SSブログ
商品世界ファイル ブログトップ
前の10件 | 次の10件

ブローデルをめぐって(4)──商品世界ファイル(12) [商品世界ファイル]

braudel.jpg
 物質文明を支えるのは技術とエネルギーです。
 技術とは「蓄積した知の果実」であり、人間が外界にたいしておこなう努力だ、とブローデルは書いています。しかし、技術が受容されるには、社会の受け入れ態勢を待たねばならず、19世紀までは、技術が社会の制約を突破して前に進むことはめったに考えられませんでした。
 さらに、近世において人間が利用できたエネルギーは、「人力、家畜の力、風・流水・薪・木炭・石炭の力」だけで、きわめて貧弱なものにとどまっていました。
 人力はたかがしれています。しかし、人は柔軟に道具を使って、農業や土木作業をしたり、漁の網を引いたり、何人かで重いものをかついだりしました。穀物などの収穫も集団労働のたまものでした。
 家畜も利用されています。南米ではインディオたちがリャマを荷運びに活用していました。スペインやポルトガルによる征服後は、旧大陸からもちこまれたラバが、トウモロコシ粉や木綿、コーヒーなどの荷を輸送しました。
 サハラ砂漠からゴビ砂漠まで広がる砂漠地帯では、運搬用としてラクダが活躍しました。暑い砂漠は、ひとこぶブラクダの領域、寒い砂漠は、ふたこぶラクダの領域です。
 牛はシベリアやアフリカ熱帯地方を除いて、旧大陸全体に広がり、車をひいたり、田畑を耕したりするのに利用されました。しかし、ヨーロッパでは農耕用としては馬がもっぱら利用されるようになり、牛は食用に回されるようになります。
 モンゴル帝国やオスマン帝国の強さは、良馬と騎兵を揃えていたことによるものです。しかし、ヨーロッパでも次第に騎兵用として、馬の飼育が盛んになります。
 もちろん馬は運輸にも利用されました。日常の物資を運んだり、馬車に人を乗せたりと、馬に頼らずにすむ都市はどこにもなかったといいます。馬は現在の自動車だったわけですね。
 ヨーロッパで水車が増えるのは11世紀以降で、穀物をすりつぶすにはなくてはならない装置でした。ほかにも鉱石を砕いたり、鉄を打ったり、毛織物や製紙の作業をしたりするのに、水車が使われています。
 ヨーロッパで風車が現れるのは12世紀以降で、北ヨーロッパが中心でした。ネーデルラントでは土地を開拓するために風車が使われ、多くの工夫がほどこされました。
 船の輸送にとって重要なのは帆の改良で、船の帆は人間が利用しうる最強のエネルギー装置のひとつだった、とブローデルは書いています。
 18世紀までは、木材と木炭が主要なエネルギー源でした。
 木材は薪として燃やされ、家庭の暖房をはじめ、陶器や鉄、ビール、ガラス、瓦、砂糖、塩等々の商品をつくるのに利用されました。
 さらに木材は燃やされるだけでなく、家屋や家具、道具、車両、船などの材料となりました。そのため15世紀から18世紀にかけては、世界じゅうの多くの地域で、豊かな森林資源が破壊され、森が消えていきます。
 薪不足は次第に深刻になっていきます。ところが、ガラス工場でも鉄工所でも、燃料節約の動きはついぞ出ませんでした。イギリスでは16世紀から木材不足の懸念が広がっており、それが木材価格の高騰とあいまって、のちの石炭革命をもたらすことになります。
 ヨーロッパで早くから知られたたのはリエージュ炭田(現ベルギー)とイギリスのニューカッスル炭田でした。リエージュは冶金の都市であり、石炭はその製品の仕上げに用いられていました。ニューカッスル炭田は17世紀以降のイギリスの近代化に貢献します。。
 イギリスでは、石炭は塩の製造、ガラス板、煉瓦や瓦の製造、砂糖の精製、明礬の処理、パン屋のかまど、ビール醸造所、そして(ロンドンを汚れ放題にした)暖房などに用いられていました。
 とはいえ、ヨーロッパはまだ前産業革命段階です。石炭が本格的に利用されるようになるのは19世紀の産業革命以降です。
 石炭といえば、鉄を連想するかもしれません。しかし、15世紀から18世紀にかけては、武器や一部の道具を除いて、まだ本格的な鉄の時代は到来していませんでした。
 技術は徐々にしか進んでいきません。大砲、印刷、航海術は、15世紀から18世紀にかけての三大技術革新だった、とブローデルは書いています。
火薬が発明されたのは9世紀の中国で、それがヨーロッパに伝わりました。ヨーロッパで大砲が発明されたのは14世紀はじめで、本格的に活用されるのは15世紀になってからです。
 大砲を活用したのはヨーロッパだけではありません。トルコ軍は1453年に巨大な大砲を用いて、コンスタンチノープルを陥落させました。中国でも15世紀初頭に大砲がつくられましたが、それほど活用されませんでした。
 16世紀になると、ヨーロッパの大砲はさらに発達し、アジアの国々を震撼させることになります。イギリスでは軍艦だけではなく、商船にも大砲が備えられていました。
 火縄銃が利用されるようになるのは16世紀になってからで、1630年にはマスケット銃を改良した小銃がつくられ、17世紀末期には、ヨーロッパじゅうの歩兵隊が、すべて剣付き鉄砲を備えるようになりました。
 軍事技術の発達によって、銅や鉄、冶金といった産業が刺激を受けました。西ヨーロッパでは砲術学校も生まれます。軍事技術は西ヨーロッパにとどまらず、世界じゅうに拡散していきます。1554年以降になると、日本の海賊船までが大砲を載せるようになっていたといわれます。
とはいえ、ヨーロッパ勢がアメリカとアジアに進出できたのは、やはり軍事技術の優位があったからです。
 次に印刷術です。紙は中国からイスラム圏をへてヨーロッパにやってきます。ヨーロッパで製紙業が根づくのは、ようやく14世紀になってからです。
 15世紀にグーテンベルクが活字を発明しました。中国ではすでに9世紀から印刷術が知られていました。だが、その後、ヨーロッパでは印刷術が発達し、数々の書物がつくられるようになります。「活版本とともに思想の流れが早まり、また広まった」と、ブローデルは書いています。
 ヨーロッパが世界の首位に立つことができたのは、外洋を征服することができたからです。ヨーロッパが世界征服を遂げることができたのはなぜでしょう。すぐれた航海技術とスピードの出る頑丈な船が、これを可能にしたことは言うまでもありません。
 しかし、それだけではなかった、とブローデルはいいます。
 中国では、15世紀はじめに鄭和が巨大船団を組んで、7次にわたる遠征を敢行し、東南アジア、セイロン、スマトラ、インド、アラビア、ホルムズ海峡まで達しました。その後、中国の航海はなぜか中止されます。
 いっぽう、イスラム勢力は古代アラビアのすぐれた航海術によって、15世紀まで南アジアの海を支配していました。豊かな海を制しているのに、喜望峰を回って、わざわざ大西洋に向かう必要はなかったのです。
 これにたいし、西ヨーロッパは、狭苦しいユーラシア大陸の半島に閉じこめられていました。地中海は自分たちの海でしたが、やがて諸都市でつちかわれたエネルギーが外部へと向かうことになります。
 ヨーロッパは本来、貧しかったがゆえに外洋航海にくり出したというのが、ブローデルの見方です。
 ただし、軍事技術や航海技術の発展にくらべると、河川交通や陸上輸送はほとんど進歩しませんでした。15世紀から18世紀にかけては、相変わらず人と馬、小舟が荷物を運んでいました。
 ヨーロッパで四輪馬車が出現するのは16世紀後半で、乗合馬車ができるのは17世紀にはいってからです。舗装されている街道はごくかぎられていました。道路が本格的に整備されるようになるのは19世紀にはいってからです。
 ブローデルを読むと、近世の光景が目に浮かびますね。

nice!(8)  コメント(0) 

ブローデルをめぐって(3)──商品世界ファイル(11) [商品世界ファイル]

