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天皇機関説事件(4)──美濃部達吉遠望(75) [美濃部達吉遠望]

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 現在の目からみれば、天皇機関説を排撃しようとする議会の動きは、ファナティックとしかいいようのない、じつに奇妙な光景をなしていたとしか思えない。それは天皇親政を呼号しながら、言論の自由と議会の権限をみずから制限しようとする動きにほかならなかったのである。
 端的にいうと、一見もっともらしい天皇機関説批判は、デモクラシーを容認する立憲君主制を、観念的な天皇親政ファシズム体制に変えようとする政治運動にほかならなかった。機関説の放逐は、天皇を支えていた実効的な機関を形式的で空虚な機関にすりかえてしまおうとする意図をはらんでいた。天皇機関説を否定する「革新派」の軍部こそじつは機関説推進者であるという逆説が生じていた。
 そのことに気づいていたのは昭和天皇自身である。
『昭和天皇実録』には、こんな記述がある。

〈3月11日月曜日 朝の天機奉伺の際、侍従武官長本庄繁より、去る9日御下問の陸軍大臣林銑十郎の議会における答弁に関し、同大臣と会談した内容を議会記録等に照らし合わせた結果につき奉答を受けられる。その後侍従武官長をお召しになり、天皇機関説排撃のために自分が動きのとれないものにされることは迷惑であるとの御感想を述べられる。午後、再び本庄をお召しになり、軍部における枢密院議長一木喜徳郎に対する非難に関し、一木には非難されるべき点のない旨を仰せになり、その根拠として同人の宮内大臣時代の事例を挙げられる。〉

 昭和天皇は天皇機関説にたいし、9日に面会した陸軍大臣が前日の議会でどのような答弁をしたかを入念にチェックしている。そのあとで、「天皇機関説排撃のために自分が動きのとれないものにされることは迷惑である」と述べている。明らかに天皇機関説排撃がみずからの身におよぼすマイナスの影響を心配している。
 それに加え、長く側近を務めた、美濃部の師でもある一木喜徳郎が、天皇機関説を理由に枢密院議長の座から追われることを警戒していた。
 また、こんな記録もある。

〈3月28日木曜日 天皇機関説についてのお考えを示される。また翌日の午後、侍従武官長をお召しになり、天皇機関説につき陸軍が内閣総理大臣に迫り解決を督促するのではないかと御下問になる。また憲法4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ」につき、すなわち機関説であるとのお考えを示される。〉

 昭和天皇ははっきりと天皇機関説を支持すると表明している。陸軍が政府に迫って、天皇機関説を排除することを警戒していた。
 昭和天皇はみずからが国家の最高機関であることを意識していた。天皇個人の意思と天皇としての国家の意志は区別されねばならない。それでも昭和天皇は個人としての意思さえ表明できなくなること、すなわち政治にたいしてみずからの意見を述べることさえできなくなることを恐れていたのである。
 だが、天皇の個人的な意見が世間に広く伝わることはない。それが天皇機関説の機関説たるゆえんである。もし国家的意志とは異なる天皇の個人的意思が一般に伝わったなら、国家は大混乱におちいることもありうるだろう。帝国憲法はそれを禁じていた。天皇は憲法の条規に従い、国家の機関としての役割を担わなければならない。
 天皇の個人的意思とは裏腹に、3月の議会終了後、政府は貴族院の建議と衆議院の決議にもとづいて、美濃部達吉の天皇機関説に何らかの処分を下さなければならなくなった。
 当初、政府は、美濃部が不穏当な箇所について、自発的に著書の用語の是正、字句の修正をおこなえば、それでよしとし、あえて学説を禁止するような措置をとるのは避けたいと考えていた。
 だが、軍のほうはそれでは収まりそうになかった。とりわけ、青年将校のあいだでは、機関説排撃の空気が強くなっていた。数多くの民間右翼団体も各地で天皇機関説排撃集会を開き、気勢を上げていた。こうした激しい突き上げのなかで、政府の姿勢も揺らいでくる。
 4月6日、皇道派の陸軍教育総監、真崎甚三郎は全軍に国体明徴の訓示を発した。「最近わが国体観念に関し世上種々謬(あやま)れる言説が行われているが、かかる謬説はわが国体観念上絶対に相容れざる言説であるから、軍人たる者はかかる言説に過(あやま)られず、軍務に益々(ますます)励精して崇高無比なる我国体の明徴を期すべし」というものである。
 真崎は、もし政府が天皇機関説にたいし微温的な態度をとりつづけるなら倒閣もやむなしとさえ考えていた。
 4月7日、美濃部達吉は東京地方検事局に任意出頭し、共産党のスパイM事件でも辣腕を発揮した思想第一部長、戸沢重雄検事をはじめとする6検事の取り調べを受けることになった。江藤源九郎衆議院議員が過日、達吉を不敬罪で告発したことに関して、本人から事情を聴くというのが、その理由である。
 新聞によると、当日の7時すぎ、富坂署の高等主任らが小石川区竹早町の美濃部を訪れ、「大島絣に紬の袴、茶の二重廻しを羽織った63歳の老博士」を案内して、司法省内の取調室に向かった。法政大学教授で息子の亮吉がそれを見送った。
 取り調べを担当する戸沢にとって、達吉は東大での恩師にあたる。それでも思想検事としては、厳格な取り調べをおこなわざるをえない。
 検察聴取書によると、最初に達吉は日本の国体が民族精神にもとづき、憲法の基礎をなしていることを強調しつつ、天皇機関説は国体に反するものではないし、天皇への不敬にわたるものとは考えられないと述べている。
 そのうえで、あらためて天皇機関説を次のように説明した。
「日本憲法の解釈といたしまして、私は周知のごとく国家を法人と観念いたし、国家統治の権利は国家に属し、天皇は国家の最高機関として、国家に属する統治の権利を行使せらるる権能を有したもうものと解しております」
 国家は主権を有する法人ととらえることができるというのが達吉の考え方である。その国家において、天皇は国家の最高機関と位置づけられる。いっぽう議会もまた国家の機関とみなされる。
 天皇即国家と観念することは国民的感情としては理解できるが、法律的に観察すれば、天皇と国家を同一とみなすことはできないとも述べている。なぜなら天皇の私的な意思が直接国家の意志となるわけではないからである。たとえば国家間の条約にしても、それは国家と国家の約束であって、天皇と外国との約束ではない。
 こんなふうに説明しながら、達吉は天皇は元首にほかならないが、「議会その他の国家機関を包括的に指す概念としては他に適当な言葉は見出しえませんので、最高機関なる語を変更することはただいまのところ困難であると思います」と述べ、天皇機関説を取り下げる考えはないことを表明した。
 ここでは、みずからの説が不敬罪にあたらないことを証明するのが目的である。天皇機関説の排撃が、天皇を神格化し、軍隊と同様、議会を天皇の議会にする意図をもっていると主張するわけにはいかなかった。
 検事は憲法第3条、すなわち「天皇は神聖にして侵すべからず」の条規について、達吉の解釈を問いただした。
 達吉は答える。上御一人は御一身のみならず、国の元首、皇室の家長、陸海軍の大元帥、最高祭主、さらには栄誉の源泉という地位をお持ちになり、神聖にして侵すべからざる存在である。しかし、立憲制のもとにおいては、国務上の大権に関しては国務大臣が輔弼(ほひつ)することになっている。天皇の詔勅で重要なのは法律、勅令、条約であるが、これらは国務大臣の輔弼によってなされるものであり、議会でもまた一般国民の自由としても、これらを批判し論議することは認められている。こうした国務上の詔勅を論議することは、けっして天皇にたいする不敬には当たらない。
 ただし、と達吉は注釈を加える。国務に関する詔勅以外の道徳上の詔勅に関しては、天皇の思し召しという色彩が強く、これを批議することは天皇の尊厳を冒瀆するおそれがある。そのことを著書に記さなかった点は、多少不十分だったと達吉は認めた。
 ここで、達吉が道徳上の詔勅というのは教育勅語のことである。「教育勅語は国務に関する詔勅と見るよりは、明治天皇ご自身の御教えということになりますから、現在の考えといたしましては、道徳上のみならず法律上も非難を加えることが許されないと考えております」
 自分の著書が、あたかも教育勅語についても論評しうるかのような誤解を与えたとすれば、「いささか用意において欠くることがあったと思います」と、達吉は著述の一部に関し、不用意な過誤があったことを認めた。
 しかし、みずからの憲法学説が世上の物議をかもし、不敬だと言われていることは、いずれも誤解もしくは曲解にもとづくもので、そのことに関しては、ほとんど自分に責任がないと言いきっている。
世間に誤解を招くような語句を用いたり、解説が不十分だったりしたことが、物議を惹起する原因になった点については責任を感じてはいるが、いまさら学説を修正変更する必要は認めてはいないとも断言した。
 さらに、『逐条憲法精義』や『憲法撮要』については、多くの瑕疵(かし)があるため、なるべく早く絶版にして書き直したいと思っているが、現在書店にある書物の発売を停めたり、読者の手にある書物を自費その他の方法で回収するような考えは毛頭ないと答えている。
 そして、取り調べの最後にこう述べている。
「私は世上の問題となったことについて、別に責任をとるべき筋合いではないと思いますので、もちろん現在公職を辞するなどという意思はないばかりでなく、いまだかつてさようなことを考えてみたこともありません」
 取り調べは昼食と夜食に費やした2時間を除き、正味14時間におよんだ。深夜、自宅に戻った達吉は、長時間の取り調べの割には元気で、待ち構えていた朝日新聞の記者に「自分は何も間違ったことを言っているのでもないのだから学説を変える等のことは絶対にありえない」と語った。
 検事局の意見は出版法26条の罪にはなるが、不敬罪に関しては不起訴とする方向でほぼ固まっていた。だが、連日の審議にかかわらず、その結論はずっと先に持ち越された。
 検察当局の司法処分はなかなか決まらない。だが、取り調べから2日後の4月9日、内務省は美濃部の『逐条憲法精義』、『憲法撮要』、『日本憲法の基本主義』の3著を発禁(発売頒布の禁止)とし、『現代憲政評論』と『議会政治の再検討』の2著の字句修正を命じると発表した。

