土壇場になって、次のようにまとまった。

〈米国側は表明した。米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを認める。米国政府はその立場に異議を唱えない。米国政府は中国人自身による台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する。かかる展望を念頭に置き、米国政府は台湾からすべての米軍と軍事施設を撤退するという最終目標を確認する。当面、米国政府はこの地域の緊張が緩和するのに従い、台湾の米軍と軍事施設を漸次減少させるであろう。〉

 アメリカは、中国(北京)政府のいう「台湾は中国の一部」という主張に賛同したわけではない。北京と台北の両方の側が、そう主張していることを認識しているというのである。しかも、中国政府が台湾問題を武力で解決することに反対するとの立場は崩していない。
 米中国交正常化には、まだもう少し時間がかかる。アメリカは日本に先を越されてしまう。
 それでもキッシンジャーは、米中国交正常化を見すえて、こう書いている。
「米中国交回復がもたらした恩恵とは、永遠に友好であるという状態でも価値観の調和でもなく、常に手をかける必要がある世界の均衡が回復されたことであり、さらには、時間が経てばおそらく価値観のより大きな調和が生み出されることである」(もう少しうまく訳せそうだが)
 キッシンジャーはいずれ中国が民主化されるだろうと期待を寄せていた。より全体主義化の道をたどるとは想像していなかったのである。

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加藤典洋『戦後入門』を読んでみる(2) [われらの時代]

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 いくらにっくき敗戦国とはいえ、無条件降伏は民主主義になじまない。それなのにアメリカがドイツや日本に無条件降伏を押しつけたのはなぜか。そこには原子爆弾がからんでいた、と加藤は推測する。
 戦争末期、アメリカは原子爆弾の開発に成功するところだった。その可能性がみえてきたことが、ルーズヴェルトに強気の無条件降伏をとらせる悪魔の誘惑になっていたのだという。
 ルーズヴェルト死後、政権を引き継いだトルーマンは、前大統領の無条件降伏政策を継承すると宣言した。原爆製造計画が最終段階を迎えたことを知らされていた。
 原爆は1945年8月6日に長崎に、ついで8月9日に長崎に投下された。アメリカでそのことが発表されたとき、原爆投下は軍事基地を対象にしたものであると強調されていた(広島、長崎は軍事基地ではなかった)。原爆が無辜(むこ)の市民を無差別に殺戮したことも注意深く隠蔽されていた。
 トルーマンは日本がポツダム宣言を受けいれなかったため、やむなく日本に原爆を投下したのだと説明した。戦争を早く終わらせ「何千何万もの米国青年の命を救うため」という理由もつけ加えられていた。日本人は卑劣で無法な者たちだという罵詈(ばり)も発せられていた。
 その後、トルーマン政権のなかからは、原爆投下にたいする悔恨をもらす閣僚も出てくる。だが、トルーマンはアメリカによる核独占の強気姿勢を崩さず、1947年からソ連封じ込め政策に舵を切っていく。こうして東西冷戦時代がはじまる。
 日本がポツダム宣言を受諾し、ふいの勝利が訪れたあと、アメリカ人は歓喜し、そのあと奥深い部分から原爆投下に関する良心の呵責が生まれた。それに反論するかたちで、前陸軍長官のスティムソンは、原爆使用を正当化する。日本上陸作戦を回避し、米軍兵士の100万以上の生命を救うには、原爆使用が選択肢のなかでは「もっとも嫌悪感の少ないものだった」と述べたのだ。そして、この見解が、原爆やむなしというアメリカ人の標準的な理解となっていく。
 いっぽう、原爆を投下された日本のほうはどうだったか。日本政府は原爆投下直後、それが戦時国際法に違反するものだという抗議声明を発した。その5日後、ポツダム宣言を受諾し、敗北を認めた。
 江藤淳によれば、それは無条件降伏ではなく、統治権はあくまでも日本にあると認められていたはずだという。ところが、アメリカは日本占領をいつのまにかマッカーサーのもとでの直接支配に切り替えていった。すなわち、日本はアメリカに無条件降伏したと解釈したのだ。これによって原爆投下への批判、非難はシャットアウトされることになった。
 メディアは言論統制される。アメリカへの批判的報道は認められず、GHQの意向に沿うものへと変わっていく。各都市の大空襲や広島、長崎への原爆投下、占領軍兵士の不法行為についても報道が禁じられた。
 加藤によれば、アメリカは原爆投下に後ろめたさをおぼえていた。そのため、アメリカが建前としている民主主義、自由と正義の原則に批判がでてくるのも抑えようとしたのだという。
 日本が敗戦国になったのは、まちがいなかった。戦前の価値観はもはや通用しなかった。忠義と戦争と国家主義に代わって、自由と平和と民主主義が戦後の基本的理念となっていく。
 原爆投下にたいしアメリカに憎悪を感じた日本人は不思議に少なかった。その無力と沈黙は何に由来するのか。それを象徴するのが、広島平和公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちはく返しませぬから」ということばだった、と加藤はいう。
 国民を無茶な戦争に巻きこんだ軍への嫌悪感もあったのかもしれない。だが、そこにはアメリカを批判できないという無力感、ないしはアメリカへの抵抗の放棄が示され、ひたすら未来の平和創造に向けての思いだけがこめられていた。
 アメリカが原爆を投下した事実そのものは否定しようがなかった。原爆投下はあきらかに国際法に違反している。しかし、戦後の日本政府はアメリカの立場を擁護し、代弁することに終始する。
 1955年にはソ連の原爆実権や、アメリカが前年ビキニ環礁でおこなった水爆実験が世界に衝撃を与えていた。これに抗議して出されたのがラッセル・アインシュタイン宣言である。人類に滅亡をもたらす核兵器廃絶に向け、各国が協定を結ぶよう提言していた。絶対平和主義をめざす世界連邦運動もこれを後押しした。だが、その後、この構想は現実と歯車がかみあわないまま拡散していく。
 戦後の特徴は、いやおうなくわれわれが核のもとに置かれているということである。現在の戦後国際秩序が核の抑止力のうえに成り立っていることは、まぎれもない事実だ。ふだんは意識しないけれども、核の管理に失敗すれば、人類は滅亡の淵に立たされる。
 核時代がはじまった直後、ジョージ・オーウェルは、現在は二つか三つの国家がスーパー国家になって、「お互いの間で原爆を使わないという暗黙の協定」を結んだうえで、「被搾取階級と人民からことごとく反逆の力を奪ってしまう」時代になったと論じた。
オーウェルは「われわれは、全体的壊滅に向かっているというより、古代の奴隷帝国のような、恐るべき『安定』の時代に向かっているのかもしれない」と論じ、「平和ではない平和」が無限につづく可能性に言及した。
 加藤はこのオーウェルの1945年の論説を紹介しながら、「原爆の本質は世界を変える力を人民から奪ってしまうところにある」と論じている。現実の世界は、原爆以後、それを保有する国家どうしの対立と駆け引きによって動いてきたという。
 オーウェルはいっぽうで、だれもが自転車のように簡単に原爆をつくれるようになったら、主権国家どうしのバランスは崩れ、世界は一種の野蛮状態になってしまうだろうとも述べていた。科学技術の拡散と進展は、強大国による原爆の独占をむずかしくする。
 そんな時代に、はたして諸国間、国民間の信頼関係を築くことができるのだろうか。理想的な絶対平和主義と現実的な国際主義のあいだに立って、解決策を見いだそうというのが加藤の考え方とみてよい。