414hLv+hrcL._SX343_BO1,204,203,200_.jpg
 目に見える市場はなくても、商品は石器時代から存在したといえます。それは必要欠くべからざるものであるのに、いまここには存在しないものでした。たとえば塩や黒曜石などもそうです。暮らしに必要なもののほとんどが部族の共同作業によって確保できたとしても、必要であるにもかかわらず、どうしてもここにないものも存在したのです。それが商品だったといえます。それらは遠くからやってくるものでした。
 都市が生まれ、国家が登場し、農耕が組織化されるようになると、生活物資の流通と分配が生じ、物質文明自体が多様化します。近世にいたると、商業社会の進展とともに商品の種類と量が拡大し、市場が日常化していきます。
 人は、取得、採掘、栽培、養成などを通じて得た自然の財(動植物や鉱物)を加工して、直接使用可能な有用財をつくります。そうしたみずからの力だけではつくれそうにない、希少な有用財を商品として購入できるようになったのが、商業社会の特徴といえるでしょう。そうした商業社会が大きく進展したのが15世紀から18世紀にかけてです。
 ブローデルによる物質文明の考察がつづいています。
 16世紀以前、砂糖は贅沢品でした。17世紀末になっても胡椒は贅沢品として扱われていました。それらもまた遠くからやってくる商品でした。
 15世紀から18世紀にかけての食卓は、贅沢と極貧の二極にわかれていた、とブローデルは記しています。中国でもフランスでも、金持ちと貧乏人との差は極端に開いていました。
 フランスやイタリアの上流階級は、肉や上等のパン、ワイン、チーズ、野菜、果物などを食べていましたが、農民の主食は毎日アワかトウモロコシで、週に1回塩漬けの豚肉が食べられればいいほうでした。小麦や家禽、卵、子牛、子羊などは、できるだけ市(いち)で売るようにしていました。それで日常品を買い、税を支払わなければならなかったからです。
 いつの時代も、塩はなくてはならないものでした。肉や魚を保存するにも塩が必要です。そのため、塩の交易は必須であり、国家や大商人がそれに介在しました。国家にとって、塩は大きな財源でもあり、その運搬には河川や海路が利用されました。
 チーズは周辺の地域からパリなどの都会に集まってきます。サルデーニャのチーズは、ナポリ、ローマ、リヴォルノ、マルセイユに輸出されていました。オランダのチーズは、ヨーロッパだけではなく全世界に広がっています。
 西ヨーロッパでは、乳が大量に消費されています。バターは主に北ヨーロッパの産物で、南はオリーブオイルの領域でした。
 海の幸で注目されるのは新世界で、とりわけニューファンドランド沖では15世紀末からタラ漁が盛んになりました。タラは船上で塩漬けされるか、陸上で干されるかして、消費地に運ばれていました。
捕鯨も盛んにおこなわれています。しかし、クジラの肉は貧乏人の食物で、次第に食べられなくなり、「その脂肪が油に変えられて、照明、石鹸、各種の手工業に大幅に利用されるようになった」と、ブローデルは書いています。
 オランダの捕鯨船はもっぱら鯨油を求めて、スピッツベルゲン諸島やグリーンランド近海に出向き、何万頭ものクジラを捕獲しました。
 アジアで漁業を盛んにおこなっていたのは日本と中国の華南であり、ほかは小舟で細々と日常の糧を確保する程度でした。中国では淡水漁業と養殖が大きな利益を挙げています。しかし、魚をたくさん食べたのは日本であり、中国の魚の消費は日本に比べると少なかったようです。
 現代からみて異様と思えるのは、ヨーロッパ人がかくも長きにわたって、胡椒と香辛料の確保に情熱を燃やしていたことです。そもそもヨーロッパ人が新航路発見の夢をいだいたのは、胡椒にひかれたからです。
「12世紀には、香辛料への狂気はもはや疑いを容れぬものとなった」とブローデルは書いています。中世の西ヨーロッパは、古代ローマとちがい、肉食者の世界となり、やたら胡椒がつかわれたといいます。
16世紀になると、北ヨーロッパでも、香辛料の消費が拡大しました。しかし、17世紀になると、香辛料の値段が安くなり、どんな食卓にも姿を見せるようになり、同時に使い方も抑えられるようになっていきます。
 ポルトガルを排除して、東インド諸島で胡椒と香辛料を独占したのがオランダでした。しかし、17世紀になると、香辛料の値段は安くなり、18世紀にはいると、胡椒はかつてのような栄光の商品ではなくなります。幻想は雲散霧消し、胡椒は贅沢品の座から転落しました。
 胡椒が後退したのは、コーヒー、チョコレート、タバコ、新しい野菜などが消費されるとともに、肉の消費量が全般的に減ってきたためです。
 そして、次に砂糖の消費が高まっていきます。サトウキビはベンガル地方が原産で、そのしぼり汁は、最初、薬として使われていました。それが、10世紀にエジプトにはいり、13世紀にはキプロス島で栽培されるようになります。
 サトウキビは気候が暑くないと育ちません。その生産には大量の労働力と高価な設備が必要で、さらにできあがった商品を遠方の消費地に輸送しなければなりませんでした。
 その生産の舞台に選ばれたのが、ヨーロッパ諸国が征服した中南米の島々です。問題はサトウキビを栽培すると、食糧をつくる畑地がなくなってしまうことでした。そのため宗主国は、黒人奴隷用の食料として、ニューファンドランド沖でとれたタラや、内陸の塩漬け肉や日干し肉、小麦粉を島々に送りました。
砂糖は新しい商品として、ヨーロッパの食卓に徐々にはいりこんでいきます。しかし、おそらく多くの砂糖消費者は、その背後にひそむ暗黒の歴史に気づいていなかっただろう、とブローデルは記していきます。
 15世紀から18世紀にかけては、コーヒー、紅茶、タバコ、チョコレート、ワイン、ビール、ウィスキー、ブランデーなどの嗜好品が広くたしなまれるようになりました。
 近世と呼んでもよいこの時代は、ヨーロッパ世界がアメリカやアジアに進出していった時代といってよいでしょう。
 コーヒーはアラビアから、茶は中国から、チョコレートはメキシコからやってきました。そして、それはヨーロッパ人の手によって適地で栽培され、新しい商品となっていきます。
 ワインのためのブドウ畑はヨーロッパ全体に広がっていますが、この時代、ワインはヨーロッパを越えて、メキシコ、ペルー、チリでもつくられるようになりました。カリフォルニアが産地になるのは、17世紀末から18世紀にはいってからのことです。
 新大陸と旧大陸を結ぶ線上にあるマデイラ島、アゾレス諸島、カナリア諸島もワインの産地となっていました。ワインの進出をはばんだのはイスラム世界ですが、そこでもワインはひそかに飲まれていました。
 ビールの領域はもともとワインの外側にありました。しかし、徐々にワインの王国に侵入していきます。ビールは基本的に貧乏人の味方でした。
 中南米では、スペインからやってきた新しい支配者が、酒を統治手段として大いに利用したといわれます。「インディオ諸族は、このアルコール飲料[リュウゼツランでつくられたメスカル]を提供されて中毒したせいで、さんざんな目に遭った」。かれらが銀山で働いて得た賃金の半分は、この酒の代金に消えていったのです。
 さて、これまで主に食料や飲料にふれてきましたが、もちろん物質文明には住まいや服装が欠かせません。しかし、ここで15世紀から18世紀にかけてのそれらの様子を論じ尽くすのはとても無理です。家屋や服装は、各地の習慣や伝統を引き継いでいて、それこそ多様です。
 石や煉瓦、木材、土といった素材は、この時代も昔とさほど変わりません。ペルシャの家は日干し煉瓦、モスクワの家は煉瓦に粘土の壁でできていました。ユカタン半島では、草木の枝と練り土でできた小屋が並んでいました。ブラックアフリカでは何世紀にもわたって、無一物の貧しさがつづいています。
 ヨーロッパは石の文明といわれますが、昔からそうだったわけではありません。パリ周辺には砂岩、砂、石灰石、石膏石などの石切場が無数にありましが、パリが石造都市になるのは15世紀以降で、職人たちによる膨大な作業が必要でした。それまでのパリは、ほかの多くの都市と同様、長らく木造都市の姿をしていました。
 瓦ができたのはようやく17世紀にはいってからです。18世紀になってからも、瓦屋根があるのは、金持ちの家にかぎられていました。
 ロンドンは1666年の大火で、市の4分の3を焼失しました。そのあとの無秩序な復興によって、建物は木造から煉瓦造りへと移行します。アムステルダムが煉瓦造りの街になったのは17世紀になってからです。
 中国では木材と練り土が用いられていましたが、都市の特権層や農村の富農は、煉瓦を使用するようになっていました。都市の城壁はたいてい煉瓦、橋は石造が多く、街道も一部舗装されていました。
 ヨーロッパの農村住居は、藁葺(わらぶ)きの丸太小屋の集合で、住まいと家畜小屋、浴室とかまど、納屋などから成り立っていましたた。都市では、貴族の館と貧乏人の住まいとで、極端なちがいがありました。パリで貧乏人が暮らしていたのは、酒屋などをしている大家から借りたボロ部屋です。アムステルダムでは、貧乏人は地下の部屋に住んでいた。
 18世紀になって生じた変化は、金持ちの職・住が分離したことだ、とブローデルは書いています。住居は「食事をし、眠り、子どもたちを育てる場」となり、それとは別の場所に「労働する建物、商いをする店、さらに1日の大部分を過ごす事務所」がつくられました。これはヨーロッパにかぎられた変化ではありませんでした。
 都市の贅沢を受けて、農村も次第に変化していきます。領主が囲い地をつくって、そこに別荘を建てはじめるのです。18世紀には、イギリスの田園地方に金のかかった別荘がつぎからつぎへと建てられるようになります。
 服装の歴史はおまけではすまされない問題を含んでいる、とブローデルは書いています。たとえば、アンリ4世(在位1589〜1610)が奢侈禁止令を出したのは、パリの有産市民階級の婦女子が絹服を着ることに、周囲の貴族が反対したからだといいます。しかし、いい服を着たいという欲求には、政府もさからえませんでした。金持ちの農民も服装に贅をこらしました。
 当時、有産市民と庶民とでは、服装だけをみても、大きなちがいがありました。貧乏人に流行はありませんでした。晴れやかな祭日の服装は親から子に伝えられましたが、日々の仕事着は粗末であり、ほとんど変化がありませんでした。18世紀になっても、農民は自宅で織った布地(麻と羊毛の混織布)でつくった服を着ていたといわれます。
 ほかにみられないヨーロッパの特徴は、金持ちの服装が流行によって大きく変化したことだ、とブローデルは指摘します。重大な変化が生じたのは1350年になってからです。男は長衣を着なくなり、女はぴったりした胴着を身につけるようになりました。それ以後、19世紀にいたるまで、ヨーロッパの服装は、国柄に応じて、多彩な変化をみせていくことになります。
 流行は文化の移動を生みだします。衣服や靴、飾りのひとつひとつをとっても、よくみれば、それぞれがさまざまな地域の文化を成分としていました。18世紀になると、流行のスピードはさらに速まっていき、当代の人もあきれるほどになります。ファッションは商品の華といえるでしょう。
 ブローデルは、流行がなぜ生じるかといえば、「その相当部分は、特権的な人たちがあとに続く集団からなんとしても自分を区別し、障壁を設けようとする欲求」がもとになっていると指摘しています。
そして、18世紀になると、商業界が流行を意識して利用する時代がはじまります。
 住まいやインテリア、服装は一見して社会的権威や地位を表象するため、スタイルの選択が求められる分野でもありました。そのため商業社会の発達とともに、この分野には数多くの職人が投入され、さまざまな商品が生みだされていくことになります。

nice!(7)  コメント(0) 

ブローデルをめぐって(2)──商品世界ファイル(10) [商品世界ファイル]

91P8tD9jpsL._AC_UL400_.jpg
15世紀から18世紀にかけては、市場が日常生活のあらゆる局面にはいりこんでいるわけではありませんでした。暮らしのなかで、市場がもたらした商品が、暮らしに占める割合は3、4割にすぎませんでした。とはいえ、この時代にすでに市場がかなり発達するとともに、その市場を動かす力が生まれていたこともたしかです。その力をブローデルは資本主義と名づけています。
ヨーロッパにかぎっていうと、1400年から1800年までの400年間、人びとの生活にはほとんど変化がなかった、とブローデルは強調しています。生活の様相が大きく変化するのは、ようやく1830年ごろになってからです。19世紀はじめから、20世紀末にかけて、人びとの生活は大きな変化を遂げました。これは日本も同じでしょう。
 前産業化時代の人びとの生活は、現代とはずいぶんちがっていました。そのころの人は、あたかも「別の惑星、別の宇宙に住む人類」のようだったとも述べています。それでも変動ははじまっていたのです。
 おもしろいのは、ブローデルが、18世紀にレマン湖の西フェルネーに住んでいたある思想家に触れていることです。
 こんなふうに書いています。