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天皇機関説事件(3)──美濃部達吉遠望(74) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部達吉が「一身上の弁明」を終えると、議会では事態が収拾されるどころか、議員のあいだからさらに天皇機関説を糾弾する声が巻き起こった。天皇機関説はすでに学術の場から政治の場に引きだされていた。
 2月27日には陸軍少将で衆議院議員の江藤源九郎が衆院予算総会で美濃部学説を攻撃し、翌日、美濃部の著書が不敬罪にあたるとして、東京地方検事局に告発状を提出した。江藤はさらに3月7日にも、美濃部を追加告発している。
 貴族院では菊池武夫、井上清純(きよずみ)、井田磐楠(いだ・いわくす)、三室戸敬光(みむろと・たかみつ)らの国家主義者が美濃部討伐でタッグを組んだ。
 3月4日の貴族院予算総会で、研究会(貴族院の最大会派、子爵の集まり)所属の三室戸敬光はおよそ次のように発言した。
 今日、満州事変を契機として、全国民の意識が皇国精神に満ちているときに、壇上から天皇の主権説を排し、機関説を維持するような言辞を聞くにいたっては、これを放置することはできない。美濃部の機関説は君主主権をうやむやにするばかりか、天皇をまるで一会社の社長のように扱うものだ。天皇の大権は権利ではなく権能だというのも日本民族に脈々と伝わる尊皇精神に反する。天皇の大権が万能ではないというのも、じつに不謹慎きわまりない。議会は原則として天皇の命令に服するものではないという言い方も是認できるものではない。
 三室戸はそう美濃部説を批判したうえで、岡田首相の考え方を問うた。
 これにたいし、首相は「わが国体まことに尊厳なるものでありまして、言葉をもって現わすことのできないものであります」と答えたうえで、「私は天皇機関説を支持する者でもありませぬ」と明言した。
 三室戸がさらに「総理大臣はこの説は日本に許すべからざるものである」と考えているかと迫ると、岡田は「これは深く考究しなければならぬ問題だと思います」と逃げを打った。
 だが、いずれにせよ岡田が天皇機関説不支持を明言したことで、達吉は政府から距離を置かれる存在になった。
 3月5日、衆議院では政友会の大物、山本悌二郎(ていじろう、元農相)が天皇機関説を排撃するため、政友会議員有志の会合を発足させた。それ以降、衆議院では多数派野党の政友会が機関説撃滅の音頭をとることになる。それにはもちろん岡田政権打倒の思惑もからんでいた。
 3月8日、貴族院では公正会(貴族院第2会派、男爵の集まり)に所属する菊池武夫、井上清純、井田磐楠が質問に立ち、美濃部の憲法学説について、政府の考えを追及した。
 最初に演壇に立った菊池は、美濃部の弁明以来、機関説が「天下の大問題」になったと論じ、その所論が「自然に神ながらに発生いたしましたる民族国家と全く相容れざるもの」であると指摘した。さらに、「国体を明徴にし、日本精神を発揚して国本を固くせられることは輔弼(ほひつ)の重臣たる首相の最大急務だ」として、各大臣に今後、どういう処置をとるのかと尋ねた。
 岡田首相は菊池男爵に同感であり、自身も機関説には賛成しないとしながらも、何らかの措置をとることについては慎重に考慮する考えだという答弁をくり返した。海軍大臣の大角岑生(おおすみ・みねお)は軍人として「わが国体の世界無比尊厳なること」は「一切の議論を超越し」ており、この信念に反するがごとき言論は承服できないと述べた。さらに陸軍大臣の林銑十郎(せんじゅうろう)も、天皇機関説は「国体観の信念というものとは相容れない」と論じ、機関などという用語を用いること自体が「心持ちよく感じない」、われわれは明治天皇の勅諭を奉戴し、「一意専心国軍の伝統的の精神の発揮に努めております」と、天皇機関説を真っ向から否定する立場を示した。
 次に質問に立った井上清純は、統治権の主体は国家であり、天皇は国家の最高機関だというのが美濃部の天皇機関説だと紹介しながら、いっぽう軍人勅諭は皇軍の第一義が国体の擁護にあり、天皇親政の擁護にあるとしているが、だとすれば機関説などというものは国外に放逐しなければならないのではないか、と軍務大臣に質問した。さらに文部大臣には、憲法の勅語にはどこからみても機関説はでてこないのであって、その学説を取り締まり、処断することが文相として輔弼の第一の責任だと迫った。
 これにたいし、林陸相は天皇機関説の放逐については、閣僚の意見も聞いて、その点に努めたいと述べ、大角海相は慎重のうえにも慎重に考慮したいと答弁した。松田源治文相も機関説には賛成できないとしながら、機関説はこれまで長きにわたって唱えられてきたのだから、それを禁止するとなると、このことが教育にどのような影響を及ぼすかを慎重に考慮する必要があると発言した。
 井上はさらに、岡田首相に向かって、天皇を機関というのは「御上に対し奉り最大の不敬語」ではないかとただした。岡田は「私は国体について言議を費やすということは誠に恐懼(きょうく)に堪えぬこと」だと前置きしながらも、美濃部学説の処置については「最も慎重考慮をいたす考えであります」と、あくまでも慎重な態度に固執した。
 最後に立った井田磐楠は、きょうは「化粧立[相撲で仕切り直しのこと]」、前哨戦で質問はしないと宣言しながら、総理の答弁には不満足である、これを処断するのに何ら躊躇逡巡はいらないと激越な口調で政府に断固たる処置を求めた。
 貴族院は天皇親政をかかげる国粋主義者の勢いに引っぱられていこうとしていた。
 この日、院外では右翼団体、黒竜会が中心になって、機関説撲滅同盟が結成された。頭山満、岩田愛之助、五百木良三、西田税、蓑田胸喜、江藤源九郎などが顔をつらねている。機関説撲滅同盟はその後、上野精養軒で600名以上にのぼる大集会を開き、天皇機関説の禁止と美濃部一派(枢密院議長の一木喜徳郎や法制局長官の金森徳次郎を含む)の公職追放ならびに自決をうながすことになる。
 帝国在郷軍人会[予備役軍人の全国組織]も天皇機関説排撃のために動きはじめていた。
 衆議院では3月12日の本会議で政友会の重鎮、山本悌二郎(ていじろう)が天皇機関説について40分にわたる緊急質問をおこなった。
 最初に山本は「不注意や不用意の間に、天皇機関説がそのまま看過されたる過去はともかくとして、すでに今日一般公然の問題となり、焦点となりました以上は、これをこのまま放任すべきものでは断じてないと信じる」と述べたうえで、「天皇と申す主体を別にしては、日本の国家は絶対に考え得られない」と論じ、それは太陽を除いては太陽系の存続が考えられないのと同じで、天皇と国家は不分不離、不二一体であることこそ、「わが国体の精華」だと強調した。
 そして、美濃部の天皇機関説を「究極する所、統治の権利はどこどこまでも国家に固有のものであって、天皇に固有のものではない、天皇は国家が有するところの統治権を行うにすぎない、即ち天皇は機関であるということに帰着する」と要約し、これは「重大なる錯誤、錯覚」であり、「全然わが国体の現実と相容れざるもの」、「否、わが国体を無視するもの」と断言する。さらに美濃部説によると、天皇は会社の社長と同じような存在となり、「さあこれで天皇の尊厳が傷つけられず、これで国民の伝統的観念が攪乱されずしてやみましょうか」とあおり立てた。
 政府側は海相と文相、首相が答弁し、それぞれ天皇機関説にたいする措置を慎重に考慮したいと述べたが、山本は政府の答弁には不満であるとして、国体を明徴にするという首相の方針にもとづいて、徹底した措置を求めた。
 質問をしめくくるさいの山本の発言は、ほとんど脅しに近いものだ。

〈今日は我が帝国は、ようやく欧米心酔の迷夢から覚めまして、初めて帝国固有の大精神に蘇らんとしつつある秋(とき)であります。かような秋であればこそ、この二三十年も放ったらかしておいた天皇機関論なるものが問題になっているのであります。いわんやこの学説に対しては、駁撃(ばくげき)の声が澎湃(ほうはい)として天下に漲(みなぎ)っているのであります。これをこのまま解決せずして、このままに放っておくということであったならば、人心の激するところ、いかなる事態を惹起(じゃっき)すかも分からぬと、私は深き憂いをもってこの成り行きを見ているのであります。〉

 天皇機関説放逐を求める衆議院での動きを受けて、貴族院では3月14日に公正会と研究会の有志が集まり、政府に断固たる処置を求める建議を提出することになった。建議案づくりはもめにもめた。穏健派はそれをできるだけゆるやかなものとし、天皇機関説に直接ふれず、政府に「国本を確立するとともに、国民精神の振作に努められることを望む」といった文案にしようとした。しかし、強硬派は納得しない。最終的に「国体明徴」という言葉を建議案にいれ、それによって天皇機関説を中心とする憲法学説を否定する意味合いをもたせることが決まった。3月18日のことである。
「政教刷新に関する建議案」は次のようなものとなった。政教とは政治と教化(教育)を意味する。

〈方今人心動(やや)もすれば軽佻詭激(けいちょうきげき)に流れ政教時に肇国(ちょうこく)の大義に副わざるものあり 政府は須(すべから)く国体の本義を明徴にし我(わが)国体の国民精神に基き時弊を革(あらた)め庶政を更張し以(もっ)て時艱(じかん)の匡救(きょうきゅう)国運の進展に遺憾なきを期せられんことを望む〉

 要するに、天皇機関説を取り締まれということだが、その主張はいかにも貴族院らしく、厳かで抽象的な文言に包まれていた。
 参議院の建議案は3月20日の貴族院本会議に上程され、全会一致で成立した。
 いっぽう、衆議院でも参議院に合わせて、天皇機関説を排撃する決議案をつくろうとする動きが強まっていた。
 その前に、衆議院では治安維持法改正委員会が開かれ、政友会の諸議員が岡田首相、後藤内相、松田文相、小原法相、さらに金森(徳次郎)法制局長官に美濃部を中心とする天皇機関説を取り締まるよう迫っている。
閣僚は「誠意をもって考慮し、善処する」などと答弁したものの、注目されたのは天皇機関説論者と目されている金森の答弁だった。金森は「自分が著書において『機関』という文字を用いているのはただ学問上の説明方法として用いているのであって、世のいわゆる機関説論者と自分の学説とはその基礎観念において相違しているのである」と苦しい言い訳をした。
 衆議院で天皇機関説を排撃する決議をつくろうとする動きを推進したのは政友会の強硬派で、総裁の鈴木喜三郎はどちらかというと乗り気ではなかった。だが、その強硬派が民政党や国民同盟にも呼びかけて、三派合同で「国体に関する決議案」がつくられと、総裁としても、それに賛同しないわけにはいかなくなる。
 こうして、3月23日の衆議院本会議に同案が緊急上程され、満場一致で可決されることになった。その決議は貴族院の建議よりもより簡潔で、天皇機関説排撃の意図をより露わにするものだ。いわく、

〈国体の本義を明徴にし人心の帰趨を一にするは刻下最大の要務なり。政府は崇高無比なる我が国体と相容れざる言説に対し直(ただち)に断乎たる措置を取るべし。〉

 こうして貴族院の建議と衆議院の決議が出そろったことで、3月25日の通常議会閉会前に、バトンは議会から政府の手に移ったことになる。こんどは政府が対策を打ちださなければならない番となった。

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天皇機関説事件(2)──美濃部達吉遠望(73) [美濃部達吉遠望]

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 貴族院の議場で、美濃部達吉による憲法講義がはじまっている。
 達吉は帝国憲法の基本が「日本の国体を基礎とする君主主権主義」にあり、これに西洋からの立憲主義が加わったものだと説明する。すなわち、「君主主権主義に加うるに立憲主義をもってした」ものが日本の憲法であって、日本は立憲君主制をとっている。
 日本が前近代的な君主国ではなく、近代的な立憲君主国であることを、達吉は口が酸っぱくなるほど説明する。
 そして、立憲君主国においては、天皇の統治大権は権利ではなく権能とみなされるべきであり、さらにそれは万能無限の権力ではなく、憲法の規定にしたがった権能だと話した。
 天皇はみずからの利益のため国家を統治しているのではない。しかも、天皇は憲法にもとづき、国を統治するという役割をはたしているのだ。
 このあたりの感覚は蓑田胸喜や菊池武夫らの国粋主義者には理解できなかった。天皇は制度ではなく、あくまでも伝統にほかならない。もっと露骨にいえば、かれらは憲法などどうでもよく、ひたすら天皇を讃仰することを通じて、みずからの権力をふるえればよかったからである。
 こうした国粋主義者が増えていくなかで、天皇機関説を説明することは困難をきわめた。
 達吉はいう。

〈いわゆる機関説と申しまするのは、国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、すなわち法律学上の言葉をもって申せば一つの法人と観念いたしまして、天皇はこの法人たる国家の元首たる地位にいまし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬(そうらん)したまい、天皇が憲法にしたがって行わせられまする行為が、すなわち国家の行為たる効力を生ずることを言いあらわすものであります。〉

 さらに、こうも説明した。

〈卒然として天皇が国家の機関たる地位にいますというようなことを申しますると、法律学の知識のない者は、あるいは不穏の言を吐くものと感ずる者があるかもしれませんが、その意味するところは天皇は御一身、御一家の権利として統治権を保有したもうのではなく、それは国家の公事であり、天皇は御一身をもって国家を体現したまい、国家のすべての活動は、天皇にその最高の源を発し、天皇の行為が天皇の御一身上の私の行為としてではなく、国家の行為として効力を生ずることを言いあらわすものであります。〉