   *

 戦後日本は平和憲法にもとづいて運営されてきた。とりわけ憲法9条には、戦争の放棄、軍隊の不保持、交戦権の否定が明記されている。
 加藤によると、新憲法制定当時、日本側はまさかアメリカから戦争の放棄を求められるとは思っていなかったという。
 連合国側は勝者の立場から、懲罰として、旧枢軸国の武装解除・非軍事化を推進した。そして、その安全保障を、将来生まれる国連の世界警察軍のようなものに委ねようとした、と加藤は解する。
 マッカーサーが憲法草案に、日本は紛争解決手段としての戦争を放棄するだけでなく、「自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄」し、「その防衛と保全とを、いまや世界をうごかしつつある崇高な理想に委ねる」と記したのには、国連軍創設の意味合いが隠されていた。
「憲法九条の戦争放棄の規定は、同時進行していた国連の理想実現への努力[すなわち世界警察軍の創設と核の国際共同管理]と、わかちがたく結びついていた」と、加藤はいう。
 日本の支配層は戦争放棄条項の押しつけに憮然とした。だが、世論は圧倒的に戦争放棄を歓迎した。それはこれまでつらい戦争を体験しつづけてきた民衆の願いだったからである。
 その後、日本は再軍備と憲法改正への動きを経験する。とはいえ、戦後日本の政治を引っぱった基本路線は、吉田茂のいわゆる吉田ドクトリンだった。すなわち「親米・軽武装・経済中心主義」路線である。
 ここで加藤は久野収が天皇制の分析に用いた顕教、密教という概念をもちだす。
 吉田ドクトリンには、日本は憲法9条をいだく平和主義の独立国家だという「顕教」の顔がある。そのいっぽうで、日本は対米従属のもと軍事負担を最小限にとどめながらら経済大国をめざすという「密教」の顔もあった。日本の戦後政治は、この顕教と密教を使い分けながら、平和主義をかかげ経済繁栄の道を歩んできたというのだ。
 だが、そこには内的な矛盾があった。自民党はもともと憲法改正によって日本の交戦権を回復したいという願いをもっていた。吉田茂はそれを封印して、経済ナショナリズムの方向に舵を切った。だが、対米従属をどうするかというのは、いつか浮上してくる課題だった。
 吉田が採用したのは、憲法9条を表看板としながら、なし崩しに再軍備を進めていく方向である。それによって、アメリカの要求をいれつつ、自衛隊を発足させ、経済発展の道を追いつづけた。
「吉田政治は経済の発展によってナショナリズムを追求するという新しい手法を見つけだすことで、いわば戦後の懸案である『主権回復』という政治的課題への政治的なアプローチを“凍結”し、先送りすることを通じ、高度成長期の安定と繁栄を実現した」
 しかし、日本の経済繁栄がアメリカとの経済摩擦を生むようになると、日本はアメリカの経済的要求にも応えなくてはならなくなり、「対米従属」の問題がふたたび顔をのぞかせるようになった。日本はいつまでもアメリカのいいなりになっていていいのか、という問いかけが生まれてくる。
 対米独立を実現しようとすれば、戦前の政治姿勢が強くなり、アメリカとの対立を招く恐れがあるというジレンマを吉田政治は回避した。だが、その深刻な内的矛盾は、次第に抑えきれなくなってくる。
 1990年代にはいると、社会党が壊滅し、自民党のハト派が衰退していく。その後、自民党のタカ派が政権を握った。かれらは憲法改正をかかげながらも、実際には日米同盟強化の名のもと、対米従属を強め、ますます矛盾した政策を進めるようになった。
 それが日本社会をますますうっとうしく不安なものにしている。

   *

 憲法9条を手がかりとして、対米従属からの独立をはかる方途がないものだろうか。そう加藤は問いかける。
 戦後日本の占領期間が長引いたのは、「民主主義、自由、経済的諸制度の改革」に一定の時間を要したほか、冷戦というもうひとつの要素が加わったからだ、と加藤は書いている。これによって「対共産主義戦略に重点を置いた日本再建」が求められるようになった。
 1951年9月、サンフランシスコ講和条約が調印され、同時に日米安保条約が締結された。翌年2月には日米行政協定が結ばれ、これによって日本におけるアメリカ軍の地位と機能が定められた(1960年に日米地位協定と名称変更)。いまも米軍基地は常態化している。
 はたして米軍基地の撤廃は不可能なのか。
 ナショナリズムによる対米独立路線は脈がない。インターナショナリズム(国際主義)と国連中心主義が局面を打開する唯一の道だ。その最重要のカードになるのが憲法9条だ、と加藤はいう。
 加藤は、国際秩序から孤立するのではなく、国際秩序の構築に積極的に関与することで対米自立を成し遂げようと提案する。
 ロナルド・ドーアは、日本が国連改革の中心的存在となって世界に貢献すべきだと主張した。日本国憲法の草案が出された1946年2月ごろ、国連安全保障理事会では、国連常備軍のあり方が検討されていた。しかし、米ソ対立が激しくなり、議論は暗礁に乗り上げてしまった。ドーアはこの議論を再開することによって、日本も国連常備軍に加わり、積極的な国連中心外交を担うべきではないかという。
 加藤は、このドーアの考え方こそ、日本が平和国家としての誇りをもちながら、対米自立をかちとる方途だと主張する。
 安倍政権は「表向きは対米協調、従属を基調としながらも、その実、復古的で国家主義的な方向での『誇り』づくりを、第一義的にはめざしてきた」と加藤はとらえた。だが、その「誇り」は、自画自賛のもので、けっして国際社会から受けいれられるものではない。しかも、徹底従米路線をとる日本はアメリカからもかえってばかにされているとまで加藤は断言する。
 日本が誇りを取り戻すには、戦前に復古するのではなく、平和主義に立ち戻ることだ。そのためには、対米従属を脱し、完全な独立国となり、国連中心の外交を積極的に展開していく以外にない。
 ドーアは自衛隊の出動は、(1)国境内への悪意ある侵入への対処、(2)国内外の災害救援、(3)国連の平和維持活動ならびに国連直接指揮下における平和回復運動にかぎられると述べている。
 加藤はドーアの提案を受けいれる。そのうえで、あらためて戦争放棄の重要性を指摘するのだ。憲法9条は、日本が他国を侵略しないこと、また軍隊によって国民の政治行動を抑止しない(軍隊が治安出動をしない)ことを保証するものだという。
 他国からの侵略があれば国を守るのはとうぜんだ。しかし、自衛隊の役割は防衛にかぎられるのではなく、むしろ国連常備軍に加わり、国連の平和維持活動、平和回復運動に参加することだ、と加藤は考えている。自衛隊を国連待機軍と国土防衛隊に分離することも提案されている。もちろん、その前提となるのは、常備軍設立に向けて国連機能を強化することである。

   *

 次は核問題である。核兵器が現代世界に暗い影を投げかけていることは何度いってもいいたりないほどだ。
 核兵器の国際管理は、アメリカ主導のもと国際原子力機関(IAEA)と核拡散防止条約(NPT)によって進められてきた。IAEAは原子力の平和利用促進と軍事への転用防止を目的として設立された。NPTは現状以上の核拡散を防止し、最終的に核兵器を廃絶することを掲げる国際条約である。
 現在、日本はNPT条約に加盟しているが、「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」としており、万一の場合はNPT条約からの脱退も辞さない構えをとっている。日本は国内的には「非核三原則」を唱えつつも、現状ではアメリカの「核の傘」に安全保障を委託し、そのうえで万一の場合も想定している。核抑止政策が日本の防衛政策の基本であって、核廃絶ははるかに遠い目標といえるだろう。
 2009年にプラハで、アメリカのオバマ大統領は核兵器の存在しない社会の実現に向けて努力すると演説した。しかし、いまや核兵器の所有国は米ソ2大国からはじまって、5大国(米露中英仏)へ、さらにインド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルまで加えた9カ国へと広がっている。さらにイランも核兵器開発を進めているとされる。核軍縮交渉は進展していない。
 加藤は人類は残念ながら、もはや「核のない世界」に戻れないという。核兵器は「廃絶」してもなくならず(それはいつでも復元できる)、原子力についても、もはやなかったことにはできないからである。好むと好まざるにかかわらず、人類は核とともに生きる道を選ばなくてはならない。
 核兵器のない世界は可能なのか。それができないとしても、「核兵器行使のない世界」を実現することはできるのではないか。
 核兵器の使用を思いとどまらせる核抑止論は、ほんらいは核戦争を防ぐための方策として考えられていた。けっして、核廃絶論と相容れないわけではなかった、と加藤はいう。
「廃絶」か「抑止」か、「完全ゼロ」か「国際管理」か、といった二者択一を前にして、核に関する議論は停滞している。
 ここで加藤はふたたびロナルド・ドーアの議論を紹介する。
 ドーアは、核抑止論は、核兵器から身を守るためには核兵器をもたねばならないという矛盾した論理を内包しているという。核保有国による核独占のもとで平和を構築しようというNPT体制は、いまやマイナス面のほうが多く、新しい体制に移行すべきだというのがドーアの主張である。
 ドーアはNPTに代わって、最終的には世界政府による核兵器の国際管理を打ち出す。ドーアが提案するのは、核不拡散ではなく核拡散にもとづく核の国際管理体制だ。
 それによると、どの国も核を保有できるが、核を保有しない国は、核を保有する少なくとも三カ国にたいし「核の傘」を求めることができる。それにより、核抑止体制はリゾーム状になり、安全保障体制が重層化されていく。そのうえでIAEAは、核兵器の監視、査察システムを強め、最終的には国連が常備配備ミサイルをもつ平和部隊をつくるというのだ。
 ドーアの構想のみそは、従来の核保有国の戦略的優位性を減衰させてしまうことにある。加藤は、日本は非核三原則の堅持するとともに、NPTに代わる新たな「国際核管理条約」を提唱すべきだという。
 核の問題はむずかしい。ドーアの案はユニークだが、はたしてそれによって核の国際管理がうまくいき、人類絶滅の危機が遠のくかどうかはわkらない。いずれにせよ、核の国際管理が人類の大きな課題であることを、加藤はあらためて示したといえるだろう。