〈思想面においては、18世紀の人たちはわれわれの同時代人である。彼らの精神にせよ情念にせよ、われわれのばあいとまず似たり寄ったりであって、異郷へ連れてゆかれた気分にならずにすむ。しかし、フェルネーの主人の家に何日か引き留められたりすると、日常生活の細目のことごとに、また彼の身だしなみにさえ、われわれはすっかり驚かされることになろう。彼とわれわれとのあいだに、恐ろしい懸隔がふいにぽっかりと開くことになるであろう。〉

 このフェルネーの思想家とは、偉大な人文学者ヴォルテール(1694〜1778)のことです。かれの思想はいまも受け入れられ、現代の制度の基礎となっています。ところが、当時の生活は、現代の生活とはまるでちがっていました。15世紀から18世紀にかけての暮らしは、「古代の社会・経済の延長」であって、それに何かがごくわずかつけ加わったものにすぎなかったのです。
 どんな時代でも、人は一種の物質文明のなかで暮らしています。資本主義がスタートした15世紀から18世紀にかけて、その物質文明が現在とはまるでちがっていたとしたら、それはどんなものだったのかをまずたしかめてみる必要があります。そして、そのちがいを生みだしたものが、ひとことでいうと資本主義なのです。
 じつは15世紀から18世紀にかけ、世界の人口は倍増しています。
それまでは、人口が増えすぎると食料問題が発生し、そこに感染症などが加わって、残酷な仕方で人口調整がなされるというパターンがくり返されてきました。いそれでも、じわりじわりと人口は増えていました。
 マルサス(1766〜1834)は、人口は幾何級数的に増えても、食糧は算術級数的にしか増えないという見解を発表しました。いわゆる「マルサスの罠」と呼ばれるものです。
ところが、マルサスの悲観的な見通しにもかかわらず、18世紀以降も世界の人口は増えつづけました。
 推計では1680年の世界人口は3億8700〜5億2200万。それが1980年には40億となり、2022年には80億を突破しました。
 良きにつけ悪しきにつけ、資本主義の発達(農地の開発と農業技術の発展を含め)がそれを支えたことはまちがいありません。
 とはいえ、近代が18世紀からはじまるとすれば、15世紀から18世紀にかけては、まだ前近代です。近代への助走期という意味では、近世と名づけてもよいでしょう。近世においては、まだほとんどの人びとは土(と太陽と水)に頼る生活をしており、現代のように何から何まで商品(おカネ)に頼るような生活はしていませんでした。
 15世紀から18世紀にかけては、食糧の供給は不安定で、飢饉が何度もやってきました。加えて、天然痘、チフス、インフルエンザなどの感染症が人びとの暮らしを脅かしました。なかでもペストは黒死病と恐れられ、14世紀から18世紀にかけて猛威をふるいました。コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したあとは梅毒がヨーロッパにはいってきて、それから世界じゅうに広がりました。ハンセン病患者は伝染性があると信じられて、隔離されました。
 15世紀から18世紀にかけて、人類はこうした不安定な要因にさらされながら、ほとんど人力に頼って、物質文明を確保してきました。
 その物質文明をブローデルは食糧、住まい、服装、技術、エネルギー、鉄、兵器、紙と印刷、航海術、輸送、貨幣、都市などにわたって考察していきます。それらは現在からみれば、きわめて低水準なものだったかもしれませんが、それでも人類はみずからの手で、こうした物質文明を築くことで、生存を確保しようとしてきたのです。
 そして、その物質文明を広げ、さらに拡大させたのが、市場の広がりであり、資本のプッシュだったということになります。しかし、そこには略奪や収もありました。
 15世紀から18世紀にかけての物質文明の全体像をいっぺんに示すことはできませんが、今回はひとまず人にとっていちばんだいじといえる食糧について見ておくことにしましょう。
 漢民族の主食は穀物(飯)で、これに菜(野菜、肉、魚)が加わる。ヨーロッパは肉食が中心だったが、17世紀以降は、人口増につれて、植物性の食品をより多くとるようになった。東西のちがいは、はっきりしていた。それが、近代に近づくと、だんだんと接近してくる。ブローデルはそんなふうに書いています。
 穀物の主流は小麦、米、トウモロコシです。
 まず、小麦についていうと、小麦は西ヨーロッパにかぎらず、中国や日本、インド、イラン、エジプトでも栽培されていました。この時代に重要なのは、小麦が大西洋を渡ったことです。アメリカ大陸で、小麦は当初うまく栽培できなかったものの、次第にチリやセントローレンス川(現カナダ)周辺、メキシコ、イギリス植民地でつくられるようになり、それからさらにその領域を広げていくことになります。
「小麦が世界のいたるところに普及したことが、そのままヨーロッパの拡張の証だった」と、ブローデルは書いています。
 ヨーロッパでは、ほかに穀物としてアワやキビ、大麦、北方ではエン麦、ライ麦なども栽培されていました。エン麦は馬の飼料、アワは救荒作物です。さらに豆類が補助食品として、重要なタンパク源になっています。米はすでにギリシャ・ローマの時代からヨーロッパにはいり、補助穀物として利用されていました。
 実際には、ヨーロッパでは、「家畜に富んで小麦に乏しい地方と、小麦に富んで家畜に乏しい地方」とが併存していたといいます。
 問題は小麦の収穫率が低かったことです。それでも「緩慢かつ継続的な進歩」がなかったわけではありません。収穫率の上昇は、人口の増大につながります。都市も穀物生産の余剰によって成長しました。人口が増えると、16世紀のイタリアにみられるように、強力な土地改良事業が進められました。
 地中海では、凶作に備えて、北方の小麦やライ麦を受け入れていました。イタリアはビザンチン、のちにはトルコの小麦を受け入れています。それ以前から、シチリアは小麦の大供給源となっていました。
 小麦は都市に向けて輸送されます。河川など水運による輸送が一般的でした。たとえば、フランス北部のピカルディから、河川を経由しフランドルやパリに、アルルからマルセイユに、ロマーニャからジェノヴァにというように。
 16世紀以降は北方の小麦が大きな役割を果たすようになります。ポーランドの大貴族は農民に小麦とライ麦をつくらせ、それを外国に輸出しました。ヨーロッパ中心部に穀物を供給するのは、もっぱら周辺部でした。
 小麦の代金は金や銀で支払われました。小麦の流通が活発になっていきます。
 次は米についてです。稲の栽培地は世界じゅうに広がりますが、主力はやはり東アジアです。米は大部分が現地で消費され、小麦ほど交易の対象とならなかった、とブローデルはいいます。
 中央アジアに起源を発する稲は、まずインドに定着し、紀元前2000年ごろ、あるいはその少し前に華南に定着したといわれます。そして、インドや中国から、チベットやインドネシア、タイ、カンボジア、ベトナム、日本へと伝わっていきました。
 稲はもともと乾燥地で栽培され、焼畑に種がまかれていました。しかし、水田が奇跡を起こします。水の管理はたいへんでしたが、それを可能にしたのは「堅固な社会であり、国家の権威であり、そして果てしなく広範囲にわたる労働」だった、とブローデルは書いています。そして、水田耕作が広がるにつれて、アジアでは人口も増加していきました。
 ヨーロッパの農村生活が耕作と放牧によって支えられていたのにたいし、中国人はひたすら稲作に専念してきたという印象をブローデルはいだいています。しかし、18世紀の大幅な人口増に対応するために、中国もインドも日本も、アメリカに由来するトウモロコシやサツマイモを導入することになります。
 米の流通をうながした米商人の存在も見逃せません。日本の江戸時代には干鰯(ほしか)などの肥料が商品化され、それによって綿花や菜種、麻、タバコ、野菜、クワ、サトウキビ、ゴマ、小麦などの副次的商品の栽培が増加していきます。
 ほかに食糧としては、トウモロコシやジャガイモが重要です。トウモロコシの起源はおそらくメキシコで、そこからヨーロッパ、アジア、アフリカに広がりました。アステカ文明やインカ文明が繁栄する以前から、トウモロコシはアメリカの風土になじんでいました。農民は年に2回、3月と7月に野焼きをし、地面にトウモロコシの穀粒を埋めました。トウモロコシ栽培にかかる時間は短く、年間50日の労働日と、季節によって7〜8時間の労働で間にあったといいます。ジャガイモも南アメリカが原産です。
 栽培植物は数百年、数千年にわたって移動するものですが、そのスピードが加速したのは、ヨーロッパ人がアメリカを「発見」してからです。新世界から旧世界へはトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、インゲン、トマト、マニホット(キャッサバ)、タバコがもたらされ、旧世界から新世界へは稲、小麦、サトウキビ、コーヒー豆が持ちこまれました。
 ヨーロッパにとって、もっとも重要だったのはジャガイモで、「ヨーロッパは隅から隅まで、ジャガイモの植民地となった」とブローデルは書いています。ヨーロッパの人口が増大したのは、ジャガイモのおかげです。
 ブローデルの記述はまだはじまったばかりです。できるだけ短くまとめますが、今回はこれくらいで。
われわれがいかに物質文明に支えられているかを、たまにふり返ってみるのも悪くないでしょう。

nice!(7)  コメント(0) 

ブローデルをめぐって(1)──商品世界ファイル(9) [商品世界ファイル]