 達吉は立憲君主国における君主とはなにか、天皇とはなにかを、ごくあたりまえの見方として説明したにすぎない。天皇は憲法によって定められた機関、すなわち公的な制度である。
 帝国憲法のもと天皇は統治大権を有していたが、それはみずからがすべての政治的・軍事的決定をくだすことを意味しはなかった。むしろ、天皇は政治に容喙(ようかい)しないことが暗黙の原則となっていた。
 実際には政府と軍が天皇を補弼(ほひつ)するかたちで、天皇の名のもとに具体的な政策や活動を実施していた。
 議会はそれを監視する機関として存在するはずだったが、その力は抑えこまれようとしていた。そして、最大の問題は統帥権の名において軍が政府から相対的に独立していたことである。
 もちろん、そんなことは議会で堂々と言えることではなかった。
 達吉が強調するのは、天皇の大権が万能無制限の権力ではないということである。

〈君主が万能の権力を有するというようなのは、これは純然たる西洋の思想である。ローマ法や十七八世紀のフランスなどの思想でありまして、わが歴史上におきましては、いかなる時代においても、天皇が無制限なる万能の権力をもって臣民に命令したもうというようなことはかつて無かったことであります。天の下しろしめすということは、決して無限の権力を行わせられるという意味ではありませぬ。〉

 国粋主義者が天皇の無制限の権力を強調するのにたいして、達吉は歴史上、天皇が無限の権力をもたないことが日本の伝統であったことを指摘し、現在においても「天皇の統治の大権が、憲法の規定に従って行わせられなければならないものであるということは明々白々」だと論じた。
 さらに、議会を天皇の命令に服従しないものとみていると菊池が美濃部説を論難した点についても達吉は反論し、あらためて憲法で定められている議会の役割が何であるかを諄々(じゅんじゅん)と諭している。
 議会が天皇に服従しないというのは、天皇の命令によって議会が審議をおこなうわけではないということにほかならない。

〈詳しく申せば議会が立法または予算に協賛し、緊急命令その他を承諾し、または上奏および建議をなし、質問によって政府の弁明を求むるのは、いずれも議会の自己の独立の意見によってなすものであって、勅命を奉じて、勅命にしたがって、これをなすものではないと言うのであります。〉

 達吉は憲法にもとづく議会の独立性を主張する。議会は国民代表の機関であって、天皇の機関ではない。天皇が議会に命令することはない。

〈議会が天皇のご任命にかかる官府ではなく、国民代表の機関として設けられていることは一般に疑われないところであり、それが議会が、[天皇の諮問機関である]旧制度の元老院や今日の枢密院と、法律上の地位を異にするゆえんであります。〉

 議会は国民代表の機関であり、国民の意見を表明する場である。それは憲法によって保証されていることを達吉は強調したかったにちがいない。
「一身上の弁明」をしめくくるにあたって、達吉は怒りを抑えながらも、かなり強い口調で、こう述べている。

〈以上述べましたことは憲法学においてきわめて平凡な真理でありまして、学者の普通に認めているところであり、また近頃にいたって初めて私の唱えだしたものではなく、三十年来既に主張し来ったものであります。今にいたって、かくのごとき非難が本議場に現れるというようなことは、私の思いもよらなかったところであります。……私の切に希望いたしますのは、もし私の学説について批評せられまするならば、処々から拾い集めた断片的な片言隻句(へんげんせきく)をとらえて、いたずらに讒誣(ざんぶ)中傷の言を放たれるのではなく、真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明らかにし、真の意味を理解して、しかる後に批評せられたいことであります。これをもって弁明の辞といたします。〉

 みずからの学説にたいする自信がみなぎっていた。
 達吉の弁明にたいし、貴族院ではめずらしいことに、パラパラと拍手もおこった。
 達吉を非難した菊池男爵も納得し、沈黙するかのようにみえた。だが、そうではなかった。
 翌日の新聞は、及び腰とはいえ美濃部の弁明をわりあい好意的に伝えている。
 ところが、「東京日日新聞」に連日評論を掲載している徳富蘇峰は、美濃部にたいする敵意をあらわにした。「外国の国体論を、ただちに日本の国体論に適用することは、断じて不可能」であり、「天皇機関などというその言葉さえも、口にすることを、記者[蘇峰]はこれを口にすることを、日本臣民として謹慎すべきものと信じている」と述べている。
 その理由として挙げられたのが「日本国体の尊厳は、肇国(ちょうこく)の当初から、皇室中心の国家であるがためだ」という理屈にならない理屈だった。まるで天皇を論じること自体が不敬にあたるといわんかのようである。昭和初期に天皇を神聖視する風潮がいかに広がっていたかがわかる。
 こうした空気のなかで、美濃部を支持する側は、そのことをはっきりと表明することもできず、遠回しに美濃部説は国体に反するものではないと主張することが精一杯だった。
 評論家の長谷川如是閑(にょぜかん)は「読売新聞」に「現在の美濃部博士の学説に関する問題のごときも、法的形態として国家を観る学問と、道徳形態としてこれを観る学問との方法、態度の差から来た争いではないかということを、双方がまず冷静に考慮する必要がある」と論じ、天皇機関説を政治問題化しないように提唱した。そうした考えは三木清も同様だった。
 詩人の土井晩翠(ばんすい)は「東京朝日新聞」に「私は美濃部博士とは一面識もないが、博士が忠良の臣民であり、所信に忠実な人格者であることは疑いない」と美濃部をかばいながら、「天皇の大権問題等に関しては神聖の沈黙を守るべきものと思う」と、議論が白熱化するのを避け、この問題をここで打ち切るよう提唱した。
 だが、天皇機関説事件は達吉による「一身上の弁明」をへて、むしろより大きく事件化していく。天皇を国家の最高機関とする制度論的なとらえ方は、天皇即国家、国家即天皇という感情の奔流のなかに押し流されようとしていた。

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天皇機関説事件(1)──美濃部達吉遠望(72) [美濃部達吉遠望]

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 事件は1935年(昭和10年)2月18日にはじまった。
 そのあらましを達吉の弟子、宮沢俊義は『天皇機関説事件』のなかで、次のようにまとめている。

〈この事件のよって来るところは、遠く、かつ、深いが、もっぱら現象的に見ると、それは1935年(昭和10年)のはじめ、貴族院における議員の質疑をきっかけとして起こり、政府は、議会両院の要望や、軍の圧力におされて、機関説の代表者としての美濃部達吉の諸著作の発売禁止処分を行ない、文部省の訓令や再度にわたる内閣の声明によって、教育界や言論界を通じて、機関説という憲法学説を禁止するに至った。これが事件のあら筋である。その限りでは、この事件は、1935年のうちにはじまり、そして、終わった、といえる。〉

 こうして、天皇機関説は1935年から45年までの10年間にわたって禁止されることになった。
 ここでは宮沢の大著『天皇機関説事件』にもとづき、できるだけ簡略に事件の経過を追いながら、天皇機関説禁止がもった意味を探ってみることにしよう。
 その発端は2月18日の貴族院本会議で、軍人出身の貴族院議員、菊池武夫が国務大臣の演説に関連して、長々とした質問をはじめたことにある。
 菊池はまず「学徒の師表となり、社会の木鐸(ぼくたく)をもって任ずべき帝国大学の教授」が「金甌無欠(きんおうむけつ)なる皇国の国体を破壊するような」著作を公刊していることを承知しているか、と内務大臣、司法大臣、文部大臣に問いかけている。
 松田源治文相からもっと具体的にといわれて、菊池は末広厳太郎(いずたろう)の『法窓閑話』、美濃部達吉の『憲法撮要』、『[逐条]憲法精義』などを挙げる。さらに、美濃部が現枢密院議長の一木喜徳郎に私淑していたことをにおわせながら、これらの著書が「統治の主体が天皇にあらずして国家にありとか民にありとか」と公言しているとして、「これは緩慢なる謀反になり、明らかなる反逆になる」と断言した。
 ここに3年前、犬養内閣のもとで貴族院議員に勅撰された達吉の名前がでてくる。ほかにも末広厳太郎や一木喜徳郎の名前も挙げられているが、天皇機関説が「緩慢なる謀反」、「明らかなる反逆」をもたらす学説と指弾されたからには、現貴族院議員の達吉も反論せざるをえなくなる立場に追いこまれた。
 議場で答弁を求められた松田文相は、天皇機関説について、「かかる点は学者の議論にまかしておくことが相当ではないかと考えております」と、直接言及することを避けた。
 同じく、内務大臣の後藤文夫も、美濃部の著書については「ただいまのところ、ただちに行政上の処分をするというような考えをもって処してまいってはおらないのであります」と、現在処分することは考えていないが、これから検討するという姿勢をにおわせている。
 さらに、司法大臣の小原直(なおし)も、美濃部の著書については「とくと研究を致しませぬというと、これが犯罪にあるかどうかということについては、ただちに断定いたしかねる」と答えている。
 ここで、国粋主義者の蓑田胸喜(みのだ・むねき)が昨年(1934年)9月に末広厳太郎の著書に治安維持法違反と不敬罪の容疑があると検事局に告発していたことを挙げておいてもよいかもしれない。この告発にもとづいて検事局は末広を取り調べ、その結果、罪を構成しないとして、不起訴を決定した。ただし、『法窓閑話』などの著書は発売禁止となっている。
 今回、蓑田は国粋主義の貴族院議員を動かして、議会において、ついに美濃部を告発するにいたったとみるべきだろう。その背後には、もちろん軍部の後押しがある。こうして議会はほんらいの機能を放棄して、天皇機関説を告発する劇場となった。
 貴族院の議場では、菊池武夫による政府への追及がつづいている。
 菊池は時の学者、有力者にたいする司法処分が手ぬるいと指摘し、すでに裁判がはじまっている帝人事件にふれ、1月の議会で美濃部が帝人事件の取り調べがあまりに苛酷で、人権を蹂躙(じゅうりん)していると批判したことをたわごとと示唆した。
 そのうえで、ふたたび天皇機関説に戻り、これはドイツの学問の受け売りで、独創といったものではなく、こんな説を唱えるのは「学者の学問倒れで、学匪(がくひ)となったもの」だときめつけ、「日本憲法を説くには日本精神で説かなければならない」と咆哮(ほうこう)する。そして、「日本には天子様に対して対立の関係があろうはずはない。何もないところが国体であります」と宣言して、質問を終えた。
 つづいて質問に立った元宮中顧問官の三室戸敬光(みむろど・ゆきみつ)は、先ほどの文部大臣の答えにはいささか腑に落ちぬところがあると話の穂を継いで、文部大臣ははっきりと「天皇機関説なるものは、今日の大日本においては用ゆべきものにあらず」と言ってもらいたいと迫った。
 これにたいし、松田文相は「私は天皇は統治権の主体なりと考えております」と前置きしながら、機関説と主体説が以前から学説として対抗している以上、学者の論争にまかしてもよかろうと申し上げたのであるが、なお「この点はとくと考慮しまして、相当に考えるつもりであります」と答弁した。
 文部大臣から「相当に考える」という答弁を引きだしたことで、三室戸は引き下がった。
 するとこんどは元海軍軍人の井上清純(きよずみ)が質問に立ち、岡田啓介首相に天皇機関説についての考えをただした。
 岡田首相は「私も天皇は機関なりというような言葉は、用語が穏当でないと考えております」と答えたものの、「美濃部博士の著書は、全体を通読しますると国体の観念において誤りないと信じております」と達吉を擁護する立場を示した。
 井上はこの返答に満足せず、さらに「総理大臣閣下は、天皇機関説を支持しておられるや否や、この問題を明確にしていただきたいのであります」と迫った。これにたいし首相は機関説というのは「用語が穏当ではありませぬ」と述べ、「私は天皇機関説を支持している者ではありませぬけれども、学説に対して、これは私どもが何とか申し上げるよりは、学者に委ねるよりほか仕方がないと思います」と答えた。
 議会では政府の政策や、首相をはじめとする閣僚の姿勢が問われるのが通常といえるだろう。ところが、この日は、ひとつの憲法学説が取りあげられ、天皇にたいする「謀反」や「反逆」をもたらすこうした学説を唱える者は「学匪」にほかならず、政府はこれを取り締まるべきだ、と3人の国粋派の議員が迫ったのである。異様な光景だった。
 首相をはじめ閣僚も天皇機関説の内容を詳しく知っていたわけではない。岡田首相のように、ただ漠然と天皇を機関とするのは用語が「不穏当」かもしれないと感じていただけである。ところが、軍部をバックにした議員らによる強い非難に追い詰められて、政府は美濃部学説の検討を約束せざるをえなくなった。
 いっぽう「学匪」などと名指しで非難された以上、達吉としてはこれに反論しないわけにはいかない。1週間後の2月25日、貴族院の議場で、「一身上の弁明」と称する反駁(はんばく)がこころみられた。
 達吉はまず自分が「反逆者」とか「謀反人」、あるいは「学匪」などと呼ばれたことは「堪え難い侮辱」であり、こうした暴論が議長(近衛文麿)による取消命令もなく看過されたことは、貴族院の品位を損なうものだと述べている。
 そのうえで、菊池男爵がどれだけ自分の著書を理解しているかを疑うといい、「恐らくはある他の人から断片的に、私の著書の中のある片言隻句(へんげんせきく)を示されて、その前後の連絡をも顧みず、ただその片言隻句だけを見て、それをあらぬ意味に誤解されて、軽々にこれはけしからぬと感ぜられたのではなかろうかと想像せられるのであります」と、背景にも言及している。
 ある他の人とは、いうまでもなく蓑田胸喜のことである。達吉は自分への論難が、軍部に後押しされた蓑田に発することを意識していた。
 ここから演説は、日本憲法の基本的考え方、天皇の統治大権、天皇機関説、大権の限定性などの説明へと移っていく。達吉の説明を前に、議場は静まりかえっていた。