   *

 そして、最後に米軍基地をどう撤去するかという問題がでてくる。
 日本の米軍基地は74%が沖縄に集中しており、いまも日本には約5万人の米兵が駐留している。駐留米軍にたいしては地位協定が適用され、いわば占領が永続化しているだけではない。基地問題は日本の主権にかかわるやっかいな問題なのだ、と加藤は指摘している。
 加藤は、日本が米国の世界戦略に積極的に加担、協力する近年の自民・公明連立政権の姿勢に危惧を示している。憲法9条は有名無実化されようとしている。安倍政権以降、自民党はますます復古型国家主義への傾斜を強めた。
 しかし、復古型国家主義のもと対米従属を強めるというのは、それ自体が矛盾している。めざすべきはそうした方向ではないはずだ。
 加藤は、「対米自立」して「誇りある国づくり」をおこなうため、「平和主義を基調に新たに国際社会に参入する」方向を選ぶべきだという。
 敗戦後、日本にとってはアメリカに従属する以外に選択肢はなかった。しかし、現在、日米同盟は日本の国益にとって、ほんとうに有用なのかどうかわからなくなっている、と加藤は疑問を投げかける。
 状況は変わった。冷戦が終わり、21世紀にはいると、アメリカが衰退し、中国が台頭してきた。日本経済は不振におちいり、日本人は自信を失い、漂流しはじめた。
 沖縄にとって、米軍基地の負担は限界に達している。日本にとっては、国連との関係を強化し、もっと多角的な外交を展開していくほうが政治・経済の安定につながるのではないか。
 そのためには、まず米軍基地を撤去することが先決である。その鍵となるのは憲法9条の改定だ、と加藤はいう。
 憲法9条を考えるにあたって、戦争放棄と自衛隊は矛盾しているようにみえるが、どちらかをやめる必要はない。ふたつは相互補完の関係にあるとみてよい。
 そして、いま露呈してきたのが、憲法9条はじつは米軍基地と相互補完の関係にあったという現実である。
 日本では2009年に民主党政権が成立し、米軍基地の移転をアメリカに要請した。だがアメリカはこれを拒否し、民主党政権を退陣に追いこんだ。
 もはや護憲のままでは、この憲法を制定したアメリカに立ち向かうことはできない、と加藤はいう。むしろ憲法を改正し、それを使って米軍基地の撤廃を求めるべきではないか。
 矢部宏治は憲法9条2項の改正を提言している。「必要最小限の防衛力はもつが、集団的自衛権は放棄する」ことを加え、さらに「今後は国内に外国軍事基地をおかない」と明記べきだという。加藤はこの矢部方式に賛同する。
 ただし、加藤は将来の方向として、あくまでも国連軍の創設にこだわる。日本国憲法が制定されたとき、9条2項に「戦力と交戦権の放棄」がうたわれたときのことを思いだすべきだという。あのときは、各国が交戦権を新たに創設される国連軍に移譲することが想定されていた。
 必要最小限の防衛力をもつことはだいじかもしれない。しかし、より重要なのは「国の交戦権は、これを国連に移譲する」ことだ。そのうえで、憲法に「今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可しない」と追記すべきだと提案している。
 この憲法改正が実現すれば、とうぜん米軍基地は撤去される。
 自衛隊の一部は国連待機軍と位置づけられる。日本は核をもたない。そして、アメリカとは対等な友好関係を結ぶことになるだろう。
 安倍路線の問題は、復古的な日本中心主義を唱え、戦後の国際秩序から逆行していることだ、と加藤は指摘する。それでは、とても日本が国際社会のなかで「名誉ある地位」を占められそうもない。問題は、国際主義の方向に、日本人の「誇り」を作りあげていくことだ、と加藤はいう。
 現在の対米協調路線は、集団的自衛権にしても安全保障法制にしても、むしろアメリカへの従属を強めるもので、むしろ反米的なフラストレーションをためこんでしまっている。また対中敵視政策を基本としているため、常に国際的緊張を高めている。
 アベノミクスという金融緩和策も、少子高齢化や産業空洞化、財政問題を見すえていないために将来の不安に応えたものではなかった。自民党政権は、対米協調を至上命題としているために、将来をみすえた柔軟な経済政策をとれないままでいる。
 加藤は自分は平和的リアリズムの立場に立つと述べている。上から目線の平和主義ではなく、草の根の平和主義である。理念をもちながらも現実を見失わない考え方だ。
 平和的リアリズムは国家主義や軍の膨張を防ぐブレーキとしてはたらくだけではない。国際連合の強化、再編成をめざすものである。その中心に位置するのは憲法9条の平和理念だ。いまは直進の「護憲」ではなく「左折の改憲」が必要なのだ、と加藤は述べている。
 加藤の提案が実際にどこまで力をもつかはわからない。奇策と思えるものも、理想論すぎると思えるものもある。ただ、すべては構想力からはじまるのである。対米自立にしても米軍基地撤廃にしても核の管理にしても、われわれはそのことをふだん意識することはあまりない。だが、それらは現にそこにある問題なのであり、すべてはこうした問題を問題としてとらえ、それを変えていく構想力をもつことからはじまるのである。日本ははたして戦後を卒業することができるか。それが加藤の『戦後入門』が投げかけた問いだったといえる。

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加藤典洋『戦後入門』を読んでみる(1) [われらの時代]

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 戦後とは何か。いまも戦後はつづいているのか。ある意味では、そうだともいえるし、別の意味では、戦後はすでに終わっているともいえる。
 それは日本でもヨーロッパでも同じである。戦後というからには戦前があるはずで、日本の場合、戦前というのは、第一次世界大戦後から第二次世界大戦までのあいだ、すなわち戦間期を指すとみるのが妥当だろう。あるいは、もっと枠を広げて、敗戦までの時期を戦前と呼んでも許されるのかもしれない。その期間は30年に満たない。
 すると戦後はいつまでということになるのだろう。2020年時点で、戦争が終わってから、すでに75年以上が経過している。いやな言い方をすれば、戦後は戦間期とも戦前とも理解できるのだから、次の戦争がはじまるまで、戦後はつづくことになる。すると、戦後は未確定の歴史区分ということになる。はたして、戦後はいつまでつづくのだろう。いつまでもつづいてほしいという願いはある。いっぽう、歴史は残酷で、いつまでその願いがつづくかわからないとの悪い予感もうごめく。
 2020年が戦後75年にあたるとすれば、敗戦から75年前は1870年である。まさに明治維新のころ。この尺度をくらべると、いまの戦後がいかに長いかがわかるだろう。大きくいえば、このふたつの時代は、戦争と平和の時代、明治憲法体制と新憲法体制の時代と区分けすることもできる。
 しかし、ぼく自身の感覚からすれば、日本の小さな戦後は1970年代はじめに終わったという気がする。日本が独立を回復し、日米安保条約が結ばれ、経済が復興し、東京オリンピックがあって、日韓条約が締結され、万博が開かれ、沖縄が返還され、日中国交回復が実現する。もちろん万全ではないけれど、これによって、アジア・太平洋戦争の処理がいちおうすんだ。その時点で、小さな戦後は終わり、不安に満ちた新しい時代がはじまったといってもよいのではないか。
 だが、小さな戦後はともかく、大きな戦後は終わっていないというべきだろう。それは日本国憲法(新憲法)と日米安保体制によって枠づけられる戦後である。この枠組みは、それぞれの内容ばかりか、構造からしてもねじれている。そのねじれた関係が強く意識されたのは、昭和が終わったときだといってよいだろう。いまもその大きな戦後をどう終わらるか、どう超えるか、あるいはどう維持するかをめぐって、日本国内の論議はばらばらに割れている。加藤典洋(1948〜2019)の『戦後入門』は、入門という気楽な体裁をとってはいるものの、そこに一石を投じた問題作だった。
 少しずつ読んでみたい。