51WQgyGNbNL._SX361_BO1,204,203,200_.jpg
 フェルナン・ブローデル(1902〜85)は、フランスの歴史学者で、代表的な著作に『地中海』(1949、再版1966)と、『物質文明・経済・資本主義』(1979)があります。
『地中海』は、16世紀の地中海と地中海世界をめぐる壮大な歴史物語といってよいでしょう。『フェリペ2世時代の地中海と地中海世界』が正式のタイトルです。日本語訳では1991年から95年にかけ発売されました(全5冊)。
 いっぽうの『物質文明・経済・資本主義』は『日常性の構造』、『交換のはたらき』、『世界時間』の3巻からなり、日本では1985年から99年にかけて刊行されました(全6冊)。15世紀から18世紀にかけての世界経済史といってよいでしょう。
 どの著書も、前産業化時代の経済を扱っています。資本主義はいつからはじまったかという問いに答えるのは、なかなかむずかしいのですが、ブローデルは遅くとも15世紀の地中海に、そのはじまり、少なくとも持続的なはじまりをみているようです。マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムが資本主義の精神をつくったというとらえ方には、批判的です。
 ところで、資本主義とは何かというのがまた問題ですね。資本主義というと、だいたい18世紀末から19世紀はじめにかけての産業革命をメルクメールとして、そのころに近代国家と資本主義の発生をみるのが一般的でしょう。しかし、産業資本主義の前にすでに商業資本主義が発達していました。さらに資本主義はギリシャの古代資本主義にさかのぼるとみることも可能です。とはいえ、ここではあくまでも、近代資本主義のはじまりを探ることに重点を置いたほうがいいでしょう。
 ブローデル自身は、資本主義をどんなふうにとらえていたのでしょう。
 15世紀から18世紀にかけては、資本主義はまだ成熟しておらず、揺籃期にあります。それでも、それまでの単なる市場でのやりとりとは異なる、新たな動きが生まれようとしていました。それは、資本の新たな力といってもよいでしょう。
 資本はラテン語の「頭」に由来し、12世紀ないし13世紀から用いられていたといいます。もともとは、利息のつく、あるいは利息を生みだすおカネのことです。
 イタリアでは13世紀に資本金という概念が生まれました。商会の所有するおカネが資本金と呼ばれたわけです。そこで、時間をさかのぼれば、13世紀に資本主義が生まれたといってもいいわけですが、それはあまりにも不安定なものでした。
 資本家ということばが使われるようになったのは、17世紀なかごろからだといいます。資本家とは金融資産の持ち主のことですが、次第にカネを動かす者、資金提供者を指すようになっていきます。あまりいい意味では使われていませんでした。資本家が企業家、投資家に脱皮するには19世紀を待たなければなりません。
 マルクス自身はほとんど資本主義という用語をつかっていません。資本主義という用語が定着するのは、むしろ20世紀にはいってからだといいます。資本主義と社会主義が対抗概念として、しばしば用いられるようになりました。学界ではこの用語を排斥する動きもあったようです。
 18世紀以前には資本主義は存在しなかったという言い方がされたこともあります。しかし、ブローデル自身は、資本主義という概念を慣用化して、「一昔前の資本主義は(今日の資本主義とは異なって)経済生活の薄い層しか占めていない」というような言い方をします。つまり、伝統的社会とは異なっていて、現代の経済システムにつながる部分については、資本主義と呼んだほうが簡便だというわけです。マルクスも、そうした資本の時代が遅くとも16世紀にはじまったと考えていました。
 ですから、皮肉な言い方をすれば、社会主義が資本主義をつくりだしたともいえるわけですが、ブローデル自身はあくまでも簡便な用語として資本主義を使うとしています。
 社会主義がほとんど支持されなくなったいまも、資本主義は現在の経済システムを指す概念として、ごくふつうに用いられるようになっています。
 その資本主義の前提になるのが市場経済です。市場経済が都市や国家の発生とともに生じたことはまちがいありません。農村によって支えられないかぎり、都市や国家は存在しえないわけですから、そこには市場や税がとうぜん、なくてはなりません。国家は税によって国家を支え、軍を養い、公共工事などをおこないます。そのうえで、都市で人が生活するためには、市場で商品を買って、それを消費、もしくは使用して、暮らしていくほかないのです。
 ブローデルは、15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパで人が市場、すなわち商品に依存する割合はおよそ3割だったとみています。アジアでも、その割合はほとんど変わらなかったでしょう。それが、現代では、ほぼ100パーセント、人は商品に頼らなければ(それはおカネがなければということですが)、生きていけなくなっています。
 そのかん、状況は大いに変わりました。かつては、近郊や遠方にある商品を運んでくることが市場の課題でした。それが、19世紀以降は、次々といわば無限につくりだされる商品をさばくことが市場の課題になりました。
 そんな状態が生まれるスタート台になったのが、ブローデルによれば15世紀から18世紀だったというわけです。この時代、市場経済が定着し、資本が市場を動かすようになります。それによって、市場経済はさらにますます広がっていき、人びとの生活もまた変わっていくことになるわけです。
 20世紀になって、そんな資本主義を社会主義は国家主義的に統制しようとしたのですが、それは時代に逆行する試みにほかなりませんでした。とはいえ、社会主義という対抗軸をもつことによって、資本主義は福祉国家へと構造変革する道を探るようになります。そのいっぽうで、あらゆるものを商品化する(商品をつくりだす)勢いはますます強まったといえるでしょう。環境の破壊も進み、貧富の格差も広がっていきました。
 もはや社会主義というスローガンに魅力を感じる人はほとんどいなくなったといってよいでしょう。とはいえ、資本主義に何らかの社会的規制が必要なことは、多くの人が感じています。社会主義的な発想を脱した、より良き社会のための経済学が、いまも求められているのはたしかです。
 ブローデルが『物質文明・経済・資本主義』を刊行した1979年の段階においては、まだソ連の崩壊や中国の躍進は生じていませんでした。そして、それ以降、いまでは資本主義だけが残ったといってもよい状況となりました。
 それでも、その出版時点でブローデルは、こんな結論に達しています(はたして結論といえるかどうかは別にして)。
 ブローデルが追ったのは、15世紀はじめから18世紀終わりまでの400年にわたる資本主義の歴史です。その後、資本主義は変貌に変貌を重ね、19世紀以降も、多くの方向転換を重ねてきた。そして、それは現在にいたるまで変化しながらも、もともとの姿を受け継いでいる、とブローデルはいいます。
 資本と国家とのあいだには綿密な連携関係が存在しています。しかし、資本主義と文化や社会とはかならずしも折り合いがよいわけではない。資本主義は理想の生き方とはかぎらないし、資本主義が多くの格差や不平等、苦痛をもたらしているのも事実だからだ、と書いています。
 しかし、ブローデルは、外部的な力によってならともかく、資本主義が「〈内因性〉とでもいった劣化をきたして自分から崩壊するようなことはありえない」と断言します。「システムとしての資本主義は、この[1970年代以降の]危機を乗り越えて生き延びる確率がおおいに高い」。
 事実、資本主義が1970年代以降の危機を乗り越えたのにたいし、劣化をきたし自分から崩壊したのは社会主義のほうでした。
 ブローデルが資本主義と市場経済を区別するのは、資本主義を必然、あるいは美徳とする考え方に反対するためです。資本主義とは、市場経済をコントロールしようとする資本の力による政治にほかならなりません。
 ブローデルはレーニン流の全体主義的社会主義を否定しています。革新(創造的破壊というべきか)は市場経済のなかから発生すると信じているからです。資本を国家に入れ替えても、それは「資本の欠陥に国家の欠陥を加えるだけ」だと断言しています。
 そして、問題の解決は、政治的次元でも経済的次元でもなく、社会的次元にあると示唆して、本書の結びとしているようにみえます。資本の動きに枠をはめる何らかの社会的ルールの形成が必要だということなのでしょうか。答えはだされていません。
 先に結論からはじめてしまいましたが、もちろん、ここで探ってみたいと思うのは、15世紀から18世紀にかけての経済社会がどんなふうだったかということです。つづきます。

nice!(8)  コメント(0) 

グレーバー『負債論』をめぐって(2)──商品世界ファイル(8) [商品世界ファイル]

51IAdqOn5KL._AC_UL400_.jpg
 著者によれば、資本主義が生まれるのは、15世紀後半、ヨーロッパにおいて大航海時代がはじまり、国家から特許状を受けた冒険商人組合、すなわち特許会社が武装し、海外で冒険をはじめたときからです。
 国家なき純粋な資本主義など、最初からありえませんでした。1520年から1640年にかけ、ヨーロッパにはアメリカから途方もない金銀が流入し、価格革命を引き起こしました。その結果、物価が上昇し、囲い込み運動によって農民は土地を追われ、海外植民地に行くか、国内の工場で働くかのどちらかを選ばねばならなくなりました。
 著者は、アメリカ大陸に侵攻し、アステカ帝国を倒し、世界史上最大の窃盗行為をおこなった、借金まみれのコルテスの行動こそが、資本主義の原型だったと述べています。そのアメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいきました。スペイン人はインディオに重税を課し、支払いのできない者にカネを貸し、返せないものを負債懲役人にしていったのです。
 メキシコやペルーから流入した金銀はヨーロッパ内にとどまりませんでした。その銀地金はその多くが中国に流出していました。それに代わって、大量の絹や陶器、その他の製品が中国からヨーロッパに流入します。
 資本主義をもたらしたのは国家権力です。国家はこれまでとは異なる市場を生みだし、人びとを働かせ、貨幣なしには暮らしていけないシステムをつくりあげていきます。そこでは貨幣の暴力が作用し、負債に縛られる人が数多く生まれます。
 紙幣をつくったのも国家だといえます。1694年にイングランド銀行が設立され、はじめて生粋の紙幣が発行されました。国王による負債を認める見返りとして、商人たちが銀行券発行の許可を得たのが、そもそものはじまりでした。紙幣とは国家による約束手形のようなものだといってよいでしょう。信用されなくなれば、たちまち紙切れになってしまいます。
 著者によれば、西欧で誕生した資本主義の波動はアジアにもおよんでいきます。その先鋒を担ったのが、国家によって支えられた東インド会社でした。東インド会社にとってのモラルとは、利潤そのものにほかなりませんでした。
 東インド会社は、軍事力と貿易を背景にインドを制圧し、中国に触手を伸ばしていきます。
 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とします。少なくとも何パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っています。そうした一種の強迫観念が生まれたのは19世紀はじめではなく、1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期でした。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置のもとで、ヨーロッパ諸国家の海外進出がはじまりました。
 資本主義とは市場経済のもとで貨幣の循環的拡大をめざす国家システムなのです。それは債権者が次々と債務者をつくりだし、貨幣を回収しつづけることで、はじめて成り立つシステムだといってもよいでしょう。
 それを媒介するのが商品です。貨幣はけっして媒介ではなく、それ自体が目的となります。次々と商品がつくられるのは、貨幣を得るためです。
 労働者は給料どろぼうと指さされないように、一生懸命はたらき、商品をつくり、それを売ります。そこにも一種の強迫観念がはたらきます。そう考えれば、経済学者が称賛するのとは裏腹に、資本主義はずいぶん倒錯した経済モデルだということができます。
 いつも回転しつづけていなければ倒れてしまう資本主義というシステムは不安定で、常に時限爆弾の恐怖につきまとわれています。順調な成功を収めると思えた瞬間に、なぜかがらがらと崩壊しはじめるという「黙示録」的な見通しを、著者は資本主義にいだいています。
 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトンウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまりました。これが新しい時代の扉だったことはまちがいありません。現在は過渡的な時代だ、と著者はいいます。アメリカの時代が終わるのか、新しい中世がくるのか、これから先はなかなか見通せません。変動為替制になったいまも、ドルが基軸通貨であることに変わりはなく、むしろ、これまで以上にドルに振り回される通貨体制ができあがっているかのようにみえます。
 しかし、なにかがはじまっている予感は、仮想貨幣の広がりをみてもわかる、と著者はいいます。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまるのは1990年代になってからです。仮想通貨が国家紙幣をのみこんでしまう時代が訪れようとしています。
 いまはどういう状況にあるのか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいます。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなりました。好き勝手に通貨を創造しようとしたアメリカの力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまいました。いまアメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国です。とりわけ中国の役割が見逃せません。
 戦後のケインズ時代には生産性と賃金が上昇し、消費者経済の基礎がつくられました。だが、1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は実質的に低落していきました。マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化します。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになりました。
 個人の負債は、けっして放縦が原因なのではありません。カネを借りなければ、まともな生活などできないのです。家族のために家を、仕事のために車を、その他、教育やさまざまな楽しみのためにカネをかけてはいけないのでしょうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずです。すると、どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいということになります。
 その結果、だれもが罠にはまりました。2008年のサブプライム危機が発生したのです。このとき政府が救済したのは一般市民ではありません。金融業者は税金で救済されました。だが、一般の債務者には自己破産という苛酷な仕打ちが待っていました。
 資本主義は終わりそうだという見通しに直面したが、そのオルタナティブはまだ想像の外にある、と著者はいいます。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、国家は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をさらに強化しようとしています。加えて、グローバル化の進展が、先進工業国の停滞(とりわけ中産階級の没落)と新興国民国家の躍進を生み落とし、それが双方のナショナリズムをかきたてているのです。
 しかし、いまでも現在の経済活動に秘められているのは自己破壊衝動でしかなく、統制不能の破局が生じる可能性は低くない、と著者はいいます。だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められています。「いま真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者は論じています。
 著者は、聖書にえがかれたヨベルの律法のように、国際的債務と消費者債務を帳消しにせよと求めます。借金を返せという原理は、はれんちな嘘だといいます。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と宣言しています。
 資本主義の負の側面に目を向けることを怠ってはならないでしょう。そして、何よりもだいじなのは、それを克服する想像力をもつことです。そのことを著者は訴えつづけていました。