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たたかひは創造の父、文化の母──美濃部達吉遠望(71) [美濃部達吉遠望]

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 1934年(昭和9年)10月のはじめ、美濃部達吉の自宅に陸軍省から「国防の本義と其(その)強化の提唱」と題するパンフレットが送られてきた。その末尾には、読後の感想を書いて、陸軍省新聞班に送るよう一枚のはがきがつけられていた。
 達吉はその全部を熟読してみた。はがき一枚ではとても感想を書ききれない。「陸軍省発表の国防論を読む」という一文をまとめて、「中央公論」11月号に発表した。これを見た陸軍省は激怒し、達吉を憎んだ。
 陸軍パンフは、冒頭に「たたかひは創造の父、文化の母である」と宣言していた。この好戦的、軍国主義的な文言が意味するのは、「戦いによって世界を征服することが日本の使命である」という揚言にほかならない、と達吉は思った。
 さらにパンフはいう。国家の平和を保障するのは国防以外にない。世界は現在非常時にあり、もはや協調外交によっては事態を打開できない。武力こそが「皇道の大義を世界に宣布せんとする破邪顕正の大乗剣」である。
 これにたいし、達吉は「そもそも国際平和を維持することは、我が帝国の不動の方針」だとしたうえで、このような好戦的内容をもつ文書が陸軍省の名でおおやけにされたこと自体がそもそも不謹慎だと批判する。
 パンフはまた「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を芟除(さんじょ)し、真に挙国一致の精神に統一すること」を国防の要件としていた。芟除とは刈り除くことである。
 だが、と達吉はいう。

〈国際主義を放擲(ほうてき)することは、これ世界を敵とすることにほかならぬ。世界を敵としていかにして国家の存立を維持することができようか。それは結局国家の自滅を目指すものである。起草者はこれによって国家主義を鼓吹(こすい)するつもりであろうが、国際主義を否定する極端な国家主義は、かえって国家自滅主義、敗北主義に陥いるのほかはない。〉

 個人主義や自由主義を取り除くというが、これらはそもそも明治維新以来の国是であり、帝国憲法によって保証されている国民の権利だ。

〈明治維新以来世界の驚異となった我が国の急速なる進歩は、主としてはこの個人主義、自由主義の賜ものにほかならない。国民を奴隷的な服従生活の中に拘束して、いかにしてこのごとき急速な文化の発達を来すことができようか。個人的な自由こそ実に創造の父であり、文化の母である。〉

 達吉は陸軍パンフの「たたかいは創造の父であり、文化の母である」というスローガンを「個人的な自由こそ実に創造の父であり、文化の母である」と置き換える。陸軍はこれを自由主義者による反抗ととらえた。
 陸軍パンフは、さらに国防自主権ないし自主的国防権の必要性を絶叫していた。それは、軍がワシントン条約、ロンドン条約をはじめ、今後いかなる軍縮条約も許容しないということを意味する。
 それ自体、これまでの政府の方針に反するものだ、と達吉は主張する。だが、実際、日本はこの年12月にワシントン条約、それから約1年後にロンドン条約からの脱退を通告し、軍備拡張に向けて舵を切ることになるのである。
 陸軍パンフに「帝国」ではなく、やたら「皇国」という名称が用いられていることも気になった。皇国とは古語の「すめらみくに」を漢字にあてはめた表記だが、そこにも天皇の名のもとに新たな軍事国家をつくりだそうという軍部の意図が感じられた。
 国防国家の目標は、臣民の権利を奪う「法なき状態」という例外状態(非常事態)をつくりだすことだ。
 達吉は日本がますます危険な方向に向かっていることを感じていた。
 その危機感が「国家主義の思想とその限界」という一文を書かせることになる。この論考は「改造」12月号に掲載された。
 民心が標語によって支配されることは少なくないが、いまの非常時日本においては、皇道、日本主義、日本精神、国家主義、愛国主義といったことばがふりかざされ、世間に流布している、というのがその書き出しである。
 いずれも勇ましく、すこぶる美しい名称であるにちがいない。その内容はどれも日本の国体を中心とする国家主義を言いあらわしているものだが、そもそも国家主義とはいったい何か。その問題点を明らかにしてみたい、と達吉は述べている。
 国家主義は、国家政策としての国家主義と、国民思想としての国家主義のふたつに分かつことができる。
 国家政策面では、国家の目的を「国防すなわち国家の戦闘力を強化すること」に置き、「国民は単に国家の戦闘力を構成するための手段」にすぎないとする。国家主義のもとでは、国民教育も必然的に軍事教育になる。
 こうした国家主義は「最も原始的な野蛮時代の思想に属する」と達吉は断言する。
 なぜなら「現代の国家は、決して単に戦闘団体としてのみ存するものではなく、同時に国民の福利を全うするための団体であり、また列国と親交ある国際社会の一員でもある」からである。
 近代国家においては、国民は「人間として各個人がそれ自身に、自己の生存を主張しうる価値あるものとして認められている」。「各個人それ自身に絶対の価値を認むるに至ったことは、実に文化の発達がわれわれに与えた賜ものであって」、国家はこうした個人の権利を侵害してはならないとするのが近代国家の考え方だ。
 さらに、そのことは国家間の関係についてもいえる。国際関係においては、国家の正当な主張を貫徹することが武力による闘争より重要であり、「国際間の平和を保つためには、他国の正当な利益をも尊重するを要することは当然」である。
 いっぽうで、国家はもっぱら支配階級のためにのみ存在するという考え方はとらない、と達吉はいう。国家は成立した以上、それ自身に、いわば「法人」として存在する価値があり、「ただに国家の存立を維持するだけではなく、進んでますます国威の発揚と国運の隆昌とを図ることが、国家の取るべき重要なる政策でなければならぬ」。
 そのかぎりにおいて、国家主義は正しい。
 だからといって、国家には国家目的だけではなく社会目的も存在することを忘れてはならない。社会目的とは「国内に社会生活を為せる一般国民の生活の安全を保ち、その福利を全うすること」である。
 社会が乱れて国家だけが繁栄するなどということはありえない。「ことに社会の福利を全うするためには、各個人の人格を尊重し、国家の存立と社会の秩序とを害しない限度において、なるべくその自由なる活動を許すことが必要」である。
 国家主義にはおのずと限界があることを認識しなければならない、と達吉はいう。すなわち憲法にしたがって、国家は国民の自由と権利を尊重し、保証しなければならないのだ。
 さらに、国家には世界的目的もある。それは国際的協調をはかりながら、世界に貢献することにほかならない。ただし、「この目的を達するためには、単に自国の利益のみを主張することは許されない。他国の正当な利益は、十分これを尊重し、共存共栄を謀らねばならぬ」と達吉はいう。

〈国家重きか社会重きか、外に国威を張ると内に社会の幸福を図ると、いずれが主たる国策を為すべきか、国際平和を重んずべきか平和を敗って[破って]もなお自国の主張を貫徹すべきか、これらは現実の場合につき十分の考慮をもってのみ決せらるべき問題で、必ずしも一概に断定しうべき問題ではない。ただ断定しうらるる[断定しうる]所は、正当の限界を越えて過度に国家主義に傾き、社会がよくこれに堪えうるや否やをも考慮せず、国際関係がいかに成りいくべきかの見通しもつかず、妄(みだ)りに外に向かって国威を張らんとするは、かえって国家の破滅を招くゆえんであることである。殷艦(いんかん[手本])近くドイツにあり、その覆轍を踏むことは、固く戒むべきことは言うまでもない。〉

 達吉はあくまでも現実的な政治判断を尊重するとしながらも、現在の日本があまりにも過度な国家主義に傾きつつあることに懸念を抱いていた。日本はドイツを手本として、その後を追ってはならないとも警告している。ドイツのようにファシズムの道を歩んではならない。
 過度な国家主義は国民思想の統一を図ろうとするあまりに、国民の家族道徳や社会道徳を軽視しがちである。さらに、それは排外主義的な攘夷主義におちいり、国家自身の存立を危うくしかねない。また国家主義に反対する者を不逞(ふてい)不忠の非国家主義者として、暴力によって弾圧する傾向を生じがちである。
 加えて「過度の国家主義の主張は、これを信奉する者をして、ややもすれば、自己の小主観により、みずから国家に忠なりと信ずるところは[信じるあまりに]、国法を犯し、国禁を無視し、暴力をもってもこれを実現せんとの企てを誘起せしむる虞(おそれ)がある」。
 達吉は過度の国家主義を信奉する血気盛んな青年が、自己の偏狭な判断によって騒乱を引き起こすことを恐れていた。すでに二・二六事件に向けての助走がはじまっていたといえるだろう。
 軍部はすでに皇道派と統制派のふたつに割れている。直接的な武力行動によって権力を奪取しようとするのが皇道派だとすれば、クーデターによることなく思うままに内閣を動かす勢力を築こうとしているのが統制派であり、統制派は皇道派の動きを牽制する立場にあった。
 先の陸軍パンフは、皇道派と統制派の共通項を拾いあげたもので、いずれにせよ、これに反対する者は敵とみなされた。達吉はこれにたいし、あらためて近代国家としての日本のあり方を問うたのである。
 緊張が高まっている。

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岡田内閣の発足──美濃部達吉遠望(70) [美濃部達吉遠望]