 対米従属を終わらせて、戦前に戻るのではなく、憲法9条を基軸とした「新しい戦後」をつくろうというのが、加藤典洋の基本的な考え方といってよいだろう。
 だが、そう言い切れば終わりというものでもない。だいじなのは、そう考えるにいたった経緯を知ることであり、それによって、問題の奥行きや複雑さがみえてくるのである。
 1985年に刊行された『アメリカの影』(1985)で、加藤は戦後日本の対米従属問題を取りあげた。対米従属の背景には、1951年のサンフランシスコ講和条約が日米安保条約とセットになっていたことがある。それによって、1952年に日本がふたたび独立をはたすとともに、米軍の駐留が永遠に認められることになった。
 しかし、対米従属の現実は高度成長とともに、いわば後景にしりぞき、「内面化」されていった、と加藤は書いている。内面化とはアメリカとの親和が進んだという意味である。アメリカは抑圧者ではなく、あこがれの対象と化した。それにいらだったのが三島由紀夫であり江藤淳だった。
 江藤にいわせれば、戦後とは対米従属を見て見ぬふりをする虚妄の時代にほかならなかった。だが、江藤は左翼のようにヤンキー・ゴーホームとはいわない。アメリカとの友好関係なしに、日本はやっていけないことを知っていた。知ったうえで、日本の自尊心を取り戻せと主張した。
 その象徴となるのが、憲法9条2項を削除し、日本の交戦権を回復することだと思われた。それは、かならずしも日本が戦争への道を歩むことを意味しない。むしろ憲法改正によって日本は主権を回復し、アメリカと対等な同盟関係を結ぶことができるというのが江藤の考え方だった。
 そのとき、安保条約と地位協定は廃棄されなければならない。駐留米軍にも出ていってもらわなければならない。だが、アメリカはこの要求に簡単に応じるだろうか。もし応じなければ、日本は核武装による自主防衛に踏み切らざるをえない。そうなると、これはとうぜん親米路線から反米路線への転換となり、日本は国際的に孤立するほかない。戦前への逆戻りである。そのジレンマをかかえたまま、1999年に江藤は自死することになる。
 1997年に出版した『敗戦後論』で、加藤は日米関係のねじれについて論じた。対米従属のフラストレーションを解消しようとすると日米関係が緊張し、それを無理やり解決しようとすると日本が安全保障上、経済面で深刻な事態におちいるのはなぜか。
 そこには敗戦国ならではのねじれがある、と加藤はみた。日本であれ、ドイツであれ、第二次世界大戦の敗戦国は、戦後、国のかたちや価値観において、戦前との大きな断絶を経験した。戦前の価値観はもはや国際的には受けいれられなかった。
 そのため戦死者とどう向き合えばいいのかが、よくわからなくなった。少なくともかれらを英雄とみることはもはやできなかった。日本が中国を不当に侵略したこと、フィリピンなどで住民を無視して戦闘行為をくり広げたことはまちがいない。すると、日本の戦死者は「誤った侵略戦争の先兵」だったということになってしまう。
 多くの犠牲をもたらした近隣諸国の人民に謝罪すべきことはいうまでもない。だが、日本人の戦死者を「侵略戦争の先兵」として、切り捨てることは、あまりにも非人間的ではないか。もちろん、あの戦争は間違っていなかったとして、戦死者を称揚するのも、侵略先の人びとへの想像力や配慮を欠いている。
 加藤は『敗戦後論』で、「自国の戦争の死者たちにしっかり向き合い、弔うあり方を作り出したうえで、それを土台に、他国の死者、侵略国の人々に謝罪する、というみちすじがありうるはずだ」と考えた。日本人は事実をみずからあきらかにしたうえで、何べんも何べんも、相手国から受けいれてもらうまで謝罪をくり返さなければいけない。それは自虐的などということとはまったくちがう、と書いている。
 憲法も占領軍から与えられたものだった。だが、加藤にいわせれば「押しつけられた」憲法が「よい憲法」だったのだ。問題はそれをどう「わがもの」にするかがわからなかったことである。ここから、護憲論と改正論がでてくる。とりわけ憲法9条の扱いが問題になった。
 護憲論の立場は、社会が再軍備化していく歯止めとして憲法九条を使おうというもの。いっぽう、保守派、国家主義者は、憲法9条は日本の武装解除を永久化しようとするもので、国家の基本的権利の侵害にあたるから、これを改正すべしというものだった。このふたつの考え方にたいし、加藤は国民による「選び直し」によって、憲法9条を強化することを提言する。その内容については、あらためて触れる。