nice!(12)  コメント(0) 

グレーバー『負債論』をめぐって(1)──商品世界ファイル(7) [商品世界ファイル]

51j4pFloR2L._SX353_BO1,204,203,200_.jpg
 デヴィッド・グレーバー(1961〜2020)は、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家としても知られました。
「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォール街占拠運動の理論的指導者として一躍有名になりました。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対していました。
 そのグレーバーの代表作が、この『負債論』です。あまりにも若くして亡くなりましたが、最晩年の『ブルシット・ジョブ』も有名ですね。
 借りたお金は返さなければならないといいます。だが、ほんとうにそうなのかと問うところから、かれの探求がはじまっています。
 そもそも負債、借金とは何か。負債は貨幣で計算され、貨幣で返済を義務づけられます。だとすれば、負債の根源には貨幣があります。
 貨幣の機能として、よく言われるのは、価値尺度、交換(流通)手段、蓄蔵手段の3つですが、もちろんそれだけではありません。じつは貨幣は負債(債務)として、もっとも利用されているのではないかというのが、著者の問いかけです。
 それにしてもすごいのは、本書が負債のもととなる貨幣の歴史を、5000年前にさかのぼり、古代メソポタミアからたどろうとしていることです。
 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされます。その神話を著者は疑います。なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない物々交換ほどむずかしいやりとりはないからです。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、観念上の操作でしかないのです。
 世界の歴史をたどれば、人類が物々交換をおこなっていた形跡はどこにもみあたりません。貯蔵と分配はありました。部族間での交換は、やっかいな儀式をともないました。それも日常的におこなわれたわけではありません。部族内の関係は贈与とお返しが基本でした。ここには貨幣がはいりこむ余地はありません。
 経済学の考え方は、当初、貨幣には塩や貝殻や小麦、干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられていたが、次第に金属が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていったというものです。だが、それは貨幣のほんとうの歴史ではない、と著者はいいます。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてです。貨幣は官僚によって発明され、都市に貯蔵される物資を集めたり分配したりするのに用いられました。その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるし(仮想貨幣)でした。
 貨幣をつくったのは国家にほかなりません。国家は常備軍を維持するため、兵士に貨幣を配布し、それで食料品をはじめとする物資を調達させました。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求めます。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのです。
 国家と市場はつきものであり、国家なき社会は市場も持ちません。貨幣がなければ商品は存在しないし、政治権力がなければ貨幣もない、と著者はいいます。このあたりのとらえ方は、前に紹介したポランニーと同じですね。
 メソポタミアでは、神殿の役人が商人たちを国外に派遣し、羊毛や皮革を売らせて、国に足りない木材や金属を買わせていました。そのため仕入れの前貸しとして渡されたのが貨幣です。貸し付けは利子をともなって返済されなければなりませんでした。
 やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになります。農民はしばしばその負債に堪えきれなくなり、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になったといいます。
 貨幣と市場は国家によって生みだされたものです。そして、人は恩恵をこうむっている国家に借りを返すよう求められます。それが税の原点だと著者は考えています。そして、負債もまた貨幣とともに発生しました。
 貨幣の歴史は負債の歴史でもあり、血と暴力によっていろどられています。それを象徴するのが奴隷制です。奴隷は古代から存在しました。戦争と債務が奴隷を生みだしました。奴隷は貨幣によって売買されます。メソポタミアも古代ギリシアもローマ帝国も奴隷制の上に成りたっていました。
 ふたたび奴隷制が復活するのは近世になってからです。16世紀から18世紀にかけ、1000万人以上のアフリカ人奴隷が大西洋の向こうに輸送されました。奴隷制は人間が商品となる貨幣経済時代の到来を象徴しています。そこにはかならず暴力が介在していました。貨幣はけっして純粋無垢ではない、と著者はいいます。
 ところで、貨幣といわれて、まず思い浮かべるのは金属貨幣(鋳貨)でしょう。世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(アナトリア西部)です。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていました。まもなく地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺でも、ほぼ同時期に硬貨の鋳造がはじまります。
 硬貨は貨幣の歴史に新たな次元をつけ加えます。それは金属のかたまりですが、そこには数と像がきざまれており、一片の金属以上のものとして流通しました。
 問題は硬貨の保証が主に都市の内部にかぎられることでした。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりに戻ってしまいます。
 遠方交易はそうした硬貨の難点を乗り越えなければなりませんでした。とはいえ、硬貨の出現によって、貨幣は世界貨幣への一歩を踏みだしたことになります。
 著者は世界史を次のように区分します。

(1)農業帝国時代(前3500年〜前800年)
(2)枢軸時代(前800年〜後600年)
(3)中世(600年〜1450年)
(4)資本主義時代(1450〜1971年)
(5)現代(1971年以降)。

 どの時代にも貨幣は商品(すなわち貨幣で売買される財や人)と対応するかたちで存在しました。そして、貨幣があるところ、負債(債務)がつきまとったのです。
 以下、ざっとみておきましょう。
 まず(1)の「農業帝国時代」(前3500年〜前800年)
 この時代には鋳貨は存在しておらず、あるのは信用貨幣(貨幣代替物)です。メソポタミアでは穀物を単位とする信用貨幣が用いられていました。貸し借りは粘土の銘板に記録されていました。ただし、メソポタミアでは、対外交易にシェケルを秤量単位とする銀塊が用いられています。
 古代エジプトで用いられたのも、穀物を単位とする信用貨幣ですが、のちには銅や銀も使われるようになりました。
 中国では、真珠やヒスイ、タカラガイ、鋤、刀といったさまざまな代替通貨が存在しました。これらは報償や贈り物、罰金の支払いのために用いられました。ほかにも木や竹の棒に記した信用手段があったようです。国家は膨大な税を徴収し、戦争や土木工事に多くの報酬や給金を支払っています。
 この時代も負債は発生します。メソポタミアでは遠方交易をおこなう商人に国家から貸し付けがおこなわれ、それは利子をつけて返済されなければなりませんでした。農民も国家から多くの負債を負っています。王は祭典があるたびに、たびたび負債の帳消しを宣言し、銘板を壊せと命じています。それはエジプトの場合も同じでした。
(2)の「枢軸時代」(前800年〜後600年)というのは、哲学者のカール・ヤスパースの命名によるもので、この時代に偉大な宗教や哲学が生まれ、世界の思想的骨格が誕生したことから、そう名づけられました。
 この時代の主な舞台は、地中海世界、インド、中国です。
鋳貨(硬貨)がつくられた時代です。
 硬貨と市場の出現は、新たな負債を生みだし、これまでの人びとの生活を一変させていきました。
 同時にそのなかから人間性を超越した神や倫理、徳性を求める教えがあらわれ、それが人びとの心に根づいていきます。つまり、物質的で利己的な市場社会のなかから、慈愛を説く世界宗教が生まれたというわけです。
 こうして市場社会のもたらした膨張と混乱を収拾するために、新しい時代、すなわち中世が登場する、と著者はとらえています。
(3)の中世(600〜1450年)においては、経済生活は宗教的権威によって規制され、貨幣は仮想信用通貨に回帰します。
 中世は暗黒時代と言われるますが、それはむしろ「枢軸時代」のさまざまな恐怖から解き放たれた時代でもありました。その中世をヨーロッパ中世にかぎらないところに、著者独自の視点があるといえるでしょう。
 インドでは諸王国の分裂がはじまり、都市が衰退し、信仰の中心が仏教からヒンズー教に移り、カースト制が誕生します。
 村は地主によって統制され、さまざまな職業がヒエラルキー的な秩序によって固定されていきます。
ここでは市場社会は抑制されています。カーストのあいだを財が移動するとしても、交換の原理はまったくはたらかないからです。
 インドは西暦1000年ころからイスラムの版図にはいっていきますが、社会構造はそのまま維持され、カースト制もそのまま存続されました。
 中国では220年ごろ漢王朝が亡び、分裂傾向が強まります。都市は衰退し、貨幣経済は縮小します。
 中国の国家は、基本的に儒教的官僚国家で、その国家は農民の安定を一義としながら、同時に市場の繁栄をめざしていた、と著者はいいます。
 そこに仏教が到来し、南北朝や唐(618〜907)の時代に、仏教は空前のブームを引き起こしました。仏教は基本的に個人の財産を否定し、寺院への財産の寄進を求めます。
 そうした弊害にたいして、国家の介入がはじまり、多くの寺院が取り壊されました。
 西方ではイスラム世界が勃興します。
 政府は戦争をおこし、領土を拡張し、多くの富を獲得しました。そして、兵士に気前よくディナール金貨やディルハム銀貨をばらまきました。
 イスラムの法典は、信者が奴隷になること、信者から高利をとることを禁止しています。だが、商業に否定的だったわけではありません。商人がまっとうな利潤をとること、銀行家が信用業務をおこなうことは、むしろ推奨されていました。
 イスラム社会では、遠方への冒険をおこなう商人は、人の模範として尊敬されていました。
 この社会で重視されるのは、個人の利益(貨幣の蓄積)よりも、むしろ信頼のネットワークであり、相互扶助の考え方でした。市場の目的もそうした相互扶助の拡張に求められていたといいます。
 この時代のヨーロッパは、むしろ辺境の地です。
 中世のヨーロッパでも、貨幣は仮想的なものとなっています。
 実際の金銀は教会に集まっていました。集権国家が消失するとともに、市場は教会によって統制されるようになっていました。
 教会は利子を禁じていました。だが、富者が貧者にほどこしをおこない、貧者が富者に感謝を示すことには反対していませんでした。
 ローマ時代の通貨がいまだに通用していましたが、ほとんどの日常的取引は、現金に依拠することなく、割府や商品券、簿記によっておこなわれていました。
 とはいえ、中世盛期の商業革命によって、ヨーロッパでは商業的農業や都市手工業(ギルド)が台頭し、それによってヨーロッパは他地域と同じ経済水準に到達することになります。
 中国とイスラム世界は、市場の繁栄した豊かな社会でしたが、近代資本主義の特徴となる金融・産業システムを生むことはありませんでした。つまり、カネがカネを生むシステム、さらには商品が次々と新たな商品をつくるシステムはつくられなかったのです。
 これにたいし、法人、つまり会社や企業をつくりだしたのはヨーロッパでした。その原型を、著者は修道院、とりわけシトー修道会に求めています。修道院施設は製粉所や鍛冶屋を従え、羊毛をつむぎ、それを輸出する工場をもっていました。だが、それは資本主義にはほど遠かったのです。
 資本主義が生まれるのは、特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社(カンパニー)が武装し、海外で冒険をはじめたときだ、と著者はいいます。
 そこから西洋の主導する近代がはじまります。
 長くなりましたので、今回はこのあたりで。