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 当初、犬養毅に代わる緊急避難内閣とみられていた斎藤実内閣は意外にも2年2カ月にわたって政権を維持した。それは政党、軍部、官僚からなる挙国一致内閣の形態をとっていたが、次期政権をねらおうとする動きは当初から存在した。
 議会で圧倒的な議席を誇る政友会は、政権に高橋是清を蔵相として送りこみ、高橋の辞任をちらつかせながら、政友会内閣の復権を模索していた。だが、斎藤首相は解散をにおわせて政友会を牽制し、高橋の取りこみを維持する。不況の克服と農村の救済を考えれば、高橋の手腕は政権に欠かせなかった。
 いっぽう、陸軍は荒木貞夫を陸相に送りこみ、軍を中心とする「革新政策」を実現しようとした。だが、経済政策ではとても高橋是清にはかなわない。荒木は病気を理由に辞任し、陸相は林銑十郎に代わった。こうした経緯により、陸軍内の荒木の人望、とりわけ青年将校の期待は地に墜ちた。
 斎藤実は老練に政友会や軍部を操りながら政権を維持した。だが民間右翼にたきつけられた新聞が暴く数々のスキャンダルを、ついに乗り切れなくなる。
 斎藤の後釜として、早くから首相候補の名が挙がっていたのが、国家主義団体の国本社を主宰し、枢密院副議長を務める平沼騏一郎(きいちろう)だった。平沼は検事総長や大審院長も歴任した関係から司法省に強い影響力をもっており、斎藤内閣にとどめを刺すことになる帝人事件でも、司法省を背後から使嗾(しそう)していたといわれる。
 だが、首相推薦権をもつ元老として隠然たる勢力を保つ西園寺公望は、国粋主義者の平沼を毛嫌いしていた。宮中は内大臣の牧野伸顕、宮内大臣の湯浅倉平、侍従長の鈴木貫太郎のリベラル派によって固められていた。枢密院でも、美濃部達吉の恩師で、8年近く宮内大臣を務めた一木喜徳郎が1934年(昭和9年)5月に枢密院議長に指名され、平沼の議長昇格は見送られた。
 1934年(昭和9年)7月、斎藤首相の後任として、海軍大将の岡田啓介に組閣の大命が下った。最後の元老、西園寺公望は重臣会議を開いて、新首相を選出するという新しい方式を採用した。重臣会議は牧野内大臣が主宰し、首相経験者(斎藤実現首相、高橋是清、若槻礼次郎、清浦奎吾)と枢密院議長によって構成されていた。
 またも海軍から首相が選ばれたことで、陸軍は憤激する。そのことが、権力奪取をめぐる陸軍内の派閥抗争(皇道派と統制派)を生み、やがて二・二六事件をもたらす要因になったことを頭に入れておいてもいいだろう。
 美濃部達吉は雑誌「経済往来」に寄せた政治評論のなかで、衆議院に二大政党が存在し、選挙で多数派を握った政党が政権を握るというのが憲政の常道にちがいないが、政界が混沌としている現状では、元老を中心に内大臣が主宰する重臣会議によって首相を選定する新方式が「比較的最も穏健な処置」と考えられ、将来もこの方式が踏襲されることを望むと記している。

〈こういう情勢[「政党勢力と非政党勢力ことに武力を中心とするファッショ勢力との対抗が、著しく尖鋭となって、いつ爆発するかもしれぬという状態]の下においては、純然たる政党内閣の組織が甚だ危険であることは、斎藤内閣のはじめて作られた時と大なる差異なく、さればといって、軍国主義的な武断的ファッショ内閣を作ることは、危険一層これよりも一層はなはだしきものがある。今日の情勢に処すべき策としては、政党のみに偏せず、また軍部を中心とするものでもなく、その中間に立ち、政党および軍部のいずれからもあまりに極端な反対を受くることのないような内閣、すなわちなるべくは斎藤内閣と同型の内閣を組織するのほかはない。〉

 達吉は、斎藤内閣と同型の岡田内閣が生まれたことを喜んでいた。岡田啓介はこれまで海軍大臣の経験しかないとはいえ、「海軍あるを知って国家あるを知らないような」海軍一点張りの人ではなく、年齢も比較的若く、「その平生の生活が簡易質素を極めた清貧の生活であること」なども世間の好感を呼んでいるという。
 とはいえ、岡田内閣は斎藤内閣と比べ官僚寄りの内閣にちがいなかった。内務大臣には後藤文夫、大蔵大臣には藤井真信(さだのぶ)[藤井の死後、高橋是清が復帰]、外務大臣には弘田弘毅と主要ポストは官僚系で押さえられている。
 政友会は協力を拒否し、野党となった。とはいえ、政友会を離党した床次竹二郎(逓相)、山崎達之輔(農相)、内田信也(鉄相)の3人が入閣し、民政党からは町田忠治(商工相)、松田源治(文相)などが入閣しているから、政党色も残っている。そして、軍の関係では、陸軍大臣として林銑十郎、海軍大臣として大角岑夫(おおすみ・みねお)が入閣した。
 議会で多数を握る政友会が反対党に回ったことで、衆議院の解散は避けがたくなった。この年の秋にも解散かと思われたが、それは意外にも遅れ、けっきょく総選挙は1936年(昭和11年)2月20日に実施されることになる。二・二六事件の直前である。
 岡田内閣が発足してひと月あまりたった1934年9月に発売された「中央公論」で、達吉は岡田内閣の使命を論じている。
 当時、1935年、36年の国際的危機がしきりに論じられており、岡田内閣の第一の使命は、この国際的危機に対応することだとみられていた。
 しかし、達吉はこの2年のうちに、それほど重大な危機が発生するとは思っていなかった。
 列強が満州国を承認することはすぐには考えられないが、それでも満州国が独立国家としての体裁を整えていくにつれ、満州国を事実上承認する方向となり、武力によってそれに干渉するする国はあらわれないだろうというのである。また、来年開かれる予定の海軍会議で満州国の問題が論じられても、それがただちに危機をもたらすことはあるまいとみていた。
「満州問題に関して日本の取るべき態度は、一(いつ)にその独立の国家としての基礎を固め、国内の治安を維持すること」に尽きるというのが、達吉の考え方だった。
 国際連盟から委任された南洋群島の統治についても、日本が国際連盟を脱退したからといって、それを返還する義務はなく、日本は既得権としてその統治を継続しうると達吉は論じている。
 満州事変の勃発以来、日本の国際関係が険悪になったのは事実である。だが、満州国の基礎が固まるにつれて、それも次第に緩和されつつあるという。

〈ただ患うべきところは、国際上の関係というと、ややもすれば無思慮な帝国主義的な強硬論が行われやすく、それがさも愛国的の思想のように誤解せられて、少壮血気の徒を誤らしむることである。国際上の危機は、あらかじめ危機として戒心せられているところには起こらないで、かえって血気にはやった不慮の出来事に基づいて生ずる危険がある。いわゆる一九三五、六年の危機に善処するためにも、国際関係それ自身に慎重な考慮と努力とを要するのはもちろんであるが、それと同時に、国内的にもこういう無思慮な強硬論に禍せられないように、十分の注意と努力とを切望したい。〉

 不慮の出来事が起こるのではないかという達吉のいやな予感は残念ながら当たることになる。それもまさか自分の身の上に生ずるとは予想だにしなかっただろう。
 この政治評論で、達吉は国際関係にまして国内の政治と経済は険悪で、これに対処するのはきわめて困難だと記している。
 相変わらず、さまざまなスキャンダルが続出していた。教育関係でも選挙関係でも汚職事件や買収事件が絶えないのは、根底に経済問題がある。政党間の抗争や政治的な策略が、それにさらに輪をかけている、と達吉は論じる。
 いまや財政と経済ほど重要な問題はない。一時的な救済措置だけで、現在の農村問題や失業問題を解決できるとは思えないとも述べている。

〈いわゆる資本主義経済の矛盾は、資本の力があまりに過大で、もしこれを自由競争に放任すれば、資本の力によって経済上の利益が独占せられて、正当な勤労に対する報酬があまりに過少であるのみならず、その勤労をなしうる機会すらも、一に資本の力によって支配せらるるを免れないことにある。これを改革して、資本の力を適当に統制し、その利益を一部少数者の独占に属せしめずして全国民の利益に帰せしめ、もって全国民をして普(あまね)く生活の安定を得せしむるように努むることは、今後の日本における最も重大な問題でなければならぬ。〉

 最後に達吉は、岡田内閣がより官僚内閣の色彩を強め、議会多数派の政友会を反対党に回したことから、挙国一致政治がむしろ政党政治のかたちになったと指摘している。
 そのため、いずれ選挙がおこなわれることになるが、そのことが政党内閣の復活につながる可能性もありうる。とはいえ、現在の状況においては、はたして政党内閣政治が最も適当で望ましいものであるかは断定できないとも書いている。
 達吉は政党内閣の復活に期待を寄せながらも、現状ではやはり挙国一致内閣の方向で行くしかないと考えていた。それはドイツのようなファッショ内閣をつくらないようにするための、議会政治最後の砦になるはずだった。

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攻撃のはじまり──美濃部達吉遠望(69) [美濃部達吉遠望]

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 斎藤実内閣のもと第65議会が1933年(昭和8年)12月26日から90日にわたって開かれた。閉会したのは翌34年(昭和9年)3月25日である。
 美濃部達吉も貴族院議員として、議場に顔を出した。年明け早々、「議会が開かれてみると、さすがに議会制度の効果が著しく感ぜられる」と、安堵したような感想をもらしている。活発な議論が交わされていたのだろう。それは独裁政治では味わえない議会の醍醐味だった。
 それでも懸念すべき兆候はすでに現れていた。
 陸軍省と海軍省の名で、12月29日に突然、「軍民離間運動に対する声明書」なるものが出されたのもそのひとつである。そこには、軍部当局への批判は天皇の軍隊への批判であり、そうした軍民離間運動を軍部は容赦しないという内容が記されていた。
 議場では、陸軍大臣と海軍大臣がともに、そうしたパンフレットはあずかりしらぬと答え、軍部は言論を圧迫するような意思はまったくないと断言した。それでも、この声明書にみられるように、軍部が思想統制を強めようとしていることは明らかだった。
 いっぽう、2月1日の貴族院本会議での外交問題に関する質疑はじつに意義深いものだった、と達吉は絶賛している。質問したのは元外相の吉沢謙吉で、応えたのは内田康哉に代わって外相となった広田弘毅。
 ふたりは次の軍縮会議に臨む政府の方針について論戦を交わしたのだが、国際連盟脱退後の難しい外交について、日本の信用を高め、世界との協和外交を展開することが重要という点で意見が一致した。これは、前外相の内田康哉が、満州国の承認に関連して、「国を焦土となすも辞せず」と公言したのとは大ちがいだった。
 達吉はふたりの質疑応答について「議会と政府とが相協力して帝国の協和外交の大方針を世界に宣明したもので、従来しばしば議場に現れ、しかもそれがために議会制度の不信用を来す一大原因をなした、政争のための政争、反対のための反対とは著しき対照をなし、議会の信用を回復する一助ともなるべきもの」だ、と絶賛している。
 ところが、第65議会では、外交問題や経済問題についてのきわめて理性的なやりとりとは対照的に、あまりにも国粋主義的で粗野な個人攻撃もはじまっていた。
 2月7日の貴族院で、軍人出身の菊池武夫議員は、商工大臣の中島久万吉が雑誌「現代」のエッセイで足利尊氏をほめたことを取りあげ、このような逆賊を賛美するのはけしからんと、中島の辞任を迫った。菊地をけしかけたのは、『原理日本』を主宰する国粋主義者の蓑田胸喜にほかならなかった。
 あらがいようもない天皇幻想が、実際の天皇制度(機関)を越えて、社会全体を揺り動かそうとしている。中島は2月9日に辞任した。
 問題は、その中島糾弾の演説のなかで、菊地が名指しではなかったにせよ、達吉の著書『憲法撮要』の一節を取りあげたことである。菊地は、天皇機関説というような国体に反する学説を一掃しなければ、国家の興隆は期することを得ないと大声でまくしたて、こういう考えをしている者が高等文官試験の委員長や委員をしているのだとすれば、それらの者は追い払うべきだ、と文相の鳩山一郎に迫った。鳩山は、検討して努力するというような、うやむやな答弁をして、その場を切り抜けている。
 達吉は菊地の論難にたいし、2月12日の「帝国大学新聞」で反論した。「君主が国家の機関であるということは、君主の統治が君主御一人の私の目的のためにせらるるものではなく、全国家の目的のためにせらるるものであることをいい表すものにほかならない」。そう説明したうえで、天皇機関説が国体を破壊するものだというのは、とんでもない曲解だと論じた。

〈国家は君民の団体であって君主も国民も共に国家を構成する要素である。国民ことごとく滅び君主御一人をもっていかにして国家を構成することができようか。国家をもって君主の統治の目的物となすに至っては、これ国家をもって活力なき死物となすもので、全然健全なる国家観念を裏切るものである。国家をもって活力なき死物と解することによって、いかにして愛国の念を鼓舞することができようか。〉