   *

 戦後を語るには、世界大戦が何であったかを知らねばならない、と加藤はいう。
 敗戦は日本人の考え方を変えさせ、これまでの皇国思想や八紘一宇に代わって、民主主義と平和思想を日本人に植えつけることになった、と加藤は書いている。
 その結果、まず「勝者への模倣」が生じた。鬼畜米英からアメリカ礼賛へ、そのあと陶酔感からの覚醒がおこる。いっぽう戦争末期の突然の参戦と、その後のシベリア抑留により、ソ連は怨嗟の的となる。原爆投下にたいしては、不思議にアメリカへの抗議はわいてこない。
 加藤は敗戦国のパターンとして、「勝者への模倣」のほか、文化的・精神的優位性の強調、再生への希望、勝者を越えようとする欲求、復讐と報復などを挙げている。だから、戦後、日本人はがらりと変わったといっても、その内実はなかなか複雑だったと指摘している。
 それでも日本の戦後が特異なのは、戦前と戦後に価値観の断絶があることだ、と加藤はいう。もはや復讐と報復は現実的ではなくなってしまった。
 20世紀のふたつの世界大戦が大きな意味をもつのは、それが旧来の二国間紛争とちがい、同盟戦争、すなわち国際秩序や国際社会のあり方をめぐる戦いとなったことである。しかも、それはナショナリズムに媒介される総力戦の形態をとった。理念とイデオロギーをめぐる戦争でもあった。
 第二次世界大戦はイデオロギー的には自由民主主義と国家社会主義の二項対立ではなく、それに共産主義を加えた三派鼎立(ていりつ)に近いものとなった。だが、それはたぶんに後付けによる説明である。実際の戦争は国益からはじまっている。それが最終的には、自由主義陣営の米英などと社会主義ソ連の「連合国」と、ファシズム陣営の日独伊三国、すなわち同盟国の戦いとなった。
 米英二国は1941年8月に大西洋憲章を発表し、戦争目的を発表した。この憲章はウィルソンの平和14カ条を踏襲し、自由主義と領土不拡大をうたったものだったが、そこにはナチ暴政の最終的破壊がかかげられていた。これにたいし、日本、ドイツ、イタリアの同盟国は、それぞれの思惑でばらばらに戦っていた。共通の理念、大義というものはなかった。
 三つ巴の戦いが「米英ソ」対「日独伊」になるか、「米英」対「日独伊ソ」になるかは紙一重のところだった、と加藤は書いている。だが、ヒトラーによるソ連攻撃とルーズヴェルト米大統領によるソ連引き込みが、ソ連を連合国側に引き寄せることになる。実際、ユーラシア大陸にまたがるソ連というカードがなければ、連合国がドイツと日本を打ち破るのは容易でないと思われていた。
 イデオロギー的にいえば、自由主義と共産主義を定義するのは簡単だった。しかし、ファシズムとは何かを定義するのはむずかしかった、と加藤はいう。
 日本とドイツ、イタリアでは国柄がまるでちがっており、戦争目的も異なっていた。ドイツではアーリア人種の優越性とユダヤ人排斥が語られた。イタリアは英米中心の国際秩序に異を唱え、ローマの名誉にもとづく団結が叫ばれた。日本が掲げたのは、大東亜共栄圏という新秩序の構築だった。それが民主主義とファシズムの戦いと総括されるようになったのは、むしろ戦後になってからだという。
 日露戦争の勝利によって、日本はアジアの有色人種国の代表として、国際社会に加わった。第一次世界大戦後には、国際連盟常任理事国にも選ばれる。だが、ヴェルサイユ会議で日本が提案した人種差別撤廃条項は否決された。それでも、この提案は世界史的にみて大きな意義があった、と加藤は述べている。
 太平洋戦争(日本での名称は大東亜戦争)がはじまると、日本は「東亜新秩序」建設構想をかかげた。1943年11月には大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が出された。内実をともなわなかった(むしろウソだった)とはいえ、この宣言でアジアの解放と人種差別の撤退という理念が打ち出されたことは、けっしてちいさくない、と加藤はいう。米英の大西洋憲章には、植民地解放の理念が語られていなかったからである。
 加藤によれば、「[第二次世界大戦は]『もてる国』の既成の秩序に『もたざる国』が新秩序建設をめざして挑戦した帝国主義的な従来型戦争」にほかならなかった。だが、それが「自由民主主義とファシズムのあいだの戦い」とみられ、「正しいイデオロギーが誤ったイデオロギーを成敗したという物語に、成形し直し、仕立て直」されたのだ。それを確認するドラマが、ニュルンベルク裁判であり、東京裁判であったという。
 戦後の国際秩序の土台をつくったのはアメリカである。枢軸国にたいして連合国が勝利したといっても、米英ソのうち、実質的な勝者はアメリカにほかならなかった(ソ連が東欧まで支配権を拡大したという面はあるが)、と加藤はいう。原爆の開発と投下、独占が、アメリカに強大さをもたらしていた。
 そのあと、すぐに冷戦がはじまる。
 戦争末期、連合国の戦争理念はすでに劣化していた。アメリカは日本に問答無用の無条件降伏をつきつけ、それを日本が黙殺すると、広島、長崎に国際条約違反の原爆を投下し、日本の敗戦後、ただちに東京裁判を開いて、「人道に対する罪」と「平和に対する罪」で、戦争犯罪人を裁いた。
 加藤はこう書いている。

〈連合国対枢軸国という対決構図は、このうち、枢軸国側の劣化を激しく強調し、「悪」と断罪することで、米英の劣化とソ連の劣化を見えにくくする効果をもっていました。国際軍事裁判は、たとえばニュルンベルクでは、ドイツ軍の悪を強調することでカチンの森のソ連軍の犯罪を隠すのに役立ち、東京では、日本軍の残虐非道さを強調することで原爆投下の「大量殺戮」を見えにくくするのに力を発揮しました。〉

 ニュルンベルクと東京での裁判は、「文明」の名のもとに敗者の「悪」を裁く「裁判劇」にほかならなかった、と加藤はいう。しかも、東京では最初から昭和天皇が免訴され、世界征服をもくろんだとして軍部のみが裁かれることになった。
 アメリカ主導でつくられたこうした作為的理念が、のちにほころびをみせてくるのが、戦後という時代だった、と加藤はとらえているようにみえる。
 結論を出すのはまだ早い。もう少し、先を読むことにしよう。

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コミューンと革命──新島淳良『私の毛沢東』をめぐって

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 早稲田大学教授の新島淳良(1928〜2002)は、文化大革命中の毛沢東の発言を集めた『毛沢東最高指示』という文書を手に入れて翻訳し、1970年1月に日本で出版した。そのことが中国当局の忌諱にふれ、新島はまもなく予定されていた6度目の中国訪問を拒否されることになった。そればかりではない。日中友好を掲げる団体や親中派の学生から総攻撃を受けたのである。
 そのことに嫌気がさした新島は、友好団体から離れて、次第にヤマギシ会に接近するようになる。1971年5月にヤマギシズム特別講習研鑽会に参加している。そして、ヤマギシ会に農村コミューンの可能性をみた新島は、1972年12月に地位や財産を捨て、家族ともどもヤマギシ会にはいった。
 ヤマギシ会での生活は、それまでの毛沢東観、中国観を変えさせたという。だが、次第にヤマギシ会に批判的になった新島は1978年に妻子を残してヤマギシ会を去り、新しい女性とともに東京で私塾をはじめる。だが、その女性の死とともに、1993年にふたたびヤマギシ会に戻り、そこで穏やかな晩年をすごしたとされる。
 新島がヤマギシ会に接近し、ヤマギシ会にはいってから、いったんヤマギシ会を離れたころに書いた毛沢東論、中国論を集めた作品が『私の毛沢東』である。1976年に毛沢東は死に、文化大革命は終わっていた。なお、村上春樹の『1Q84』には、新島をモデルにした人物がえがかれている。小説では、少女「ふかえり」(深田エリ)の父親は、元大学教授の深田保で、「さきがけ」というコミューン組織をつくったことになっている。
 大学の落ちこぼれだったぼくは、ほとんど授業に出なかったから、新島の講義も受けていない。ただ、大学時代、唯一、大学教授と話を交わしたのが新島淳良だったことを覚えている。それは何かの集まりのときで、ほんのひとこと、ふたことで、話した内容は覚えていない。ほほえみをたたえながら、きらりと光る目が印象的だった。
 新島とちがって、あのころぼくは吉本隆明の影響が強く(竹内好にひかれていたにもかかわらず)、毛沢東をスターリンと同じような独裁者ととらえていた。新島のように毛沢東にほれこんでいたわけではない。しかし、その新島も毛沢東にたいするイメージを次第に変えていく。1979年に出版された『私の毛沢東』には、その痕跡が刻まれている。

 1970年に『毛沢東最高指示』を出版し、中国当局からにらまれる直前、新島は毛沢東思想について、次のようなとらえ方をしていた。
 偉大な思想家というものは、これまであたりまえと思われてきたことに疑問を発し、それに解答をあたえ、じっさいにそれを解決する道筋を示した人をいう。その意味では、毛沢東はマルクス、レーニンを継承し、あらたな創造を加えた偉大な人物ということができる。
 つまり、新島は毛沢東を権力者である以上に、マルクス、レーニンを継承した偉大な思想家ととらえていたのである。
 新島によると、毛沢東は中国がロシア革命の経験をうのみにせず、独自の道を歩まなければならないと考えていたという。
 だが、レーニンからは多くのものを受け継いでいる。たとえば、プロレタリア独裁が長期にわたるという考え方である。
 プロレタリアート独裁国家を維持するためには、前衛としての共産党が国家を指導しなければならない。プロレタリアートの精神で教育された強力な軍隊も必要になってくる。
 だが、毛沢東がつけ加え、変更したものも多い。とりわけ重要なのは、大衆こそが革命の主体という考え方で、エリートではなく、大衆を強調するのが毛沢東思想の特徴といえる。ここから日常生活の革命化、革命の日常化という考え方がでてくる。
 毛沢東は目に見える実践の変革を求める。正しくない実践から正しい実践へと、主観能動性を発揮することが重要だった。そのためには読書より生産活動や革命活動を選ぶこと、頭脳労働より肉体労働を選ぶことが求められた。それが大衆路線に立った作風というもので、こうした正しい実践をつづけることによって、現実の社会を変革できると考えた。
 そのうえで、毛沢東は人民公社=コミューンを構想した。人民公社こそが共産主義への移行をもたらす組織形態だと考えられた。とりわけ重視されたのが農民である。「毛沢東思想においては、決定的に農民・農業を主とするという、マルクス主義として決定的な転換」がおこなわれた、と新島はいう。
 新島は、こうした毛沢東思想に共感をおぼえ、こう話している。