nice!(7)  コメント(0) 

古代ギリシャの経済──商品世界ファイル(6) [商品世界ファイル]

Attica_06-13_Athens_50_View_from_Philopappos_-_Acropolis_Hill.jpg
 ポランニーによると、ギリシャで市場が発展するのは紀元前7世紀初頭になってからだといいます。最初に市場がつくられたのは、植民地のイオニア(小アジア南西部)で、古代アテネでも、紀元前5世紀に3度くり広げられたペルシア戦争の直後から、アゴラで食料その他日常品を鋳貨で買う光景がみられるようになりました。そのころ、東地中海の穀物取引も通貨でおこなわれるようになっていました。
 ペリクレス(前495?〜429)の時代、アテネのポリス経済は、大領地型の再分配、国家レベルの再分配、そして市場要素の三つからなりたっていた、とポランニーはいいます。
 ここでポランニーは、アテネを中心にギリシャで生まれた「古代資本主義」を論じようとしています。市場はまだ付随的です。
 氏族社会はすでに崩壊しています。貴族(豪族)が大領地を支配していました。独立小農民も残っています。
 都市アテネではすでに市場が誕生しています。民主主義が生まれるのは、そうした市場社会においてですが、プラトンやアリストテレスは、「貧者」が支配する民主主義をこころよく思っていませんでした。
 民主制を維持するためには、富裕者による公的機関の支配を排除しなければなりませんでした。さらにいえば、アテネでは、官僚制が徹底して否定されました。政府(評議会)の役職は、くじによって市民(いわば土地所有者)が交替で担っていたのです。政府を支える民会も、すべての市民が参加できるようになっていました。
 こうした体制を可能にするためには、国家が政治にかかわる民衆(市民)に貨幣で支払いをおこない、それによって民衆が食料などの必需品を買えるようにする必要がありました。
 この仕組みをつくりだしたのは、紀元前510年ごろに活躍したクレイステネスです。だが、その後、貴族による巻き返しがありました。
 実際には、アテネの民主主義は、強大な海軍帝国と配下の同盟国のうえに成り立っていました。この帝国を維持するには、軍事力と同時に穀物供給を確保することが重要でした。
 ペルシア戦争で、サラミスの海戦がくり広げられ、ギリシア連合軍が勝利したのは、紀元前480年のことです(マラトンの戦いは前490年)。このとき、アテネでは半数にのぼる2万人以上の市民が軍に加わりました。
 戦争と民主主義の結びつきは否定できなません。貧者は国家から食料を与えられ、自発的に公共奉仕の義務をはたしたのです。
 3度のペルシア戦争(前492〜前449)後は、寡頭制の反動がつづきましたが、前462年には民主派のペリクレスがアテネの実権を握りました。
 ペリクレスは大規模な公共事業をおこし、パルテノン(神殿)やプロピュレイオン(楼門)を建設しました。多くの人が農村から都市に移住してきました。貧民や老人への援助もなされました。こうした資金は同盟国や属国からの貢納や税によってまかなわれていたのです。
 古代アテネのアゴラでは、調理した食品の小売市場が開かれていました。そこで商売を担っていたのが、カペーロスと呼ばれる人びとです。
 アゴラで市場が開かれるようになったのは、紀元前6世紀ごろになってからです。これにたいし、交易はもっと古くからのものです。金属や軍事資材、貴重品、それに不足気味の食料を得るには遠隔交易に頼る以外にありませんでした。
 市場に従事するのがカペーロスだとすれば、交易に従事する人びとはエンポロスと呼ばれていました。カペーロスは女性が多かったのにたいし、エンポロスはまちがいなく男性でした。
 市場の仕事を担うのは、居留外国人と外国人です。もっとも外国人といっても、都市国家アテネの市民になれない人びとという意味で、実際にはさまざまな事情で故郷に戻れないギリシャ人が多かったようです。
 居留外国人は港湾地域のピレウスに住み、政府の命令のもと、エンポロスとして、主に穀物輸入にあたっていました。かれらの地位は低く、市民権を与えられませんでした。それは市場で、小額貨幣を受けとり、食料の配分にあたるカペーロスと呼ばれる人びとも同様です。
 アテネの経済を支えていたのは、こうした居留外国人や奴隷でした。居留外国人や奴隷がいなければ、アテナイの繁栄も安定もありえなかったでしょう。古代アテネ圏(アッティカ)の人口は最盛期で30万人くらい。そのうち解放奴隷や外国人も含めて、自由民が20万人。奴隷が10万人。参政権のある男子市民は4万人ほどだとされています。
 古代帝国においては、商業活動や労働はいやしいもので、民主主義をになう市民の仕事ではないと考えられていたことを忘れてはならないでしょう。
 ジェイムズ・ダヴィッドソンは、もう少し詳しく古代アテネの市場の様子をえがいています。
前にも書いたように、常設市場があったのは、パルテノンの丘のふもとにあるアゴラです。ほかに港のピレウスと銀鉱のあるラウリウムにも常設市場がありました。ここではドラクマを単位とするさまざまな貨幣が使われていました。
 政府は集会に参加する市民に参加する市民に、報酬として貨幣を支払っており、これがアテネの消費生活を刺激していたようです。
 市場ではどんなものが売られていたのでしょう。ダヴィッドソンは、当時演じられていたギリシャの劇から、次のような商品を列記しています。
 イチジク、ブドウ、カブ、ナシ、リンゴ、バラ、カリン、ハギス[羊肉の煮込み]、ミツバチの巣、ヒヨコ豆。スミレの花束、ツグミ、コオロギ、オリーブ、肉などなど。どれも食べ物ですね。もちろんほかの野菜も売っています。
 魚はぜいたく品です。腐りやすく、早く食べなければならないので、朝早く市場に行き、すばやく調理する必要がありました。
 それらは近隣から集められたものですが、遠く海外からやってきたものもあります。薬草や薬剤、牛革、燕麦、牛のあばら肉、豚、チーズ、帆布、パピルス、乳香、干しぶどう、干しいちじく、ナシ、リンゴ、敷物、枕、エジプト綿、ワインなどなど。
 近くはエーゲ海の島々、遠くはイタリア、エジプト、シリア、トルコなどから多くの商品がもたらされていまたのです。
 アゴラのまわりには、若者たちがたむろして、おしゃべりできる店もあれば、ぜいたくな料亭もありました。劇場もあったでしょう。
 市場にはご多分に漏れず中心と周辺があります。ソクラテスは仲間たちとよく市場にでかけていました。ディピュロン門周辺の場末には、薄汚い製陶所や墓地、風呂屋、露天の店などがあり、旅人たちはそのあたりの飲み屋や売春宿で羽を休めていました。
 とはいえ、現代人とちがい、古代ギリシャ人はとくに市場に行かなくても、ふつうに暮らせたといいます。基本は農業生活で、農業も家政も多くの奴隷がそれを支えています。
 もちろん、市場に出回らない商品もあります。たとえば馬。ギリシャ人は馬にはうるさかったといいます。馬は現在の車と同じです。それに甲冑や武器などと同様、戦闘になくてはならない必需品でした。それらも、専門業者からあつらえなければなりません。
 手織りの衣服、高級なマント、家財などは市場にあらわれることはあまりなく、直接注文によることが多かったようです。市場に出なくても、これらも商品にちがいありません。
 さらに、牛や山羊、豚、羊の肉は、神に捧げられるもので、基本的に市場では売られておらず、氏族(オイコス)によって、分配されていました。
 古代アテネ人はぜいたくだったようにみえるが、けっしてそうではない、とダヴィッドソンはいいます。いかにも金持ちのように振る舞うのはきらわれ、政府により財産を没収されることもありました。
 個人の家も小さく質素でした。これにたいし、神殿は巨大で豪奢、そのなかの巨大なアテナ像は、象牙と黄金で飾られていました。
 古代アテネでは、市民はものをつくり、ものを売るためにはたらいているわけではありません。そんなふうにはたらくのは奴隷でした。アテネ市民とは、土地を所有しながら、政治に参加し、戦争で戦う男のことを指していました。だが、そんな市民にとっても、にぎやかな市場は楽しみの場所だったにちがいありません。
 しかし、アテネの繁栄はそう長くはつづきません。海軍によって支えられた帝国が弱体化するとともに、その没落がはじまります。
 古代アテネの市場経済は帝国の存在を抜きにしてはありえなかったことがわかります。

nice!(8)  コメント(0) 