 達吉は菊地の考え方をひとつひとつ丁寧に論破している。

〈要するに、論者が公の議場において、私の著書を引用して、私の学説を非難し、ひいて大学および高等試験委員の名誉を毀損(きそん)するの言をあえてしているのは、全く根拠のない妄言であると断定してよい。国体の尊厳を説くはよろしい。日本精神を鼓吹することも、もとより歓迎すべきである。ただ一知半解の固陋(ころう)の見をもって、われ一人国体の擁護者であり、日本精神の支持者であるかのごとくに思惟(しい)し、自己と意見を異にする者に対しては、一も二もなく、国体を誤り、日本精神を蔑視する乱臣賊子であるとなし、国体を笠に着て強いて他の言論を圧迫せんとするに至っては国家および社会を毒することはなはだしい。〉

 きわめてもっともな反論で、これで問題は収まったかにみえた。だが、それは前哨戦にすぎなかったのである。一年後に問題はより大きなかたちで再燃する。
 1934年春の時点では、中島商工相を辞任に追いこんだことで、天皇の名のもとでファシズムを推進する軍部としては、斎藤内閣に揺さぶりをかけるという当面の目的を達したといえるだろう。
 ファシストの毒牙はさらに文部大臣にもおよんだ。ことの発端は、衆議院の議場で政友会久原派の岡本一巳(かずみ)代議士がみずからの犯罪行為を自白し、そのなかで鳩山一郎が製紙会社の旧樺太工業(王子製紙に合併)から賄賂を受けていたことを明らかにしたことである。これは鳩山を共同正犯に仕立てる「抱き込み」心中にほかならなかった。
2月28日の貴族院では大塚惟精(いせい)議員が鳩山一郎文相にたいする緊急質問をおこない、これにたいし鳩山は種々の風評が教育界に悪影響をおよぼすことを懸念し、「自分は明鏡止水の心持ちをもって善処する覚悟である」と述べ、辞任を表明した。
 こうして、商工大臣は松本烝治に代わり、文部大臣は首相の斎藤実が兼任することになった。
 中島商工相と鳩山文相が相次いで辞任したのは、世間で話題になりはじめていた「帝人事件」の報道とも関係している。
 帝人事件は1月16日に「時事新報」が「『番町会』を暴く」という記事を記事を掲載しはじめたときにさかのぼる。「番町会」というのは財界の巨頭、郷誠之助を中心とする経済人のグループで、財界と政界をつなぐ役割を果たしているというのが書き出しで、記事は番町会をめぐるスキャンダルを暴いたものだ。
 そのひとつに帝人問題があった。鈴木商店の倒産により、台湾銀行の担保にはいっていた鈴木商店系列の帝人(帝国人造絹糸)の22万株あまりのうち11万株を政商の永野護らが買い戻そうとして、政府と大蔵省にはたらきかけ、それに成功を収める。1株125円で買った株はすぐに値上がりし、140円から150円で売られて、番町会のメンバーは大儲けしたというのである。その帝人株を謝礼に受けとった者として、前商工相の中島久万吉、大蔵省次官の黒田英雄、さらに鉄道相の三土忠造の名前が挙がった。
 この暴露記事がでたあと、検事局は番町会の財界人メンバーを召喚、逮捕したあと、大蔵省の黒田英雄(次官)や大久保禎次(銀行局長)らを収賄容疑で拘引、起訴した。中島久万吉や三土忠造も逮捕されたが、その取り調べは苛烈きわまるものだったという。
 斎藤内閣は検事局の起訴が出された段階で7月3日に辞職を表明した。
 帝人事件の裁判は翌1935年(昭和10年)6月にはじまり、37年(昭和12年)10月にようやく終わったが、その結果は犯罪事実がなく全員無罪というものだった。判決文は、事件そのものが「空中楼閣」だったとしている。
 大内力は帝人事件は斎藤内閣を倒すために仕組まれた政治スキャンダルであり、その背後には、軍部に支援され次期政権の座を狙う平沼騏一郎(当時枢密院副議長)の画策があったと断言する。確たる証拠があるわけではない。だが、この事件によって、政党勢力が弱体化し、官僚と軍部がさらに勢いを増したことはまちがいなかっった。
 達吉が東京帝国大学法学部を退官したのは、帝人事件が世間を騒がせはじめたころである。とくに定年の決まりがあったわけではなく、教授どうしのあいだで、満60歳になったら辞表をだそうという内々の申し合わせがあったためだという。こうして、まもなく61歳を迎える達吉は3月、小野塚喜平次総長に辞表を提出した。
 4月号の「改造」に、「退官雑筆」というエッセイが掲載されている。そのなかで、達吉は大学での思い出を語り、最後に自分が世間では「自由主義者」と呼ばれていることについて、いささかの異議を唱えている。

〈すべて世間において何々主義と呼ばれている思想は、おおむねみな一面の真理を備えているもので、全面的に絶対に排斥しなければならぬものは、テロリズムのような明白な不法を主義とするものを除いては、まれであるといってよい。ただある特定の一主義のみを絶対の真理となし、これを
極端に推し広めて、他のすべての主義を排斥しようとすることは、いわゆる主義者の弊であって、それは私の取らないところである。国家主義といい、個人主義といい、家族主義といい、自由主義といい、社会主義といい、いずれも絶対には排斥すべきものでないとともに、そのいずれの一つにもせよ、それのみを絶対の真理として信奉すべきものでもない。ある特定の一主義にのみ徹底しようとすることは、社会のために大いなる禍であり、その意味において、私は自由主義者と呼ばれることに抗議したいと思う。〉

 自由を愛好するという意味では、人後に落ちない。国民の基本的人権は守られなければならない。しかし資本主義の自由放任主義には、ある程度の国家的統制が必要だと考えている。それぞれの人がもつ複雑な思想を「何々主義」とくくることは、往々にして誤解や曲解を招くおそれがある。
「この意味において、私はいかなる主義にもせよ、ある特定の固定した主義者として呼ばれることを厭(いと)う」
 達吉は、これからは人生の第3ステージがはじまり、退官後の新居とした吉祥寺の穏やかな環境のなかで、さらに学業に専念したいと願っていた。ところが、そうはいかない。いわゆる「天皇機関説事件」が発生し、その渦中に巻きこまれるのである。

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挙国一致内閣──美濃部達吉遠望(68) [美濃部達吉遠望]

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 斎藤実内閣は五・一五事件の勃発という事態を受けて成立した中間的な緊急避難内閣とみることができる。それは議会第一党の政友会と第二党の民政党、それに軍人、官僚からなる挙国一致内閣だった。
 日本は傀儡国家としての満州国を承認したあと、国際連盟を脱退し、国際的な孤立を深めていた。軍事を第一とする政治がはじまっていたが、それにブレーキをかけようとする勢力もまだ残存していた。だが、それは次第に抵抗勢力とみなされ、排除されていく。
 貴族院議員に勅任された美濃部達吉は、このころ挙国一致内閣を認めるようになっていた。衆議院第一党の総裁が内閣を組織するのを常道とする政党政治を諦めたわけではないが、緊急時においては挙国一致内閣もやむなしと考えるようになっていた。だが、その後も長く緊急時の挙国一致内閣がつづくとは思っていなかっただろう。
 斎藤内閣以来9代にわたる挙国一致内閣はいずれも軍に振り回され、長続きしなかった。長くて2年もてばいいところで、1年足らずで交替する政権が多かった。
 1932年(昭和7年)5月から41年(昭和16年)10月まで、首相は斎藤実、岡田啓介、広田弘毅、林銑十郎、近衛文麿、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政、ふたたび近衛文麿とめまぐるしく入れ替わった。そして、そのあと対米戦争がはじまり、東条英機の戦時内閣へとつづくのである。
 日本ではムッソリーニ、ヒトラー、スターリンのような独裁者は誕生しなかった。その理由は天皇が国家の最高機関として位置づけられていたからだといってよい。天皇の信任にもとづく輔弼政治は、信任に応えられないという理由から、しばしば崩壊した。そのなかで、軍部と官僚だけが国策を追求するという構図ができあがった。顔のないファシズムが進行していくのである。

 1934年(昭和9年)1月、美濃部達吉は「中央公論」と「朝日新聞」に、議会制度と政党政治の将来をめぐる政治評論を発表した。
「中央公論」で論じたのは、議会制度の前途についてである。
 議会は現在、本来の機能を失い、ほとんど無力な形骸的存在になりつつある。それは満州事変の勃発以降、軍の力が強くなり、政党の勢力がその実を失ってしまったからだ。しかし、いったん事態が落ち着けば、また政党政治の復活が期待できるだろうかと問うところから、達吉は議論をはじめている。
 現在が非常時であることはまちがいない。満州事変を契機として、日本の国際関係はきわめて険悪なものとなった。加えて国民の思想も動揺している。治安維持法により左翼の運動はまったく衰え、いまでは憂うるに足りないありさまになったが、それに替わって、極端な右翼的思想と暴力が横行するようになった。
 その背景には戦争の進展がある。だが、これ以上、戦争が広がるのは避けたいものだ。達吉はそのためにも通常の議会政治が一日も早く復活することを望んでいた。

〈もし国家が自ら戦争を目指して進むとすれば、それはほとんど薪を抱いて身を火中に投ずるものというべきである。今日の時局に処すべき国家の根本政策としては、忍びうべき限りを忍んで、あくまでも平和の維持を念とし、戦争の危険を避くることを努めねばならぬ。しかして平和をもって根本政策となす限りは、一日も早く議会政治の通常の状態に回復することが、得策と思われる。〉

 他方、達吉は現在が大きな社会転換期にあることを認めざるをえなかった。
 これまで議会は立法、予算への協賛、国政にたいする批判、内閣の形成、政治家の養成といった役割をはたしてきた。しかし、現在の転換期においては、そうした議会の役割は見直されなければならない。
 ひとつは、これまでのように経済が自由にまかせておけばいいものではなく、国家の問題として意識されるようになり、経済問題に対処するには、よほどの専門知識を必要とするようになった。ほかにも専門知識を必要とする部門が増えており、国民に選ばれたとはいえ、代議士がそうした諸問題に対応することは非常に難しくなっている。
 議会は立法権や予算の協賛権をもつといっても、それはただ形式にとどまっている。立法も予算も政府の立案したものが、そのまま議会を通過するというのが現実だ。
 それでも議会には国民に代わって政府を批判しうるという重要な役割が残っていることはまちがいない。その点が議会政治と独裁政治との根本的ちがいだ、と達吉はいう。
 社会変転期において求められるのは強力な政府だ。だが、それは武力にもとづく軍事政権であってはならない。現在の国情において戦争の危険を冒すことは国を破滅に導く恐れがある。
 軍人が経済や外交について専門知識をもっているとも思えない。政治的常識すら欠く者が多いのが実際だ。
 そこで、現在の社会変転期を乗り越えるには、政党が政権争奪のための争いをやめて、新たな精神で国政に臨まなくてはならない、と達吉はいう。

〈それはあえて政党を解消すべしというのではなく、またあえて一国一党たるべしというのでもない。ただ政党をもって政権争奪の機関たらしむることはこれを断念し、政党はもっぱら議会を通じて民意を表白し、国政を批判するの機関にとどめしめようとするのである。政党にしてもし誠心をもってこれを承認するならば、強力な挙国一致の内閣も必ずしもこれを構成するに難くないであろう。〉

 もってまわった言い方ながら、達吉が危機の時代においては政党内閣ではなく、挙国一致内閣を選ばなければならないと考えるようになっていたことはまちがいない。
 挙国一致内閣への支持は、朝日新聞への寄稿でもくり返された。
 達吉はこの論考で、日本における政党政治の歴史をふり返りながら、それが大きな弊害をもっていたことを指摘する。政党を維持し選挙で勝利を収めるには多額の資金を必要とする。そのため、政党と資本家が結びつきやすい。さらに、選挙においては、しばしば投票の買収と官憲による干渉がおこなわれる。また選挙での地盤を保持するため、利益誘導が最大の関心になってしまう。
 こうした弊害が存在するために、政党否認の思想は後を絶たない。それでも立憲政治においては政党は欠くことができない、と達吉は断言する。