〈[日本で]高度に資本主義が発達した、ということは、自分では食べものをつくらない階級がものすごく多くなったということを意味するのです。その都市人口を農村にもどす──中国ですら、そのためにプロレタリア階級文化大革命を必要としたのです。そのおかげで、若い人たちが何百万と隊をくんで農村に「下放」し、尻をおちつけようとするようになったのです──その巨大な革命をやりつづけている毛沢東思想の中国から学ぶべきことは山程あると思います。〉

 革命の物語と現実の歴史はことなる。実際の文化大革命も語られたものとはかけ離れていた。農家生まれでないぼくは、みんなでつくったものを、みんなで食べて、楽しく暮らすというコミューンの物語に、はじめからうさんくさいものを感じていた。だが、新島は真剣だった。それを実践してみせるのである。

   *

 中国訪問を拒否され、国内の親中派グループからの集中攻撃にさらされるなか、新島は1970年秋に「毛沢東思想者十戒」というエッセイを発表する。みずからを毛沢東思想者と定めたうえで、日本では中国のような革命は成立しないと論じた。
 日本には革命の主体となるようなプロレタリア階級も農民階級もいない。あるのは、一体となって帝国主義的戦争を推進してきた日本民族だけだ、と新島はいう。
 日本では中国の農民蜂起のような全国的規模の闘争が一度もみられなかった。日本にあったのは血縁・地縁共同体と仲間や「家」の思想だけで、それが利害の一致した全国的な集団をつくることはなかった。
日本には階級の観念はあるが、その実体はない。労働者、農民、小市民は、村や企業、仲間をつうじて支配階級に連続してしまい、民族的無責任体制の維持に一役買ってしまう、と新島はいう。
 日本では階級がないから、したがって労働者階級の党をつくることができない。日本の近代政党は、部落や家から離脱した自由人(インテリ)によってつくられており、共同体にしっかり結びついている諸個人をつかんではいない。しかも次第に日本の党自体がムラ化して、忠誠の対象となってしまっている。そこには、毛沢東にとってはなくてはならない存在だった革命政党としての共産党が生まれる余地がない。
 日本の大衆は、多くが政府の恩恵を受け、明治以来、植民地支配に参加し、侵略戦争に参加した経験をもつ者が多い。しかも、朝鮮戦争以降は、高度経済成長による急激な物質生活の向上を経験している。だから、日本では大衆路線が成立しない、と新島はいう。
 毛沢東思想にとっては、どのような大衆に依拠しているかが大きな課題だった。農民や労働者に依拠していない左翼政党はニセモノであり、日本でははたしてそんな党があるのか、と新島は疑う。
毛沢東は革命には党と統一戦線と武装闘争が要だといった。
 統一戦線が必要なのは、ひとつの目標に向けて、さまざまな労働者を代表する複数の党、あるいは非プロレタリアートを代表する党が連合を組まなければ勝利を得られないからだ。しかし、日本では左翼政党は政治屋やプチブルの集まりにすぎない。そんなところに統一戦線が生まれるわけがない。
 武装闘争も同じである。中国とちがい、日本では敵がはっきりしておらず、それはしばしば抽象的な機構にすぎない。そのため武器で倒すことはできない。
 そのうえ、日本の民衆は長らく武器をもつことを禁じられてきた。戦争従軍の経験のある兵士を除いて、武器をあつかうことができない。そこで武装闘争といっても、せいぜい機動隊が相手で、軍隊にはとても歯向かえず、けっきょく内ゲバや火焔瓶を投げる程度で終わるのが関の山である。
 また日本ではしばしば異論が排除され、むりやり「統一と団結」がはかられ、それにさからうと破壊者、ないし敵とされてしまう傾向がある。そのことが、自由な論議を妨げてしまう。
 日本では革命的実践はなしえず、国際連帯のかけ声もむなしいと悲観論がつづく。
 さらに問題は、日本の親中組織や団体が中国から多くの資金援助をもらっていたことだ。友好商社や招待旅行のかたちで、さまざまな便宜も供与してもらっている。こうした実態を新島は告発する。
 革命が不可能だとしても、それでも日本の毛沢東思想者にはやれることがひとつある。それは日中国交回復のために努力することだ。中国語を普及したり、中国研究を充実させたり、日本のことを中国に伝えることもだいじだ。毛沢東思想の学習が必要なのは、それによって、中国の鏡に映された日本の否定的な本質、醜悪な姿に向き合うことができるからだ、と新島は論じている。
 このころ新島は日中友好団体や組織に嫌悪をいだいていた。毛沢東思想をかかげるひとりよがりの新左翼集団にも絶望していたといえるだろう。それでもけっして毛沢東思想者であることをやめたわけではない。毛沢東が最終目標とした「大同世界」の実現に向けて、自分もそれなりの努力を傾けられるのではないかと思っていたのである。

   *

 1972年12月にヤマギシ会にはいってからも、新島淳良は毛沢東を読みつづけていた。それでも少し距離をおいて、毛沢東について考えはじめるようになる。中国にたいする考え方も少しずつ変わってきた。
 1975年には雑誌『現代の眼』に、23歳の毛沢東が1917年に書いた論考「体育の研究」を紹介している。もはや革命ではなく身体がテーマになっていた。
 体育とは文字どおり、からだを育てることである。それは生命を養う道であって、むりやりからだを動かしても、精神が苦しければからだも苦しくなるだけだ。したがって、体育をいうにあたっては、まず自発からはじめなければならない。「動くということは、わが生(いのち)をやしない、わが心を楽しくすることに尽きる」と毛沢東はいう。そして、からだがまっとうになって、はじめて知識がまっとうになる。
 楽しく、たゆまず運動をつづけることがだいじだ。そして、その運動は短い時間でも全力を投入すべきで、蛮と拙を尊ぶべきだとも述べている。
 新島はヤマギシ会で活動するなかで、この毛沢東の「体育の研究」を尊重し、「いま私たちがやりはじめているヤマギシズム幸福学園の運動は、その現代の養生の道といえる」と書いている。
 新島は現代の過剰エネルギー社会を批判する。エネルギーが過剰になり、自分たちが消費できないほどの大量の物が生みだされ、過剰人口が生じ、人がより物質的な豊かさや多くの情報を求めるようになると、戦争や革命、国家のはてしない膨張が生じるという。
 そうした趨勢のなかで、学校は子どもたちに力のあること、強いこと、知識量の多いことがよいことだといった価値観を吹きこんでいる。体育とスポーツは同一視され、より強い身体とタイムやテクニックを競う見世物になりさがっている。政治家も資本家も宗教家も過剰エネルギーのかたまりのような人物ばかりだ。
 新島はもう革命はよそうという。革命をやめることこそが革命なのだという。いるのかいないのかわからない人間こそが、これからの新しい人類なのだ。一人ひとりが、毛沢東のいうように「主観を変え」、「わが生をやしない、わが心を楽しくする」平凡な道を実践することこそ、幸福への道なのだと書いている。ここには革命家毛沢東はもういなくなっている。