もいちどポランニー──商品世界ファイル(5) [商品世界ファイル]

518G19WYHWL._AC_UL400_.jpg
 部族国家(社会)段階の狩猟採集社会でも、古代帝国段階の農業社会でも、商品がなかったわけではありません。しかし、商品の売り買いは経済の中心ではなく、それは「社会に埋め込まれていた」と、ポランニーはいいます。
 トロブリアンド諸島(ニューギニア)でおこなわれていたクラ交易は、離れた村どうしの友好を保つための、気前のよい純粋贈与にほかなりませんでした。
 村のあいだでは、魚とヤムイモが交換されています。しかし、これは商業取引ではなく、贈与と返礼、すなわち互酬関係です。
 親族を中心として、狩猟や採集が営まれているのが、この社会の特徴です。
 経済取引が発生するのは、農業社会になって、古代王国や古代帝国が登場してからです。
 古代帝国(王国)の経済の基本は再分配だ、とポランニーはいいます。財は国家の中央に集められ、あらためて分配されます。
 財のすべてが集められたとは考えにくいですね。どれくらいの割合だったかわかりませんが、収穫物のかなりの部分を国家が手に入れて、それを再分配していたのでしょう。
 メソポタミアでは、そうした収入をもとに、灌漑事業や治水などがおこなわれ、労働者には国家から何らかの報償が与えられていたのでしょう。
 国家の承認のもとで、経済的取引もすでにはじまっていました。それは主に対外交易においてです。
 ポランニーによると、交易とは「その場では入手できない財を獲得する方法」にほかなりません。そこでは「遠くから財を獲得、運搬することが重要」になってきます。「交易は狩猟や遠征、侵略などの組織的な集団活動に似ている」といいます。
 侵略と交易は重なることがありました。大帝国は軍事力を背景に遠隔地交易を推進していました。織物や日用品などは近隣から取り入れましたが、金や奴隷、宝石、絹、毛皮、化粧品、装身具などの奢侈品は遠方からしか手に入りませんでした。
 古代のメソポタミアやエジプトでは、王とその属臣だけが交易の権利をもっていました。かれらは身分の低い商人に命じて、国家のための交易をおこなわせたのです。
 交易となれば、相手から商品を受けとるだけでなく、相手に商品を渡さなくてはなりません。そのための商品を国家が集め、保管する必要も出てきました。対外交易によく用いられたのが貴金属(とりわけ銀)だったと考えられます。
 メソポタミアにはまだ市場はないというのが、ポランニーの見方です。しかし、それはおそらく独断、ないし当時の研究資料不足というもので、紀元前3000年に大麦貨幣シラ、紀元前2500年に計量貨幣シェケルがあったことをみれば、メソポタミアが農業を中心とする再分配経済を基軸としていたとしても、やはり市場は存在していたというべきでしょう。商品の取引は、対外交易にかぎられていたわけではなさそうです。
 それでも、ポランニーは、売買の場として市場が存在する前に、貨幣がすでに実在していたことにこだわります。
 市場がなければ売買関係はなく、それでも貨幣(あるいは貨幣代替物)が存在していたとすれば、それは何を意味するか。それは、すなわち貨幣が交換手段ではなかったということです。
 貨幣は金属貨幣とはかぎりません。金属貨幣が定着する前には、子安貝や穀物、羊、奴隷、貴金属なども価値を表す尺度として用いられました。
 そうした貨幣は、対外交易を別とすれば、主に債務の支払いに用いられたといいます。ここで、債務とは支配者や神殿による保護を指しています。こうした保護には支払いがなされなければなりませんでした。その支払いが上に挙げたような貨幣代替物でおこなわれたというのです。
 さらに、共同体の掟に背いた場合にも債務が発生しました。その償いは、死を含む刑罰でなされることもありましたが、状況に応じて、貨幣(あるいは貨幣代替物)で支払われました。
 そして、貨幣は将来の支払いを予想して、蓄積されることもあります。その支払いも、経済的な支払いよりも、むしろ政治的、宗教的な支払いだったといいます。こうして、食糧や家畜、財宝が貨幣として蓄積されました。
 ポランニーも古代バビロニアに銀貨シェクルがあったことを知っています。たとえば、戦車は100シェクル、雄牛は30シェクルで取引されていました。しかし、戦車や雄牛は市場で売られている商品ではなく、あくまでも依頼して手に入れたもので、その代償として、シェクルが払われたのだというのです。
 このあたりは微妙なところです。銀貨シェクルで手に入れた戦車や雄牛は、はたして商品ではないのでしょうか。ポランニーはなぜ、市場よりも貨幣が先行するという考え方にこだわるのでしょうか。
 ポランニーがメソポタミアでは市場がなかったとしていることについては、前に述べました。だとすれば、市場の発生を、どうみているのかについても、述べなければなりません。
 市場は、商品の集まる場所であって、商品を供給する人、商品を求める人、慣習や法、取引があって、はじめて成立します。
 市場には多様な起源があるが、外的な起源と内的な起源にわかれる、とポランニーは考えています。
外的な起源は共同体の外部からの財の獲得と関係しています。内的な起源は内部での食糧の分配に関係しています。
 対外交易は市場に先行するというのが、ポランニーの見方です。
メソポタミアではタムカルムという身分があり、かれらは仲買人や代理人、管財人、旅商人、銀行家、奴隷取扱官、徴税吏、王室の財政執事などとして、国家のもとで働いていました。メソポタミアに市場がなかったことを理解すれば、かれらを民間の商人と理解するのはまちがいだ、とポランニーはいいます。それでも、かれらは外部世界との交易にあたっていたのです。
 タムカルムは独自の身分を与えられ、国家に命じられて行動していました。メソポタミアにかぎらず、古代社会では、こうした人びとが古代社会では数多くみられました。こうした対外交易が内部化して、市場交易となるには長い時間を要した、とポランニーはいいます。
 だが、こうしたとらえ方はいささか疑問ではあります。メソポタミアの帝国の豊かさが、灌漑事業や治水をともなう再分配と対外交易に支えられていたことはまちがいないでしょう。
 すると、そこにはすでに内的な市場も存在していたとみるべきではないでしょうか。再分配されたものは、いわば商品となり、再分配が新たな再分配を引き起こして、商品が商品をつくりだして、たとえ固定されていなかったにせよ、市場は存在していたというべきでしょう。
 ポランニーが構想したかったのは、貨幣が存在しても商品や市場のない再分配社会の存在であって、かれはそれをメソポタミアに見つけたと思ったのです。だが、それは恐らく幻想にすぎませんでした。たしかに、メソポタミアでは、市場経済は国家の再分配経済に付着したフジツボのような存在にすぎませんでした。それでも、すでに市場は存在したとみるべきでしょう。
 しかし、たとえ、それが幻視だったとしても、「貨幣が存在しても商品や市場のない(つまり超資本主義的な)再分配社会」という構想がちょっと魅力的なのはたしかです。それはいったいどういう社会なのでしょうか。
 宿題にしておきましょう。

nice!(10)  コメント(0) 

ポランニーの発想──商品世界ファイル(4) [商品世界ファイル]