〈私は政党の存立は憲法政治の必然の要素であり、政党なくして憲政は行われえないことを信ずる。それはなぜかといえば、議会ことに衆議院は、国民的の選挙によって構成せらるるものであり、また多数決によって事を決するものであり、しかして国民的の選挙制度および多数決制度が認められているかぎり、多数同志の団結によるほか、勢力を得ることは不可能であるからである。〉

 多数党の総裁が首相となり、その党員が閣僚となって政府を担うのが政党政治である。とはいえ、立憲政治は必ず政党政治である必要はない、と達吉は論を転じる。
 最近は「天皇政治」を主張する論者もいる。しかし、天皇政治とは、天皇がみずから国政を執りたもうことではないはずで、憲法では、国政についての責任は、大権を輔弼する任にあたる国務大臣がこれを負担することになっている。首相を含め国務大臣が政党に所属する政党政治は、けっして天皇政治と矛盾するものではない、と達吉はいう。
 とはいえ、天皇政治を声高に主張する論者は、政党から独立したかたちで、内閣を組織すべきだという。つまり、議会とはまったく無関係に内閣を組織せよと主張する。
 だが、立憲政治のもとでは、そのような内閣は長く存続しえない、と達吉は断言する。そうした政権を維持するためには「合法的の手段を抛棄(ほうき)し、武力をもって反対派の勢力を弾圧撃破し、議会をして強いて政府に盲従せしむるのほかはない」。すなわちファッショ政治意外にない。
 こうした政治はけっして容認できないと達吉はいう。

〈わが憲法の下において、天皇の軍隊のほかに、政党が私兵を擁することの許されえないことはもちろんであるのみならず、天皇の軍隊が、勅命にもよらずして、政治上の目的のために行動し、政治上の反対勢力を弾圧するために武力を用いるがごときは、天皇の統帥大権を私に僭用するものであって、それこそ統帥権干犯の甚だしきものといわねばならぬ。〉

 ファッショ政治は憲法停止の政治であり、全国一党の政治であり、国民からすべての自由を奪う政治であり、国の内外を兵乱に巻きこむ政治なのだ。こうした独裁政治は断じて認めてはならない、と達吉はいう。
 とはいえ、現在のような社会転換期においては、政党政治はあまりにも無力であり、時勢の要求に応えられないこともたしかだ。政党内閣もファッショ政治もだめだとすれば、残るところは「ただ議会の多数の政党の支援を得て組織せらるる人材内閣あるのみである」。
 こうして、ここでも達吉は、現在のような時代の荒波を乗り切るには政党が政権争奪の争いをやめて内閣に協力する挙国一致内閣を結成するほかないという結論に達するのである。
 それは現在の斎藤内閣を支持するということでもあった。
 憲法上、天皇主権をとる日本では、独裁的なファッショ政治は実現しなかった。だが、挙国一致内閣は軍部の独走を抑えることができない。むしろ軍部に押されるかたちで、なし崩しのファシズムが進行する。その流れは達吉自身をも押し流していくのである。

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軍第一の時代──美濃部達吉遠望(67) [美濃部達吉遠望]

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 文部大臣の鳩山一郎が京都帝国大学総長の小西重直に法学部教授、滝川幸辰の罷免を求め、京大側がそれを拒否した直後、美濃部達吉は「帝国大学新聞」に「滝川教授の問題」という一文を寄せている。
 最初に大学とは何かについての原則が述べられる。

〈大学は政府の政策を実行するために設けられた政府の属僚の集まりではなく、大学令第一条に明言されている通り、専門の学術を攻究し及び教授することを本分とするものであるから、その攻究及び教授の任に当たっている大学教授は、学術上の事項に関する限り、時の政府の政策によって拘束せらるることなく、専ら学問的の良心に従って攻究し教授し、また自ら真理と信ずるところを発表しうる自由を有しなければならぬもので、これが大学のもっとも大切な本質上の要素であり、また国家が莫大な経費を払って大学を設立している目的の存するところである。もし大学の教授が時の政府の鼻息をうかがい、その指導に従って、政府の政策の実行に便宜なような意見のみ教授し発表する機関に止まったならば、学問の進歩は閉ざされて、大学設立の目的は失われ、大学を設立した国家の本旨に反すること甚だしいものとならねばならぬ。〉

 学の独立と自由があってこそ、大学の存続は保たれる。
 とはいえ、学問の自由といってもおのずと限度はある、と達吉はいう。もし官立大学の教授が、国家を否定したり皇室への忠誠を欠いたりする場合は、大学教授を罷免されるのも致し方ない面がある。
 今回罷免の対象となった滝沢教授は、はたしてそんな不穏な思想をいだいているのだろうか。新聞報道から判断するかぎり、滝沢教授の主張はごく当然のもので、日本の国家および国体に反する思想をいだいているものとは、とても思えない。
 文部省は学問上の意見について軽率な判断をくだすべきではなく、大学教授の進退はあくまでも大学の自治に責任を有する総長の判断にゆだねるべきだ、と達吉は主張した。
 しかし、文部省は5月26日に文官高等分限令にもとづいて滝川の休職処分を一方的に決めた。
 これにたいし、京大の法学部教授会は教授全員の辞表をとりまとめて総長に提出した。滝沢処分にたいする抗議は、助教授や講師にも広がり、その多くが辞表を提出する。さらに学生たちも全授業のボイコットを宣言して立ち上がった。
 このときも達吉は「帝国大学新聞」でこう書いている。

〈京都大学の事件はますます紛糾して、千数百人の学生が既に久しく学業を休止し、いつ修学しうべきかの見込みもつかぬ状態にある。事のここに至ったのは一つには、滝川教授の論述がおうおう文字の穏健を欠き、読者の誤解を招くおそれのあることも、その一原因をなしていることを認めねばならず、大学当局者の態度にも必ずしも賛成しがたいものがないではないが、しかしその主たる原因は文部省の態度が当を得なかったことにあるものと断定せねばならぬ。〉

 慎重な言い方ながら、達吉は今回の紛擾(ふんじょう)の原因が文部省の態度にあると断定している。文部省は滝沢教授の考え方を反国家的なものと決めつけ、強権的に休職処分に処した。だが、それは大学総長の権限を不法に侵害するもので、明白な総長不信任である。にもかかわらず国は総長を罷免もせず、その辞職を聴許もしない。そんな無責任であいまいな態度をとりつづけているのはまったく不可解だ、と達吉は文部省を批判した。
 だが、けっきょく京大の抗議活動は敗北に終わる。滝川の罷免も撤回されなかった。
 文部省は辞表を提出した39人の教授、助教授らの切り崩しをはかった。7月11日にそのうち6人の教授の辞表を受けとり、免官とした。そのなかには抗議に弱腰の教授も含まれていたため、教授のあいだで動揺が広がった。
 7月20日になって、小西総長と文部省は協議のうえ、紛争解決案を作成する。それは大学の自治は認めるものの、非常特別な場合は例外とするという虚偽に満ちた妥協案にほかならなかった。それでもこの紛争解決案により、辞表を提出した教授、助教授らの半数以上が辞表を撤回した。文部省が免官とした教授の一部も復帰を認められている。
 けっきょく、辞職したのは教授が7人、助教授が5人、ほかに2人の講師と4人の助手、2人の副手となった。辞職した教授は滝沢をはじめとして、佐々木惣一、末川博、田村徳治、恒藤恭(つねとう・きょう)、宮本英雄、森口繁治である。滝沢は弁護士となり、戦後、京大に復学して、法学部長をへて、総長を務めた。佐々木、末川らは立命館大学に移り、立命館の名を高めることになる。
 京大法学部の優秀な教授たちが辞職するのを知って、達吉は「京大法学部壊滅の危機」という一文を「中央公論」に発表した。
 京大法学部ともっとも関係の深い東大法学部の教授たちが、京大の教授たちと行動を共にせず、傍観的な立場をとったことを非難する言説があることを紹介しながら、達吉はいささか弁解に走っている。

〈もし不当なる権力の濫用に対し、団結の力をもってこれと抗争することが、社会の常態となるならば、それはただ力と力との争いであり、社会の秩序は破壊せらるるのほかはない。もちろん時としてそれすらもやむをえない手段として是認せらるべきことがあるにしても、われわれは出来うる限りこれを避けることに努めねばならぬ。いわんやその力の初めより充実しておらぬ場合においておや。〉

 時代の空気が抵抗を許さなくなっている。達吉はいう。そもそも滝川事件の発端は、社会の一部に大学の教授の言論を取りあげ、「赤化呼ばわり」する者がいて、それを文部省がまに受けて取り締まろうとする傾向が強まっているからだ。それでも、学問の自由と独立は認められなければならない。
 2カ月の紛争を経て、京都大学の滝川事件は、教授側の全面敗北によって終わりを告げた。「これがはたして真の解決であろうか」と達吉は嘆く。

〈政府はしきりに思想善導を叫び、学生の思想の動揺を憂いているが、思想善導の最も枢要とするところは、歴史を尊び、伝統を重んずることにある。不法に権力を濫用して歴史ある大学を壊滅に帰せしめ、幾多の学生に修学の途を失わしめて、いかにして思想善導を期することができようか。われわれはただ天を仰いで嘆ずるのみである。〉

 しかし、嘆くだけでことは収まらなかった。まもなく火の粉は達吉自身にもふりかかってくる。

 この年の秋、犬養毅首相を暗殺した五・一五事件の被告にたいし判決がくだされた。
 裁判は被告の所属に応じ、海軍と陸軍の軍法会議、それに東京地方裁判所でそれぞれ別々に開かれた。
11月9日に海軍軍法会議でくだされた判決は、首謀者の古賀清志中尉、三上卓中尉に禁固15年、そのほかの8人に禁固13年から1年という求刑よりもはるかに軽いものだった。いっぽう陸軍軍法会議はすでに9月19日に、同調者の元陸軍士官学校候補生11名に禁固4年の判決をくだしていた。
 これにたいし、東京地方裁判所の判決は翌年2月3日まで持ち越され、民間人被告20人のうち、橘孝三郎に無期懲役、大川周明に懲役15年などと、非常に重い判決となった。
 かれらはその後、恩赦により、いずれも減刑され、古賀と三上は4年9カ月で仮出所した。大川周明は1937年に、橘孝三郎は1940年に出獄した。大川が二・二六事件で逮捕されなかったのは獄中にいたからである。
 達吉は書く。
 現行の日本の制度では、軍人と一般人の犯罪は、それに適用される法律も処決する裁判所もちがっている。軍人の犯罪は陸軍、海軍の軍法会議で裁かれ、一般人の犯罪は通常の裁判所で裁かれる。しかし、法律は社会の各人にたいし公平かつ平等であるべきはずで、軍人と一般人とで、判決に著しい差が生じてはならないことはいうまでもない。
 達吉がこの一文を記した段階では、まだ「五・一五事件」の民間人にたいする判決は出されていなかった。ここで、かれが比較するのは、1930年の浜口首相狙撃事件と2年後の犬養首相暗殺事件(五・一五事件)とのちがいである。
 浜口首相狙撃事件の犯人は民間人であり、未遂であったにもかかわらず死刑が宣告された(ただし、犯人の佐郷屋留吉はのち無期に減刑され、その後出所している)。
これにたいし、犬養首相暗殺事件の場合は既遂であったにもかかわらず、関与した軍人には最高で禁固15年の刑がくだされたにすぎない。民間人と軍人とでは裁判制度が異なるとはいえ、これはいかにも不公平という感をいなめない、と達吉はいう。
 浜口事件の判決が正当なものであったことを達吉は認めている。犯罪の動機に関して、情状酌量の余地はなかった。