 そのいっぽう、1976年9月号の『現代思想』に新島は「毛沢東思想と戦争」という論考を発表している。毛沢東がいかに優秀な戦争指揮官であったかが論じられている。
 1927年に秋収暴動をおこし井崗山に立てこもって以来、毛沢東は文化大革命をへて死に至るまで、軍事指導者の地位を手放すことなく、常に中国で勝ち残ってきた。毛沢東は戦争の達人だった、と新島はいう。人間を揺り動かすことが得意であり、その意味で、毛沢東思想は戦争の哲学でもあった。
 毛沢東によれば、戦争の目的は「自己を保存し、敵を消滅させる」ことだ。敵の消滅とは、敵の抵抗力を奪うことであって、かならずしも敵を肉体的に抹殺することではない。そして、その戦争は、いわば階級がなくなるまで永遠につづくと考えられていた。
 戦争は敵味方双方の利害が対立している状態において生じる。しかし、小さく弱い味方が、大きく強い敵に勝つ場合があるとしたら、それはどういう場合か。毛沢東によれば、それは味方に大衆の支持が集まり、敵を分断して各個撃破できる場合にかぎられる。
 戦略的防御から戦略的反攻へと、逆転を起こさせる主体は軍隊ではなく、あくまでも大衆、中国の場合は農民大衆だった。毛沢東は「戦争は大衆の戦争である」という。
 人民大衆と敵のあいだでは、どちらが主導権をとるかが重要である。もし人民大衆が主導権をとるなら、いかに強大な敵であっても、大から小に転化し、次第に滅亡していく。小さく弱い味方は、個々の戦闘、個々の戦役で勝利を積み重ねることによって、局面を逆転させ、強大、優勢な敵を打ち破ることができる。その持久戦を戦ううえで、かぎとなるのは、革命的人民を信頼し人民に依拠することなのだ、と毛沢東はいう。敵の力が大きければ、党と軍が人民のなかに退却できるかどうかが、持久戦のポイントなのだった。
 連合赤軍は毛沢東思想に依拠していたといわれるが、新島にいわせれば、それは何もわかっていない観念的極左の悲喜劇なのだった。
 毛沢東は根拠地理論を確立した。それは実力の少ないものが実力をたくわえていくための方策だった。根拠地ではゆるぎない党の方針のもと、正規の赤軍が正しい情勢判断にもとづいて行動することが求められた。さらにいえば、根拠地は食料生産基地でもあり、補給なくして軍は成立しないのだった。
 毛沢東思想のなかには「いかなる人でも誤りをおかす」という見方があるという。それは善玉と悪玉を二分する考えではなく、だれもが自己改造すれば、正しい立場に立てるというのである。これは内ゲバの論理を超える深い人間主義だと新島はいう。だが、「正しい立場」が先験的に定められている場合は、人間改造は拘束と抑圧、監視につながる思想になりかねない。
 新島にとってヤマギシ会は革命なき日本での農村根拠地のようにとらえられていた。それは党や軍がなくても、自然に広がっていく未来のコミューンのひな型なのだった。

   *

 1976年9月9日、毛沢東は亡くなる。それを追悼するために、新島は立て続けに雑誌に3本の論考を寄稿した。
 それをまとめて読んでみることにしよう。
 毛沢東とはどういう人物だったのか。新島はこう書いている。

〈毛沢東は、集団の戦闘の卓越せるリーダーであり、集団の戦闘経験の要約者、その理論家だったのである。毛沢東思想とは、なによりもたたかう集団が、集団的に形成した思想なのである。〉

 1927年に毛沢東は秋収暴動をおこし、失敗する。そこで、700人の集団とともに井崗山にこもり、そこを根拠地とした。その集団は、おなじく失敗に終わった約3万の南昌蜂起部隊(生活集団)を吸収して、大きくなっていった。
 1931年には中華ソビエト共和国臨時政府が樹立され、コミンテルン派遣の指揮官のもと、毛沢東の指導権は奪われれしまう。だが、国民党の包囲により、脱出と長征がはじまると、毛沢東の威信が高まり、1935年の遵義会議で、毛沢東が全軍の指導権を握った。
 その後も党内対立はつづくが、抗日戦争がつづくなか、毛沢東は1942年の整風運動で政敵の王明を追い落とし、1945年の中国共産党第7回大会で中央委員会主席となる。この時点で、延安を根拠地とする中国共産党の党員数は121万人、八路軍・新四軍は130万、解放区人口は9500万に達していた。
 中国共産党とは毛沢東思想集団にほかならなかった。その集団の指導権を保つため、毛沢東は常に戦いつづけ、多くの反対者を蹴落としていった。
 毛沢東思想集団とは、武装せる戦闘集団であり、生活集団でもあり、教育・宣伝隊でもあった、と新島は書いている。そして、ブルジョワを寄せつけないこの思想集団が、蒋介石の国民党を台湾に追いやり、1949年に中国全土を掌握することになる。
 ここで、新島は戦国時代に儒家を批判しながら戦いつづけた墨家集団を想起している。非攻(防衛)を唱え、統一を求め、天帝鬼神を尊んだ墨家の思想は、その後、法家の思想に吸収されていくのだが、毛沢東思想集団には、墨家集団と似ているところがある、と新島はいう。
 墨家集団には巨子が必要だった。巨子とは絶対的な権威をもつ最高指導者である。その巨子は世襲ではなく、尚賢の原則によって選ばれていた。
 新島はいう。

〈一人の「巨子」をいただき、「墨経」にも比すべき『毛主席語録』を日々に誦し、そのメンバーはみな党主席のよき学生たらんことを期している。すなわち「尚同」である。その人事は血縁によらず、すなわち「尚賢」である。基本建設のため「増産節約」の大運動が提唱され、上位者・為政者のぜいたくは一切みられない。すなわち「節用」「節葬」である。大々的に孔子批判をおこなっている。すなわち「非儒」である。そして彼らは旧中国数千年来の旧秩序・貧富貴賤の差を一挙にひっくりかえす「革命」を遂行しつつある。すなわち「非命」である。このように見てくると、現在の毛沢東集団は、天下統一に成功した現代の「墨家集団」のように見える。〉

 とはいえ、マルクス主義の衣装をまとっている毛沢東思想には、墨家のような鬼神や天志への崇敬はなかった。それに代わるものが「法」だった。
 毛沢東自身は、戦闘者集団の「巨子」という意識を持ち続けていた。「党幹部たちからみれば、何十年もかかってきずきあげた国家組織と党組織を、紅衛兵をつかってメチャメチャにしてしまう毛沢東は困った存在」だった。かれらは毛沢東の「自然死」を待ちわびるようになっていた、と新島はいう。その毛沢東はようやく死んだ。これからは党幹部が自由に中国を支配できる時代になったのだ。
 だが、大同世界、すなわちコミューン世界を求めつづけた毛沢東の思想は、毛沢東思想集団の外で、つまり自分たちのなかで革命的にうけつがれていくだろう。それが、新島の毛沢東への弔辞だった。

 新島によれば、毛沢東には伝統的思惟(思考様式)が強く、みずからを墨家だけではなく、同じく反儒家である法家の流れに位置づけようとしていたという。
法家の思想は、単に法を定めるだけでなく、この法をおこなう官吏を任用し、その実績を問うというものだ。儒家のように徳の高さや家柄で人を選ぶのではなかった。
 新島は「一九六六年のプロレタリア文化大革命の勃発から毛主席の死に至る十年間は、十億の規模で、儒家的な政治のあり方から、法家的な政治のありかたへの転換、過渡期であった」と論ずる。すなわち客観的な法(とりわけ毛沢東思想)にもとづいて、党内や軍だけではなく、人民公社や工場でも幹部が再点検され、社員、労働者が自己点検をおこなう制度が確立された。理論(言葉)と実践の一致が求められた。
 矛盾(矛と盾)という概念の出典は法家の『韓非子』。ヘーゲルのいう弁証法での矛盾とはことなる。韓非子は絶対的な君主と絶対的な賢者との関係を矛盾ととらえ、暴力だけでも、知恵だけでも国は治まらないとした。国を治めるには、客観的な法にもとづき、権勢を手放さねないことが重要だった。ここから憲法にもとづいて、プロレタリア独裁を維持するという考え方がでてくる。毛沢東思想と韓非子は近い、と新島はみている。

 新島は毛沢東には神秘好み、超越的で常識はずれのところがあったとも書いている。それが、かれを詩人にしたゆえんだ。毛沢東の詩には神仙や神女、神話や伝説の人物がよく登場する。
 しかも、毛沢東は型破りの道化でもあった。傲岸不遜、無組織、無規律をもいとわない「いたずら者(トリックスター)」だった。
 新島は「私は毛沢東が一身にして「トリックスター」=フールの役割と王権の役割を兼ねた『文化英雄』だと考える」と書いている。そして、その毛沢東が生みだした分身(集団的フール)が紅衛兵なのだった。
 だが、新島はけっして紅衛兵運動を否定したわけではない。「私は、文化大革命が、単なる権力闘争に終わらなかったのは、いわば一見無規律に見えるこのような[ばかな]行動があったからこそ、中国の現体制は万人の幸福な生の実現という共産主義の根本理念からの、ラジカルな批判の光に照らされることができたのだと思っている」と書いている。
 新島のなかで、毛沢東は中国四千年の呪術文化を背負った「神」としてすでに遠望されるようになっていた。毛沢東は戦争を勝ち抜き、戦国の世を統一した、秦の始皇帝のような文化英雄だった。だが、新島がかつて毛沢東に感じていたコミューンの夢は、すでに中国から失われようとしていた。