418RNXY3A0L._AC_UL400_.jpg
 現代の世界では、市場経済があたりまえになっています。功利主義が行動の基本で、競争のなかで、いかに利益を確保するかがだいじとされます。、それが「経済」のテーマだと理解されています。
 しかし、経済史家のカール・ポランニー(1886〜1964)は、「本質的なものとみえているのは、人間経済全体の不変的で永続的な姿ではなく、一時的で偶然的な姿にすぎない」といいます。現在の市場システムは19世紀になってからつくられた制度にすぎないというわけです。
 20万年(アフリカを出てからは7万年)におよぶホモ・サピエンスの歴史をふり返ると、農耕がはじまったのは、いまから1万年ほど前で(日本だと3000年ほど前)で、それ以前は狩猟採集が人の生活を支えてきました。産業社会(工業社会)の始まりが19世紀前半の産業革命以降だとすれば、現在のような市場社会は、ポランニーのいうように、たかだか200年くらいということになります。
 そこで、市場社会は「人間経済全体の不変的で永続的な姿ではなく、一時的で偶然的な姿にすぎない」と、ポランニーは主張することになるわけです。こうしたとらえ方は、ある種の希望をもたせるかもしれませんが、ちょっと粗っぽいかもしれません。
 それでも、経済史を偏重しないこと、貨幣信仰に陥らないこと、技術的進歩を絶対視しないことを唱えたポランニーの懐疑はだいじです。そのいっぽうで、かれは原始主義に逆戻りしないこと、進歩の不可逆性に目をつむらないことを忘れてはならない、とも述べています。
 問題は先のことはだれもわからないことです。ポランニーはいまの市場社会は絶対ではないというわけですが、さすがにそれから先のことはあまり述べていません。
 ですから、せめて過去の人間生活をふり返って、人類の経済の歩みを把握することが、現代の市場社会というあり方を反省するきっかけになるのではないかということになります。
 ポランニーは人類の社会を狩猟採集社会と農耕社会、機械文明による市場社会の3つに分類しています。そして、かならずしも、これを直線的進歩ととらえていないことがわかります。
 農耕社会は狩猟採集社会に比べて、はるかに抑圧的な社会でした。さらに人類に圧倒的な進歩をもたらしたとされる、機械文明にもとづく市場社会が、人びとの自由と生存をおびやかす不安に満ちた社会であることも指摘しています。
 極端に類型化していうと、狩猟採集社会は部族国家、農耕社会は古代帝国、市場社会は産業国家のもとで成り立っています。もちろん、それぞれのあいだには、長い移行期があり、現実の歴史的変遷があります。経済が中心になるのは、近代の産業国家においてであり、それまで経済はあくまでも国家の下位概念にほかなりませんでした。
 ポランニーによると、経済は広い意味でいうと、人の暮らしのことです。ところが、いまでは経済は市場システムを指すようになっています。この市場システムのもとで、人は「経済的人間」(ホモ・エコノミクス)となり、市場のなかで与えられた役割を果たすことで、暮らしを維持することに最大の関心を寄せる存在になっています。
 ポランニーは人間の経済の類型を、互酬、再分配、交換に分類しています。狩猟採集社会が互酬、農耕社会が再分配、市場社会が交換を中心に成り立っていると想定されていることがわかりますね。
 互酬は対称的な集団、再分配は中央の存在、交換は市場システムを前提としています。
 互酬というのは、贈与と返礼のことです。ぼくは師の滝村隆一にしたがって、あえて部族国家という言い方をしますが、対称的な部族国家、一般的にいえば部族社会どうしのあいだ、さらに部族社会内部では、儀礼をともないながら、相互扶助の関係が確立されているといえるでしょう。
 これにたいし、再分配は初期の国家でみられるやり方で、すべての財がいったん中央に集められたうえで、慣習や法にしたがって分配される方式を指しています。狩猟民のあいだや古代エジプト、シュメール、バビロンなどでみられたといいます。
 財の集め方は徴収から税、貯蔵まで多岐にわたります。集められた財や食料は、祭典や儀礼、宗教儀式、埋葬の饗宴、その他の祝い事など、数多くの機会に分配されます。
農業を基盤とした古代帝国において、それは税に発達したといってよいでしょう。税は国家を維持することを目的に、再分配という機能も果たしていました。
 ポランニーによると、最後にやってくるのが交換です。交換とは、相互の利得をめざしておこなわれる財の移動のことです。貨幣を媒介として、これが一般化するのは、市場社会になってからのことです。
 ここで、ポランニーは、互酬、再分配、交換が歴史的発展段階を示すものではない、と書いています。
たとえば、部族国家(社会)は、贈与と返礼(互酬)を中心としながらも、再分配もあり、また不定期の交換もおこなわれています。古代帝国は再分配を中心としながらも、交換もさかんにおこなわれています。近代の工業社会は交換を中心としながらも、いまでは再分配が重要性を増しつつあり、また贈答の関係も消え去ったわけではありません。
 ポランニーは、アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的からなる発展的唯物史観とは異なる経済の類型を提示しました。それは、社会主義の必然性といったマルクス主義的信仰をなし崩しにする視座でもありました。
 社会主義は原則として中央指導部を絶対とする再分配システムにほかなりませんが、そこには市場システムが入りこむ余地がありました。いっぽう市場システムを絶対とする資本主義は、互酬や国家の再分配システムを組みこまなければ維持できなくなっています。
 しかし、時に抽象化は危険な思い込みを伴います。そのことだけは自覚しておいたほうがいいでしょう。

nice!(11)  コメント(0) 

農業革命と都市のはじまり──商品世界ファイル(3) [商品世界ファイル]

BMC_06.jpg220px-Denarius_Sextus_Pompeius-Scilla.jpg200px-半兩錢.jpg
 ハラリの『サピエンス全史』によると、人類が農耕をはじめたのは紀元前9500〜8500年ごろとされます。
 その場所はトルコ南東部やイラン西部、そしてレヴァント地方(東部地中海沿岸)です。そのころ小麦が栽培されるようになり、ヤギが家畜化されました。その後、紀元前8000年ごろには、エンドウ豆やレンズ豆、紀元前5000年にはオリーブが栽培されるようになり、紀元前4000年には馬が家畜化されました。
 中国の長江流域で稲作がはじまったのは、紀元前8000年のころです。紀元前3500年ごろには、世界中で、小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦が栽培されるようになっていました。
 農業革命は中東からはじまって、各地に伝播したわけではありません。中国を含め、いくつかの地域で独立して発生したとみられています。
 都市や町が生まれたのは、紀元前5000年から4000年にかけてです。都市は多くの村落を支配下に置きました。
 都市は次第に帝国に発展します。
 紀元前3150年にナイル川下流一帯が統一され、最初のエジプト王国がつくられました。紀元前2000年から500年にかけて、中東ではアッシリア、バビロニア、ペルシアの帝国が出現します。中国では、紀元前221年に秦が中国を統一しました。同じころローマが地中海一帯を支配します。
 こうした世界史の中心の流れからみると、日本の動きはゆっくりとしています。
 日本では九州で灌漑水田稲作がはじまるのが、いまから3000年前、つまり紀元前1000年くらいのことです。
 狩猟採集を基本とする縄文時代から、農耕を基本とする弥生時代のあいだには700年ほどの移行期があります。
 長さでいうと、縄文時代のほうが圧倒的に長く、1万4000年つづきます。これにたいし、弥生時代は600年ほど(紀元前3世紀〜紀元3世紀)です。日本で国家が生まれるのは、そのあとですね。
 農業時代がはじまると、とうぜん土地所有が大きな問題になってきます。そのあたりのことをハラリはあまり触れていませんが、とりあえず、それはおいておきましょう。
 農業革命のもたらした影響は、農業にとどまりませんでした。最大の革命はそこから都市が生まれ、それが国家や帝国に発展していったことでしょう。
 都市には王侯貴族が集まり、宮廷もできます。聖職者や医師、法律家、兵士なども登場します。専門の職人も必要になってくるでしょう。
 そして、そもそも都市を支えるには、農村からの食料供給がなくてはなりません。ほかにワインやオリーブ油、陶磁器をつくる村も周辺に配置したいところですね。
 都市と農村をもつ王国のネットワークを機能させるために、王国は貨幣を導入します。こうして、交易といえば、これまで遠隔交易を指していました。ところが、その交易がいわば内部化されてくるわけです。市場が生まれます。
 それは当初、自然発生的なものだったかもしれません。ハラリは紀元前3000年にシュメール人が「大麦貨幣」シラを考案したと書いています。
 これはどういうものだったのでしょうね。
 やがて、紀元前2500年ごろ、メソポタミアで銀の計量貨幣シュケルが登場しました。
 史上はじめて硬貨をつくったのは、アナトリア西部のリュディア王国です。それは紀元前640年ごろのことです。
 ギリシャでは紀元前5世紀ないし6世紀に貨幣の鋳造がはじまっています。
 ローマ帝国はデナリウス銀貨をつくりました。
 貨幣の誕生は交易の範囲を一気に広げていきます。
 カール・ポランニーは、バビロニアには豊かな商業文明が発達していたといいます。エジプトやアッシリア、アテネもそうです。ローマ帝国はアテネを受け継ぎます。
 紀元前、カッパドキアでは、多くの交易植民都市が発展していました。だが、その商業文明は現代とは大きく異なっていたようです。
 現在の市場システムは、19世紀になってつくられた制度にすぎないというのが、ポランニーの持論です。それを動かしているのは機械文明です。土地と労働力が商品化されることによって市場システムが生まれます。
 これにたいして、部族社会を動かしているのは互酬の関係、つまり贈与と答礼の関係で、そのころは貨幣も国家(帝国)も登場していません。
 狩猟採集社会から農業社会への移行が国家と貨幣を生み出します。しかし、この段階の経済は、ポランニーに言わせれば「再分配」方式が中心でした。つまり、国家が中央に財を集め、それを周囲に再分配するかたちです。「交換」方式が支配的になるのは、近代の市場システムがつくられてからだといいます。
 近代の商品世界とは何かが、ここでのテーマですが、それを知るためには、やはり過去の時代がどんなふうだったかを知ることがだいじになってきますね。
 古代のバビロニアやエジプト、あるいはギリシャやローマ、中国の経済はどんなふうだったのか。そして日本の古代は?
 そんな現実離れのどうでもいいことに思いを馳せるのは、ひまな年寄りの特権です(忙しい世の中で、何だか申し訳ないような気もするのですが)。
 ちょっと図式的すぎるかもしれませんが、ポランニーの考え方は重要なので、またあらためてみていくことにしましょう。
ところで、日本で貨幣といえば、そのはじまりは7世紀末の富本銭、あるいは8世紀はじめの和同開珎を思い浮かべるでしょう。
 それは中国の影響を受けたもので、中国ではずっと前から貨幣がつくられていました。
 何をもって貨幣と呼ぶのかはむずかしく、その意味で貨幣の起源は曖昧模糊としています。布や穀物、黄金、宝貝なども貨幣として用いられていました。
 売買される商品が登場すると同時に貨幣も生まれるといってよいでしょう。貨幣の歴史は中国では少なくとも2500年前にさかのぼります。
 しかし、貨幣といえば、やはり鋳貨をイメージしますよね。
 柿沼陽平によると、中国の戦国時代(紀元前5世紀〜前221年)にはすでに各国で鋳貨がつくられていたといいます。
 それを統一するのが秦ですね。始皇帝が秦で使われていた「半両銭」を帝国の貨幣としました。穴の空いた青銅製の円形貨幣です。
 官吏や兵士の給与は半両銭で支払われ、かれらは市場でものを買うときに、その貨幣でものを買ったのです。
 税金や罰金もその半両銭で支払われました。
 秦はあっけなく亡びますが、漢はその貨幣制度を受け継ぎます。その後、貨幣制度が乱れたため、武帝の時代、紀元前119年になって、あらたに五銖銭がつくられます。これが唐の時代まで700年にわたって用いられることになります。
 しかし、貨幣は銭だけではありませんでした。中国の古代においては、金と銭、布帛(ふはく)の三幣制がとられていたといいます。つまり、銭だけではなく、金や布帛も貨幣として使われていたのですね。
 金版ないし金餅と呼ばれる黄金の貨幣がありました。その1枚は5000〜1万銭の価値をもっていたといいます。
 布帛の「布」は麻の織物、「帛」は絹の織物のことです。布帛が貨幣だったとは信じられないかもしれませんが、そもそも貨幣という字をご覧になれば、「貨」と「幣」から成り立っていることがわかりますね。「幣」はぬさ、すなわち神にささげる麻や絹の織物でした。
 民は官から塩や鉄を買うさいに、布帛で支払ったとされます。
 貨幣の先には商品があります。商品世界はなかなかディープです。しかし、古代の様子はまだまだ茫洋としています。考古学的にみれば、過去は未来ですね。

nice!(12)  コメント(0) 
前の10件 | 次の10件 商品世界ファイル ブログトップ