〈内閣の政策を攻撃し非難することは、もとより立憲国民の自由に属することであるが、それには言論の自由が許されている。内閣の更迭を希図することも、必ずしも不法ではないが、それはただ議会を通じてのみなしうべきところである。こういう手段をほかにして、単に政治上の意見を異にするが故をもって、一国の内閣総理大臣を殺害し、これによって内閣の顚覆(てんぷく)を謀(はか)ろうとするがごときは、その動機において最も忌むべきものであり、毫(ごう)も仮借すべき事由あるものではない。〉

 浜口狙撃事件で、大審院がたとえ未遂であっても最終的に首相を死にいたらしめた犯人に極刑をくだしたのは理解できる、と達吉はいう。
 ところが、今回の五・一五事件の判決に関しては、軍法会議はまるで異なる考え方を示した。つまり、犯罪の動機が憂国の至情にでたものであることをもって、刑を軽減すべき理由としたのである。
 達吉はいう。

〈不法の暴力をもって総理大臣を殺害し内閣の顚覆を謀ったのをもって、罪悪恕(じょ)に値するものとなすのは、果たして国家の秩序を尊重するものと言い得らるるであろうか。国憲に従い国法を重んずるの念は、国を憂うるの情よりも、遥かに重大である。身政治の任にあらずして、国を憂うるが故をもって、濫(みだ)りに武器を執(と)りて、国の政治を動かさんと企つる者を仮借するならば、国家の秩序は危うきこと累卵(るいらん)のごときものがある。〉

 軍第一の時代がはじまっていた。
 満州事変以来、戦争と戦争気分が帝国全体をおおっている。政治面でも経済面でも、突出するのは軍部とその支持者である。軍の動きを警戒する政府や議会、宮中、メディア、学界などはいまや抵抗勢力となった。そして、大衆もその多くが軍を賛美し、応援していたのである。

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滝川事件──美濃部達吉遠望(66) [美濃部達吉遠望]

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 1933年(昭和8年)5月、斎藤内閣の文部大臣、鳩山一郎は京都帝国大学総長、小西重直に法学部教授、滝川幸辰(ゆきとき)を罷免するよう求めた。総長と教授会がそれを拒否すると、文部省は5月26日に文官高等分限令にもとづいて、滝川を一方的に休職処分とした。これにたいし、京大ではその後数カ月にわたり、全学的な抗議活動が巻き起こった。
 いわゆる「滝川事件」である。
 このころ東京帝国大学法学部教授の美濃部達吉は60歳を迎え、昨年から貴族院議員に勅任されていた。29歳になる息子の亮吉は、東大経済学部を卒業後、助教授になるあてもないまま農学部の講師を務めたあと、ドイツに留学していた。ちょうどそのときにヒトラー政権が誕生する。
 後年、1958年(昭和33年)になって、亮吉は著書『苦悶するデモクラシー』のなかで、滝川事件の顚末が「京都自由法学の終焉」をもたらしたのだと述べている。そして、それは約1年半後におこる「天皇機関説事件」の前触れともなったのである。
 滝川事件が発生したころ、日本軍は華北への侵攻を開始していた。張学良の影響の強い熱河省を制覇したあと、万里の長城の終着点である山海関を越えて南下し、中国側と塘沽(タンクー)停戦協定を結んで、新たな停戦ラインを引いた。だが、満州の防衛政策に歯止めはかからない。
 そんな緊迫した状況のなかでおこった滝川事件をふり返るさいに、なぜか美濃部亮吉は父と訪れた京大総長官舎の庭での懐かしいひとこまをエッセイの頭にふっている。

〈明治がまだ大正と改まらないころのことだから、私が小学校にもあがらない時のことであった。明治何年の何月ごろかという記憶は全然ない。広い青々とした芝生の向うに古めかしい洋館の見える美しい庭で、父(達吉)と二人で風船をもって遊んでいた。その風船は、その日どこかに散歩に行った時に買ってもらったものにちがいない。ゆらゆらと青い空に舞い上る風船が自分のものになった喜びで、私の小さい胸は一杯であった。父は風船を手からはなし、舞い上る風船を空中で受けとめて私を遊ばしていた。私はキャッキャッといって喜んでいたらしい。そのうちに、どうかしたはずみで、父は風船を受けとめ損ってしまった。風船はゆらゆらと空中に舞い上り、暮れなずむ空のかなたに消え去ってしまった。私はわんわんと泣き出した。父は、東京に帰ったら新しいのを買ってやるからといってなぐさめてくれた。しかし、東京に帰ってからもとうとう買ってくれなかったように思われる。子供心に、買ってくれると約束しながら、なかなか買ってくれない父を大いに恨んだ記憶が残っている。〉

 亮吉がこの庭で遊んでいたのは、当時、母方の祖父、菊池大麓(だいろく)が京大の総長をしており、一家は達吉の郷里、兵庫県の高砂(ぼくの郷里でもある)に行った帰りに、総長の官舎にしばらく滞在していたためである。
 菊池大麓が京都大学の総長をしていたのは、1908年(明治41年)から1912年(明治45年)にかけてのことだから、その任期半ばのころ、亮吉が小学校にあがる前に、一家は高砂を訪れ、それから京都でしばらくすごしたのだろう。達吉が高砂を訪れたのは父、秀芳の7回忌が営まれたためかもしれない。
 空に飛んでいった風船は、ちょっと手をゆるめただけで、穏やかな時代があっという間に逃げ去ってしまったことの象徴にほかならなかった。
 かつて祖父が総長をしていた京都帝国大学で大事件が勃発したことは、達吉の息子、亮吉にとっても、他人事ではすまされないできごとだった。しかも、事件を引き起こした文部大臣の鳩山一郎は、美濃部達吉の教え子であり、親戚筋にあたる──鳩山の弟、秀夫の妻は達吉の妻民子の妹だった──という複雑な関係にあった。
 亮吉によると、文部省が刑法担当の滝川教授を罷免しようとした理由ははなはだあいまいだったという。マルクス主義から出発するその学説が世間の安寧秩序を乱し、良風美俗を害するものだから大学教授にふさわしくないというのが文部省の言い分だった。
 その一例として文部省が挙げたのは、滝沢が1932年(昭和7年)10月に中央大学で講演したさい、トルストイの『復活』をめぐって、犯罪は国家が悪いから生ずるのであって、国家が犯罪者に刑罰を与えるのは矛盾だと主張したことだった。だが、それは文部省による曲解で、滝沢は「犯人の前で眼をとじてはならない、犯人に近づき、理解と同情をもってこれを導くべきである」と話したにすぎなかった。
 さらに槍玉に挙げられたのが、滝沢の著書『刑法読本』である。文部省はその内容がマルクス主義的な階級観念にもとづく危険思想だと断定した。
 この著書で、たとえば滝沢は、現行の姦通罪は男の姦通のすべてを許し、女の姦通のすべてを犯罪とする、あまりにアジア的なものだと論じていた。
 さらに、内乱罪についてもこんな記述があった。内乱の行為者の動機は必ずしも排斥されるべきものではなく、彼らはただ敗れたから罰せられるにすぎない。文部省は滝沢があたかも行為者を擁護するするような発言をしていると断じた。
 尊属親殺人罪についても、滝沢は死刑、無期懲役という極刑を科すのがいかに不合理であるかを指摘しているが、それは危険思想にあたる。
 そして、文部省が最大の問題としたのが、『刑法読本』の結論部分に見られる次のような一文だった。

〈窃盗、強盗等々の非組織的な犯罪から組織ある共産主義の運動に至るまで数々の犯罪は悉(ことごと)く社会の下積みになっている無産者によって行われる。逆にいえば、犯罪によって損害を蒙(こうむ)る者は常に有産者だということになる。ここまで来ると、刑法によって防衛される社会と、刑罰によって教育される人の何であるかは、おのずと明[らか]になる。……刑罰によって刑罰をなくすことは到底出来ない相談である。それは犯罪のない社会を築き上げることを前提として初めて可能となる。故に私はいう、刑罰からの犯人解放は犯罪からの人間解放である。〉

 滝沢は、刑罰によって犯罪をなくすことはできない、それよりも国家は犯罪のない社会を築くことをめざさなくてはならないと主張したにすぎない。それは亮吉にいわせれば、「せいぜい進歩的、自由主義的」な主張にほかならなかった。しかし、当局はそうした発言をマルクス主義的とみなし、かれを大学から追放しようとしたのである。
 滝沢事件の背景には、前年11月に発生した「司法官赤化事件」があったとされる。このとき東京地方裁判所の一人の判事、ならびに数人の書記が共産党員であることが判明したとして、治安維持法により逮捕された。逮捕劇はそれから全国に波及し、東京地裁だけではなく、長崎地裁、札幌地裁や山形地裁の判事や書記にもおよんだ。
 すでに経済学者の河上肇は、1928年(昭和3年)に文部省の圧力を受けた京都大学に辞任を迫られ、自主退官していた。河上は1932年9月に共産党に入党、この年、33年8月に治安維持法違反により逮捕されることになる。小林多喜二が虐殺されたのも、この2月のことだ。
 当局の追及は共産主義者だけではなく、滝沢などの自由主義者にもおよぼうとしていた。大陸への侵攻が進むなか、政府や社会を批評する言論も封じられつつある。自由にものが言えない時代になっていた。
 ここで、亮吉は蓑田胸喜(みのだ・むねき)の名前を挙げている。蓑田はいわば私的思想検閲官として、1930年代の思想統制に大きな役割を果たす人物である。
 立花隆によると、蓑田は1925年(大正14年)に創刊された雑誌「原理日本」を主催する国粋主義者で、言ってみれば「日本のマッカーシー」だという。慶応義塾大学の講師もしていた。学生たちは蓑田の名前を「むねき」ではなく「キョウキ」と呼んでいた。
 蓑田は「次から次に、自分たちが気にくわない学者、言論人をヤリ玉にあげて、共産主義者、反国体思想、不忠反逆思想、革命賛美者などのレッテルを貼り、これに執拗な攻撃を浴びせていった」と立花はいう。
 やっかいなのは、蓑田の攻撃が言論活動にとどまらなかったことである。「赤化容共反国体思想」をもつ帝国大学のリベラルな教授たちを個人攻撃する雑誌やパンフレットを猛烈な勢いで出版していただけではない。それを各界要人や役所、マスメディアに配布した。加えて、当局にはたらきかけて、問題教授の著書の発禁や公職追放を求めている。
 その活動費は軍の機密費からでていた。
 政界や軍部ともしっかりとつながっていた。保守派の大物、平沼騏一郎(きいちろう)や小川平吉、軍部の荒木貞夫、永田鉄山、東条英機と接触があった。議員では貴族院の三室戸敬光(みむろど・ゆきみつ、子爵)、井田磐楠(いだ・いわくす、元軍人)、菊地武夫(元軍人)、衆議院の宮沢裕(ゆたか)などとも深いつながりをもっていた。
 こうした議員は議会でさかんにリベラル派を攻撃するキャンペーンを張った。「天皇機関説事件」もその延長上にあったといってよいだろう。
 蓑田による滝沢批判がはじまったのは、1929年(昭和4年)からだ。この年、京都大学のある団体から招かれて講演した蓑田は終始、激しいことばで河上肇を攻撃しつづけた。河上びいきの学生たちは反発する。会場の学生たちからヤジを浴びせられると、蓑田は壇上で立ち往生した。講演部長の滝沢が学生たちをとめなかったため、滝沢を恨んだ。
 蓑田はそれ以降、滝沢を批判するようになった。広島県選出の代議士、宮沢裕(宮沢喜一の父)をたきつけて、1933年2月の衆院予算委員会で、司法官赤化事件にからんで政府に質問させたのも蓑田である。宮沢はこのとき滝沢の『刑法読本』を取りあげ、こういう赤化した教授はやめさせるべきだと文部大臣の鳩山一郎に迫った。文部大臣としては、何らかの対応を示さざるをえない。
 5月に鳩山が京大総長に滝川の罷免を求めた背景には、こうしたいきさつがある。理屈はいくらでもつく。だが、京大側は政府の理不尽な要求に抵抗した。
 達吉自身はこの滝川事件をどのようにみていたのだろう。その影響がやがて自身にもふりかかってくるとは、その時点ではおそらく予想していなかった。

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