   *

 1978年春、新島は妻子を残したままヤマギシ会を出た。中国もヤマギシ会も変質してしまったと感じるようになっていた。そのとき書いたのが、本のタイトルにもなっている「私の毛沢東」である。
「たしかに、勝利した権力者の毛沢東がいる。しかし私の毛沢東はコミューンの夢を追いつづけて格闘した一人のマトリストなのである」と新島は書く。マトリストとは何かはさておき、先に進む。
 毛沢東は人類史上空前の権力を握った。だが、毛沢東は中国史上ではじめて子に権力を譲らなかった権力者である。
 毛沢東は息子の毛岸青を厳しく教育し、モスクワから戻ってきたあとも、農民と一緒に生活させて、農業を学ばせ、それから義勇軍として朝鮮戦争に送りこんで死なせた。親としての愛情がなかったわけではないだろう。
 新島は大学教授の職を捨て、妻子とともにヤマギシ会にはいり、農業に従事した。その後、息子は百姓をやるというようになった。
 ここでマトリストの説明がはいる。マトリストという概念はラトゥレット・テーラーの『歴史におけるエロス』から借りたもので、それほど知られたものではない。
新島によると、毛沢東は極端なマトリストで、強力なハード・エゴの持ち主だったという。
 マトリストは、母親志向で、叛逆と欲望の解放を志向する人のことである。ハード・エゴとは自分を決して曲げない権力者的な性格を指す。その方向は暴力と性の噴出である。
 ちなみに、マトリストの反対はパトリスト(父親志向)で、要するに権威主義者である。ハード・エゴにたいしては、けっして腹を立てぬ、おとなしいソフト・エゴの持ち主がいる。テーラーによれば、人間の性質はこの4つの要素の組み合わせからなるというわけだ。
 こういう心理学的分類にどれほど意味があるかはわからない。ともかく、新島は毛沢東がマトリストでハード・エゴの持ち主だったという。
 毛沢東は中国の家父長制社会の掟に叛逆し、中国史上はじめて子に権力を伝えない王朝を築いた。だが、権力者である毛沢東はコミューンというものを権力者的にしか理解できなかった、というのが、ここでのポイントである。
 毛沢東にとって革命とは政治形態としてのコミューンをつくることだった。それが人民公社である。だが、その試みは挫折し、そこから巻き返すために毛沢東は文化大革命を発動した、と新島はみる。
 毛沢東はコミューンの夢を追いつづけた。コミューンには給料はなく、あくまで供給制によって運営される。日常必要な物資はすべてコミューンによって供給される。生活はだいたいが平均的、食事は公共食堂で食べ放題、子どもはみんなで面倒を見る、教育費や老後の心配はいらない。毛沢東の唱えたこうしたコミューンを、日本ではヤマギシ会が実現しようとしてきた、と新島は思っていた。
 だが、新島がヤマギシ会を離れたのは、そこに政治(そしておそらく宗教)があったからだという。ヤマギシ会は収入を得るために、都市住民の需要に応える農業法人としての性格を強めるようになった。そのため多くのメンバーが1日に15時間も働かされていた。その奴隷労働を管理するための監視や、本人の意向を無視した人事配置もおこなわれた。養鶏の機械化も進んでいる。ヤマギシ会が消費者の圧力によって変質していくのに、新島はたえられなくなった。
 それは毛沢東批判にもつながった。毛沢東はコミューンの夢を求めつづけたにもかかわらず、コミューンを政治形態、つまり国家の下部組織ととらえていた。毛沢東の死によって、人民公社の夢はついえた。文革に「終結宣言」が出されると、鄧小平のもとで中国の国家主義化が進められていく。「四つの現代化」は、まさに反コミューン的な政策だ、と新島は断言する。
コミューンはほんらい政治とは無関係なものだ、と新島はいう。

〈生活とは、食べ、着、住み、ねむり、排泄し、性交し、子を育て……ということだが、その核心はいうまでもなく食べものをつくるということである。そのためには、人はひとりで自然の循環のなかにはいるのではなく、群れをつくって食べものを採集し、育てるのである。そこでは政治は必要ない。政治の生まれるはるか以前から、政治がなくなるはるかな未来をつうじて、ヒトの生活はじつはコミューンにおいていとなまれるのである。政治は、この、食べものをつくることをしないで、この共同体の外にはじきだされた者が、つまり都市の人間が、食べものをつくらせようとしてやることなのだ。〉

 ヤマギシ会を離れてからも、そんなことを考えていた。

   *

 毛沢東死去から2年後の1978年、日中平和友好条約が結ばれ、鄧小平が来日した。そのころ、ヤマギシ会を離れていた新島は、雑誌『諸君』の求めに応じて、「文革とは何であったか」という一文を草した。
文革の最盛期、1967年から69年にかけ新島は4度にわたり訪中し、紅衛兵たちが活動する現場に立ち会った。闘争大会や武闘も目撃している。なにやら敗戦直後の熱い時代と似ていると思った。「私は紅衛兵たちの眼の輝きに私の青春を見た」と書いている。これは、日常性の割れ目から噴出した巨大な「祭」なのではないか。そして、これこそ運動としてのコミューンなのだと感じた。
 文革で躍り出た紅衛兵は7000万にのぼる。かれらを学校から解き放ち、教師や党・政府の指導者、元資本家、元地主へのあからさまな攻撃を許したのは、毛沢東だった。ただし、毛沢東自身も紅衛兵があれほど暴れるとは思っていなかった。
 紅衛兵を突き動かしたのはコミューンのイメージだった、と新島は書いている。無産階級である「公」が資産階級である「私」を打倒するのだという意識が強かった。
 1967年1月には上海で労働者、学生が蜂起し、上海人民公社(上海コミューン)が誕生する。その3月に訪中した新島は、新しいコミューン国家が成立しようとしていると感じ、文革を支持する文章をたくさん書いた。
 だが、あとから考えてみると、コミューンと国家は相容れず、「中国で実際におこったことは、むきだしの権力闘争でしかなかった」ことに気づいた。
 それから、新島は中国研究をやめ、大学研究をやめて、ヤマギシ会にはいった。学校へ行かない子供のための塾をつくろうと思っていた。
 鄧小平がふたたび登場して以来、中国は国家主義の道をたどるようになった。コミューンを支持する新島はそのことを批判している。コミューンには、公安や監獄、労働改造所、検察官や裁判官はいらないはずである。ところが、中国ではいま、だれもに記録がつけられ、進学、就職、入団、入党にあたっても、その記載をもとに判定がくだされるようになっている。
 新島は第三世界の盟主として外交を展開していくという鄧小平の主張を批判する。「四つの現代化」にも反対する。そこには文革のころとは真逆の国家主義しかみられない。国家主義のもと、人民は単なるレッテルとなった。「中国は革命からもっとも遠い国になった」と新島はいう。
 新島が求めるのは、国家主体ではなく、人民主体のコミュニズムである。
「コミュニズムのもうひとつの意味は、コミューンのイズム、すなわち、直接民主主義が実行できる小さな共同体(コミューン)を、自力でつくっていこうという思想・運動ということである」
コミューン主義の立場に立てば、国家は虚妄となる。
 鄧小平の推進する「四つの現代化」は、農業、工業、国防、科学技術を資本主義的に発展させようというもので、そこにみられるのは国家をいかに強大にするかという視点でしかない、と新島は批判する。
 文革は終わった。だが、新島のなかで文革は残っていた。
 毛沢東がまちがっていたのは、コミューンと国家を結びつけようとしたためだ。「われわれが中国の失敗から学ぶ教訓は、国家と絶縁しなければコミューンはなが続きしないということである」と新島はいう。
 だが、毛沢東時代の実態は、その後、次第にあきらかになっていく。

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